各時代の希望

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第48章 だれがいちばん偉いか

本章はマタイ17:22~27、18:1~20、マルコ9:30~50、ルカ9:46~48に塁つく DA 896.3

イエスは、カペナウムに帰られると、人々をお教えになったあの有名な場所には行かれずに、弟子たちと静かに家へお入りになって、そこを一時の住居とされた。ガリラヤ滞在期間の残りを群衆のために働くよりもむしろ弟子たちを教えることが、イエスの目的であった。 DA 896.4

ガリラヤの旅では、キリストは、弟子たちの心を、ご自分の前にある場面のために備えさせようともう1度試みられた。イエスは、ご自分がエルサレムにのぼって死刑にされ、ふたたびよみがえられることを彼らに語られた、しかもイエスは、ご自分が敵の手に売り渡されるというふしぎで厳粛な知らせをつけ加えられた。弟子たちはいまでもまだイエスのことばがわかっていなかった。大きな悲しみの影が彼らの上に落ちかかったが、彼らの心には競争意識が宿っていた。彼らは王国ではだれが一番えらい者としてみられるだろうかということを互いに論じた。彼らはこの争いをイエスにかくしておこうと思ったので、いつものようにイエスのそばによりつかないで、うしろかりかりぶら歩いて行った。だからカペナウムにはいった時には、イエスが彼らよりも先に歩いておられた。イエスは、弟子たちの心を見抜かれて、彼らに忠告と教えを与えたいと望まれた。しかしイエスは、彼らの心がイエスのみことばを受け入れるように開かれる静かな時間を待たれた。 DA 896.5

彼らが町につくとまもなく、宮の納入金を集める人がペテロのところへやってきて、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」とたずねた(マタイ17:24)。この納入金というのは、市民税ではなく、宗教上の寄付金であって、ユダヤ人はみな宮を維持するために毎年納めねばならないのだった。納入金を納めるのをこばむことは、宮への不忠誠とみなされ ラビたちの見方では、まことに悲しむべき罪であった。ラビの律法に対する救い主の態度と、言い伝えの擁護者たちに対する彼の明らかな非難とは、イエスが宮の奉仕を放棄しようとしておられるという非難の口実を与えた。いまイエスの敵どもはイエスに疑惑を投げかけるチャンスをつかんだ。彼らは納入金を集める人をやすやすと味方にした。 DA 896.6

ペテロは、集金人の質問の中に、宮に対するキリストの忠誠心を問題にするようなほのめかしがあるのを感じた。主の名誉を守ることに熱心なあまり、ペテロはイエスに相談もしないで、イエスは納入金を納められるだろうと、いそいで答えた。 DA 897.1

しかしペテロは、質問者の意図が一部分しかわかっていなかった。納入金を納めることを免除されているある階級の人々がいた。モーセの時代に、レビ人が聖所の奉仕のために区別された時、彼らは民の中に何の嗣業も与えられなかった。主は、「レビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。……主みずからが彼の嗣業」であると言われた(申命記10:9)。キリストの時代になっても、祭司とレビ人は、特に宮にささげられた者とみなされ、宮を維持するために毎年の寄付をする必要はなかった。預言者たちもまたこの支払いを免除されていた。イエスに納入金を要求することによって、ラビたちは、イエスがご自分のことを預言者または教師であると言っておられるのを無視して、イエスを一般の人なみに扱おうとしていたのであった。イエスが納入金を納めることをこばまれると、それは宮への不忠誠とみなされ、一方これを納められると、ラビたちがイエスは預言者ではないと言っていたことが正しかったと受けとられる卿あった。 DA 897.2

ほんのちょっと前に、ペテロはイエスを神のみ子として認めた。だがいま彼は、主がどういうお方であるかを公表する機会を失った。ペテロが、イエスは納入金を納められるだろうと集金人に答えたことによって、彼は祭司や役人たちが言いふらそうとしているイエスについてのあやまった観念を実質的に承認したのであった。 DA 897.3

ペテロが家の中に入って行くと、救い主はいま起こったことにはふれないで、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」とおたずねになった(マタイ17:25)。ペテロは、「ほかの人たちからです」と答えた。するとイエスは「それでは、子は納めなくてもよいわけである」と言われた(マタイ17:26)。国の民衆は、自分たちの王を維持するために税を課せられるが、王自身の子供たちは免除される。同じように、神の民と称しているイスラエルは、神の奉仕を維持することを要求されていた。だが神のみ子イエスには、このような義務はないのであった。祭司たちとレビ人が、宮との関係から、納入金を免除されているのなら、イエスにとって、宮は父の家なのであるから、イエスが納入金を納められる必要はますますなかった。 DA 897.4

