各時代の希望

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第46章 変貌の山

本章はマタイ17:1~8、マルコ9:2~8、ルカ9:28~36に基づく DA 890.3

夕暮が近づいてくると、イエスは、弟子たちの中からペテロ、ヤコズヨハネの3人をそばにお呼びになり、彼らの先頭に立って野を横切り、けわしい道をのぼって、さびしい山の中腹へと行かれる。救い主と弟子たちは、その日を旅と教えに過ごしたばかりだったので、山登りで彼らの疲労が加わる。キリストは、苦しんでいる多くの人たちの心と体から重荷を取り除き、彼らの弱った肉体に生命の躍動をお与えになった。しかしイエスご自身もまた人性をとっておられたので、山を登ることには弟子たちと同じようにお疲れになる。 DA 890.4

沈んでゆく太陽の光はまだ山のいただきのあたりに残り、うすれてゆく光輝が彼らの歩いている道をいうどる。だがその光もまもなく谷間や丘から消えさると、このさびしい旅人たちは夜の暗やみに包まれる。周囲の暗がりは、黒雲が現われてそれがだんだん濃くなって行くような彼らの悲しい生活と調和しているようにみえる。 DA 890.5

弟子たちは、キリストがどこへ行かれるのか、また何のために行かれるのか、あえてたずねようとしない。イエスは、山の中で祈りのうちに一晩を送られることがよくあった。そのみ手で山や谷を作られたキリストは、自然の中にあってくつろぎをおぼえ、その静けさを楽しまれる。弟子たちは、キリストが道を進まれるところへついて行く。だが彼らは、みんなが疲れている時に、そしてイエスもまた休まれる必要がある時に、 なぜ主がこのほねのおれる登り道を、自分たちをつれて行かれるのだろうかとあやしむ。 DA 890.6

やがてキリストは、もうこれ以上遠くへは行かないと彼らにお告げになる。悲しみの人イエスは、彼らからちょっとわきへ退いて、強い叫びと涙とをもって嘆願をおささげになる。彼は人類のために試練に耐える力を祈り求められる。イエスは自ら全能者のみ手に新たにすがられねばならない。なぜならそうすることによってのみ、主は、将来を考えることがおできになるからである。主はまた暗黒の力の時に弟子たちの信仰が衰えることがないように、彼らの上に思いをよせて、みこころをそそぎ出される。ひざまずかれたイエスのお体に露がひどくおりるが、イエスは気にされない。夜の影が主のまわりに濃くなるが、イエスはその暗さを気にとめられない。こうして時間がだんだん過ぎ去る。初めは弟子たちも、心からの信仰をもって、イエスと祈りを共にしている。だが彼らは、疲れに負けてしまって、この場の光景に関心を保とうと努力しながらも、眠りにおちいってしまう。イエスは、弟子たちにご自分の苦難について語られた。イエスは、彼らが主と一つになって祈るように、彼らをおつれになった。いまも主は、彼らのために祈っておられる。救い主は、弟子たちの重い心をごらんになって、彼らの信仰がむだではなかったのだという保証によってその悲しみをやわらげようと望まれた。12人の弟子たちでさえ、全部の者が、イエスが与えようと望んでおられる啓示を受けることができるとはかぎらない。ゲッセマネの園でのイエスの苦しみを目撃する3人だけが、山の上でイエスといっしょにいるようにえらばれた。いまイエスの祈りの主題は、世がある前からイエスが父と共に持っておられた栄光のあらわれが彼らに示されるようにということ、またイエスのみ国が人間の目に示されるようにということ、そしてまた弟子たちがそれを目に見て強められるようにということである。イエスがたしかに神のみ子であって、その恥辱的な死は、あがないの計画の一部であるということを知ることによって、イエスの苦悶の絶頂の時に綾らに慰めが与えられるように、イエスの神性のあらわれを彼らの目に見せてくださるようにと、イエスは祈り求められる。 DA 891.1

イエスの祈りは聞かれる。主がへりくだった心で石だらけの地面にひざまずいておられると、突然に天が開け、神の都の黄金の門があけ放たれ、聖なる光の輝きが山の上にくだって、救い主のお体をつつむ。内部の神性が人性をつらぬいて光を放ち、天からくだった栄光と一つになる。ひれ伏した姿勢から起き上って、キリストは、神らしい威厳をもってお立ちになる。魂の苦悩は過ぎ去った。主のお顔はいま「日のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。 DA 891.2

弟子たちは、目をさまして、山を照しているまばゆい栄光を見る。恐れと驚きのうちに、彼らは光り輝く主のお体をみつめる。ふしぎな光に目がなれてくると、イエスはお1人ではないことがわかる。イエスのそばには2人の天の人がいて、イエスと親しく話をかわしている。この2人は、シナイ山上で神と語ったモーセと、アダムの子らの中ではほかにただ1人しか与えられていない高い特権を与えられて死の力を受けなかったエリヤであった。 DA 891.3

これより15世紀前に、モーセはピスガ山上に立って、約束の地を見渡した。しかしメリバでの罪のために、モーセは、そこに入ることをゆるされなかった。イスラエルの大軍を父祖の嗣業の地へみちびいて入る喜びは彼に与えられなかった。「どうぞ、わたしにヨルダンを渡って行かせ、その向こう側の良い地、あの良い山地、およびレバノンを見ることのできるようにしてください」という彼の必死の願いはこばまれた(申命記3:25)。40年の間、荒野を放浪していた時の暗黒を照した望みは拒否されねばならなかった。40年間の苦労と心の重荷のはては荒野の墓であった。だが、「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかた」は、その通りに、しもべの祈りにお答えになった(エペソ3:20)。モーセは死の主権の下を通ったが墓の中にとどまっていなかった。キリストが自ら彼をいのちによみがえらせてくださったのである。サタン は、モーセの罪の故に、彼の体を要求したが、救い主キリストは、彼を墓から連れ出された(ユダ9参照)。 DA 891.4

