各時代の希望

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第47章 奉仕

本章はマタイ17:9~21、マルコ9:9~29、ルカ9:37~45に基づく DA 893.3

山の中で丸一晩が過ぎた。太陽がのぼると、イエスは弟子たちと平地へくだって行かれた。弟子たちは、もの思いにふけり、おそれ多い思いでだまっていた。ペテロでさえ一言もしゃべらなかった。天の光に照され、神のみ子がご自分の栄光をあらわされたあの聖なる場所に彼らはよろこんでいつまでもいたかったが、人々のためにしなければならない働きがあった。彼らはすでにイエスを求めて遠いところや近いところをさがしていた。 DA 893.4

山のふもとには大勢の人々が集まっていた。あとに残っていた弟子たちは、イエスがどこへ行かれたかを知っていたので、人々をそこへつれてきた。救い主賊近づいてこられると、3人の弟子たちに、彼らが目撃したことについてだまっているように命じて、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と言われた(マタイ17:9)。弟子たちにあらわされた啓示は、彼ら自身の心の中でよく考えるべきものであって、外へ向かって発表すべきものではなかった。それを群衆にしゃべったら、嘲笑やつまらない驚きをひき起こすだけであろう。9人の弟子たちでさえ、キリストが死人の中幅よみがえられるまでは、その光景を理解できないのであった。愛された3人の弟子たちでさえ、どんなに理解がにぶかったかということは、キリストが目の前に迫っていることについてすっかり話されたにもかかわらず、死からよみがえるとはどういうことだろうかと互にたずね合ったことにあらわれている。それでも彼らは、イエスに説明を求めなかった。将来についてのイエスのみことばは、彼らの心を悲しみで満たした。彼らがそういうことは決して起こらないようにと信じたがっていることについて、彼らはもうこれ以上示されることを求めなかった。 DA 893.5

平地にいた人たちは、イエスを見かけると、走ってきてイエスを迎え、尊敬と喜びの表情でイエスにあいさつした。しかしイエスは、彼らが非常に困惑していることを目ざとく見抜かれた。弟子たちも困っているようにみえた。ある出来事が起こって、彼らは激しい失望と屈辱を味わったのだった。 DA 893.6

弟子たちが山のふもとで待っていた時、ある父親が、息子を彼らのところにつれてきて、この子を苦しめているものが言えない霊から救って下さいと願った。イエスがガリラヤ一帯に福音を伝えるために12弟子を送られた時、彼らは、汚れた霊を制し、これを追い出す権威をさずけられた。彼らが強い信仰を もって出て行った時、悪霊は彼らのことばに従った。いま彼らは、キリストのみ名によって、苦しみを与えている霊にその被害者から出て行くようにと命じた。だが悪鬼は、新たに力を発揮して彼らをあざけったにすぎなかった。弟子たちは、敗北の理由を説明することができないで、彼ら自身と主に不名誉を招いたと思った。しかも群衆の中には、この機会を利用して、弟子たちに恥をかかせようとする律法学者たちがいた。彼らは、弟子たちのまわりにおしよせ、質問を浴びせかけ、弟子たちと主とが欺瞞者であることを証明しようとした。弟子たちもキリスト自身も征服できない悪霊がここにいると、ラビたちは勝ち誇ったように断言した。人々は律法学者たちに味方したい気持になり、軽蔑とあざけりとが群衆の間にみなぎった。 DA 893.7

だが突然非難がやんだ。イエスが3人の弟子たちと近づいてこられるのが見えたのである。するとたちまち気持を変えた群衆は、向き直って彼らを迎えた。夜の間に天の栄光と交わった名残が救い主と弟子たちの上にとどまっていた。彼らの顔には、見る者におそれを感じさせるような光があった。律法学者たちは恐れてうしろへさがったが、人々はイエスを歓迎した。 DA 894.1

救い主は、あたかもそこに起こった出来事を全部見ておられたかのように、論争の場へこられると、律法学者たちにじっと目をそそぎ、「あなたがたは彼らと何を論じているのか」とおたずねになった(マルコ9:16) DA 894.2