もしイエスが、抗議もしないで納入金を納められたら、イエスは、彼らの主張が正当であることを実質的に認めたことになり、そのことによってご自分の神性を否定されたことになっただろう。しかしイエスは、要求に応ずることはよいとされたが、彼らの要求の根拠は否定された。納入金を納める方法を講ずるにあたって、イエスはご自分の神性についての証拠をお与えになった。イエスは神と一つであり、したがって王国の単なる臣民として納入金を納められる義務はないことが明らかにされた。 DA 897.5

イエスはペテロにこうお命じになった。「海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貸1枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」(マタイ17:27)。 DA 897.6

イエスはご自分の神性を人性で包んでおられたが、この奇跡を通してキリストの栄光があらわされた。ダビデを通して、「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである。たといわたしは飢えても、あなたに告げない、世界とその中に満ちるものとはわ セしのものだからである」と宣言されたのはキリストであったことは明らかだった(詩篇50:10~12)。 DA 897.7

イエスは、納入金を納める義務がないことを明らかにされたが、この問題についてユダヤ人と論争を始められなかった。もしそうされたら、彼らはイエスのことばをまちがって解釈し、これをイエスに反対する材料にしただろう。納入金を納めないことによって、彼らを怒らせることがないように、イエスは正当にいえばする必要のないことをされた。この教訓は弟子たちにとって非常に価値のあるものとなるのだった。まもなく宮の奉仕に対する彼らの態度に目立った変化が起ころうとしていた。そこでキリストは、不必要に既定の秩序に反するような立場に立たないようにということをお教えになった。できるだけ彼らは、彼らの信仰をまちがって解釈されるような機会を避けるべきであった。クリスチャンは、真理の原則を一つでも犠牲にしてはならないが、可能な場合にはいつでも、論争を避けるべきである。 DA 898.1

ペテロが海へ行って、家の中はキリストと弟子たちだけだった時、イエスは彼らをみもとに呼んで、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」とおたずねになった(マルコ9:33)。イエスの前でこう質問されると、この問題は、途中で言い争っていた時とは全然異なって考えられるのだった。恥ずかしさと自責の思いで、彼らはだまっていた。イエスは、彼らのために死ぬのだということを語っておられたので、彼らの利己的な野心は、イエスの無我の愛にくらべるときに苦痛に感じられるのだった。 DA 898.2

イエスは、ご自分が死刑にされてふたたびよみがえられることを弟子たちに語られた時、彼らが自分たちの信仰の大きな試練について語り合うようにさせようとされたのであった。もし彼らに、イエスが彼らに知らせたいと望んでおられることを受け入れる用意ができていたら、彼らは激しい苦悩と絶望を味わわずにすんだのであった。離別と失望の時に、イエスのみことばが慰めを与えたのであった。だがイエスが、ご自分を待ち受けている事がらについてはっきり語られたにもかかわらず、まもなくエルサレムへ行くと言われたことから、王国が建てられようとしているのだという望みがもう1度明るくなった。このことから、だれが最高の地位を占めるかということが問題になったのであった。ペテロが海から帰ってくると、弟子たちは救い主の質問のことをペテロに語り、ついに1人が思いきってイエスに、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」とたずねた(マタイ18:1)。 DA 898.3

