各時代の希望

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第49章 仮庵 かりいお の祭り

本章はヨハネ7:1~15、37~39に基づく DA 903.5

ユダヤ人は1年に3回、宗教上の目的のためにエルサレムに集まるように要求されていた。雲の柱におおいかくされた中から、イスラエルの目に見えない指導者キリストが、こうした集会について指示をお与えになったのであった。ユダヤ人の捕囚のあいだは、そうした集会を開くことはできなかったが、民が故国に帰った時、こうした記念行事の遵守がもう1度始まった。こうした記念祭によって、民が心に神を思い起こすようにというのが神のご計画であった。しかし少数の例外を除いて、祭司や国民の指導者たちは、この目的を見失っていた。こうした国民的な集りを定め、その意義を理解しておられたキリストは、それがゆがめられているのをごらんになった。 DA 903.6

仮庵の祭りは1年の最後の集会であった。この時に民が神の恵みと憐れみとを反映するようにというのが神のご計画であった。全地は神のみちびきの下にあって、その祝福を受けていた。昼も夜も、神の見守りがつづいた。太陽と雨が地に産物を生じさせた。パレスチナの谷と野から、収穫が集められた。オリーブの実をもいで、貴重な油がびんに貯えられた。なつめやしは収穫を生じた。紫色のぶどうの房は酒ぶねの中で踏まれた。 DA 903.7

祭りは7日間つづき、その祝いのために、パレスチナの住民は、ほかの国々からやってきた多くの人たちとともに、家を離れてエルサレムへやってきた。遠くから近くから、人々は、手に喜びのしるしをたずさえてやってきた。老人も若者も、金持ちも貧しい者もみな、恵みをもって年の冠とし、その道にあぶらをしたたらせてくださった神への感謝の贈り物として、何か献げ物を持参した(詩篇65:11参照)。見た目に美しく、国をあげての喜びをあらわすようなあらゆるものが森から持ってこられて、都は美しい森林のように見えた。 DA 904.1

この祭りは、収穫の感謝だけでなく、神が荒野のイスラエル人を守ってくださった記念でもあった。彼らの天幕生活を記念して、イスラエル人は、この祭りの間中緑の木の枝でつくった仮小屋に住んだ。こうした仮小屋が町の通りや、宮の庭や屋上などに造られた。エルサレムの周囲の山や谷にも、こうした木の葉の茂った住居がちらばっていて、人々でにぎやかにみえた。 DA 904.2

礼拝者たちは、聖歌と感謝の祈りでこの祭りを祝った。祭りの少し前に、贖罪(しょくざい)の日があった。この時に、民は罪を告白したのち天とやわらいだことを宣告された。このようにして、祭りを喜び楽しむために道が備えられた。「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」との歌声が誇らしげにわきあがると、あらゆる種類の音楽が、ホサナの叫びにまじって、声をそろえてうたわれるこの歌の伴奏をするのであった(詩篇106:1)。宮はこの全国的なよろこびの中心であった。ここではいけにえをささげる儀式が盛大に行われた。ここではまたレビ人の合唱隊が聖なる建物の白い大理石の石段の両側に整列して、賛美歌礼拝を指導した。礼拝者たちの群れは、しゅろや、てんにんかの枝を振りながらその調べに和し、合唱をひびかせた。するとその歌の調べにふたたび遠くや近くの歌声が和し、ついにはまわりの山々が、賛美の歌声にひびきわたるのであった。 DA 904.3

夜になると、宮とその庭にはともし火があかあかとともった。音楽、打ち振られるしゅろの枝、ホサナの歓声、大群衆の流れ、その人々の上を照しているつりランプの光、祭司たちの盛装、儀式の荘厳さなどが一つになって、その光景は、見る者に深い印象を与えた。しかしこの祭りの中で、最も印象的な儀式で、しかもまた最も大きな喜びを呼び起こしたものは、荒野に滞在していた時の一つの出来事を記念する儀式であった。 DA 904.4

初日の夜明けに、祭司たちが銀のラッパで長く鋭い音と、これに応ずるラッパを吹き鳴らすと、仮小屋から人々の歓喜の叫びが、丘を越え谷を渡ってひびき渡り、祭りの日を歓迎した。次に祭司は、ケデロン川の流れから1びんの水をくみとってそれを高くかかげ、ラッパの鳴り渡る中を、音楽にあわせてゆっくりと歩調をとり、その間に「エルサレムよ、われらの足はあなたの門のうちに立っている」と詠唱しながら、宮の広い石段をのぼって行った(詩篇122:2)。 DA 904.5

