各時代の希望

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第44章 真のしるし

本章はマタイ15:29~39、16:1~12、マルコ7:31~37、8:1~21に基づく DA 880.5

「それから、イエスはまたッロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海辺にこられた」(マルコ7:31)。 DA 880.6

悪霊につかれたガダラ人がいやされたのは、デカポリス地方においてであった。その時ここの人たちは、豚が全滅したのに驚いて、イエスが彼らのところから立ちのかれるように強制した。しかし彼らはイエスがあとに残された使者たちから話を聞き、イエスに会いたいという願いが起こった。この地方にもう瞳イエスがこられると、群衆がイエスのまわりに集まり、耳 が聞えず口のきけない人をみもとにつれてきた。イエスは、こんどはいつもの場合とちがって、ただ一言でその男をなおしておやりにならなかった。イエスは、彼を群衆の中から連れ出されると、その両耳に指をさしこみ、その舌にふれ、天を仰いで、真理に向かって開こうとしない耳と、あがない主を告白しようとしない舌とを思って、ため息をっかれた。「開けよ」ということばに、この男は話すことができるようになり、そして、だれにも言ってはならないとの命令を無視して、自分がいやされた話を言いひろめた。 DA 880.7

イエスが山へのぼって行かれると、そこへ群衆が集まり、病人や足の不自由な人を連れてきてイエスの足もとにおいた。イエスは、彼らを全部なおしておやりになった。すると人々は、異教徒ではあったが、イスラエルの神をほめたたえた。彼らは、3日間救い主のまわりにむらがりつづけ、夜は野外に眠り、昼間は熱心につめかけて、キリストのみことばを聞き、そのみわざを見た。3日の終りには、彼らの食物がなくなった。イエスは、空腹のまま彼らを去らせたくないと思われ、弟子たちを呼んで、人々に食物を与えるようにと言われた。すると弟子たちはふたたび不信をばくろした。ベッサイダで、彼らの手にあったすこしばかりのものが、キリストによって祝福された時、群衆に食べさせるのに役立ったのを彼らは見ていた。それなのに彼らは、イエスの力が飢えた群衆のために何倍にもふやしてくださることを信じて、持っているだけのものを全部さし出そうとしなかった。その上、イエスがベッサイダで養われたのはユダヤ人だったが、ここの人たちは異邦人であり、異教徒であった。弟子たちの心の中にはまだ偏見が強かった。彼らはイエスに、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゆうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」と答えた(マタイ15:33)。しかしイエスのことばに従って、彼らはあるだけのもの、すなわち7つのパンと2匹の魚を持ってきた。群衆は食べ、そしてなお7つの大きなかごにくずが残った。女や子供たちのほかに4000人の男たちが、こうして元気をとりもどし、イエスはこれらの人たちを喜びと感謝の気持をもって帰された。 DA 881.1

それからイエスは、弟子たちと舟に乗って湖を渡り、ゲネサレ平野の南端にあるマグダラに行かれた。ツロとシドンの境では、スロ・フェニキヤの女のたよりきった信頼によって、イエスの心は新しい力を回復していた。デカポリスの異教の民は、よろこんでイエスを受け入れた。前にご自分の力を最もめざましくあらわされ、多くの憐れみのみわざをなし、教えを与えられたこのガリラヤに、イエスがもう1度上陸された時、そこでイエスが出会われたのは侮辱的な不信であった。 DA 881.2

パリサイ人の代表団には、祭司派であり、懐疑論者であり、国民の貴族階級であり、かつ金持ちである尊大なサドカイ人からの代表者たちが加わっていた。この2つの分派は互に激しい敵意をいだいていた。サドカイ人は、自分たちの地位と権威とを維持するために、支配当局のごきげんをとっていた。一方パリサイ人は、ローマ人に対する民衆の憎悪心を育て、征服者のくびきをたち切ることのできる日を待ち望んでいた。だがパリサイ人とサドカイ人は、いま一緒になって、キリストに反対した。類は類を求め、悪は、どこにあっても、善人を滅ぼすために、悪と同盟するのである。 DA 881.3

いまパリサイ人とサドカイ人は、キリストのところへやってきて、天からのしるしを求めた。ヨシュアの時代に、イスラエルがベテホロンでカナン人と戦うために出て行った時、勝利をおさめるまで太陽が指揮官の命令で静止したことがあった。イスラエルの歴史には同じような多くのふしぎがあらわされた。何かそういったようなしるしがイエスに要求されたのである。しかしユダヤ人にとって必要なのはこうしたしるしではなかった。単に外面的なしるしは、彼らの益とならなかった。彼らにとって必要なのは、知的な啓示ではなくて、霊的な革新であった。 DA 881.4

