各時代の希望
第53章 ガリラヤからの最後の旅
本章はルカ9:51~56、10:1~24に基づく DA 926.1
キリストの公生涯が終わりに近づくと、キリストの働きの方法に変化がみられた。これまでイエスは、騒ぎや宣伝を避けようとしておられた。イエスは、人々からあがめられることをこばみ、イエスを支持する民衆の熱心さが抑えることができないほど燃えあがってくるようにみえると、急いでこの場所からあの場所へと移られた。何度も何度も、イエスは、だれもわたしのことをキリストと宣言してはいけないとお命じになっていた。 DA 926.2
仮庵の祭りの時には、イエスは、ひそかに急いでエルサレムへ旅をされた。イエスの兄弟たちが、イエスにメシヤとして公然と名乗り出るようにすすめた時、イエスの答は「わたしの時はまだきていない」であった(ヨハネ7:6)。イエスは、人目につかずにエルサレムへ進み、先ぶれもなく、群衆からあがめられもしないで都へ入られた。ところがイエスの最後の旅はそうではなかった。イエスは、祭司たちとラビたちの敵意のために、エルサレムをしばらく離れておられた。しかしいまイエスは、エルサレムへもどられるにあたって、遠まわりの道を通って公然と旅をされ、これまで決してされなかったような先ぶれをして出かけられた。イエスは大いなる犠牲の場面へ進んで行かれるのであって、このことに民衆の注意が向けられねばならなかった。 DA 926.3
「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」(ヨハネ3:14)。イスラエルのすべての人々の目が、彼らのいやしのために定められた象徴としてあげられたへびに向けられたように、失われた世に救いをもたらしたいけにえであられるキリストに、すべての人の目がそそがれなければならない。 DA 926.4
イエスの兄弟たちが、仮庵の祭りの時に、イエスが民の前に公然と名乗り出られるようにとすすめたのは、彼らがメシヤの働きについてまちがった考えを持ち、イエスの神としての性格に対する信仰が欠けていたからであった。いまこれと同じ精神で、弟子たちは、できることならイエスがエルサレムに行かれるのをとめたかった。彼らは、エルサレムでご自分の上に落ちかかる運命について言われたイエスのみことばを思い出し、宗教界の指導者たちの恐ろしい敵意がわかっていたので、主を説得してそこへ行かれないようにしたかった。 DA 926.5
イエスの心にとっては、愛する弟子たちの心配や失望や不信にさからって、道を進まれることは苦しいことであった。エルサレムで弟子たちを待ち受けている苦悩と絶望に向かって彼らを連れて行くことはつらいことであった、そこでサタンは、近くにいて、人の子イエスに誘惑をもって迫ったなぜイエスは死 ぬにきまっているエルサレムにいま行かれるのか。イエスの周囲には生命のパンに飢えている魂がいる。どちらを向いても悩める者たちがイエスのいやしのことばを待っている。キリストの恵みの福音をもってなされる働きは始まったばかりであった。しかもイエスは壮年の盛りで力に満ちておられた。なぜその恵みのことばといやしの力のみ手をもって世界の広い野へ出て行かれないのか。なぜ暗黒のうちにある不幸な幾百万の人々に光と幸福を与える喜びをご自分のものとされないのか。なぜその収穫を、信仰が弱く、さとりがにぶく、行動の遅い泊子たちの手に残されるのか。なぜいま死に直面し、始めたばかりの働きを残されるのか。荒野でキリストに立ち向かった敵は、いま激しく巧妙な誘惑をもってイエスを攻撃した。もしイエスが一瞬でも屈服されたら、そしてもしご自分を救うためにほんの一点でも予定を変更されたら、サタンの力は勝利し、世は滅びたのである。 DA 926.6
しかしイエスは、「エルサレムへ行こうと決意して、その方へ顔をむけられ」た(ルカ9:51)。イエスの生涯のただ一つの法則は、天父のみこころであった。イエスは、少年時代に宮参りをされたとき、マリヤに、「わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と言われた(ルカ2:49)。カナで、マリヤがイエスに奇跡の力をあらわしてくださいと希望した時、イエスの答は、「わたしの時は、まだきていません」であった(ヨハネ2:4)。イエスの兄弟たちがイエスに祭りに行くようにすすめた時にも、彼は同じことばで答えられた。しかし神の大いなるご計画のうちには、イエスが人類の罪のためにご自身をささげられる時が定められていて、その時刻がまさに到来しようとしていた。イエスは、弱ったり、動揺したしようとなさらない。イエスの足はエルサレムに向けられている。そこでは敵どもが彼の生命をとろうと長い間たくらんでいた。いまこそイエスは、ご自分の生命を激ようとされるのである。イエスは、迫害、拒否、拒絶、罪の宣告、死に対して顔をしっかりと向けて進んで行かれた。 DA 927.1