救い主は弟子たちをまわりに集めて、彼らに言われた、「だれでも一番先になろうと思うならば、一番あとになり、みんなに仕える者とならねばならない」(マルコ9:35)。このことばの中には、弟子たちがとうてい理解することのできない厳粛さと強い印象があった。彼らはキリストが見通しておられたものを見ることができなかった。彼らはキリストの王国の性格がわかっていなかったので、この無知が彼らの論争の表面的な原因であった。だが真の原因はもっと深いところにあった。キリストは、王国の性格を説明することによって、一時は彼らの争いを静めることがおできになったであろう。しかしそれでは、根本にある原因にふれていないのであった。彼らが十分に知った後でもなお、何か優先的な問題が起こると、争いは新たにされるかもしれなかった。そうしたら、キリストがいなくなられたあとに、わざわいが教会に起こったであろう。最高の地位を争うことは、天の世界に大争闘をひき起こしてキリストを死ぬために天からくだらせたその同じ精神の働きであった。「黎明(れいめい)の子」ルシフアーが、み座をとりまき、神のみ子と密接なきずなでむすばれていたすべての天使にまさる栄光につつまれていた光景が、イエスの前に浮かんだ(イザヤ14:12)。ルシフアーは、「いと高き者のようになろう」と言った(イザヤ14:14)。自分を高めようとするこの望みから、天の宮に争いが生じ、1群の天使たちが追われたのであった。もしルシファーが、ほんとうにいと高き神に似る者になろうと望んだのだったら、彼は決して天における自分の定められた地位を捨てなかったであろう。なぜなら、いと高き神の精神は、無我の奉仕のうちにあらわされるからである。ルシファーは、神のご品性を望ん だのではなくて、神の権力を望んだのであった、彼は自分のために最高の地位を求めたが、彼の精神に動かされる者はだれでもみなこれと同じことをするのである。こうして離反、不一致、争いは避けられないものとなる。支配権は最も強い者のほうびとなる。サタンの王国は暴力の王国であって、各人は互いに相手を自分自身の昇進の道におけるじゃま物とみなすか、あるいは自分がもっと高い地位へのぼるための踏み石とみなすのである。 DA 898.4

ルシファーは、自分が神と同等になることを「固守すべき事」とみなしたが、高い地位におられたキリストは、「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならずおのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6~8)。いま、十字架はちょうどキリストの前にあった。ところがキリストご自身の弟子たちは、サタンの王国の原則である利己主義で心が一杯になっているので、主と同じ気持になることもできなければ、あるいは主が彼らのために屈辱を受けられることを話されてもそれを理解することさえできなかった。 DA 899.1

イエスはやさしくしかし厳粛に強調しながら、この悪を正そうとされた。イエスは天の王国を支配している原則は何であるか、また天の宮の標準によって評価される時、真の偉大さは何であるかをお示しになった。誇りと権勢欲に動かされている者は自分自身のことしか考えずまた自分が受けた賜物を神にお返しすることよりも、自分が受けるはずの報酬のことしか考えなかった。彼らはサタンの仲間といっしょになったのだから、天の王国に入る余地がないのであった。 DA 899.2

栄誉の前に謙遜がある。人の前で高い地位を占めさせるために、天は、バプテスマのヨハネのように、神の前に低い地位を占めている働き人をお選びになる。最も子供のような弟子が、神のための働きにおいて最も有能な者である。天使たちは、自分がえらくなろうとする者とではなく、魂を救おうとする者と協力することができる。神の助けの必要を最も深く感ずる者が、その助けを嘆願する時、聖霊は、イエスを一目見させて、その魂を力づけ、高めてくださる。彼はキリストとのまじわりから出て行って、罪のうちに滅びつつある人々のために働く。彼は使命のために油をそそがれる。そして学問があって、知的に賢明な人たちの多くが失敗する時に、彼は成功するのである。 DA 899.3

しかし人が高慢になって、自分は神の大計画の成功に必要な人間だと思ったら、主は彼らをとり除かれる。そして主が彼らをあてにしておられないことが明らかにされる。彼らが離れたからといって働きがとまってしまうようなことはなく、それはもっと大きな力をもって前進する。 DA 899.4

イエスの弟子たちは、キリストの王国の性格について教えられただけでは十分でなかった。彼らにとって必要だったことは、王国の原則と一致するようになる心の変化であった。イエスは小さな子供をお呼びになって、彼らのまん中に立たせ、それからやさしくその子を腕の中にいだき、「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」と言われた(マタイ18:3)。幼な子の単純さと、私心のなさと、信じきった愛情は、天の神がとうとぼれる特性である。これこそ真の偉大さの特徴である。 DA 899.5

ふたたびイエスは、ご自分の王国の特徴は世俗的な威厳と見せびらかしではないことを弟子たちに説明された。イエスのみもとでは、こうした区別は忘れられる。金持ちも貧しい者も、学問のある者も無知な者も、社会的な地位や世俗的な優越など心にとめないで融和する。だれでもみな血で買われた魂、あがなって神のみもとへ戻してくださったお方に一様によりたのんでいる者としてまじわるのである。 DA 899.6