変貌(へんぼう)の山におけるモーセは、罪と死に対するキリストの勝利の証人であった。彼は、義人のよみがえりの時に墓から出てくる人々を代表していた。エリヤは、死を見ないで天へ移された人だったので、キリストの再臨の時に地上に生存していて、「終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられ、……この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着る」人々を代表していた(Ⅰコリント15:51、53)。イエスは、「罪を負うためではなしに2度目に現れ」たもうときに見られるお姿と同じように天の光を着ておられた(ヘブル9:28)。なぜなら、彼は「父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に」こられるからである(マルコ8:38)。弟子たちに対する救い主の約束はいま果たされた。山の上で、キリストを王とし、モーセをよみがえった聖徒たちの代表者とし、エリヤを天に移された人たちの代表者として、未来の栄光の王国が縮図で示されたのであった。 DA 892.1

弟子たちはまだその光景を理解していないが、しかし彼らは、柔和で心のへりくだったお方であり、無力な旅人としてあちらこちらを歩きまわられた忍耐強い教師であられるイエスが、天の愛された者たちからあがめられたことをよろこぶ。彼らは、エリヤがメシヤの統治を宣告するためにやってきて、キリストのみ国がこの地上に建てられようとしているのだと信じる。彼らは恐れと失望の思い出を永遠に追い払いたいと思う。そして神の栄光があらわされたこの場所にとどまりたいと願う。ペテロは、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」と叫ぶ(マタイ17:4)。弟子たちは、モーセとエリヤが主を保護し、王としてのキリストの権威を確立するためにつかわされたのだと確信する。 DA 892.2

しかし、王冠の前に十字架がこなければならない。彼らとイエスとの会談の主題は、キリストが王として即位されることではなくて、主がエルサレムで死をとげられることである。人性の弱さに耐え、人類の悲しみと罪を負って、イエスはただ1人で人々の中を歩まれた。きたるべき試練の暗黒がイエスに迫った時、主はご自分を知らない世に孤独な気持でおられた。愛する弟子たちでさえ、彼ら自身の疑いと悲しみと野心的な望みに心を奪われて、キリストの使命の奥義を理解していなかった。イエスは天の愛とまじわりのうちに住んでおられたが、ご自分が創造された世では孤独であった。いま天は、イエスのもとに使者たちをつかわした。それは天使たちではなくて、苦難と悲しみに耐え、地上生涯の試練にあたって救い主に同情することのできる人たちであった。モーセとエリヤは、キリストの共労者であった。彼らは人類の救いを願われるキリストと思いを一つにしていた。モーセは、イスラエルのために、「今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば——。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」と祈った(出エジプト32:32)。エリヤは、3年半の飢饉の間、国民の憎しみとわざわいに耐えた時、孤独な思いを味わった。彼はただ1人で、神のためにカルメル山上に立った。彼は苦悩と絶望のうちにただ1人で荒野へ逃げた。み座のまわりの天使たちよりもこの人たちがえらばれ、彼らがイエスの苦難の場面について語り、天の同情の確証をもってイエスを慰めるためにやってきたのだった。世の望み、人類の一人一人の救いが、彼らの会見の主題であった。 DA 892.3

眠りに負けてしまっていたので、弟子たちは、キリストと天の使者たちとの間に起こったことをほとんど聞かなかった。彼らは、目をさまして祈らなかったので、神が彼らに与えようと望まれたもの、すなわちキリストの苦難とそれにつづく栄光についての知識を受けなかった。彼らは、キリストの自己犠牲にあずかることによって彼らのものとなったはずの祝福を失ったこの弟子たちは、信ずる心がにぶく、天が彼らを富ませるために与えようとされた宝の価値がほとんどわか らなかった。 DA 892.4

それでも彼らは、大きな光を受けた。彼らは、ユダヤ国民がキリストをこばんだ罪について全天が知っているということを確信した。彼らは、あがない主の鋤きについて、もっとはっきりした見通しを与えられた。彼らは、人間の理解を越えた事物を自分たちの目で見、耳で聞いた。彼らは、「そのご威光の目撃者」で、イエスこそ、父祖と預言者たちがあかししていたメシヤであり、天の宇宙によってメシヤとして認められたお方であることを認めた(Ⅱペテロ1:16)。 DA 893.1

弟子たちが山の上の光景をまだ見つめていると、「輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』」(マタイ17:5)。弟子たちが、荒野でイスラエルの部族の先頭を行った雲よりももっと輝く栄光の雲を見、山をゆるがすほどのおそれ多い威厳をもって語られる神のみ声を聞いたとき、彼らは、うたれて地面に倒れた。彼らがひれ伏して顔をおおっていると、イエスが近よってこられて、彼らにさわり、聞きおぼえのあるお声で、彼らの恐怖を払いのけ、「起きなさい、恐れることはない」と言われた(マタイ17:7)。おそるおそる目をあげてみると、天の栄光はすでに過ぎ去り、モーセとエリヤの姿は消えていた。彼らだけがイエスとともに山の上にいた。 DA 893.2