各時代の希望
第51章 命の光
本章はヨハネ8:12~59、9章に基づく DA 913.3
「イエスは、また人々に語ってこう言われた、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』」(ヨハネ8:12)。 DA 913.4
イエスは、このことばを語られた時、仮庵の祭の儀式に特に関係のある宮の庭におられた。この庭の中央には二つの高い台が立っていて、大きなランプがのっていた。夕べのいけにえのあとで、全部のランプに火がともされ、エルサレム中に光を放った。この儀式は、荒野のイスラエルをみちびいた光の柱を記念するものであり、またメシヤの来臨をさし示すものとみなされた。夕方になってランプがともされると、宮の庭は非常な喜びと楽しみの場となった。白髪の人たちも、宮の祭司たちも、民の役人たちも、楽器の音とレビ人の詠唱にあわせて、祭のダンスに加わった。 DA 913.5
エルサレムの照明を通して、民は、メシヤが来臨されてイスラエルに光を放たれるという彼らの望みを表明した。しかしイエスにとって、この光景はもっと深い意味があった。宮の輝くランプが彼らのまわりを照したように、霊的な光のみなもとであられるキリストは、世の暗黒を照されるのである。それでもまたこの象徴は不完全であった。キリストがご自分の手で天におかれたあの大いなる光こそ、キリストの使命の栄光をもっと真実にあらわすものであった。 DA 913.6
朝であった。太陽はちょうどオリブ山の上にのぼったところで、その光は大理石の宮殿をまぶしく照らし、宮の壁の黄金を輝かしていた。その時イエスは、太陽を指さして、「わたしは世の光である」と言われた(ヨハネ8:12)。 DA 913.7
このことばは、それを聞いた者の1人によって、ずっとのちにあの崇高な1節となって反響した。「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。……すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:4、5、9)。またイエスが天にのぼられてからずっとのちに、ペテロも、聖霊のみちびきのもとに書いた時、イエスが用いられた象徴を思い出してこう言っている、「こうして、預言の言葉は、 わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい」(Ⅱペテロ1:19)。 DA 913.8
神が民にご自身をあらわされる時には、いつも光が神のこ臨在の象徴であった。世の初めの創造のみことばによって、光が暗やみに照りいでた。光は、昼は雲の柱に宿り、夜は火の柱となってイスラエルの大軍をみちびいた。光は、シナイ山上で主のまわりにおそるべき威光となって燃えた。光は、幕屋の贖罪所の上にとどまった。光は、ソロモンの神殿の献堂式のときに宮の中に満ちた。光は、天使たちが待ち望んでいた羊飼いたちに救いのおとずれをもたらした時、ベッレヘムの丘の上に輝いた。 DA 914.1
神は光である。「わたしは世の光である」とのみことばの中に、キリストは、ご自分が神と一つであられることと、全人類家族に対するご自分の関係とを宣言された。世の初めに「やみの中から光が照りいで」るようにされたのは、キリストであった(Ⅱコリント4:6)。キリストは、太陽と月と星の光である。キリストは、象徴と型と預言を通してイスラエルを照らした霊的光であった。だがこの光は、ユダヤ国民にだけ与えられたのではなかった。太陽の光線が地のすみずみにまで行きわたるように、義の太陽キリストの光は、一人一人の魂の上に照りいでるのである。 DA 914.2
「すべての人を照すまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1:9)。世には偉大な教師たち、すぐれた知性を持ち、すばらしい研究をした人たち、その言論によって思想を刺激し、広い知識の分野を明らかにした人たちがいる。そしてこの人たちは、人類の指導者また恩人としてあがめられてきた。だが彼らよりも高くぬきん出ておられるお方がある。「彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1:12、18)。 DA 914.3
われわれは、人類の最も古い記録にまでさかのぼって、世の偉大な教師たちをたどることができる。しかし光なるキリストは、彼らよりも前からおられたのである。太陽系の月や星が太陽の光を反射して輝くように、世の偉大な思想家たちは、彼らの教えが真実であるかぎり、義の太陽キリストの光を反射しているのである。思想のかがやき、知性のひらめきの一つ一つは、世の光なるキリストから出ている。今日、われわれは「高等教育」ということをよく耳にする。真の「高等教育」は「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」キリスト、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」といわれているキリストから授けられる教育である(コロサイ2:3、ヨハネ1:4)。「わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」とイエスは言われた(ヨハネ8:12)。 DA 914.4