罪を深く悔い改めたまじめな魂は、神の御目にとうとい。神は、地位によらず、富によらず知的な偉大さによらずただキリストと一つであることによって、人々にご自身の印をおされる。栄光の主は、柔和で心のへりくだった者に満足される。ダビデは、「あなたはその救いの盾をわたしに与え、」またあなたの「へりくだり」(文語訳)は、——人間の品性における一 つの要素として——「わたしを大いなる者とされました」と言った(詩篇18:35)。 DA 899.7

「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」と、イエスは言われた(マルコ9:37)。 DA 900.1

「主はこう言われる、『天はわが位、地はわが足台である。……しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である』」(イザヤ66:1、2)。 DA 900.2

救い主のことばは、弟子たちのうちに自信のない思いを生じさせた。特にだれに答えるようにと命じられなかったが、ヨハネはある一つの出来事において自分の行為が正しかったかどうかをたずねてみる気になった。子供のような心になって、彼はその問題をイエスの前に持ち出した。「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」(マルコ9:38)。 DA 900.3

ヤコブとヨハネは、この男をとめたのは主の名誉を念頭においたからであると思っていた。しかし彼らは、自分自身の名誉を求めていたのだということがわかり始めた。彼らは、自分たちの過失を認め、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない」とのイエスの譴責を受け入れた(マルコ9:39)。何かの方法でキリストに親しい態度を示す者はだれもこばんではならなかった。キリストの品性と働きに深く心を動かされ、信仰のうちにキリストに向かって心を開こうとしている人たちが多くいた。そこで弟子たちは、動機を読みとることができないのだから、こうした魂を落胆させないように注意しなければならなかった。イエスが自ら彼らの中におられなくなって、働きが彼らの手にまかされた時、彼らは、狭い、排他的な精神をほしいままにしないで、彼らが主のうちに見たのと同じ広範囲の同情をあらわさねばならない。 DA 900.4

人がわれわれ自身の理想や意見に全面的に一致しないからといって、その人が神のために働くことを禁じることは正当ではない。キリストは偉大な教師であられる。われわれはさばいたり、命令したりしないで、おのおのけんそんにイエスの足下にすわり、彼について学ばねばならない。神が心を開かれた魂はみな、キリストがご自分のゆるしの愛をあらわされるチャンネルである。神の光をかかげている人たちの1人を落胆させ、そのことによって神が世に輝かそうと望んでおられる光をさえぎるようなことがないように、われわれはどんなにか気をつけねばならないことだろう。 DA 900.5

キリストが引きよせておられる人に対して1人の弟子が示した苛酷さと冷淡さは、——すなわち、キリストの名によって奇跡を行っていた人をヨハネが禁止したような行為、——その人の足を敵の道に向けさせ、その魂が失われる結果になるかも知れない。そうするよりも「大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる」とイエスは言われた(マタイ18:6)。そしてさらにイエスはこうつけ加えられた。「もし、あなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろったままで地獄の消えない火の中に落ち込むよりは、かたわになって命に入る方がよい。……もし、あなたの片足が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろったままで地獄に投げ入れられるよりは、片足で命に入る方がよい」(マルコ9:43、45)。 DA 900.6

これ以上強いことばがないほどの強さで、この真剣なことばが語られたのはなぜだろうか。それは、「人の子は、滅びる者を救うために」こられたからである(マタイ18:11)。キリストの弟子たちは、同胞の魂に対して、天の君が示されたよりも低い関心を示してよいだろうか。どの魂にも無限の価が払われているのである。1人の魂をキリストから離れさせ、その結果、救い主の愛と屈辱と苦悩とがむだになるとは、何という恐ろしい罪であろう。 DA 900.7

「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。 罪の誘惑は必ず来る」(マタイ18:7)。世は、サタンにそそのかされて、必ずキリストに従う者たちに反対し、彼らの信仰を破壊しようとする。だがキリストの名を帯びながら、しかもこのようなわざをしている者はわざわいである。主に仕えると口では言いながら、主のご品性についてあやまった印象を与える者たちによって、主ははずかしめられる。そして多くの人々はあざむかれ、まちがった道へみちびかれるのである。 DA 900.8

罪にいたらせ、キリストの栄えをけがす習慣や行為は、どんな犠牲を払ってもとり除くがよい。神の栄えをけがすものは、魂を益することはできない。天の祝福は、正義についての永遠の原則を犯している人に伴うことができない。心に宿っているたった一つの罪でも、それは品性を堕落させ、他人を誤った方向へみちびくのに十分である。肉体を死から救うためには、足や手を切り落し、あるいは目さえくりぬかねばならないとしたら、魂を死にいたらせる罪をとり除くために、われわれはどんなにかもっと熱心にならねばならないことだろう。 DA 901.1

