各時代の希望

8/87

第8章 過越のおまいり

本章はルカ2:41~51に基づく DA 700.2

ユダヤ人の間では、12才という年令が子供時代と青年との境界線だった。この年令が終ると、ヘブルの少年は律法の子また神の子と呼ばれた。彼は宗教的な教えを受ける特別な機会が与えられ、宗教上の祝祭や儀式に参加することが期待された。イエスが少年時代に過越(すぎこし)の祭りに参加するためにエルサレムにのぼられたのは、この慣例に従ってであった。すべての信心深いイスラエル人と同じように、ヨセフとマリヤは毎年過越に参加するためにエルサレムへのぼった。そこでイエスが定められた年令になられると、彼らはイエスをいっしょにおつれした。 DA 700.3

年ごとの祭礼には、過越の祭りと五旬節(ペンテコステ)と仮庵(かりいお)の祭りの3つがあって、その時にはイスラエル人の男子はみなエルサレムで神の前に出るように命じられていた。この3つの祭礼の中で、過越の祭りにおまいりする人が一番多かった。ユダヤ人が離散していたすべての国々からも多くの者がおまいりした。パレスチナの各地からたいへんな数の参拝者たちがやってきた。ガリラヤからの旅には数日かかるので、旅人たちは交友と安全のため大勢で隊を組んでやってきた。女や老人たちは、けわしい岩だらけの道は牛やろばに乗った。強い男や若者たちは徒歩で旅をした。過越の祭りの時期は3月の終わりか4月の上旬に当たっていたので、国じゆうが花で輝き、小鳥の歌声が楽しかった。道中ずっとイスラエルの歴史上記念すべき場所があって、父や母たちは、昔神がご自分の民のためになしてくださったいろいろなふしぎを子供たちに語りきかせた彼らは歌と音楽で旅の疲れを忘れた。そしていよいよエルサレムの高い建物が見えてくると、どの人も誇らしい歌声に和した。 DA 700.4

「エルサレムよ、われらの足は DA 700.5

あなたの門のうちに立っている。 DA 700.6

その城壁のうちに平安があり、 DA 700.7

もろもろの殿のうちに安全があるように。」 DA 700.8

(詩篇122:2、7) DA 700.9

過越を守ることは、ヘブル国民の誕生とともに始まった。エジプトの奴緑生活の最後の晩、救出のしそしが何もみえなかった時に、神は彼らに、ただちに解 放されるから用意をするようにとお命じになった。神はエジプト人にのぞむ最後の刑罰についてパロに警告し、ヘブル人に、家族を自分の家に集めるようにと指示された。ヘブル人はほふられた小羊の血を門柱に塗ると、焼いた小羊の肉を酵母のはいっていないパンや苦菜(にがな)といっしょに食べるのであった。「あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である」(出エジプト12:11)。夜中にエジプト人の長子は全部殺された。「そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、『あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい』」(出エジプト12:31)。ヘブル人は自由な国民としてエジプトから出て行った。神は毎年過越を守るようにお命じになったのだった。「もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」(出エジプト12:26、27)。こうしてこのふしぎな救済の物語は代々くりかえされるのであった。 DA 700.10

過越の祭りのあと、たね入れぬパンの祭礼が7日間つづいた。この祭の2日目に、その年の収穫の初穂である大麦の束が神の前にささげられた。祭の儀式はすべてキリストの働きの型であった。イスラエルがエジプトから救われたことはあがないについての実物教訓で、過越の祭りはそのことをおぼえておくためであった。ほふられた小羊、たね入れぬパン、初穂の束は、救い主を表した。 DA 701.1

キリスト時代の民の大部分にとって、この祭の守りかたは形式的なものに堕落していた。しかし神のみ子キリストには、この祭がどんなにか深い意義をもっていたことだろう。 DA 701.2

子供のイエスは初めて宮をごらんになった。彼は白い衣を身にまとった祭司が厳粛な儀式をとり行っているのをごらんになった。彼はまた、いけにえの祭壇の上の血を流している動物に目をとめられた。香煙が神の前に立ちのぼる中で、イエスは参拝者と共に頭をたれて祈りをささげられた。彼は過越の儀式の印象的な行事をまのあたりにごらんになった。1日ごとに、イエスはそれらの意味をだんだんはっきりさとられた。どの行為もご自身の生涯に結びつけられているように思われた。新しい衝動がイエスのうちに起りつつあった。だまって一心に、イエスは大問題を解いておられるようにみえた。ご自分の使命の奥義がだんだん救い主に開かれた。 DA 701.3

