各時代の希望
第45章 十字架の前兆
本章はマタイ16:13~28、マルコ8:27~38、ルカ9:18~27に基づく DA 884.3
地上におけるキリストの働きは、急速に終わりに近づいていた。キリストの前には、その足が向けられている光景がはっきりと輪郭をえがいていた。キリストは、すでに人性をおとりになる前から、失われた者を救うためにご自分の歩まねばならない道のりの全体をごらんになっていた。キリストは、王冠と王衣を脱ぎ捨てて王座から下り、人性をもって神性をおおわれる前から、その心をひき裂く悲しみ、ご自分に浴びせられる侮辱、耐えねばならない欠乏の一つ一つを、はっきりごらんになっていた。馬ぶねからカルバリーまでの道は、すべてイエスの目の前にあった。主はご自分にのぞむ苦悩をご存知だった。主はそうしたことのすべてを知りながらなお、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と言われた(詩篇40:7、8)。 DA 884.4
キリストは、ご自分の使命の結果をいつも目の前に見ておられた。イエスの地上生活はほねおりと犠牲に満ちていたが、イエスは、こうしたことがすべてむだな労苦にならないという見通しによって元気づけられた。人々のいのちのためにご自分のいのちを与えることによって、イエスは、世を神への忠誠に導きかえされるのであった。まず血のバプテスマを受けら れねばならなかったが、またその罪なき魂に世の罪が重くのしかかるのであったが、そしてまた言いつくせないほどの苦悩の影が主の上にあったが、それでもなおキリストは「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍」ぶことを望まれた(ヘブル12:2)。 DA 884.5
キリストの伝道の仲間としてえらばれた者たちの目には、キリストの前にある光景がまだかくされていた。しかし彼らがキリストの苦悩を見なければならない時が近づいていた。彼らは、自分たちが愛し信頼しているキリストが敵の手に渡され、カルバリーの十字架につけられるのを目に見なければならない。まもなくキリストは、彼らを目に見えるご自分の存在という慰めなしに世に当面させねばならない。主は、彼らがどんなにはげしい憎しみと不信によって迫害されるかを知っておられた。そこでイエスは、彼らを試練に対して備えさせようと望まれた。 DA 885.1
いまイエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤ地方のある町にきておられた。彼らは、ガリラヤの境を越えて、偶像礼拝の盛んな地方へきていた。ここで弟子たちは、ユダヤ教の支配的な影響からしりぞいて、異教の礼拝と一層近く接触させられた。彼らの周囲には世界のどこにも見られるような迷信を形に表わしたものがあった。イエスは、弟子たちがこうしたものを見ることによって、異教徒に対する責任を感ずるように望まれた。この地方に滞在しておられる間、イエスは民に教えることをひかえて、もっと十分に弟子たちのために力をつくそうと努力された。 DA 885.2
キリストは、ご自分を待ち受けている苦難について彼らに語ろうとしておられた。しかし主は、まず1人離れて、彼らの心がキリストのことばを受け入れる備えができるように祈られた。弟子たちのところへもどってこられると、主は、知らせようと思っておられたことをすぐにはお伝えにならなかった。そうする前に、イエスは、彼らがきたるべき試練に対して力が与えられるように、イエスに対する信仰を告白する機会をお与えになった。「人々は人の子をだれと言っているか」とイエスはおたずねになった(マタイ16:13)。 DA 885.3
残念ながら弟子たちは、イスラエルがメシヤを認めなかったことを承認しないわけにいかなかった。もっともある人々は、イエスの奇跡を見て、イエスはダビデの子であると断言した。ベッサイダで食べさせてもらった群衆は、イエスをイスラエルの王として宣言しようと望んだ。多くの者は、イエスを預言者として受け入れようとした。だが彼らは、イエスをメシヤとして信じなかった。 DA 885.4
イエスは、こんどは弟子たち自身に関係のある第二の質問を出された。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。」ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16:15、16)。 DA 885.5