儀式においては、どのいけにえにも塩が加えられた。これは、香をささげるのと同じに、キリストの義だけが奉仕を神に受け入れられるものとすることを意味した。この習慣にふれて、イエスは、「すべての供え物は塩をもて塩つけらる」(マルコ9:49・元訳)。「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」と言われた(マルコ9:50)。わが身を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」としてささげる者は、救いの塩すなわち救い主の義を受け入れねばならない(ローマ12:1)。その時彼らは、ちょうど塩が腐敗を防ぐように、「地の塩」となって人々の悪を防止するのである(マタイ5:13)。しかし、もし塩のききめがなくなったら、すなわち口さきだけの敬虔で、キリストの愛がなかったら、そこにはよいことのために何の力もない。その生活は、世の人たちに救いの感化を及ぼすことができない。わたしの王国を築くためのあなたの精力と能力とは、あなたがわたしの霊を受け入れることにかかっていると、イエスは言われる。あなたは、生命から生命へいたるかおりとなるためにわたしの恵みにあずかる者とならねばならない。そのとき、競争心もなければ、利己心もなく、また最高の地位を望む心もなくなるのである。そしてあなたは「自分の益を求めないで、ほかの人の益を求める」愛を持つようになるのである(Ⅰコリント10:24)。 DA 901.2

悔い改める罪人に、「世の罪を取り除く神の小羊」に目をそそがせなさい(ヨハネ1:29)。見ることによって彼は変えられる。彼の不安は喜びにかわり、疑いは望みにかわる。感謝の思いがわきあがる。石の心がくだかれる。愛の潮流が魂に流れこむ。キリストは彼のうちにあってわきあがって永遠のいのちにいたる水の泉となられる。悲しみの人で、病を知っておられたイエスが、失われた者を救うために、軽蔑され、侮辱され、嘲笑され、町から町へ追われながら働かれ、ついに使命を達成されたのを見る時、イエスがゲッセマネで大粒の血の汗を流し、十字架上で苦しみのうちに死なれたのを見る時、——われわれがこうしたことを見る時に、自分を認めてもらいたいという欲求の叫びは、もはやなくなる。イエスを見上げて、われわれは、自分自身の冷淡さ、無気力、利己心を恥じる。われわれは、主に心から奉仕することができさえすれば、何になってもよいし、あるいは何にもならなくてもよいのである。われわれは、主のためなら、イエスにならって十字架を負い、試練と恥と迫害に耐えることをよろこぶのである。 DA 901.3

「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」(ローマ15:1)。どんな魂でも、信仰が弱く、幼い子供のように足がよろめいても、キリストを信じている限り、軽く評価されることはない。われわれに他人よりも有利な点があったら、それが教育であろうと教養であろうと、高潔な品性であろうと、クリスチャンとしての訓練であろうと、宗教経験であろうと、われわれは、われわれよりも恵まれていない人々にそれだけ負債があるのであって、力の及ぶかぎり、そうした人々に奉仕すべきである。もしわれわれが強い者 であったら、弱い者の手をささえねばならない。栄光の天使たちは、天においていつも天父のみ顔を仰いでいるが、神の子供たちに奉仕することをよろこぶ。天使たちは特に、品性に多くの好ましくない傾向があるためにおののいている魂を見守っている。天使は、最も必要とされる場所におり、また自己と最も困難な戦いをたたかい、最も落胆させられるような境遇のうちにある人々といっしょにいる。そしてキリストに真に従う者は、この奉仕において協力するのである。 DA 901.4

もしこうした小さな者たちの1人が敗北し、あなたに対して悪いことをするならば、その時彼を立ち直らせることがあなたの働きである。先方から和解してくるのを待ってはならない。イエスはこう言われた、「あなたがたはどう思うか。ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる99匹のためよりも、むしろその1匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない」(マタイ18:12~14)。 DA 902.1