イエスは、「自分に先立って使者たちをおつかわしになった。そして彼らがサマリヤ人の村へはいって行き、イエスのために準備をしようとした」(ルカ9:52)。ところが人々は、イエスがエルサレムへ行かれる途中だというので、イエスを迎えることをこばんだ。彼らは、イエスがエルサレムに行かれるのは、彼らが激しく憎んでいるユダヤ人をひいきにされている証拠であると解釈した。もしイエスがゲリジム山の神殿を回復して、そこで礼拝するためにこられたのだったら、彼らはよろこんでイエスを迎えたのである。しかしイエスはエルサレムへ行かれるところだったので、彼らは、イエスを親切にもてなそうとしなかった。彼らは、天の最上の賜物を彼らの戸口から追い払っていることに少しも気がついていなかった。イエスは、彼らに近づいて最も豊かな祝福を授けるために、彼らがイエスを受け入れるように招き、彼らの手による好意を求められた。イエスは、ご自分に対して示される好意の一つ一つに、もっととうとい恵みをもって報いられた。しかしサマリヤ人は、偏見と偏狭さのためにすべてを失った。 DA 927.2
キリストの使者に立ったヤコブとヨハネは、主に対して侮辱が表明されるのをみてひどく当惑した。主ご自身がおいでになることは、サマリヤ人にとって名誉であるのに、主に対してこんな無礼な態度をとったといって、彼らは憤慨した。彼らは、変貌の山でイエスと一緒にいて、イエスが神から栄光を受けられ、モーセとエリヤからあがめられたのを最近見たばかりだった。サマリヤ人が示したこの明らかな侮辱は、明白な罰を受けることなしにはみすごされないであろうと彼らは思った。 DA 927.3
ヤコブとヨハネは、キリストのところへきて、サマリヤ人が言っていることを報告し、主のために晩の宿を提供することさえことわられたことをお話した。彼らは、サマリヤ人が主に対して悲しむべき罪を犯したと思い、かつてエリヤが偽預言者たちを殺したカルメル山を遠方に見て、「主は、いかがでしよう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」と言った(ルカ9:54、注・英訳聖書には「エリヤがしたように」とのことばが入っている)。彼ら は、イエスがこのことばに悲しい顔をされたのを見て驚いたが、イエスの譴責のことばが耳にひびいてきた時にはもっと驚いてしまった。イエスは「あなたがたは自分の心がどんなものであるかを知らないのである。人の子は、人のいのちを滅ぼすためではなく、これを救うためにきたのである」と戒められた(ルカ9:55・英訳聖書)。そこでイエスは、ほかの村へ行かれた。 DA 927.4
キリストを受け入れるように人々に強制することは、キリストの使命の一部ではない。良心を強制するのは、サタンと、サタンの精神に動かされている人々である。悪天使たちと同盟している人たちは、正しいことのために熱心であるようにみせかけながら、実は人々を宗教についての自分たちの考え方に変えてしまうために、同胞に苦しみを与える。しかしキリストは、いつもあわれみを示し、ご自分の愛をあらわすことによっていつも人々の心をとらえようとしておられる。イエスは、一つの魂のうちに競争者がいるのを認めることや、中途半端な奉仕を受けることがおできにならない。主はただ自発的な奉仕、愛に迫られた自発的な心の屈服をお望みになる。われわれの働きを理解しない人たちや、われわれの考えと反対な行動をするような人たちを傷つけたり滅ぼしたりしようとする気持くらい、われわれがサタンの精神を持っていることの決定的な証拠はない。 DA 928.1
一人一人の人間は、肉体においても、魂においても、精神においても、神の財産である。キリストはすべての人をあがなうために死なれたのである。宗教的な偏狭さから、人間が救い主の血潮であがなわれた人々を苦しめることぐらい神に忌みきらわれることはない。 DA 928.2