祭司は、その1びんの水を、祭司の庭の中央にある祭壇のところへ持って行った。ここには銀の水盤が二つあって、その各々のそばに祭司が立っていた。その1びんの水は一方の水盤にそそがれ、もう一つの水盤には1びんの酒がそそがれた。両方の水盤の中味は、ケデロン川につながっている管を通って、死海に流れ込むようになっていた。この奉納された水は、神のご命令によって岩からほとばしり出てイスラエルの民のかわきをいやした泉を象徴していた。すると「主なる神はわが力、わが歌」「あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ」との歓喜の歌がわき起った(イザヤ12:2、3)。 DA 904.6

ヨセフの息子たちは、仮庵の祭りに出る用意をしている時、キリストの様子に祭りに出られる無配がないことに気がついた。彼らは心配しながらイエスを見守っていた。ベテスダで病人をいやされてから、イエスは、国民的な集りに出ておられなかった。エルサレムの指導者たちとの無用なまさつを避けるために、イエスはご自分の働きをガリラヤに限っておられた。イエスが大事な宗教的な集りを無視しておられるようにみえることと、祭司たちとラビたちがイエスに敵意を示していることとが、イエスの周囲の人々や、イ エスご自身の弟子たちと肉親の者たちにとってさえ、当惑の種であった。イエスは、神の律法に従うことが祝福であるということをこんこんとお教えになったが、ご自身は神がお定めになった奉仕に無関心であるようにみえた。取税人やそのほか評判のよくない人たちとまじわったり、ラビの慣習を無視したり、安息日に関する伝統的な規則を勝手に破ったりなど、すべてのことがイエスを宗教界の当局と敵対的な立場に立たせているようにみえ、多くの疑問をひき起こした。イエスの兄弟たちは、イエスが国のえらい、学問のある人たちから遠ざかっておられることはまちがいだと思った。彼らは、この人たちが正しいにちがいない、そしてイエスがそうした人たちと敵対的な立場にあることはまちがいだと思った。しかし彼らは、イエスの欠点のない生活を目に見、弟子たちの仲間ではなかったが、そのみわざに深く感動していた。イエスがガリラヤで人気のあることが、彼らの野心を満足させていた。彼らは、イエスが自ら主張される通りのお方であることをパリサイ人たちにわからせるような権力の証拠を示されるようにとまだ望んでいた。イエスがイスラエルの君、メシヤだとしたらどうだろう。彼らは誇らしい満足をもってこの考えをいだいていた。 DA 904.7

彼らは、このことについて非常に熱心だったので、キリストにエルサレムに行かれるようにとしきりにすすめた。彼らは、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。自分を公にあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言った(ヨハネ7:3、4)。この終わりのことばには疑いと不信が表わされていた。彼らは、イエスが臆病で弱気であるとみていた。もしイエスが、自分はメシヤであるということを知っておられるのだったら、こんなに妙に引込んでばかりいて活動されないのはなぜだろう。もしほんとうにそんな権力を持っておられるのだったら、なぜ大胆にエルサレムへ行って、ご自分の資格を主張されないのだろう。ガリラヤでうわさになっているようなふしぎなわざをエルサレムで行ったらどうだろう。片いなかにかくれて、無知な百姓や漁師のためにあなたの偉大なわざを行っていないで、首都に姿を現わして、祭司たちと役人たちの支持を受け、国民を結合して新しい王国を建てなさいと彼らは言った。 DA 905.1

イエスの兄弟たちは、見せびらかしの野心を持っている人たちの心にしばしばみられる利己的な動機から推論した。この精神は世の人々の支配的な精神であった。彼らは、キリストが、この世の王座を求めないで、ご自分が生命のパンであると宣言されたので、腹を立てた。イエスの多くの弟子たちがイエスを捨てた時、彼らは非常に失望した。彼ら自身もまた、イエスのみわざにあらわされていること、すなわちイエスが神からつかわされたお方であるということを認める重荷からのがれるために、イエスから離れた。 DA 905.2

