各時代の希望

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第7章 子供として

本章はルカ2:39、40に基づく DA 696.4

イエスは少年時代と青年時代を小さな山村ですごされた。この地上のどんな場所もキリストがお住みになれば尊い所となるのであった。王の宮殿がイエスを客として迎える特権を持つこともできたであろう。だがイエスは金持ちの家庭や、王宮や、有名な学問の中心地をみすごして、入々にあなどられた片いなかのナザレを故郷とされた。 DA 696.5

イエスの少年時代についての短い記録にはすばらしい意味がある。「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった」(ルカ2:40)。イエスは、天父の愛情にはぐくまれて「ますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」(ルカ2:52)。イエスの知能は活発で鋭く、年令以上に思慮と知恵があった。しかしその品性は均整がとれて美しかった。心とからだの能力は、幼年時の法則に調和してだんだんに発達した。 DA 696.6

子供としてイエスは、特にやさしい性質をあらわされた。彼はいつでも人に仕えるためによろこんで手をかされた。イエスは何ものにもさまたげられない忍耐力と、決して正直さを犠牲にするようなことのない真実さをあらわされた。主義においては岩のように固かったが、その生活には無我の親切心という美徳があらわれていた。 DA 696.7

イエスの母は、深い関心をもってイエスの能力のあらわれを見守り、イエスの品性に完全の刻印を見た彼女は喜んで、このりこうなものわかりのよい頭脳を伸ばそうとした。彼女は、神だけをわが父と呼ぶことのできるこの子供の発達に、天と協力する知恵を、聖霊を通して受けた。 DA 696.8

遠い昔の時代から、イスラエルの忠実な人々は、青少年の教育に非常な注意を払ってきた。主は、子供たちに、赤ん坊の時からでさえ、神の恵みと大いなる力について、特に神の律法にあらわされ、またイスフエルの歴史に示されている神の恵みと大いなる力について教えるように命じておられた。 DA 696.9

歌と祈りと聖書の教訓が、成長する心に適用されるのであった。神の律法は神のご品性のあらわれであって、その律法の原則を心に受け入れる時に、心と塊には神のみかたちが書き写されるということを、父母たちは子供たちに教えるのであった。教えの多くは口頭でなされたが、青年たちはヘブル語の書物を読むことも学び、旧約聖書の羊皮紙の巻物を開いて学んだ。 DA 697.1

キリストの時代には、青少年の宗教教育のために方法を講じない町や市は、神にのろわれるものとみなされた。しかし教育は形式的になっていた。大部分言い伝えが聖書と入れ代っていた。真の教育は、青少年が「熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見い出せるように」することであった(使徒行伝17:27)。ところがユダヤ人の教師たちは儀式のことにばかり注意を払った。学ぶ者にとって無価値で、天の上級学校ではみとめられないような材料で頭がいっぱいになった。神のみことばを個人的に受け入れることによって得られる経験は教育制度の中に立場を与えられていなかった。外面的なことのくりかえしにばかり没頭していて、学生たちは神とともに過ごす静かな時間がなかった。彼らは神のみ声が心に語りかけるのをきかなかった。彼らは知識を求めて、知恵のみなもとであられる神から離れた。神への奉仕にどうしてもなくてはならないものがかえりみられなかった。律法の原則はおおいかくされた。すぐれた教育と考えられたものが、真の発達にとって最も大きなさまたげとなった。ラビたちの教育の下にあって、青少年たちの能力は抑制された。彼らの頭は固く、狭くなった。 DA 697.2

子供のイエスは会堂の学校で教えを受けられなかった。イエスの母が、イエスの最初の人間教師であった。彼女の口と預言者たちの巻物から、イエスは天の事物について学ばれた。イスラエルのためにご自身がモーセにお語りになったことばを、イエスはこんどは母のひざもとで教えられた。子供から青年へと成長された時も、イエスはラビの学校へは行かれなかった。イエスはこのような学校から得られる教育を必要とされなかった。なぜなら神がイエスの教師であられたからである。 DA 697.3

救い主の公生涯の間にたずねられた質問、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」ということばは、イエスが読み書きがおできにならなかったということではなくて、ただラビの教育をお受けにならなかったということである(ヨハネ7:15)。イエスは、われわれと同じようにして知識を得られたのだから、彼が聖書に精通しておられたということは、少年時代にどんなにまじめに神のみことばを学ばれたかを示している。イエスの前には、神の創造のみわざというすばらしい書庫がくりひろげられていた。万物をおつくりになったお方が、ご自分の手で地と海と空とにお書きになった教えを学ばれたのである。この世のきよくない方法から離れて、イエスは自然から多くの科学的な知識を集められた。イエスは植物や動物の生活、また人間の生活を研究された。イエスは幼い時から一つの目的を持っておられた。それは他人を祝福するために生きるということだった。このためにイエスは自然界にその方法をみいだされた。植物の生活と動物の生活を研究されると、そこから方法や手段についての新しい考えが頭にひらめいた。イエスは目に見えるものの中から、神の生きたみことばを示す実例をたえずひき出そうとしておられた。キリストが、公生涯中に、譬(たとえ)をもって真理についての教訓を教えることを好まれたことは、その心が自然の影響力に向かって開かれていたことと、彼が日常生活の環境から霊的な教えを集められたこととを示している。 DA 697.4