「それから、イエスはそこを去って、ユダヤの地方とヨルダンの向こう側へ行かれたが、群衆がまた寄り集まったので、いつものように、また教えておられた」(マルコ10:1)。 DA 928.3
キリストの公生涯の終わりの何か月かの大部分は、ユダヤからヨルダンの向こう側にあたる地方のペレヤで過ごされた。ガリラヤでの初めごろの伝道のように、ここでは、群衆がイエスの足もとに群がり、イエスの以前の教えの多くがくりかえされた。 DA 928.4
イエスは、前に12人をつかわされた時のように、「別に72人を選び、行こうとしておられたすべての町や村へ、ふたりずつ先におつかわしになった」(ルカ10:1)。この弟子たちは、しばらくイエスと共にいて、働きのために訓練を受けた。12人の弟子たちが初めて独り立ちで使命のために送り出された時、ほかの弟子たちはイエスのガリラヤ旅行について行った。こうして彼らは、イエスと親密に交わって、直接に教えを受ける特権を与えられた。いまこの多数の弟子たちもまた独り立ちで使命のために出て行くことになった。 DA 928.5
この70人に与えられたさしずは、12人に与えられたのと同じであった。しかし、異邦人とサマリヤ人の町に行くなと12人に言われた命令は、この70人には与えられなかった。キリストは、サマリヤ人から拒否されたばかりであったが、彼らに対するイエスの愛は変らなかった。70人がイエスの名によって出て行った時、彼らは、どこよりもまず、サマリヤの町々をおとずれた。 DA 928.6
救い主がご自分でサマリヤに行かれたことや、のちになってよきサマリヤ人をほめられたことや、重い皮膚病を患っていた10人の中で1人だけキリストにお礼を言いにもどってきたあのサマリヤ人の感謝と喜びなどは弟子たちにとって意味深いものだった。その教訓は、彼らの胸の奥底にきざまれていた。イエスが昇天される直前に弟子たちにお与えになった任務の中に、彼らが最初に福音をのべ伝える場所としてエルサレム、ユダヤとともにサマリヤの名をイエスはおあげになった。イエスの教えは、彼らがこの任務を達成する準備となっていた。主の名によってサマリヤに行った時、彼らは、人々が自分たちを受け入れるばかりになっているのを発見した。サマリヤ人は、キリストの称賛のことばと、自分の国の人たちに対するキリストの憐れみのみわざについてすでに聞いていた。彼らがイエスに無礼な応対をしたにもかかわらず、イエスが彼らに対して愛の思いしかいだいておられ ないことを知って、彼らの心はとらえられた。キリストの昇天後、彼らは、救い主の使者たちを歓迎し、弟子たちは、かつて彼らにとって最もにがにがしい敵であった人々の中からとうとい収穫を集めた。「傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす」。「異邦人は彼の名に望みを置くであろう」(イザヤ42:3、マタイ12:21)。 DA 928.7
70人をつかわすにあたって、イエスは、12人に命じられた時と同じように、歓迎されないところには無理に残らないようにとお命じになった。「どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』」とイエスは言われた(ルカ10:10、11)。彼らは、憤慨の動機から、あるいは体面を傷つけられたからそうするのではなくて、主のことばや使者をこばむことがどんなに悲しむべきことであるかを示すためにそうするのであった。主のしもべをこばむことは、キリストご自身をこばむことである。 DA 929.1
「あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう」とイエスはつけ加えられた(ルカ10:12)。それからイエスの思いは、ご自分の奉仕の多くが費されたガリラヤの町々の上にもどって行った。深い悲しみの口調で、イエスは叫ばれた、「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベッサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう」(ルカ10:13~15)。 DA 929.2