だがそれまで大胆で反抗的だった声がいまは沈黙していた。群衆全体が鳴りをひそめた。そこで苦悩している父親は、群衆の中を進み出て、イエスの足下にひれ伏し、自分の心配と失望の次第を物語った。 DA 894.3

「先生、ものが言えない霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し……ます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」(マルコ9:17、18)。 DA 894.4

イエスはまわりを見まわして、おそれの念にうたれている群衆と、あら探しをする律法学者たちと、困惑している弟子たちとをごらんになった。イエスは、一人一人の心の中にある不信仰を見抜かれ、悲しみに満ちた声で、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか」と叫ばれた。そして困っている父親に、「その子をわたしの所に連れてきなさい」とお命じになった(マルコ9:19)。 DA 894.5

少年が連れてこられ、救い主の目が彼にそそがれると、悪霊は、彼を地面に打ち倒して、苦悶のけいれんを起こさせた。少年は、あわを吹いてころげまわり、この世のものでないような叫び声が大気をふるわせた。 DA 894.6

ふたたび生命の君と暗黒の勢力とが戦場で遭遇した、——キリストは、「福音を宣べ伝え……囚人が解放され……打ちひしがれている者に自由を得させ」る使命を果たすために、サタンは自分の支配下にある被害者をつかまえておくために(ルカ4:18)。人の目には見えなかったが、光の天使たちと悪天使たちの軍勢がおしよせてきて、この戦いを見守ったちょっとの間、イエスは、悪霊が力を発揮するのをおゆるしになったが、それは目撃者たちがまさに行われようとしている解放を理解するためであった。 DA 894.7

群衆は、息、をこらして見守り、父親は胸苦しいまでの望みと心配のうちに見守った。イエスは、「いつごろから、こんなになったのか」とおたずねになった(マルコ9:21)。父親は、長年の苦しみを物語り、もうそれ以上がまんできないかのように、「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」と叫んだ。「できますれば」。いまになってもなお父親は、キリストの力を疑った(マルコ9:22)。 DA 894.8

イエスは答えて、「信ずる者には、どんな事でもできる」と言われる(マルコ9:23)。キリストの側に力の不足はない。息子がいやされることは父親の信仰次第である。父親は自分の弱さを認めると、あふれる涙とともにキリストの憐れみに身をまかせ、曙じます。不信仰なわたしを、お助けください」と叫ぶ (マルコ9:24)。 DA 894.9

イエスは苦しんでいる者に向かって、「言うことも聞くこともさせない霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。2度と、はいって来るな」と言われる(マルコ9:25)。少年は叫び声をあげて、苦しみもだえる。悪鬼は、出て行くにあたって、この被害者の生命を引き裂いてしまいそうにみえる。すると少年は、身動きしなくなり、いのちがとだえたかのようにみえる。群衆は、「あの子は死んだ」とささやく。しかしイエスは、少年の手をとって起こし、まったく健康な心と体になった彼を父親に引き渡される。父親と子は救い主のみ名を賛美する。「人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた」(ルカ9:43)。一方、律法学者たちは、敗北し、うちしおれ、ふきげんな顔をしながら立ち去った。 DA 895.1

「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。どれほど多くの魂が罪の重荷の下にこの祈りをくり返したことだろう。するとすべての者に向かって、憐れみ深い救い主はこうお答えになる、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」(マルコ9:23)。われわれを天に結びつけ、暗黒の勢力と戦う力をわれわれに与えてくれるのは信仰である。キリストを通して、神は、あらゆる罪の傾向を征服し、あらゆる誘惑に抵抗する手段をお与えになった。しかし、自分は信仰が足りないと思って、キリストから離れたままでいる者が多い。こういう魂は、無力と無価値のままに、憐れみ漆い救い主のいつくしみにすがりなさい。自分を見ないで、キリストを見なさい。この世におられた時に、病人をいやし悪鬼を追い出されたお方は、今日も同じに偉大なあがない主であられる。信仰は神のみことばによって生まれる。だから「わたしに来る者を決して拒みはしない」とのキリストの約束をしっかりつかみなさい(ヨハネ6:37)。「信じま丸不信仰なわたしを、お助けください」と叫んで、イエスの足下に身を投げなさい(マルコ9:24)。そうするかぎり、あなたは決して滅びることはない、決して。 DA 895.2