ペテロは、はじめからイエスをメシヤと信じていた。バプテスマのヨハネの説教を聞いて罪を悟った他の多くの者たちは、ヨハネが投獄されて死刑に処せられると、ヨハネの使命について疑いをいだきはじめた。彼らはこんどは、イエスが長い間待ち望んでいたメシヤであるかどうかを疑った。イエスがダビデの位につかれることを熱烈に期待していた弟子たちの多くも、イエスにその気持がないことを認めると、イエスから離れた。だがペテロとその仲間たちは忠誠を変えなかった。救い主にほんとうに従っている者たちの信仰は、きのうは称賛し、きょうは非難するといったような人々の移り変る態度によって、破壊されることはなかった。ペテロは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と断言した。彼は、主が王として冠をつけられる栄誉を待たないで、屈辱のうちにあられるキリストを受け入れた。 DA 885.6
ペテロは12人の信仰を表明していた。それでも弟子たちは、まだまだキリストの使命を理解していなかった。祭司たちや役人たちの反対と悪宣伝は弟子たちをキリストから引き離すことができなかったが、それでも彼らのうちに大きな困惑を生じさせた。彼らは自分たちの道がはっきりわからなかった。彼らの子供時代の教育の影響やラビたちの教えや、言い伝えの力などが依然として真理に対する彼らの考え方をさまたげていた。時々イエスからの尊い光が彼 らを照らしたが、それでも彼らは、しばしば暗がりを手さぐりで進んでいる人々のようであった。しかしこの日、彼らが信仰の大きな試みに直面させられる前に、聖霊は力をともなって彼らの上にとどまった。しばらくの間彼らの目は、「見えるもの」から離れて、「見えないもの」にそそがれた(Ⅱコリント4:18)。人性のよそおいの下に、彼らは神のみ子の栄光を認めたのであった。 DA 885.7
イエスはペテロに答えて言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」(マタイ16:17)。 DA 886.1
ペテロが告白した真理は、信者の信仰の土台である。これこそキリストご自身が永遠のいのちであると宣言されたものである。だがこの知識を持っていることは、自己称賛の理由にはならなかった。それがペテロに示されたのは、彼に知恵や徳があったからではなかった。人間は1人で神についての知識に到達することはできない。「それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府(よみ)よりも深い、あなたは何を知りうるか」(ヨブ11:8)。「子たる身分を授ける霊」のみが、神について「目がまだ見ず耳がまだ聞かず人の心に思い浮びもしなかった」深い事がらをわれわれに示すことができるのである(ローマ8:15、1コリント2:9)。「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」(Ⅰコリント2:10)。「主の奥義は主をおそれる者のためにあり」(詩篇25:14・英語訳)。ペテロがキリストの栄光をみとめたことは、彼が「神に教えられ」た証拠である(ヨハネ6:45)。ああ、実に「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではな」かった(マタイ16:17)。 DA 886.2
イエスはつづけて言われた、「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない」(マタイ16:18)。ペテロということばは、石——ころがる石という意味である。ペテロは、その上に教会を建てられる岩ではなかった。よみの門は、ペテロがのろいと誓いとをもって主をこばんだ時に彼に打ち勝った。教会は、よみの門が打ち勝つことのできないお方の上に建てられた。 DA 886.3
救い主来臨の何世紀も前に、モーセは、イスラエルの救いの岩であられるキリストをさし示した。詩篇記者は「わが力の岩」について歌った。イザヤはこう書いている、「主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である』」(申命記32:4参照、詩篇62:7、イザヤ28:16)。ペテロ自身、霊感を受けて書いた時、この預言をイエスにあてはめて、こう言っている。「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ……なさい」(Ⅰペテロ2:3~5)。 DA 886.4
「すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである」(Ⅰコリント3:11)。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」とイエスは言われた(マタイ16:18)。神と全天使たちの前で、また目に見えないよみの軍勢の前で、キリストは生ける岩の上にご自分の教会を建てられた。その岩はキリストご自身——われわれのために裂かれ傷つけられたキリストご自身のからだであった。この土台の上に建てられた教会に、よみの門は打ち勝つこと炉できない。 DA 886.5
キリストがこのことばを語られた時、教会は、何と弱々しくみえたことだろう。信者はほんの一握りしかなく、この人々に向かって悪鬼と悪人の全勢力が向けられるのであった。それでもキリストに従う者たちは恐れないのであった。力の岩なるキリストの上に建てられているので、彼らを打ち倒すことはできなかった。 DA 886.6