こうした光景について瞑想(めいそう)にふけっておられたので、イエスは両親のそばにおられなかった。彼は1人になりたいとお思いになった。過越の祭りの行事が終ってもイエスはまだ宮の庭にとどまっておられた。そして参拝者たちがエルサレムを出発した時、イエスはあとにお残りになった。 DA 701.4

このエルサレムまいりの時に、イエスの両親は彼をイスラエルのえらい教師たちと接触させたいと望んだ。イエスはこまかい点まで神のみことばに従われたが、ラビの儀式や慣例には従われなかった。ヨセフとマリヤはイエスが学問のあるラビたちを敬い、彼らの要求をもっと忠実に心にとめるようになられることを望んだ。しかし宮でのイエスは神から教えられたのだった。イエスはお受けになったものをすぐに与えはじめられた。 DA 701.5

当時、宮に接続している一室が、預言者の学校の様式にならって、神学校として用いられていた。ここに指導的なラビたちが生徒たちと集まっているところへ子供のイエスがおいでになった。学問のあるこれらのいかめしい人たちの足もとにすわって、イエスは彼らの教えを聞かれた。知恵を求める者として、イエスは預言について、またメシヤの来臨をさし示すものとして当時起こりつつあった諸事件について、この教師たちに質問された。 DA 701.6

イエスはご自身が神の知識を熱望しておられる方であることを示された。イエスの質問は、これまでは つきりしていなかったが、しかし魂の救いにとって不可欠な深遠な真理を暗示していた。イエスの質問はどれも、この学者たちの知恵がどんなに狭くて浅薄なものであるかを示すとともに、彼らの前に天来の教訓を示し、真理について新しい見方をさせた。ラビたちは、メシヤの来臨によってユダヤ国民がすばらしい地位にまで高められると語った。しかしイエスはイザヤの預言を示して、神の小羊の苦難と死とを示している聖句の意味を彼らにおたずねになった。 DA 701.7

博土たちはイエスに向き直って質問し、その答えに驚いた。イエスは子供らしい謙遜(けんそん)さをもって、聖書のことばをくりかえし、学者たちがこれまで考えつきもしなかった深い意味をお示しになった。イエスの示された真理の教えに従っていたら、当時の宗教に改革が行われていたであろう。霊的な事柄に対する深い興味が目覚め、イエスが公生涯をお始めになった時には多くの者がイエスを受け入れる備えができていたであろう。 DA 702.1

ラビたちは、イエスがラビの学校で教育を受けられたことがないのを知っていた。だが預言についてイエスの理解はラビたちよりもはるかにすぐれていた。ラビたちはこの考え深いガリラヤの少年は非常に有望だと思った。彼らはイエスがイスラエルの教師となられるように、自分たちの生徒にしたいと希望した。彼らはこのような独創的な頭脳は自分たちが教育すべきだと感じ、イエスの教育を引き受けたいと望んだ。 DA 702.2

イエスのことばは、これまで人間の口から出ることばによって動かされたことのない彼らの心を感動させた。神はこれらのイスラエルの指導者たちに光を与えようとして、彼らの心を動かすことのできるただ一つの手段をお用いになった。彼らは高慢だったので、人から教えを受けるなどということは冷笑して受けつけなかったであろう。もしイエスが彼らに教えるような態度をされたら、彼らは軽蔑して耳をかたむけなかったであろう。自分たちはイエスに教えているのだ、すくなくともイエスの聖書についての知識をためしているのだと、彼らはうぬぼれていた。イエスの少年らしいつつしみとしとやかさは彼らの偏見をとり除いた。無意識のうちに彼らの心は神のみことばに向かって開かれ、聖霊が彼らの心に語りかけた。 DA 702.3

彼らは、メシヤに関する自分たちの期待が、預言の裏づけのないものであることをみとめないわけにいかなかった。それでもなお彼らは、彼らの野心をよろこばせていた説を捨てようとしなかった。彼らは自分たちが教えるのだと主張していた聖書についてまちがった解釈をしていたことをみとめようとしなかった。この少年は学んだことがないのにどうしてこんな知識があるのだろうと、彼らは口々にたずねた。光は暗黒の中に輝いていた。「そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ1:5)。 DA 702.4