「わたしは世の光である」というみことばによって、イエスはご自分がメシヤであることを宣言された年老いたシメオンは、キリストがその時教えておられた宮の中で、イエスのことを「異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光」であると言った(ルカ2:32)。シメオンは、このことばによって、どんなイスラエル人もよく知っている一つの預言をイエスに適用していた。聖霊は、預言者イザヤを通してこう宣言された、「あなたがわがしもべとなって、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」(イザヤ49:6)。この預言はメシヤについて言われたものと一般に理解されていたので、イエスが「わたしは世の光である」と言われた時、人々は、イエスがご自分のことを約束のメシヤであると主張しておられるのだと認めることができた。 DA 914.5
パリサイ人や役人たちには、この主張は横柄な出しゃばりに思えた。彼らは、自分たちと同じような人間がこんな主張をするのをゆるしておくことができなかった。彼らは、イエスのことばを無視した様子で、「あなたは、いったい、どういうかたですか」と聞き ただした(ヨハネ8:25)。彼らは、イエスに自分はキリストであると宣言させたかったのである。イエスの外観とそのわざが民衆の期待とまったくちがっていたので、陰険な敵どもは、イエスが自分はメシヤであると自ら発表されたら、詐欺師として排撃されるであろうと信じたのであった。 DA 914.6
しかし、「あなたは、いったい、どういうかたですか」との彼らの質問に対して、イエスは、「わたしがどういう者であるかは、初めからあなたがたに言っているではないか」とお答えになった(ヨハネ8:25)。イエスのみことばにあらわれていたことは、そのご品性にもあらわれていた。イエスは、ご自分がお教えになった真理の具体的表現であった。イエスはことばをつづけて言われた、「わたしは自分からは何もせずただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」(ヨハネ8:28、29)。イエスは、ご自分がメシヤであるとの主張を証明しようとされないで、ご自分が神と一つであることをお示しになった。もし彼らの心が神の愛に向かって開かれていたら、彼らはイエスを受け入れていたであろう。 DA 915.1
聴衆の中には、信仰をもってイエスにひきつけられていた者が多かった。彼らに向かって、イエスは言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:31、32)。 DA 915.2
このことばがパリサイ人の気にさわった。彼らは、ユダヤ国民が長い間外国の束縛下にあるのを無視して、腹立たしげに叫んだ、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、1度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」(ヨハネ8:33)。悪意の奴隷であり、復讐の思いにこりかたまっているこの人たちの顔をごらんになって、イエスは、悲しげに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」(ヨハネ8:34)。彼らは最悪の種類の束縛下にあった——すなわち悪意に支配されていた。 DA 915.3
神に献身しようとしない魂はみな、別の権力の支配下にある。彼は彼自身のものではない。彼は自由を口にするかも知れないが、最もあわれむべき奴隷状態にある。彼の心はサタンの支配下にあるので、真理の美しさを見ることがゆるされない。彼は、自分自身の判断の命令に従っているとうぬぼれているが、実は暗黒の君の意思に従っているのである。キリストは、魂を罪の奴隷の束縛から切り離すためにこられた。「だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」(ヨハネ8:36)。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、」われわれを「罪と死との法則から……解放」するのである(ローマ8:2)。 DA 915.4
あがないの働きに強制はない。外部からの圧力は用いられない。神のみたまの影響下にあって、人はだれに仕えるかを自由に選ぶことができる。魂がキリストに屈服する時に行われる変化の中に、最高の意味の自由がある。罪を追い出すことは、その魂自身の行為である。なるほどわれわれは、サタンの支配からわが身を解放する力はない。だが罪から解放されたいと望み、非常な必要を感じて、われわれ以外の、そしてわれわれ以上の力を求めて叫ぶ時、魂の能力には聖霊の天来の力が吹きこまれ、その能力は神のみこころを成就することにおいて意思の命令に従うのである。 DA 915.5
人間の自由が可能であるただ一つの条件は、キリストと一つになることである。「真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」とあるが、キリストがその真理である(ヨハネ8:32)、罪は、心を弱め、魂の自由を滅ぼすことによってのみ勝利することができる。神に屈服することは、自分自身を回復すること、すなわち人間の真の栄光と威厳とを回復することである。われわれは、神の律法に従うようになったが、それは「自由の律法」である(ヤコブ2:12)。 DA 915.6