「そこでイエスは彼らに言われた、『わたしの時はまだきていない。しかし、あなたがたの時はいつも備わっている。世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである。あなたがたこそ祭に行きなさい。わたしはこの祭には行かない。わたしの時はまだ満ちていないから』。彼らにこう言って、イエスはガリラヤにとどまっておられた」(ヨハネ7:6~9)。イエスの兄弟たちは、イエスの歩まれる道を規定して、権威のある調子でイエスに語った。イエスは、彼らの非難を投げ返し、彼らを自己犠牲的なイエスの弟子たちと同類にしないで、世の人々と同類にされた。「世はあなたがたを憎み得ないが、わたしを憎んでいる。わたしが世のおこないの悪いことを、あかししているからである」とイエスは言われた(ヨハネ7:7)。世は、その精神において世と同じである者を憎まない。世はそういう人たちを世のものとして愛するのである。 DA 905.3

キリストにとって、世は安楽と自己発展の場所ではなかった。キリストは世の権力とその栄光とをつかむ機会をねらっておられなかった。世はこのようなほうびをキリストに提供しなかった。世は、天父がキリストをおつかわしになった場所であった。イエスは、 世の人々のいのちのために、あがないの大いなる計画を遂行するために、与えられたのであった。イエスは堕落した人類のためにご自分の働きを完成しようとしておられた。だがイエスは、出しゃばったり、危険の中にとびこんだり、危機を早めたりされないのであった。キリストの働きの中の一つひとつの出来事には、時が定まっていた。イエスは忍耐強く待たれねばならなかった。イエスは、ご自分が世の憎しみを受けることを知っておられた。ご自分の働きの結果、ご自分が死なねばならないこともわかっておられた。しかし早まって、身を危険にさらすことは、天父のみこころではないのであった。 DA 905.4

キリストの奇跡のうわさは、エルサレムから、ユダヤ人の離散しているところへはどこへでもひろがっていた。イエスは、何か月ものあいだ祭りに出られなかったが、それでもイエスに対する関心はうすれていなかった。世界の各地から、多くの人々が、イエスを見たいという希望をもって、仮庵の祭りにやってきた。祭りの初めに、多くの者がイエスのことをたずねた。パリサイ人たちと役人たちは、イエスを罪に定める機会をみつけたいと望んで、イエスがこられるのを待った。彼らは心配しながら、「彼はどこにいるか」とたずねたが、だれも知らなかった。すべての人の心は、イエスについての思いで占められていた。祭司たちと役人たちを恐れたために、だれもあえてイエスをメシヤとして承認しようとはしなかったが、いたるところで、イエスについて、静かで熱心な議論が聞かれた。多くの者は、イエスを神からつかわされたお方として弁護したが、一方他の者たちは民衆をあざむく者としてイエスを攻撃した。 DA 906.1

とかくするうちに、イエスはこっそりエルサレムに到着しておられた。イエスは、四方から都をめざして進んでいる旅人たちを避けるために、めったに人の通らない道をえらばれたのだった。もしイエスが祭りに行く旅人の隊に加わっておられたら、都に入られる時に人々の注意がイエスに向けられ、イエスに共鳴する民衆のデモのために、イエスに対する当局の反対が起こったであろう。イエスが1人で旅をされたのは、そうしたことを避けるためであった。 DA 906.2

祭りのなかばに、イエスについての興奮が最高潮に達した時、イエスは群衆の目の前で、宮の庭に入られた。イエスが祭りに出られなかったので、イエスは祭司たちと役人たちの権力を恐れているのだと言われていた。人々はみなイエスが姿を現わされたのに驚いた。だれもが声をひそめた。自分の生命をねらっている強力な敵の真っ只中におけるイエスの態度の威厳と勇気とを見て、みんなは感嘆した。 DA 906.3

この大群衆の注目のまととなって、イエスは誰もかつてしたことがないような演説をされた。彼のことばには、イスラエルの律法と制度、またいけにえの儀式や預言者の教えについて、祭司たちやラビたちよりもはるかにすぐれた知識が示された。彼は形式主義と言い伝えの壁を打ち破られた。来世の光景がイエスの前にくりひろげられたようにみえた。目に見えない神を見たお方として、イエスは地上のこと天上のこと、人間のこと、神のことについて、絶対の権威をもって語られた。イエスのみことばは非常にはっきりしていて、人々の心をなっとくさせた。人々は、カベナウムで驚いたように、ふたたびイエスの教えに驚いた。なぜなら「その言葉に権威があった」からである(ルカ4:32)。イエスは、いろいろな表現を用いて、ご自分が与えるためにこられた祝福をこばむすべての人々に臨むわざわいについて聴衆に警告された。イエスは、ご自分が神のみもとからこられたというあらゆる証拠を示し、彼らを悔い改めにみちびくためにできるかぎりのあらゆる努力を払われた。もしイエスが、そのような不義の行為を彼らにさせないようにおできになるなら、彼はご自分の国民からこばまれ、殺害されることはないであろう。 DA 906.4