ガリラヤの海辺のそうしたにぎやかな町々に、天の最も豊かな祝福が惜し気もなく提供されたのだった。毎日毎日、生命の君はそれらの町々をめぐり歩かれた。預言者と王たちが待ち望んだ神の栄光は、救い主の足もとに群がった群衆の上に照り輝いた。それなのに彼らは天の賜物イエスをこばんだのだった。 DA 929.3
ラビたちは、自分たちの思慮深さを大げさに示しながら、この新しい教師の理論と慣習は父祖たちの教えに反するものだから、彼の教える新しい教理を信じてはならないと、人々に警告した。人々は、自分で神のみことばをさとろうとしないで、祭司たちとパリサイ人たちの教えることを信用していた。彼らは、神をあがめないで、祭司たちと役人たちをあがめ、彼ら自身の言い伝えを守るために真理をしりぞけた。多くの者が感動し、ほとんど説得されたが、彼らはその確信を実行しようとしなかったので、キリストの側につく者とみなされなかった。サタンは誘惑をしむけ、ついに光はやみのようにみえた。こうして多くの者が、魂の救いとなったはずの真理をこばんだ。 DA 929.4
まことの証人イエスは、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と言われる(黙示録3:20)。神のみことばや、神の使命者たちを通して与えられる警告と譴責と懇願の一つ一つは、心の戸をたたく音である。それは中に入ることを求めておられるイエスのみ声である。ノックを無視するたびに、戸を開く気持がうすれる。聖霊の感動は、きょう無視されると、明日は今日ほど強くなくなる。心はだんだん感じなくなり、人生の短さについて、また未来の大いなる永遠について、危険な無感覚状態に陥る。さばきの時にわれわれが罪に定められるとすれば、それは、われわれが誤謬の中にいた結果ではなくて、何が真理であるかを学ぶ機会を天から与えられていたにもかかわらず、これを無視した結果である。 DA 929.5
使徒たちと同様に、70人は、彼らの使命の証拠として超自然の能力を授けられていた。働きをなし終えた時、彼らはよろこんで帰ってきて、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」と言った。すると主は、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」と答えられた(ルカ10:17、18)。 DA 929.6
過去と未来の光景がイエスの心に示された。イエスは、ルシファーがはじめて天から追い出されたのをごらんになった。イエスはご自身の苦悩の光景を予 見された。その時もろもろの世界の前に、欺瞞者の本性がばくろされるのであった。イエスは「すべてが終った」との叫びを聞かれたが、それは、失われた人類のあがないが永遠に定まり、天が、サタンの扇動する告発、欺瞞、偽装に対して永遠に安全になったことを告げるのであった(ヨハネ19:30)。 DA 929.7
苦悩と恥辱を伴ったカルバリーの十字架のかなたに、イエスは、大いなる最後の日を予見された。その日には、空中の権をとる君が、その反逆によって長い間そこなってきた地上で滅亡に会うのである。イエスは、悪のわざが永遠に終わり、神の平和が天と地に満ちるのをごらんになった。 DA 930.1
これからは、キリストに従う者たちは、サタンを征服された敵としてみるのであった。十字架上で、キリストは、彼らのために勝利を獲得されるのであった。その勝利を、彼らが自分自身のものとして受け入れるように、イエスは望まれた。「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう」とイエスは言われた(ルカ10:19)。 DA 930.2
聖霊の全能の力は、悔い改めた一人一人の魂の防壁である。悔い改めと信仰をもってキリストの保護を求める者が1人でも敵の権力下に陥ることを、キリストはおゆるしにならない。救い主は、誘惑と試みを受けている人たちのそばにおられる。イエスといっしょなら、失敗も損失も不可能も敗北もない。われわれは、われわれを強くしてくださるイエスを通してすべてのことをなすことができる。誘惑や試みがやってくる時、全部の困難を処理するまで待たないで、あなたの助け手であるイエスを仰ぎなさい。 DA 930.3