パリサイ人は、自分たちはアブラハムの子であると宣言していた。この主張はアブラハムのわざをすることによってのみ立証できるのだと、イエスは彼らにお告げになった。 DA 916.1
アブラハムの真の子ならば、アブラハムと同じように、神に服従する生活を送るであろう。彼らは、神から与えられた真理を語っておられるお方を殺そうとはしないであろう。ギリストに対して陰謀をくわだてているのだから、ラビたちは、アブラハムのわざをしているとはいえなかった。アブラハムの系図による子孫であるということだけでは、何の価値もなかった。アブラハムと同じ精神を持ち、同じわざをすることにあらわされる霊的関係がないならば、彼らは、アブラハムの子ではなかった。 DA 916.2
この原則は、長い間キリスト教界を騒がせた問題、すなわち使徒の継承という問題に同じように重大な関係がある。アブラハムの子孫ということは、名や血統によらず、品性が似ていることで証明された。同じように使徒の継承は、教会の権威を引き継ぐことにあるのではなくて、霊的な関係にあるのである。使徒たちの精神、彼らが教えた信念と真理の教えとを原動力とする生活——これが使徒の継承の真の証拠である。これが人を福音の最初の教師たちの後継者とならせるのである。 DA 916.3
イエスは、ユダヤ人がアブラハムの子であることを否定された。「あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っている」とイエスは言われた(ヨハネ8:41)。彼らは嘲笑して、「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。わたしたちにはひとりの父がある。それは神である」と答えた(ヨハネ8:41)。このことばは、イエスの生れについての事情をそれとなく指していて、イエスを信じ始めた人たちのいる前でキリストに打撃を与えるつもりで言われたのであった。イエスは、この卑劣なあてこすりに注意を払わないで、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ」と言われた(ヨハネ8:42)。 DA 916.4
彼らのわざは、嘘つきであり殺人者であるサタンとの関係を証拠だてた。そこでイエスは、こう言われた、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。……わたしが真理を語っているので、あなたがたはわたしを信じようとしない」(ヨハネ8:44、45)。イエスが真理を語られたということ、しかも確信をもって語られたということが、彼がユダヤ人の指導者たちに受け入れられなかった理由であった。自分自身を義人とするこれらの人々を怒らせたのは真理であった。真理は誤謬の欺瞞性をばくろした。真理は、彼らの教えと慣習とを非難したので、歓迎されなかった。彼らは自分たちが誤っていたということをけんそんに告白するよりは、むしろ真理に対して目をつぶっていたかった。彼らは真理を好まなかった。たとえ真理であっても、彼らはそれを望まなかった。 DA 916.5
「あなたがたのうち、だれがわたしに罪があると責めうるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜあなたがたは、わたしを信じないのか」(ヨハネ8:46)。3年の間、イエスの敵どもは、来る日も来る日も、イエスのあとをつけまわして、イエスの品性に何か欠点をみつけようとした。サタンと悪の共謀者たちはイエスを征服しようとねらっていたが、イエスのうちには、彼らに有利な立場を与えるようなものが何もみいだされなかった。悪鬼でさえ、あなたは「神の聖者です」と告白しないではいられなかった(マルコ1:24)。イエスは、天の目の前で、他世界の目の前で、罪深い人々の目の前で、律法を実行されたイエスは、天使たちと人々と悪鬼たちの前で、「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」と語られたが、だれもこれに挑戦するものはなかった。もしこのことばがほかの人の口から語られたのだったら、冒瀆とみなされたであろう(ヨハネ8:29)。 DA 916.6
イエスのうちに何の罪も見いだすことができなかったにもかかわらず、ユダヤ人がイエスを受け入れようとしなかったことは、彼ら自身が神と何のつながりも もっていなかった証拠であった。彼らは、み子のことばのうちに神のみ声を認めなかった。彼らは、自分たちがキリストに審判をくだしていると思っていたが、イエスをこばむことによって、彼らは自分自身に宣告をくだしていたのである。「神からきた者は神の言葉に聞き従うが、あなたがたが聞き従わないのは、神からきた者でないからである」と、イエスは言われた(ヨハネ8:47)。 DA 916.7