「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら」——彼らは空を調べて天気を予報することができた——「どうして今の時代を見分けることができないのか」と、イエスは言われた(ルカ 12:56)。彼らに罪を自覚させる聖霊の力をもって語られるキリストご自身のことばこそ、神が彼らの救いのためにお与えになったしるしであった。また天から直接のしるしもキリストの使命を証拠だてるために与えられていた。牧羊者たちへの天使たちの歌、博士たちをみちびいた星、イエスのバプテスマの時に天からくだったはとと声は、イエスをあかしするものであった。 DA 881.5

「イエスは、心の中で深く嘆息して言われた、『なぜ、今の時代はしるしを求めるのだろう』」「しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」(マルコ8:12、マタイ16:4)。ヨナが3日3晩くじらの腹の中にいたように、キリストも同じ間「地の中」におられるのであった(マタイ12:40)。そしてヨナの警告がニネベの人たちにとってしるしであったように、キリストの説教は当時の世代にとってしるしであった。しかし世人の受け入れ方には何という相違がみられたことだろう。異教の大都市ニネベの住民は、神からの警告を聞いた時ふるえあがった。王も貴族もへりくだり、身分の高い人も低い人もいっしょに天の神の前に叫び求めたので、神の憐れみが彼らに与えられた。「ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる」とキリストは言われた(マタイ12:41)。 DA 882.1

キリストが行われた奇跡の一つ一つは、キリストの神性のしるしであった。イエスは、メシヤについて予告された働きをしておられたが、パリサイ人にとって、こうした憐れみのみわざはまことに不愉快だった。ユダヤ人の指導者たちは、人間の苦しみを冷酷な無関心をもってながめた。多くの場合、キリストがやわらげてくださった苦しみは、こうした指導者たちの利己心と圧迫から生じたものであった。だからキリストの奇跡は、彼らにとらて一つの譴責であった。 DA 882.2

ユダヤ人に救い主の働きをこばませたものが、キリストの神としてのご品性についての最高の証拠であった。キリストの奇跡の最大の意義は、それが人類を祝福するためであったということにみられる。キリストが神のみもとからこられたという最高の証拠は、キリストの生活が神のご品性をあらわしていたことである。キリストは神の働きをし、神のみことばを語られた。このような生活こそあらゆる奇跡の中で最高の奇跡である。 DA 882.3

今日、真理のことばが示されると、ユダヤ人のように、わたしたちに証拠をみせてください、わたしたちのために奇跡を行ってくださいと叫ぶ者が多い。キリストは、パリサイ人の要求によって奇跡を行われたことはなかった。彼は荒野でサタンのそそのかしに応じて奇跡を行われなかった。キリストは、われわれが自分自身を弁護したり、不信と高慢の要求を満足させたりするために、われわれに力をお与えにならない、しかし福音が神から出たものであることを示すしるしがないわけではない。われわれがサタンの束縛をたち切ることができるのは、一つの奇跡ではないだろうか。サタンに対する敵意は人の心に自然にあるものではなくて、それは神の恵みによってうえつけられるのである。頑固で、わがままな意志に支配されていた者が自由になり、神が天の使者を通して引きよせられるのに全心全霊をもって応ずる時、一つの奇跡が行われる。強力な欺瞞に陥っていた人が道徳的真理をさとるようになった時もそうである。魂が悔い改めて、神を愛し、神の戒めを守るようになるたびに、「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け」るとの神の約束が成就される(エゼキエル36:26)。 DA 882.4

人間の心の変化、すなわち人の品性が一変することは、一つの奇跡であって、それは生きておられる救い主が魂を救うために働いておられる証拠である。キリストのうちにあって矛盾のない生活は、一つの大きな奇跡である。神のみことばが説かれるときにいつもあらわされるしるしは、聖霊が臨在されて、聞く者にそのことばを新生の力として下さることである。これこそ神がご自分のみ子の使命について世人の前に示されるあかしである。 DA 882.5

イエスにしるしを望んだ人々は、不信のうちに心がかたくなになっていたので、キリストのご品性のうちに神のみかたちを認めなかった。彼らは、キリストの使命が聖書の成就であることを認めようとしなかった。金持ちとラザロのたとえの中で、イエスは、パリサイ人に「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」と言われた(ルカ16:31)。天あるいは地において、どんなしるしが与えられても、それは彼らの益とはならないであろう。 DA 883.1

イエスは「心の中で深く嘆息して」あら探しをする人々の群れから離れ、弟子たちとふたたび舟に乗られた(マルコ8:12)。悲しい沈黙のうちに、彼らはもう1度湖を渡った。しかし彼らは、さきに出たところへは戻らず15000人が養われた場所の近くのベッサイダに舟を向けた。向こう岸に着くと、イエスは、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」と言われた(マタイ16:6)。ユダヤ人は、モーセの時代以来、過越節の期間には家の中からパン種を除く習慣があった。こうして彼らはパン種を罪の型とみなすことを教えられていた。しかし弟子たちは、イエスのことばを理解しなかった。彼らはマグダラを急に出発したので、パンを持参することを忘れ、持っていたパンは一つしかなかった。彼らはキリストがこうした事情のことを言われ、パリサイ人やサドカイ人のパンを買わないようにと注意しておられるのだと思った。彼らは信仰と霊的な洞察力に欠けていたので、イエスのみことばをこんなふうに誤解することがよくあった。そこでイエスは、少しの魚とパンとで数千人に食べさせたご自分がこの厳粛な警告の中で一時の食物だけのことを言ったように彼らが考えたことをおしかりになった。パリサイ人とサドカイ人のずるい論議によって、弟子たちの中に不信の種がまかれ、彼らがキリストのみわざを軽んずるようになる危険があったのである。 DA 883.2