「自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省」しながら、柔和な心をもって、あやまちを犯している人のところへ行き、「彼とふたりだけの所で忠告しなさい」(ガラテヤ6:1、マタイ18:15)。彼の過失を他の人たちにばくろして彼に恥をかかせたり、キリストのみ名を称している人の罪や過失を公表してキリストの栄えをけがすようなことがあってはならない。過失を犯している者に事実をはっきり告げなくてはならない場合がしばしばある。彼を改心させるためには、その過失を認めさせねばならない。しかしあなたは批判したり、非難したりしてはならない。魂の傷をとり扱うには、最も神経の行き届いた接触と、こまかい感情とが必要である。カルバリーで苦難を受けられたお方から出ている愛だけがこれに役立つのである。もしうまく行けば、「そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおう」ことができるということをおぼえて、やさしい憐れみの思いをもって、兄弟と兄弟の間で解決しなさい(ヤコブ5:20)。 DA 902.2

しかしこうした努力さえ役に立たないことがある。そうしたら、「ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい」とイエスは言われた(マタイ18:16)。これらの人たちの力を合わせれば、最初の人の力では成功しなかったところに、勝利が得られるかも知れない。彼らは問題の当事者ではないので、公平に行動しやすい。この点彼らの忠告は、過失を犯している者にとって一層大きなききめがある。 DA 902.3

もしその人が、彼らの言うことをきかなければ、その時はじめて、問題を信者全体の前に持ち出すべきである。教会員は、過失を犯している者が立ち直るように、キリストの代表者として心を合わせて祈り、愛情をもって嘆願しなければならない。聖霊は、しもべたちを通して語り、さまよっている者に神に帰るように訴える。使徒パウロは、聖霊によって語り、「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、……そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい」と言っている(Ⅱコリント5:20)。この共同の申し入れをこばむ者は、自分とキリストとをつないでいるきずなをたち切り、教会のまじわりから離れたのである。だから、イエスは、「その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」と言われた(マタイ18:17)。しかし彼を神の慈悲から断たれたものとみなしてはならない。以前の兄弟たちは、彼を軽蔑したり、無視したりしないで、キリストがご自分の檻(おり)に入れようといまだに努力しておられる失われた羊として、彼をやさしく同情をもってとり扱わねばならない。 DA 902.4

過失を犯した者のとり扱いについてのキリストの教えは、モーセを通してイスラエルに与えられた教えをもっと具体的にくりかえしたものである。「あなたは心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろにいさめて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない」(レビ19:17)。すなわち過失や罪を犯している人を改心させるようにとキリストがお命じになった義務をおこたる者は、共にその罪にあずかるというの である。阻止できたかも知れない悪については、われわれ自身がその行為に罪があるかのようにわれわれに責任があるのである。 DA 902.5

しかしわれわれが悪を示すのは、その悪を行った本人に対してである。われわれは、自分たちの間で、それを論議や批判の材料にしてはならない。それが教会に発表されたあとであっても、われわれはそれを他人にくりかえす自由はない。クリスチャンの非行が知られることは、未信者の世界につまずきを与えるだけである。また、われわれ自身もこうしたことにいつまでもかかわりあっていると害を受けるだけである。なぜなら、見ることによってわれわれも変えられるからである。われわれが1人の兄弟のあやまちをなおそうとする時、キリストのみたまはできるだけその兄弟を兄弟たちの批判からさえ守るように、ましてや未信者の世界の非難から兄弟を守るようにわれわれをみちびかれる。われわれ自身あやまちを犯しがちで、キリストの憐れみとゆるしが必要である。われわれがキリストにわれわれをとり扱っていただきたいと望む通りに、われわれもお互いをとり扱うようにと、キリストは命じておられる。 DA 903.1

「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ18:18)。あなたがたは天の大使として行動しているのであって、あなたがたの働きの結果は永遠に続くのである。 DA 903.2

しかしわれわれは、この大きな責任を1人で負っているのではない。キリストのみことばに真心から従うところにはどこでもキリストが住まれる。キリストは、教会の集会の中におられるだけでなく、どんなに小人数でも、弟子たちがキリストのみ名によって集まるところにおられる。キリストは、「もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」と言われる(マタイ18:19)。 DA 903.3

イエスは、「天にいますわたしの父」と言われることによって、ご自分が人性によって弟子たちと試練を共にする者として彼らにつながっておられ、また弟子たちの苦難に同情しておられると同時に、神性によって限りない神のみ座につながっておられることを、彼らに気づかせられる。何というすばらしい保証であろう。天使たちは失われた者を救うために人間と同じ心になってほねおっている。こうして、魂をキリストに引きよせるために、天のすべての力が人間の能力と結合させられるのである。 DA 903.4