この教訓はいつの時代にも真実である。こじつけや、批判が好きで、神のみことばのうちに何か疑問となるようなものをさがしてばかりいる者は、そうすることが思想の自由と鋭い頭脳の証拠であると思っている。彼は、自分が聖書をさばいていると思っているが、事実は自分自身をさばいているのである。彼は、天に始まり永遠に及んでいる真理を理解することができないことをばくろしている。神の義という大いなる山の前にあって、彼の精神はおそれを感じない。彼は棒きれやわらくずをさがすのに忙しく、そのことによって狭い世俗的な性質、すなわち神を理解する能力を急速に失いつつある心をばくろしているのである。心が神の霊感に応じた人は、神についての知識を増すようなものや、品性をきよめ、高めるようなものを求める。花が、明るい光線によって美しい色合いに染まるために太陽に向かって開くように、魂は、天の光がキリストのご品性の恵みによって品性を美しくすることができるように、義の太陽に向かうのである。 DA 917.1
イエスは、ユダヤ人の立場とアブラハムの立場との間にいちじるしい相違があることを示し、つづいて言われた、「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」(ヨハネ8:56)。 DA 917.2
アブラハムは、約束の救い主を見たいと非常に望んでいた。彼は、自分が死ぬ前にメシヤを見ることができるようにと最も熱心な祈りをささげた。そして彼はキリストを見た。超自然の光が彼に与えられ、彼は、キリストのきよいご品性を認めた。彼はキリストの日を見、そしてよろこんだ。彼は、罪のための天来のいけにえを見せられた。このいけにえについて、彼は、自分の経験を通して実例を与えられていた。「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて……彼を燔祭としてささげなさい」との命令が彼に与えられた(創世記22:2)。彼は、いけにえの祭壇に、約束の息子、——彼の望みの中心であった息子を置いた。それから、神に従うために、ナイフをふりあげて祭壇のわきに待っていると、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」という天の声を彼は聞いた(創世記22:12)。この恐ろしい苦しみがアブラハムに負わされたのは、彼に、キリストの日を見させ、この世に対する神の愛、すなわちこの世を堕落からひきあげるためにひとり子を非常な屈辱的な死に渡されたほどの神の大いなる愛を認めさせるためであった。 DA 917.3
アブラハムは、神について、かつて人間に与えられた最高の教訓を学んだ。死ぬ前にキリストを見たいという彼の祈りは答えられた。彼は、キリストを見た。彼は、人間が見ても生きることのできる全部を見たのである。全面的に屈服することによって、彼は自分に与えられたキリストのまぼろしを理解することができた。神は罪人を永遠の滅びから救うためにひとり子をお与えになることによって、人間がなし得るよりももっと大きな、そしてもっとすばらしい犠牲を払おうとしておられるのだということを、彼は示された。 DA 917.4
アブラハムの経験は、次の質問に答えるものであった。「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」(ミカ6:6、7)。「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」とのアブラハムのことばと、神がイサクの代りにいけにえを用意されたことを通して、人はだれも自力で罪のあがないをすることができないことが明らかにされた(創世記22:8)。異教の犠牲制度は全く神に受け入れられない ものであった。父親は息子または娘を罪祭としてささげるべきではなかった。神のみ子だけが世の罪を負うことがおできになるのである。 DA 917.5
アブラハムは、自分自身の苦難を通して、救い主の犠牲の使命を見ることができた。だがイスラエルは、彼らの高慢な心にとって面白くないことを理解しようとしなかった。アブラハムにっいて言われたキリストのみことばは、聴衆に何の深い意義も感じさせなかった。パリサイ人たちは、キリストのことばに新しいあげ足とりの理由をみつけただけであった。彼らは、イエスが狂人であることを証明しようとするかのように、冷笑をもって、「あなたはまだ50にもならないのに、アブラハムを見たのか」とやり返した(ヨハネ8:57)。 DA 918.1
イエスは、おごそかな威厳をもって、「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」と答えられた(ヨハネ8:58)。 DA 918.2
たくさんの群衆は、沈黙につつまれた。永遠の存在についての観念を表わすためにモーセに与えられた神のみ名が、このガリラヤのラビによって自分のものとされた。イエスは、ご自分が自力によって存在されるお方、「その出るのは昔から、いにしえの日からである」とイスラエルに約束されたお方であると宣言された(ミカ5:2)。 DA 918.3