そのあいだヨセフとマリヤは非常に当惑し、困っていた。彼らはエルサレムを出る時にすでにイエスの姿を見失っていたが、イエスがあとに残っておられるとは知らなかった。当時ユダヤの国は八口が多く、ガリラヤからの旅の団体は大変な人数であった。彼らがエルサレムの町を出た時はひどい混雑だった。ヨセフとマリヤは、道中、友だちや知人たちと旅をする楽しさに心を奪われていたので、夜になるまでイエスのおられないことに気がつかなかった。さて休みのために立ちどまって、彼らは子供の手伝いがないのに気がついたが、たぶん友だちと一緒にいるのだろうと思って、何の心配も感じなかった。彼らはイエスのことを、若くても絶対的に信頼していた。そして必要な時には、イエスがいつものように彼らが困っているのを予期して手伝われるものと思っていた。だがこんどは心配になってきた。彼らは道つれの人たちの中を捜しまわったが、イエスはみつからなかった。彼らは、ヘロデがイエスを赤ん坊の時分に殺そうとしたことを思い出して身ぶるいした。彼らの心は暗い予感に満たされた。彼らははげしく自分たちを責めた。 DA 702.5

彼らはエルサレムへ引き返して、捜し続けた。その翌日、宮の参拝者の中にまじっていると、ききなれた声が彼らの注意をとらえた。それはまぎれもなくイエスの声だった。まじめで、熱心で、しかも美しいひびきをもったのはイエスの声よりほかになかった。 DA 702.6

ラビの学校の中で、彼らはイエスを見つけた。大 都はしたものの、彼らは今までの悲しみと心配とを忘れることができなかった。イエスをそばにつれもどすと、母親は、非難のこもったことばで、「どうしてこんなことをしてくれたのです。ごらんなさい。おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」と言った(ルカ2:48)。 DA 702.7

イエスは、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と答えられた。彼らがそのことばをわかりかねるふうだったので、イエスは天の方を指さされた。そのお顔には光があって、彼らは驚嘆した。羅が人性を通して輝いているのであった。宮の中にイエスをみつけ出した時、彼らはイエスとラビたちとの間にかわされていることばをきいて、イエスの質問と答えに驚いた。イエスのことばは決して忘れられない思想を次々と芽ばえさせた。 DA 703.1

また彼らに対するイエスの質問には一つの教訓があった。「わたしが自分の父の家にいるはずのことをご存じなかったのですか」とイエスは言われた。イエスはご自分がこの世においてなすためにおいでになったその働きに従事されたが、しかしヨセフとマリヤは彼らの務めをおろそかにしたのだった。神はそのみ子を彼らに委託されたことによって彼らに高い栄誉をお与えになっていた。聖天使たちはイエスの生命を保つためにヨセフのとるべき道を示した。ところが彼らは、一瞬間も忘れるべきではなかったイエスを、まる1日見失っていたのである。そうしてこの心配から救われると、彼らは自分自身を責めないで、イエスを非難したのであった。 DA 703.2

イエスの両親がイエスを自分自身の子供としてみたのは当然であった。イエスは毎日両親といっしょにおられて、その生活は多くの点でほかの子供たちと同じであったから、両親がイエスを神のみ子として認めることは困難だった。彼らは世のあがない主がおられることによって自分たちに与えられる祝福を認めない恐れがあった。イエスから離れた悲しみと、イエスのことばにこめられていたやさしい誰責とは、彼らにその責任の神聖さを自覚させるためであった。 DA 703.3

母親への答えの中で、イエスは神に対するご自分の関係を理解しておられることを初めて表明された。イエスがお生まれになる前に、天使はマリヤにこう言った、「彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(ルカ1:32、33)。マリヤはこのことばを心に思いめぐらした。彼女は自分の子供がイスラエルのメシヤになられるお方だと信じてはいたが、メシヤの使命を理解していなかった。いま彼女はイエスのことばを理解できなかったが、イエスがヨセフとの血縁関係を否認し、ご自分が神のみ子であることを宣言なさったことを知った。 DA 703.4

イエスは、この世の両親との関係を無視されたのではなかった。彼は両親といっしょにエルサレムから帰って、骨折って働く彼らの生活を手伝われた。イエスはご自分の使命の奥義を自分自身の心にかくし、ご自分の働きを始めるべき定まった時のくるのをおとなしく待たれた。ご自分が神のみ子であることを認めてから18年の間、イエスはナザレの家庭につながるご自分のきずなを認め、息子として、兄弟として、友人として、市民として、その義務をつくされた。 DA 703.5

宮でご自分の使命が示された時、イエスは群衆に接触することをちゅうちょされた。彼はご自分の一生の奥義を知っている人々といっしょにエルサレムからだまって帰りたいと望まれた。神は、過越の祭りを通して、民を世俗の心づかいから解放し、エジプトからの救出に示された神のくすしいみわざを彼らに思い出させようとしておられた。 DA 703.6