弟子たちは、天のしるしを求める人々の願いを主がきき入れてくださったらよかったのにと考えたがった。主はしるしを与えることが十分おできになり、またそのようなしるしによって敵は沈黙するであろうと、彼らは信じた。彼らは、あら探しをする連中の偽善をみわけていなかった。 DA 883.3

何か月かのちに、「おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきた」時に、イエスは同じ教えをくり返された。「イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、『パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい』」(ルカ12:1)。 DA 883.4

パン種が食物の中に入れられると、それは目に見えない働きをして、全部の量をそれ自身の性質に変える。そのようにもし心の中に偽善があるのをそのままにしておくと、それは品性と生活に充満する。いわゆる「コルバン」の習慣によって、宮に献げ物をするという口実の下に、子としての義務を怠ることがおおいかくされていたが、キリストは、すでにこの習慣を攻撃することによって、パリサイ人の偽善についてその目立った例を責められた。学者やパリサイ人は、欺瞞的な原則をしのびこませていた。彼らは、自分たちの教義の真の意図をかくし、あらゆる機会を利用して、聞く人々の心にその教義をたくみに吹きこんだ。このようなまちがった原則は、1度受け入れられると、食物の中のパン種のように働き、品性にしみこんでこれを変えてしまうのであった。人々がキリストのみことばを受け入れるのを困難にしたのは、この欺瞞的な教えだった。 DA 883.5

今日も、神の律法を自分たちの習慣に合うように説明しようとする人たちによって、同じ影響が及ぼされている。このような人たちは、律法を公然と攻撃しないで、律法の原則をひそかに害するような臆測的な理論を口にする。彼らは律法の力を破壊するような説明の仕方をするのである。 DA 883.6

パリサイ人の偽善は、利己主義の産物であった。自分自身の栄誉が彼らの人生の目的であった。このために、彼らは、聖書を曲解し、これを悪用するようになり、キリストの使命の目的について盲目になった。キリストの弟子たちでさえ、この陰険な悪を心に宿す危険があった。イエスに従う者たちの仲間に入 りながら、キリストの弟子となるためにいっさいを捨てきっていない者は、パリサイ人の理屈から大きな影響を受けた。彼らはたびたび信仰と不信の間を動揺し、キリストのうちにかくされている知恵の宝をみわけなかった。弟子たちでさえ、外面的にはイエスのためにいっさいを捨てていたが、心の中では自分自身のために大きなことを求めることをやめていなかった。だれが一番えらいかということについて争いを引き起こしたのは、この精神であった。この精神が彼らとキリストとの間に入りこんだために、彼らは、キリストの自己犠牲の使命に共鳴することができずあがないの奥義を理解するのに手間どった。パン種が最後まで働くのを放っておくと腐敗が生じるように、利己主義の精神が心に宿ると、それは魂を堕落させ、滅ぼしてしまうのである。 DA 883.7

昔と同じように今日も、主イエスに従う者の中に、この陰険で欺瞞的な罪がどんなに広く見られることだろう。キリストへの奉仕やお互いの間のまじわりが、自分を高めたいとのひそかな欲望のためにどんなにしばしばそこなわれることだろう。自己満足の思いと、人の賛成を願う心が何とすぐに起こりがちだろう。神の戒めの代りに人間の理論と言い伝えに従うようになるのは、自分を愛し、神が定められたよりももっとらくな道を望むからである、「パリサイ人のパン種……に気をつけなさい」とのキリストの警告のみことばは、キリストご自身の弟子たちに語られているのである(ルカ12:1)。 DA 884.1

キリストの宗教は誠実そのものである。神の栄えをあらわそうとする熱心さは、聖霊によってうえつけられる動機であって、この動機をうえつけることができるのはみたまの効果的な働きだけである。利己心と偽善とを追放できるのは神の力だけである。この変化こそキリストが働いておられるしるしである。われわれの受け入れる信仰によって、利己心と見せかけとが滅ぼされる時、またこの信仰によってわれわれ自身の栄えではなく神の栄えを求めるようになる時、われわれはその信仰が正しいものであることがわかる。「父よ、み名があがめられますように」というのが、キリストのこ生涯の基調であったが、われわれがキリストに従うとき、それはまたわれわれの一生の基調となるのである(ヨハネ12:28)。主はわれわれに「彼が歩かれたように」歩くように命じておられる。「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」(Ⅰヨハネ2:6、3)。 DA 884.2