サタンの力について、あまりにも過大に考えたり、話したりするクリスチャンがいる。彼らは、敵について考え、敵について祈り、敵について語るので、敵は彼らの想像の中にだんだん大きく現われてくる。なるほどサタンは強力な存在である。だがありがたいことに、われわれには、その悪者を天から追い出された力の強い救い主がいる。サタンは、われわれが彼の力を拡大する時によろこぶ。イエスについて語ろうではないか。イエスの力と愛とを拡大しようではないか。 DA 930.4
天のみ座をとりまいている約束の虹は、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という永遠のあかしである(ヨハネ3:16)。それは神がご自分の民を悪との戦いに放っておかれないということを宇宙にあかししている。それは、み座そのものが続くかぎり、力と保護とをわれわれに保証している。 DA 930.5
イエスはつけ加えてこう言われた、「しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」(ルカ10:20)。あなたがたは力を持っていることをよろこばないで、神に依存していることを見落さないようにしなさい。自己満足に陥り、自分自身の力で働くようなことがないように、むしろ主の精神と力で働くように注意しなさい。働きに少しでも成功が伴うと、その手柄を自分自身のものにしがちである。自我とうぬぼれで高慢になり、神が「すべてであり、すべてのもののうちにいます」という印象をほかの人々の心にうえつけることができない(コロサイ3:11)。パウロは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と言っている(Ⅱコリント12:10)。自分の弱さを認めるとき、われわれは、生れつきのものではない力にたよることを学ぶのである。神に対するわれわれの変らない責任感くらい心を強くとらえるものはない。キリストのゆるしの愛を意識することくらい、行為の一番奥底にある動機となるものはない。われわれは神と接触するのである。その時われわれは、神の聖霊を吹き込まれて、同胞と接触することができるのである。その時あなたは、キリストを通して神とつながり、天の家族の人々とつながるようになったことを喜びなさい。あなたが自分自身よりも高いところをながめている間は、あなたは人間の弱さをたえず意識するであろう。自我の意識が少なければ少ないほど、あなたは救い初すぐれた徳についてますますはつきりと十分に理解するのである。光と力のみなもとに密接 につながればつながるほど、ますます光があなたを照らし、神のために働くために一層大きな力があなたのものとなるのである。あなたが、神と一つ、キリストと一つ、天の全家族と一つであることを喜びなさい。 DA 930.6
70人がキリストのみことばに聞き入っていた時、聖霊は彼らの心に生きた事実を印象づけ、魂の石碑に真理を書きつけていた。群衆が彼らをとりまいていたが、彼らはあたかも神と共にとじこめられているかのようであった。 DA 931.1
イエスは、彼らがその時霊感を受けたことをお知りになって、「聖霊によって喜びあふれて言われた、『天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません』」(ルカ10:21、22)。 DA 931.2
世の中であがめられている人々、彼らが自慢にしている知恵を持っているいわゆる偉大な賢人たちは、キリストの品性を理解することができなかった。彼らは、外観と、1人の人間としてのイエスにのぞんだ屈辱を通して、イエスを判断した。しかし漁師や取税人たちには、目に見えないお方を見ることがゆるされた。弟子たちでさえ、イエスが彼らにあらわそうと望まれたことを全部は理解しなかった。しかしだんだん聖霊の力に屈服した時に、彼らの心は光に照らされた。彼らは大いなる神が、人性という衣をまとって、自分たちの中におられることを認めた。イエスは、賢くて抜け目のない人々がこの知識を持たないで、それがこれらのいやしい人々にあら矛、されたことをよろこばれた。しばしばイエスが旧約聖書を引用して、それをご自身と、ご自分がなさるあがないの働きに適用された時、彼らはみたまによってめざめさせられ、天の雰囲気にひきあげられた。預言者たちによって語られた霊的真理を、彼らは、はじめにそれ書いた人たちよりもはっきり理解した。 DA 931.3