このように、物事の理由をさとろうとつとめられた時、神のみことばとみわざめ意味がイエスに示された。天使たちがイエスのそばにつきそっていたので、聖なる思想と霊的なまじわりという教養がイエスのものとなった。知性が芽ばえはじめてから、イエスはたえず霊的な恵みと真理の知識に成長しておられた。 DA 697.5

どの子供もイエスと同じように知識を得ることができる。われわれがみことばを通して天父をよく知ろうとつとめる時、天使たちがそばにきて、われわれの知 能が強められ、われわれの品性が高められ、洗練される。われわれはますます救い主に似る者となる。 DA 697.6

またわれわれが自然の美しさと雄大さをながめる時、われわれの愛情は神のもとへひきよせられる。みわざを通して無限なる神と接触することによって、心はおそれに満たされるが、魂は活気づけられる。祈りを通して神とまじわることによって知的道徳的能力が発達し、霊的な事物について思想を養うときに霊的な能力が強められる。 DA 698.1

イエスの一生は神と調和した生涯であった。子供の時分には子供のように考え、子供のように語られた。しかしイエスのうちにある神のみかたちを傷つける罪のあとはなかった。それでも彼は試みからまぬかれてはおられなかった。ナザレの住民は悪いことで有名だった。彼らが一般からどんなに低く見さげられていたかは、ナタナエルが、「ナザレから、なんのよい者が出ようか」と質問したことばにあらわれている(ヨハネ1:46)。イエスはその品性を試みられるような場所におかれた。イエスはご自分の純潔を保つためにたえず警戒しておられる必要があった。イエスは子供の時にも青年の時にも大人になってからも、われわれの模範となるために、われわれが出会わねばならないあらゆる戦いに会われた。 DA 698.2

サタンはナザレの子イエスを征服しようとして根気よく努力した。イエスは幼い時から天使たちに守られておられたが、それでも彼の一生は暗黒の勢力との長い戦いであった。この地上に悪のけがれにそまらない人間がいるということが、暗黒の君サタンにとっては不快であり、困ったことであった。サタンは、イエスをわなにかけるためにあらゆる手段をあますところなく用いた。どんな人間も、救い主が試みとのはげしい戦いのさなかで送られたようなきよい生活を送るように求められることはないであろう。 DA 698.3

イエスの両親は貧しくて、毎日の骨折り仕事で生計をたてていた。イエスは貧乏や自制や不自由の味をよく知っておられた。この経験がイエスを保護した。イエスの勤勉な生活には、試みを招くようなひまな時間がなかった。堕落的な交際のために道を開くような無意味な時間がなかった。イエスはできるだけ誘惑者に対して戸をとざしておられた。利益も楽しみも、あるいは称賛も非難も、イエスを悪い行為にさそうことができなかった。イエスは悪を賢明に見わけて、それに強く抵抗された。 DA 698.4

キリストは、この地上においてただ1人罪のないお方であった。しかしイエスはおよそ30年の間、ナザレの悪い住民の中でお暮しになったこの事実は、罪とがのない生活を送るには、場所や幸運や繁栄次第であると考えている人々にとって一つの譴責である。試み、貧乏、逆境は純潔と堅固な志を発達させるために必要な訓練である。 DA 698.5

イエスはいなかの家に住んで、家庭の重荷を負うために、ご自分の責務を忠実に快活に果たされた。イエスは天の司令官で、天使たちはそのみことばによろこんで従っていたのだったが、いまは自発的なしもべであり、従順な愛らしい息子であった。イエスは手仕事をおぼえ、自らヨセフといっしょに大工の仕事をされた。彼は一般の労働者と同じ粗末な服を着て、小さな町の通りを歩いて、そのいやしい仕事に邁進された。イエスはご自分の重荷をへらしたり骨折りを軽くしたりするために天来の力をお用いにならなかった。 DA 698.6

イエスが子供と青年の時代に働かれた時、その心と体が発達した。イエスは体力を向こうみずに用いないで、どの方面でも一番よい仕事ができるように、体力を健康に保つような方法で働かれた。イエスは道具のとり扱いでさえ不完全であることを好まれなかった。彼は品性において完全であられたように、職人として完全であられた。イエスは、ご自身の模範を通して、勤勉であることはわれわれの義務であること、われわれの働きは正確に徹底的に1、なければならないこと、またこのような労働は尊いものであることをお教えになった。手を役立たせることを教え、生活の重荷の自分の分を負うように青年たちを訓練する実際の働きによって、肉体的な力が与えられ、あらゆる能力が発達させられる。人はみな自分自身にとって益となり、また他人に役立つことを何かみつけ出 してしなければならない。神は働くことを祝福としてお命じになったのであって、勤勉に働く者だけが人生の真の栄光と喜びをみいだすのである。家庭の中で自分の義務を快活に果たし、父母の重荷を分担する子供や青年を、神はやさしい愛をもって受け入れてくださる。このような子供たちは、社会の役に立つ人間として家庭から出て行くのである。 DA 698.7