ふたたび祭司たちとラビたちが、イエスは冒瀆者だと叫びたてた。イエスが神と一つであると主張されたために、彼らが騒ぎたててイエスの生命をとろうとしたことが以前にあった。それから数か月後に、彼らは、「あなたを石で殺そうとするのは、よいわざをしたからではなく、神を汚したからである。また、あなたは人間であるのに、自分を神としているからである」とはっきり断言した(ヨハネ10:33)。イエスが神のみ子であり、また自らそう公言されたために、彼らはイエスを殺すことばかり考えていた。いま人々の中には、祭司たちとラビたちの味方になって、石をとってイエスに投げつけようとする者が多かった。「しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」(ヨハネ8:59)。 DA 918.4
光であられるキリストが暗黒のうちに輝いておられた。しかし「暗黒はこれを悟」らなかった(ヨハネ1:5・文語訳)。 DA 918.5
「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、『先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか』。イエスは答えられた、『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。』……イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どうをつくり、そのどうを盲人の目に塗って言われた、『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った」(ヨハネ9:1~7)。 DA 918.6
罪はこの世で罰せられると、ユダヤ人は一般に信じていた。あらゆる苦難は、苦しんでいる本人か、あるいはその両親が何か悪いことをした罰だと考えられていた。なるほどあらゆる苦難は神の律法を犯した結果であるが、この事実は曲解されていた。罪とそのすべての結果の張本人であるサタンは、病気と死は神から出るもの、すなわち罪の故に神が勝手に人に課せられる罰であると人々に考えさせていた。だから何か大きな苦難やわざわいに見舞われた人は、大罪人としてみられるという余計な重荷まで負わされた。 DA 918.7
こうしてユダヤ人が、イエスをこばむ道が用意された。「われわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」お方が、「打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ」とユダヤ人からみなされ、彼らはイエスに対して顔をおおった(イザヤ53:4)。 DA 918.8
神はこうしたことを防ぐために教訓をお与えになっていた。ヨブの経歴は、苦難はサタンから与えられ、神が、憐れみの目的をもってそれを支配されるということを示していた。だが、イスラエルは、この教訓がわからなかった。神はヨブの友人たちのあやまちを譴責されたが、ユダヤ人がキリストをこばんだことにその同じあやまちがくりかえされた。 DA 918.9
罪と苦難との関係についてのユダヤ人の信念は、キリストの弟子たちのうちにもあった。イエスが、彼らの誤りを正された時、主は、その男の苦難の原因を説明しないで、その結果をお告げになった。すなわちその苦難の故に神のみわざがあらわされるというのである。「わたしは、この世にいる間は、世の光である」とイエスは言われた(ヨハネ9:5)。それからイエスは、その盲人の目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗わせられた。するとその男の視力が回復した。このようにしてイエスは、弟子たちの質問に実際的な方法でお答えになったが、好奇心から出た質問にはたいていこんな答え方をされた。弟子たちは、だれが罪を犯したとか犯さなかったとかいう質問を議論するのでなく、盲人に視力をお与えになった神の力と恵みを理解するように求められた。どろや、盲人が洗いに行かされた池にいやしの力があったのではなく、その力はキリストのうちにあったことは明らかであった。 DA 919.1
パリサイ人たちはそのいやしに驚かないではいられなかった。それでもなお彼らはいままでよりももっと憎しみに満たされた。というのは、この奇跡が安息日に行われたからであった。 DA 919.2
その若者の隣人や、彼が盲人であることを前から知っていた人たちは、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」と言った(ヨハネ9:8)。彼らは疑わしげに彼を見た。彼は、目があいたら、顔つきが変って明るくなり、ほかの人のようにみえたからである。人から人へ疑問が伝わった。ある人たちは、「その人だ」と言い、他の人たちは、「あの人に似ているだけだ」と言った。しかしこの大きな祝福を受けた本人が、「わたしがそれだ」と言って、疑問を解決した。そして彼は、イエスについて、また自分がどんな方法でいやされたかについて語った。彼らは、「その人はどこにいるのか」とたずねたが、彼は「知りません」と答えた(ヨハネ9:9、12)。 DA 919.3