これからは、彼らは、旧約聖書を、律法学者やパリサイ人の教理としてではなく、またすでに死んでいる賢人の語ったことばとしてではなく、神からの新しい啓示として読むのであった。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいる」お方を、彼らは見た(ヨハネ14:17)。 DA 931.4
われわれが真理についてもっと完全な理解を持つことができるただ一つの方法は、キリストのみたまによって、心を感じやすく、やわらげられた状態にしておくことによってである。魂をむなしいことと高慢心からきよめ、それを占領していた一切のものを追い出して、キリストに心の王座についていただかねばならない、人間の科学は限られていて、あがないを理解することができない。あがないの計画は深遠で、哲学はそれを説明することができない。それは依然として、どんな深遠な議論によってもおしはかることのできない神秘である。救いの科学は、説明することができないが、経験によって知ることができる。自分自身の罪深さを認める者だけが、救い主のとうとさをみわけることができるのである。 DA 931.5
キリストがガリラヤからエルサレムに向かってゆっくり進んで行かれた時に説かれた教えは、教訓に満ちていた。人々は、熱心にキリストのみことばを聞いた。ガリラヤと同様にペレアでは、人々がユダヤにおけるよりも、ユダヤ人の偏狭さに支配されていなかったので、イエスの教えは、彼らの心に感動を起こした。 DA 931.6
キリストの公生涯の終わりのこの何か月間に、キリストの譬話の多くが語られた。祭司たちとラビたちがますます苛酷さを加えながらイエスを追跡したので、イエスは彼らに対する警告を象徴を通して語られた。彼らは、イエスの言われている意味をまちがいなくわかったが、それでもそのみことばの中にイエスを告発する根拠となるものを何一つ見いだすことができなかった。パリサイ人と取税人の譬の中で、「わたしはほかの人たちのよう……でないことを感謝しま す」という独善的な祈りは、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」という悔い改めた人の願いといちじるしい対照をなしていた(ルカ18:11、13)。このようにキリストは、ユダヤ人の偽善を譴責された。またキリストは、実のならないいちじくの木の譬と盛大な晩餐会の譬を通して、悔い改めない国民にふりかかろうとしている運命について予告された。福音のごちそうへの招待を冷笑してことわった人々は、「あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう」というイエスの警告のことばを聞いた(ルカ14:24)。 DA 931.7
弟子たちに与えられた教えはとうといものであった。しつこく願ったやもめの譬と、真夜中にパンを求めた友人の譬とは、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」とのイエスのみことばに新しい力を与えた(ルカ11:9)。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう」とキリストが言われたことを思い出すことによって、彼らの動揺する信仰が強められたことがしばしばあった(ルカ18:7、8)。 DA 932.1
キリストは、失われた羊の美しい譬をくりかえされた。また失われた1枚の銀貨と放蕩息子の譬を語られた時、その教訓をもっと深く教えられた。弟子たちは、その時にはこうした教訓の力を十分に認めることができなかった。しかし聖霊降下の後、異邦人が集められ、ユダヤ人がねたんで怒ろのを見た時、彼らは、放蕩息子の教訓を一層よく理解し、「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。「喜び祝うのはあたりまえである」とのキリストのみことばの喜びを味わうことができた(ルカ15:24、32)。彼らが主このみ名によって出かけて行き、非難と貧乏と迫害とに直面した時、イエスがこの最後の旅に、「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず。虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」と語られたそのご命令をくりかえすことによって、彼らの心は、しばしば強められたのであった(ルカ12:32~34)。 DA 932.2