短い時間の間に、愛された弟子たちは栄光と屈辱の両極端を目に見た。彼らは、神のみかたちに変えられた人と、サタンのかたちにまで堕落した人間とを見た。彼らは、イエスが天の使者たちと語り、光り輝く栄光の中から出る声によって神のみ子であると宣告された山からくだられて、どんな人間の力でも救うことのできない苦痛の発作に顔をゆがめ、歯をかみならしているあの最も悲惨な、ぞっとするような見もの——気が変になった少年に応対されるのを見た。この偉大なあがない主は、数時間前には、驚きあやしむ弟子たちの前に栄光の姿で立たれたばかりなのに、いまは身をかがめてサタンの被害者をそのころがりまわっている地面から立たせ、心も体も健康にして父親と家庭へもどしておやりになる。 DA 895.3

父の栄光の中からおいでになった神が、身をかがめて失われた者を救われる、——このことはあがないについての実物教訓であった。それはまた弟子たちの使命をあらわしていた。キリストのしもべたちの生活は、山の上でイエスといっしょに霊的な光の中にいることにだけ費やされるのではない。下の平地には彼らの働きがある。サタンのとりこにされた魂が、彼らを自由の身にしてくれる信仰のことばと祈りとを待っているのである。 DA 895.4

9人の弟子たちは、自分たちの失敗というにがい事実についてまだ考えこんでいた。彼らはもう1度イエスと自分たちだけになると、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」とたずねた(マタイ17:19)。イエスは彼らに答えて、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない」と言われた(マタイ17:20、21)。キリストに一層深く共鳴するのをさまたげていた不信仰と、まかされた聖なる働きに対する彼らの不注意な考え方が、暗黒の勢力との戦いに彼らを失敗させたのであった。 DA 895.5

ご自分の死をさし示しているキリストのみことばが 悲しみと疑いとを生じさせていた。しかもイエスが山へ行かれるのに3人の弟子たちを選んで連れて行かれたことから、9人の弟子たちのねたみがひき起こされていた。キリストのみことばを瞑想することと祈ることによって信仰を強めようとしないで、彼らは、落胆と個人的な不平に心を奪われていた。このような暗黒の状態にあって、彼らはサタンとの戦いをくわだてたのであった。 DA 895.6

このような戦いに成功するためには、彼らはもっと異なった精神で働きにたずさわらねばならない。彼らの信仰は熱烈な祈りと断食、また心のへりくだりによって、強められねばならない。彼らは自分をむなしくして神の霊と力に満たされねばならない。信仰、すなわち神にまったくよりたのみ、神のみわざに全的に献身するようになる信仰をもって、熱心にたゆまず神に嘆願することによってのみ、人は「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦い」において、聖霊の助けを受けることができるのである(エペソ6:12)。 DA 896.1

「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」とイエスは言われた(マタイ17:20)。からし種の粒は小さなものであるが、その中には最も高い木を生長させるのと同じ神秘な生命の原則が含まれている。からし種が地にまかれると、その小さな芽は神がその栄養としてお与えになったあらゆる要素をとらえてたちまちたくましい生長をはじめる。もしこのような信仰があれば、あなたは神のみことばと、神がお定めになったあらゆる有益な方法をとらえる。こうしてあなたの信仰は強められ、天の力があなたの助けとして与えられる。サタンがあなたの道に積みあげた邪魔物は、永遠の山のように乗り越えることができないようにみえても、それは信仰の要求の前には消えうせてしまう。「あなたがたにできない事は、但もないであろう」(マタイ17:20)、 DA 896.2