神は彼らがこのみわざの中に罪からの救いについての約束を認めるように望まれた。ほふられた小羊の血によってイスラエルの家が守られたように、彼らの魂はキリストの血によって救われるのであった。信仰によってキリストのいのちを自分自身のものとすることによってのみ、彼らはキリストによって救われるのであった。象徴的な儀式は、礼拝者にキリストを個人的な救い主としてさし示す時にのみ価値がある のであった。神は彼らがキリストの使命について、祈りのうちに研究し瞑想するように望まれた。しかし民衆は、エルサレムを出ると、旅と社交の興奮に心を奪われて、目に見てきた儀式を忘れてしまうことがあまりにも多かった。救い主はこうした人たちと道つれになることに心をひかれなかった。 DA 703.7

イエスは、エルサレムからヨセフとマリヤたちとだけいつしょに帰りながら、彼らの心を苦難の救い主に関する預言に向けさせたいとお望みになった。カルバリーで、イエスは母の悲嘆を軽くしようとされた。イエスはいま、彼女のことを考えておられた。マリヤはイエスの最後の苦悶(くもん)を目に見るのであった。そこでイエスは、剣が彼女の魂をさし通した時に彼女がそれに耐えられるように強くするため、彼女にご自分の使命を理解させたいと望まれた。イエスが母から離れ、彼女が悲しみながら3日間イエスをさがしたように、イエスが世の罪のためにささげられる時、彼女はもう1度3日間イエスを失うのである。そしてイエスが墓から出てこられる時、彼女の悲しみはふたたび喜びに変るのである。だがイエスがいま彼女の思いを向けさせようとしておられた聖句を彼女が理解していたら、彼女は、イエスの死についての苦しみにどんなにか強く耐えることができたであろう。 DA 704.1

ヨセフとマリヤが瞑想と祈りとによって心を神にそそいでいたら、彼らは自分たちの責任の神聖さを認め、イエスを見失うようなことはなかったであろう。1日の怠慢によって彼らは救い主を見失った。そして彼を見つけ出すために3日も心配しながら捜さねばならなかった。 DA 704.2

われわれもこれと同じである。われわれはむだ話や悪口や、祈りを怠ることによって、救い主のこ臨在を1日失うかもしれない。すると救い主を見つけ出し、失った平安をとりもどすのに何日間も悲しみながら捜さねばならないかも知れないのである。 DA 704.3

人々との交際において、われわれはイエスを忘れたり、イエスがわれわれといっしょにおられないことに気がつかずに時をすごしたりすることのないように注意しなければならない。世俗的な事物に心を奪われて、われわれの永遠のいのちの望みの中心であるイエスを心に思わなくなれば、われわれはイエスと天使たちから離れてしまうのである。救い主にいていただきたいと思わなかったり、救い主のおられないことに気がつかないようなところに、聖天使たちはとどまることができない。クリスチャンと自称している人々の中にしばしば落胆がみられるのはこのためである。 DA 704.4

多くの者は宗教的な礼拝に出席し、神のみことばによって生気をとりもどし、慰められる。だが瞑想と目をさまして祈ることとを怠るために、彼らはその祝福を失ってしまい、それを受けた前よりももっと欠乏を感ずる。しばしば彼らは神が自分に対して冷酷であると考える。彼らは過失が自分自身にあるとは考えない。イエスから離れることによって、彼らはイエスの臨在の光をしめ出してしまったのである。 DA 704.5

われわれは、キリストの一生について毎日瞑想する時間を持つがよい。イエスの一生の要点を一つ一つとらえ、各場面ことに最後の場面を想像のうちにとらえるべきである。このようにして、われわれのために払われたイエスの大犠牲を心に思いめぐらす時、キリストに対するわれわれの信頼はもっと堅固になり、われわれの愛は目覚めさせられ、われわれはもっと深くキリストの精神を吹きこまれる。もし最後に救われたければ、われわれは十字架のもとで悔い改め、心がくだかれることについて教訓を学ばねばならない。 DA 704.6

人々と交わるときに、われわれはお互いに対して祝福となることができる。もしわれわれがキリストのものなら、キリストについて思うことが一番楽しい思いである。われわれはキリストについて語ることを好む。そしてお互いにキリストの愛について語る時、われわれの心は天来の感化によってやわらげられる。キリストの品性の美しさを見つめることによって、われわれは、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のである(Ⅱコリント3:18)。 DA 704.7