6000年の間、信仰はキリストの上に築かれてきた。6000年の間、サタンの怒りという洪水と嵐がわれらの救いの岩なるキリストを襲った。だがそれは動かされることなく立っている。 DA 887.1
ペテロは、教会の信仰の基である真理を表明したので、イエスは、いまペテロに、信者全体の代表としての栄誉をお与えになった。イエスは、「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と言われた(マタイ16:19)。 DA 887.2
「天国のかぎ」はキリストのみことばである。聖書のみことばはすべてキリストのみことばであるから、「天国のかぎ」は聖書を意味している。聖書のことばには天国を開いたり閉じたりする力がある。それは人々が受け入れられるか拒否されるかする条件を宣告する。こうして神のみことばを説く者たちの働きは、「いのちからいのちに至らせるかおり」か「死から死に至らせるかおり」となる(Ⅱコリント2:16)。彼らの使命は、永遠の結果を負わされている使命である。 DA 887.3
救い主は、福音の働きを個人的にペテロにおまかせになったのではなかった。のちになって、キリストは、ペテロに言われたことばをくり返して、それを直接教会に適用された。また実質的に同じことが、信者の団体を代表する12人に語られた。もしイエスが何か特別な権威を特に1人の弟子におさずけになったのだったら、弟子たちの中でだれが一番えらいかということについてしばしば論争されるようなことはなかったであろう。彼らは主のご希望に服従して、主がえらばれた1人を尊敬したであろう。キリストは、1人を彼らの首長として任命することをしないで、「あなたがたは先生と呼ばれてはならない……あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」と弟子たちに言われた(マタイ23:8、10)。 DA 887.4
「すべての男のかしらはキリストで……ある」(Ⅰコリント11:3)。神は、「万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ1:22、23)。教会は、キリストを土台として、その上に建てられている。教会は、キリストをかしらとして、キリストに従うのである。教会は、人にたよったり、人に支配されたりしない。教会の中の信任の地位を占めることによって、その人は他の人たちに何を信じさせ、何をさせるかを命令する権威が与えられると主張する人が多い。神はこの主張を是認されない。救い主は、「あなたがたはみな兄弟」であると宣言しておられる(マタイ23:8)。人はみな試みに会い、誤りを犯しがちである。有限な人間の指導にたよることはできない。信仰の岩は、教会内におけるキリストの生きた存在である。どんなに弱い者も、キリストにたよることができ、自分は一番強いと思っている者も、キリストを力としないかぎり、一番弱い者であるということがわかる。「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。」「主は岩であって、そのみわざは全く」「すべて主に寄り頼む者はさいわいである」(エレミヤ17:5、申命記32:4、詩篇2:12)。 DA 887.5
ペテロが告白したあとで、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならないと弟子たちにお命じになった。この命令は、学者とパリサイ人のがんこな反対があったから与えられたのであった。それよりも大きな理由は、民はもちろん弟子たちでさえ、メシヤについてまったく誤った概念をいだいていたので、キリストについて公の発表をしたところで、キリストの性格と働きについて正しい理解を彼らに与えることができなかったからであった。しかし日1日とキリストは、ご自身を救い主として彼らに示し、こうして、メシヤとしてのご自分について、正しい概念を彼らに与えようと望まれた。 DA 887.6
弟子たちは、キリストがこの世の王として統治されるものと、まだ期待していた。キリストはご自分の計画を長い間かくしてこられたが、いつまでも世に知ら れず貧しいままであられるとは限らないのだ、イエスが王国を建設される時は近づいているのだと、弟子たちは信じていた。祭司たちとラビたちの憎しみは決して克服されないということや、キリストがご自分の国民からこばまれ、欺瞞者として非難され、犯罪人として十字架につけられるなどという考えを、弟子たちは決していだいたことがなかった。しかし暗黒の勢力の時が近づいていたので、イエスは弟子たちの前に、その戦いをお示しにならねばならなかった。イエスはその試練を予想して悲しまれた。 DA 887.7