そこで彼らは、その男をパリサイ人の会議につれて行った。男はどうやって目が見えるようになったかと、ふたたびたずねられた。「彼は答えた、『あのかたがわたしの目にどうを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました』。そこで、あるパリサイ人たちが言った、『その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから』」(ヨハネ9:15、16)。パリサイ人たちは、イエスが罪人であって、メシヤではないということを言いたかったのである。彼らは、盲人をいやしたお方が、安息日をつくってそのすべての義務を知っておられるお方であることを知らなかった。彼らは、安息日を守ることにはふしぎなくらい熱心にみえたが、それにもかかわらずその日に殺人を計画していた。だが多くの者は、この奇跡のことを聞いて非常に心を動かされ、盲人の目をあけたお方がただの人間ではないことを確信した。イエスは安息日を守られなかったから罪人であるとの非難に対して、彼らは、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と言った(ヨハネ9:16)。 DA 919.4
ラビたちは「もう1度この盲人に聞いた、『おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか』。『預言者だと思います』と彼は言った」(ヨハネ9:17)。パリサイ人は、この男は生れつきの盲人ではなかったから目が見えるようになったのだと主張した。彼らはこの男の両親を呼び、たずねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか」(ヨハネ9:19)。 DA 919.5
自分は生れつき盲人であったのに目がみえるようになったのだと断言している当の本人がいるのに、パリサイ人たちは、自分たちの誤りを認めるよりはむしろ自分自身の目で見た証拠を否定したかった。それほど偏見は根強く、それほどパリサイ人の義はゆがめられていた。 DA 919.6
パリサイ人たちにとって一つの望みが残っていた。それはこの男の両親を脅迫することであった。真心をよそおって、彼らは、「それではどうして、いま目が見えるのか」とたずねた(ヨハネ9:19)。両親はやっかいな問題にまきこまれるのを恐れた。なぜならイエスをキリストと認める者はだれでも「会堂から追い出す」、すなわち30日間会堂にはいらせないとい うことが布告されていたからである(ヨハネ9:22)。この期間中は、違反者の家庭では割礼を施すこともできないし、死者をいたむこともできなかった。だからこの宣告をくだされることは非常なわざわいとみなされていた。もし悔い改めがみられなければ、もっと重い刑罰が加えられた。両親は息子のためになされたすばらしいみわざを通して確信を与えられていたが、それでもこう答えた、「これがわたしどものむすごであること、また生れつき盲人であったことは存じています。しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」(ヨハネ9:20、21)。こうして彼らは責任を全部自分たちから息子へ移した。彼らはあえてキリストを告白しようとしなかった。 DA 919.7
パリサイ人たちがおちいっているジレンマ、彼らの質問と偏見、事件の真相に対する彼らの不信などから、群衆、特に一般民衆の目がだんだん開かれてきた。イエスはたびたび人の通っている路上で奇跡を行われ、しかもそのみわざはいつも苦しんでいる者を救う性格のものだった。多くの人々の心にあった疑問は、パリサイ人たちはイエスを詐欺師だと言い張るが、神はそんな人間を通してこのような偉大なみわざをされるだろうかということであった。この論争は両者の間で非常に熱してきていた。 DA 920.1
パリサイ人たちは、自分たちが、イエスによってなされたみわざを宣伝していることに気がついた。彼らは奇跡を否定することができなかった。盲人は喜びと感謝に満ちていた。彼は、自然界のすばらしいものを目に見、地と空の美しさを見て喜びに満たされた。彼は、遠慮なく自分の経験を語った。するとまた彼らは、彼をだまらせようとして、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」と言った(ヨハネ9:24)。あの人がおまえの目を見えるようにしてくれたと2度と言うな、おまえの目が見えるようにしてくださったのは神であるというのだった。 DA 920.2
盲人は答えて言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません、ただ1つのことだけ知っています。わたしは目が見えなかったが、今は見えるということです」(ヨハネ9:25)。 DA 920.3
すると彼らは、もう1度たずねた、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけためか」(ヨハネ9:26)。彼らは、いろいろなことを言ってこの男を混乱させ、自分はだまされたのだと考えるようにしむけた。サタンと悪天使たちは、パリサイ人のがわにいて、キリストの感化力を打ち消すために彼らの勢力とずるさを人間の理性と結合させた。彼らは、多くの人々の心に強まりつつあった確信をくもらせた。神の天使たちもまたその場にいて、視力を回復してもらった男を力づけた。 DA 920.4