イエスは、地上生涯の間じゅう、熱心にたえずお働きになった。彼は多くのことを期待された。だから多くのことを試みられた。公生涯にお入りになってから、彼は、「わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる」と言われた(ヨハネ9:4)。キリストの弟子(でし)であると自称している多くの人々がするように、イエスは、骨折りや責任を避けるようなことをされなかった。多くの人々が弱くて無能であるのは、この訓練を避けようとするからである。彼らには尊い愛すべき性質があるかもしれないが、困難に出会ったり、障害をのりこえたりしなければならないときになると、無気力でほとんど役に立たない。キリストのうちにみられる積極陸と行動力、堅固で強力な品性は、イエスが受けられたのと同じ訓練によってわれわれのうちに発達させられるのである。しかもイエスの受けられた恵みはわれわれのためである。 DA 699.1

救い主は、人々の中に暮しておられた間ずつと、貧しい人たちと同じ身分になられた。彼はご自分の経験から、貧しい人たちの心配や苦労をご存じだったので、いやしい労働者たちをみな慰めはげますことがおできになった。イエスの一生の教えをほんとうに理解している者は、階級差をつけたり、お金持が、貧しくてもりっぱな人たちより尊ばれるようなことがあったりしてはならないと考える。 DA 699.2

イエスはご自分の労働に快活さと気転とを持ち込まれた。家庭生活と職場に聖書の宗教をとり入れ、勘中の仕事の重荷を負いながらなお神の栄光に対して目が澄んでいるためには(マタイ6:22参照)、非常な忍耐と霊性とが必要である。この点においてイエスは人々の助けとなられた。彼は天の事物のために時間を費したり考えたりする余裕がないほどこの世の苦労を一杯かかえておられなかった。たびたびイエスは詩篇や天の歌をうたって心の喜びを表明された。ナザレの住民たちはイエスが神への賛美と感謝をささげられる声をたびたびきいた。イエスは歌を通して天と交わられた。仲間の者たちは、働きに疲れて不平を言うと、イエスの口から出る美しい歌の調べに元気づけられるのだった。 DA 699.3

イエスの賛美は悪天使を追い払い、香煙のようにその場をかおりで満たすように思われた。きいている者たちの心は、この地上の放浪から天の家郷へとはこばれて行った。 DA 699.4

イエスは世の人にとっていやしの恵みの泉であった。ナザレで人目につかず暮しておられた年月の間、イエスのいのちは同情とやさしさという流れとなって人々にそそがれた。老人たちも、悲嘆にくれている者たちも、罪の重荷を負っている者たちも、無邪気に喜んで遊んでいる子供たちも、森の小さな動物たちも、荷物をつけた忍耐強い動物たちも、イエスがいらっしゃればみなもっと幸福になった。権威のことばをもってもろもろの世界をささえられたお方が、身をかがめて、傷ついた小鳥を救っておやりになるのだった。イエスの目にとまらないものは何もなく、イエスが奉仕する価値がないと思われるものは何もなかった。 DA 699.5

こうしてイエスは、知恵と身のたけが成長されるにつれて、ますます神と人とに愛された。イエスはすべての人に同情することがおできになることを自ら示すことによって、すべての人の心から同情をひき出された。イエスのまわりには望みと勇気の雰囲気がとりまいていたので、彼はどこの家庭においても祝福となられた。イエスはまたたびたび安息日に、会堂で、預言者の書から教訓を読むようにたのまれた。そしてよく知られている聖書のことばから新しい光が輝き出ると、聴衆の心は感動した。 DA 699.6

しかしイエスは見せびらかしを避けられた。ナザレに住んでおられた間じゅう、イエスはご自分の奇跡の力を人の前にお示しにならなかった。彼は高い地位 を求めず、何の肩書も持っておられなかった。イエスの静かで単純な生活、またイエスの幼いころについて聖書に何も書かれていないことさえ、大切な教訓を教えている。子供の生活が静かで単純であればあるほど、すなわち不自然な刺激が少なくて、自然との調和が多ければ多いほど、その生活は肉体と知能の活力ならびに霊的な力にとって一層有利である。 DA 699.7

イエスはわれわれの模範である。イエスの公生涯の期間については興味をもって論ずる人が多いが、イエスの幼いころの教訓に注目する人は少ない。しかしイエスが子供や青年たちの模範であったのは、その家庭生活においてであった。救い主は、われわれがいやしい身分であっても、神とともに親しく歩むことができることを教えるために、おそれ多くも自ら貧しい者となられた。イエスは日常の平凡なことにおいて天父を喜ばせ、あがめ、そのみ栄えをあらわすために生活された。イエスの働きは、口々の食物のために骨折って働く職人のいやしい手仕事を神聖にすることから始められた。彼は大工の仕事台で働いておられる時も、群衆のために奇跡を行っておられる時と同じに、神への奉仕をしておられた。キリストがそのいやしい家庭において示された忠実と従順の模範にならう青年はだれでも、天父がイエスについて聖霊を通してお語りになった次のことばを自分のものとすることができる。「わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ」(イザヤ42:1)。 DA 700.1