これまでイエスは、ご自分の苦難や死に関連したことを彼らに知らせるのをひかえておられた。ニコデモと語られた時、イエスは、「ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」と言われた(ヨハネ3:14、15)。しかし弟子たちは、これを聞かなかったし、またたとえ聞いたとしても理解しなかったであろう。しかしいま彼らは、イエスといっしょにいて、そのみことばを聞き、そのみわざを見てきたので、イエスのいやしい境遇や、祭司たちや民たちの反対にもかかわらず「あなたこそ、生ける神の子キリストです」とのペテロのあかしに加わることができるのである(マタイ16:16)。いま、将来をおおっているベールを取り除く時がきていた。「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた」(マタイ16:21)。 DA 888.1
弟子たちは、悲しみと驚きとで、ことばもなく聞いた。キリストは、ペテロがイエスを神のみ子として認めたことを承認された。だから、いまイエスのみことばがご自分の苦難と死を示していることは、不可解に思えた。ペテロはだまっていることができなかった。彼は、さし迫った運命からイエスを引き戻そうとするかのように、イエスをつかまえて、「主よ、とんでもないことで魂そんなことがあるはずはございません」と叫んだ(マタイ16:22)。 DA 888.2
ペテロは主を愛していた。だがイエスは、ペテロがこのように主を苦難から守りたいという希望を表明したことを称賛されなかった。ペテロのことばは、大きな試練に直面しておられるイエスにとって助けと慰めになるものではなかった。彼のことばは、失われた世に対する神の恵みの目的に一致するものでもなければ、イエスがご自分の模範を通して教えるためにこられた自己犠牲の教訓に一致するものでもなかった。ペテロは、キリストの働きの中に十字架を見ることを望まなかった。ペテロのことばから受ける印象は、キリストがご自分に従う者たちに与えようと望んでおられる印象と正反対のものであった。 DA 888.3
そこで救い主は、これまでその口から聞かれたことのないほど激しい譴責のことばを語る気になられた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)。 DA 888.4
サタンは、イエスを落胆させて、その使命から引き離そうとしていたが、ペテロは、盲目的な愛情から、その試みを口に出していた。悪の君サタンがその考え方の張本人であった。衝動的な訴えの背後にはサタンのそそのかしがあった。荒野で、サタンは、キリストが屈辱と犠牲の道を捨てるならという条件で、この世の主権をキリストに提供した。いまサタンは、キリストの弟子に同じ試みを仕向けていた。イエスは、ペテロの目を十字架に向けさせようと望まれたが、サタンは、ペテロが十字架を見ないように、その目を地上の栄誉にそそがせようとした。こうしてサタンは、ペテロを通して、もう1度イエスに試みをおしつけようとしていた。しかし救い主は見向きもされなかった。イエスの思いはご自分の弟子の上にあった。サタンは、この弟子の心が、彼のために受けられるキリストの屈辱のまぼろしに感動させられないように、ペテロと主の間に入りこんでいた。キリストのみことばは、ペテロに向かってではなく、ペテロをあがない主から引き離そうとしていた者に向かって語られたのであつた。「サタンよ、引きさがれ」(マタイ16:23)。わたしと、まちがっているわたしのしもべとの間にもうこれ 以上入ってはいけない。わたしは、わたしの愛の奥義を彼に示すために、ペテロと直接に向かいあいたいのだ。 DA 888.5
地上におけるキリストの道が苦悩と屈辱のうちにあるということは、ペテロにとってはつらい教訓であって、彼はそれを学ぶのに時間がかかった。この弟子は苦難の主とまじわることをちゅうちょした。しかし彼は、熱した炉の火の中にあって、その祝福を学ぶのであった。ずっとのちになって、長年の重荷と働きで彼の元気な体がまがった時、彼はこう書いた。「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである」(Ⅰペテロ4:12、13)。 DA 889.1
イエスは、いま弟子たちに、ご自分の犠牲の生活が彼らの生活のあるべき姿の模範であることを説明された。イエスは、立ち去らないで近くにいた人々を、弟子たちといっしょにそばにお呼びになって、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われた(マタイ16:24)。十字架はローマの権力と関連していた。それは最も残酷で屈辱的な形の死の道具であった。最も下等な犯罪人は処刑場まで十字架をかついで行かねばならなかった。十字架を彼らの肩にのせようとすると、彼らはしばしば必死の力で抵抗するが、ついには負けてしまって、この責め道具が彼らにくくりつけられるのであった。しかしイエスは、従う者たちに、十字架を取りあげてわたしのあとからそれをかついでくるようにとお命じになった。