パリサイ人たちは、生れつき目が見えない無教育なこの男よりもほかのお方を相手にしなければならないことに気がつかなかった。彼らは、論争している相手のお方を知らなかった。天来の光がこの盲人の魂の奥底にさし込んだ。これらの偽善者たちが彼に信じさせないようにしようとした時、神は、この男の力強く鋭い答によって、彼がわなにおちいるような人間ではないことをお示しになった。「彼は答えた、『そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか。』そこで彼らは彼をののしって言った、『おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ』」(ヨハネ9:27~29)。 DA 920.5
主イエスは、この男が経験している苦悩を知っておられ、彼に恵みとことばをお与えになったので、彼はキリストの証人となった。彼がパリサイ人に答えたことばは、質問者たちにとって鋭い譴責であった。彼らは、聖書の解説者、国民の宗教上の指導者であると自称していた。それなのに奇跡を行われるお方が目の前におられても、そのお方の力のみなもとについて、またそのお方の性格と主張について何も知らない と告白した。そこでこの男は言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。生れつき目が見えなかった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」(ヨハネ9:30~33)。 DA 920.6
この男は、相手の立場に立って、審問者たちに応じた。彼の議論には答えることができなかった。パリサイ人たちは驚いてしまった。彼らはこの男の鋭い、断固たることばの前にすくんだようになって、だまってしまった。しばらく沈黙がつついた。それから、ふきげんな顔をした祭司たちとラビたちは、この男との接触から汚れでもうつされるかのように、衣をひきよせた。彼らは足のちりを払い、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」とのおどし文句を浴びせた(ヨハネ9:34)。そして彼らはこの男を破門した。 DA 921.1
イエスはこの出来事をお聞きになった。そこでイエスは、そのすぐあとでこの男をみつけて、「あなたは人の子を信じるか」と言われた(ヨハネ9:35)。 DA 921.2
はじめて盲人は、自分を救ってくださった方のお顔を見た。会議の場所では、この男は、両親が困り、当惑しているのを見た。彼は、ラビたちのふきげんな顔を見た。いま彼は、イエスのやさしい、平和な顔つきに目をとめた。すでに彼は、わが身の不利益もかまわずに、イエスが天来の力の代表者であられることを公然と認めていた。そこでいま彼にもっと高い啓示が与えられた。 DA 921.3
「あなたは人の子を信じるか」との救い主の質問に、盲人は答えて、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」とたずねた(ヨハネ9:36)。するとイエスは、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」と言われた(ヨハネ9:37)。男は、救い主の足下にひれ伏して主を拝した。彼は肉眼が見えるようになったばかりでなく、さとりの目も開かれたのだった。彼の魂にキリストがあらわされたので、彼は、キリストを神からつかわされたお方として受け入れた。 DA 921.4
一群のパリサイ人たちが近くに集まっていたが、彼らをごらんになったイエスの心には、ご自分のことばとみわざの効果にいつもはっきりあらわれる相違が浮んだ。イエスは、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」と言われた(ヨハネ9:39)。キリストは盲人の目を開き、暗黒のうちにある人々に光を与えるためにおいでになった。 DA 921.5
彼は、ご自分が世の光であることを宣言しておられたが、いま行われた奇跡は、イエスの使命を証明した。救い主の来臨の時に主を見た人たちは、前の時代の人々が受けたよりも一層深い神のご臨在のあらわれを示された。神についての知識は、もっと完全にあらわされた。しかしこのようにあらわされたことによって、さばきが人々の上にくだっていた。彼らの品性が試みられ、その運命が決定された。 DA 921.6
天来の力のあらわれは、この盲人に肉眼の視力と霊的視力とを与えたが、それはまたパリサイ人を一層深い暗黒のうちに残した。聴衆の中のある者たちは、キリストのみことばが自分たちにあてはまると思って、「それではわたしたちも目が見えないのでしょうか」とたずねた(ヨハネ9:40)。イエスは、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう」と答えられた(ヨハネ9:41)。もし神が、あなたがたが真理を見ることができないようにされたのだったら、あなたがたの無知に罪はない。しかし今あなたがたは見えると言う。あなたがたは自分は見えると信じて、目の見える唯一の方法をこばんでいる。自分の必要を認めるすべての者のために、キリストは無限の助けをもってこられた。だがパリサイ人たちは、必要を告白しようとしなかった。彼らは、キリストのみもとに行くことをこばんだ。だから彼らは、盲目のままにとり残された。その盲目は、彼ら自 身の罪である。イエスは「あなたがたの罪がある」と言われた(ヨハネ9:41)。 DA 921.7