みんなは律法と預言についてのイエスの知識こ驚いた。人々は、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」と口々に質問した(ヨハネ7:15)。ラビの学校で学んだ者でなければだれも宗教教師の資格があるものとみなされなかった。イエスとバプテスマのヨハネは、この教育を受けていなかったので、無学の者といわれて いた。イエスとバプテスマのヨハネの教えを聞いた者たちは、2人が「学問をしたこともないのに、」聖書の知識があることに驚いた。なるほど彼らは、人からは学ばなかったが、天の神が彼らの教師であって、彼らは神から最高の知恵を受けたのであった。 DA 906.5

イエスが宮の庭で語られると、人々はうっとりとなった。イエスに最も激しく反対している者さえ、イエスに害を加える力がないことを感じた。その時は、ほかのすべての利害が忘れられた。 DA 907.1

来る日も来る日も、イエスは、最後の「祭の終りの大事な日」まで、人々に教えられた(ヨハネ7:37)。この日の朝になると、人々は長い期間の祭りに疲れをおぼえた。その時突然、イエスは、宮の庭にひびき渡るような調子で、声を張りあげて言われた。 DA 907.2

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」(ヨハネ7:37、38)。人々の状態がこの訴えを力強いものとした。彼らは次々とくりひろげられる盛んな儀式とお祭りの場面に参加し、その目は光と色彩にくらみ、その耳ははなやかな音楽をたのしんだが、この儀式の中には始めから終りまで、精神的な欲求に応ずるものや、不滅なものに対する魂のかわきを満たしてくれるものは何一つなかった。イエスは、いのちの水の泉にきて飲むようにと彼らを招かれた。それは彼らのうちにあって水の井戸となり、わきあがって永遠のいのちにいたるのであった。 DA 907.3

その朝、祭司は、荒野で岩を打ったことを記念する行事をとりおこなった。その岩は、ご自分の死によって、かわいているすべての者に向かって救いの生ける水を流れさせてくださるキリストの象徴であった。キリストのみことばは生命の水であった。集まった群衆の目の前で、キリストは、生命の水が世に流れ出るように打たれるためにご自分を聖別された。サタンは、キリストを打つことによって、いのちの君を滅ぼそうと思ったが、打たれた岩からは生ける水が流れ出た。イエスがこのように人々に語られた時、彼らの心はふしぎなおそれにうちふるえ、多くの者は、サマリヤの女のように、いまにも「わたしがかわくことがな……いように、その水をわたしに下さい」と叫びそうになった(ヨハネ4:15)。 DA 907.4

イエスは魂の欲求を知っておられた。はなやかさや富や名声は心を満足させることができない。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7:37)。金持ちも貧しい者も、身分の高い者も低い者もみな一様に歓迎される。イエスは、重荷を負った心を助け、悲しむ者を慰め、落胆した者に望みを与えると約束しておられる。イエスのみことばを聞いた者の中には、望みを失って嘆いている者や、ひそかな悲しみを心にいだいている者や、やむことのない心のあこがれを世俗の事物と人々の称賛によって満たそうとしている者が多かった。 DA 907.5

だが彼らは、これらのものをすべて手に入れた時、自分のほねおりによって到達したものはかわきをいやすことのできないこわれた水槽にすぎないことを知った。はなやかな歓喜の光景のさなかに、彼らは不満と悲しみのうちに立っていた。「だれでもかわく者は」というその突然の叫びが、彼らを悲しい思いから呼びさました。そしてそれにつづくことばを聞いた時、彼らの心には新しい望みの火がともった。聖霊は彼らの前に象徴を示されたが、ついに彼らはその中に無限の価をもった救いの賜物が提供されているのに気がついた。 DA 907.6

かわいた魂に対するキリストの叫びはいまもなお出されており、それはあの祭りの最後の日に宮で聞いた人々に対するよりももっと強い力でわれわれに訴えている。泉はすべての人のために開かれている。疲れ果てた人々に、清新な力を与える永遠の生命の水が提供されている。イエスはいまもこう叫んでおられる。「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」。「かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」。「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ7:37、黙示録22:17、ヨハネ4:14)。 DA 907.7