弟子たちにはイエスのそのみことばがぼんやりしかわからなかったが、それは最もひどい屈辱に身をまかせること、すなわちキリストのために死にいたるまで従うことを彼らにさし示した。救い主のみことばは、一これ以上完全な自己の屈服を表現することはできなかった。しかしイエスは、彼らのためにこのことをすべて受け入れておられた。われわれが失われている限り、イエスは天を望ましい場所とお考えにならなかった。主は非難と侮辱の生涯を送り、死の恥を受けるために天の宮廷からくだられた。天のはかりつくすことのできない宝に富んでおられたお方が、ご自分の貧しさによってわれわれが富める者となるために、貧しくなられた。われわれは、彼が歩まれた道に従うのである。 DA 889.2
キリストがそのために死なれた魂を愛することは、自我を十字架につけることを意味する。神の子である者は、これからは自分自身を世の救いのためにさげられた鎖の一環とみなさねばならない。すなわち、神の憐れみの計画において、自分をキリストと一体とみなし、失われた者をさがし求め、これを救うために、キリストと共に出て行かねばならない。クリスチャンは、自分が神に献身したこと、また自分の品性を通して世にキリストをあらわすのだということをたえず認める。キリストの生活にあらわされた自己犠牲、同情、愛が、神のために働く者の生活に再現される。 DA 889.3
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう」(マルコ8:35)。利己主義は死である。身体のどんな器官でも、そのものだけの働きに限るならば、それは生きることができない。心臓は手や頭に血液を送らねばたちまち力を失ってしまう。われわれのいのちの血液と同じように、キリストの愛は、彼の神秘な体(注・教会)の各部に満ちわたっている。われわれは互いにつながっているのであって、分け与えることをこばむ魂は滅びる。「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか」(マタイ16:26)。 DA 889.4
現在の貧しさと屈辱のかなたに、キリストは、弟子たちに、栄光——それもこの世の王座の光輝ではなくて、神と天の万軍の栄光のうちに来臨されることをさし示された。そして、「その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」と言われた(マタイ16:27)。それから彼らを励ますために、主は「よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をも って来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」との約束をお与えになった(マタイ16:28)。しかし弟子たちは、イエスのみことばを理解しなかった。その栄光は遠い先のことのように思えた。彼らの目はもっと近い景色——貧乏と屈辱と苦難の地上生活にそそがれていた。メシヤの王国に対する燃えるような期待を放棄しなければならないのだろうか。主がダビデの位にあげられるのを見ないのだろうか。キリストが家もないいやしい放浪者として生き、あなどられ、こばまれ、ついには死に処せられるということがあり得るだろうか。彼らは主を愛していたので、悲しみが心に重くのしかかった。疑いもまた彼らの心を苦しめた。神のみ子がそのような残酷な屈辱を受けられるということが理解できないことに思えたのである。なぜ主はご自分から進んでエルサレムへ行き、ご自分がそこで受けると言われたような取り扱いを受けようとされるのだろうかと、彼らは疑問に思った。どうして主はそのような運命に身をまかせて、主が神のみ子であることを明らかにされる前に、われわれが手さぐりで進んでいたときよりももっと深い暗黒のうちにわれわれを残そうとされるのだろうか。 DA 889.5
ピリポ・カイザリヤ地方なら、ヘロデやカヤバの手もキリストにとどかないと、弟子たちは判断した。主にとって、ユダヤ人の憎しみもローマ人の権力も恐れるものではない。パリサイ入から離れたこの場所で働かれたらよい。どうして、ご自分を死に渡される必要があろう。もし死なれるならば、主の王国がよみの力も打ち勝てないほど固く築かれるということはどうなるのか。弟子たちには、それはまったく一つの神秘であった。 DA 890.1
彼らはいまでさえ、彼らのすべての望みが打ちくだかれる都へ向かって、ガリラヤの海の沿岸を旅しているのだった。彼らはあえてキリストに抗議しようとはしなかったが、声をおとして悲しい調子で、将来がどういうことになるのだろうかと語り合った。いろいろ質問しながらも、彼らは、予測できない何かの事情によって、主を待ち受けているようにみえる運命を避けられるのではないかという思いにしがみついていた。こうして彼らは、6日もの長い暗い日を、悲しんだり、疑ったり、希望をいだいたり、恐れたりした。 DA 890.2