各時代の希望

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第43章 打破された壁

本章はマタイ15:21~28、マルコ7:24~36に基づく DA 877.3

パリサイ人と対決されたあと、イエスは、カペナウムから退いてガリラヤを横切り、フェニキヤとの境界にある山間地方へ行かれた。西の方を向くと、下の平原には、異教の寺院と、壮麗な宮殿と、商業の市場と、船でいっぱいになった港のあるツロとシドンという古い都市がひろがっているのが見られた。その向こうには地中海の青海原があったが、この海を渡って、福音の使者たちは、世界の大帝国の中心に喜びのおとずれをたずさえて行くのであった。しかしその時はまだきていなかった。イエスの当面の仕事は、弟子たちを使命のために準備することであった。この地方へおいでになることによって、イエスは、ベッサイダで得られなかった静かな生活を見いだそうと望まれた。しかしそれだけがこの旅に出られたイエスの唯一の目的ではなかった。 DA 877.4

「すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、『主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます』と言って叫びつづけた」(マタイ15:22)。この地方の人民は、昔のカナン族の出身であった。彼らは偶像礼拝者で、ユダヤ人から軽蔑され、憎まれていた。いまイエスのところへやってきた女は、そうした階級の人間であった。彼女は異教徒だったので、ユダヤ人が日々受けているような特典から除外されていた。フェニキヤには多くのユダヤ人が住んでいたので、キリストの働きについての知らせはこの地方にも行き渡っていた。人々の中には、キリストのみことばを聞き、そのふしぎなみわざを見た者もあった。この女は、あらゆる種類の病気をなおされるといううわさのあるこの預言者のことを聞いていた。キリストの力について聞いた時、彼女の心に望みがわき起こった。母親としての愛情に動かされて、彼女は娘の状態をイエスに訴えようと決心した。彼女は、自分の苦悩をイエスに持って行こうと固く心にきめた。ぜひともイエスにこの子をなおしていただかなくてはならない。彼女はこれまで異教の神々の助けを求めたが、何の安心 も得られなかった。時々彼女は、このユダヤ人の教師がわたしのために何ができるだろうかという考えにさそわれた。しかし、イエスに助けを求めた者は、金持ちであろうと、貧しい人間であろうと、あらゆる種類の病気をいやされるといううわさがたっていた。彼女はただ一つの望みを失うまいと決心した。 DA 877.5

キリストはこの女の事情をご存知だった。主はこの女がご自分に会いたいと心から願っていることをお知りになって、彼女の道に身を置かれた。彼女を不幸から救うことによって、イエスは、ご自分が教えようと考えておられる教訓について、生きた実例を与えることがおできになるのであった。このためにイエスは、弟子たちをこの地方へ連れてこられたのだった。イエスは、イスラエルの国のすぐ近くの都市や村々に見られる無知に弟子たちが気づくように望まれた。真理を理解するためにあらゆる機会を与えられている民が、周囲の人々の必要については何も知らなかった。暗黒のうちにある魂を助ける努力は何もなされていなかった。ユダヤ人としての誇りによって築かれたへだての壁は、弟子たちが異教の世界に同情するのさえさまたげていた。だがこうした壁は打破されるのであった。 DA 878.1

キリストは女の願いにすぐにはお答えにならなかった。イエスは軽蔑されている民族のこの代表者に、ユダヤ人ならこんなふうにしたであろうと思われるような応対の仕方をされた。そうすることによって、イエスは、この女に対するご自分の応接に示される、このような場合のユダヤ人の冷酷で無情な態度と、次に女の願いをきかれたことに示される、このような困っている人々をとり扱われるイエスの憐れみ深い態度に、弟子たちが感銘を受けるように意図されたのであった。 DA 878.2

イエスは答えられなかったが、この女は信仰を失わなかった。彼女のことばが耳にはいらなかったかのように、イエスが通り過ぎて行かれると、彼女はイエスについてきて願いつづけた。弟子たちは女のしつこさに困ってしまって、イエスに女を追っぱらってくださいとたのんだ。彼らは、主が女を冷淡にとり扱われるのを見た。そして主もカナン人に対するユダヤ人の偏見をよろこんでおられるのだと思った。しかしこの女が懇願したのは、憐れみ深い救い主に対してであった。イエスは弟子たちのたのみに答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言われた(マタイ15:24)。この答はユダヤ人の偏見に一致しているように見えるが、そこには弟子たちに対する譴責が言外に含まれていた。その譴責は、イエスがたびたび彼らに言われたこと、すなわちイエスはご自分を受け入れるすべての者を救うためにおいでになったのだということを彼らに思い出させるためであったことを、弟子たちはのちになってさとった。 DA 878.3

女は、キリストの足下にひれ伏して、ますます熱心に事情を訴え、「主よ、わたしをお助けください」と叫んだ(マタイ15:25)。イエスは、ユダヤ人の無情な偏見に従って、あいかわらず女のたのみをしりぞけるふうをして、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と答えられた(マタイ15:26)。このことは、恵まれている神の民に与えられた祝福を他国民や、イスラエルに国籍のない外国人に気前よく与えることは正当でないといっているのと同じであった。熱心さの足りない嘆願者だったら、この答に落胆してしまったであろう。ところが女は、自分の機会がきたと思った。イエスは表面拒絶しておられるが、女はその底にかくしきれない憐れみを見たのである。女は答えた、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」(マタイ15:27)。家族の子供たちは、父親の食卓で食べるが、犬たちでさえ食物をもらわないでほうっておかれることはない。犬たちは、十分な食物のある食卓から落ちるパンくずをもらう権利がある。そのように、多くの祝福がイスラエルに与えられている一方には、彼女のためにもまた祝福があるのではないだろうか。彼女は犬としてみられていたが、そうならイエスの豊かな恵みからこぼれるバンくずをもらう犬の資格もあるのではないだろうか。 DA 878.4

イエスは律法学者たちとパリサイ人たちがご自分 の生命をねらっていたので、働きの場所から離れられたばかりであった。彼らはつぶやき、不平を言った。彼らは不信とにがにがしさを表明し、自分たちに惜しみなくさし出された救いを拒絶した。ここでイエスは、神のみことばの光に恵まれていない不幸な、軽蔑された種族の1人にお会いになるが、彼女はその場でキリストの天来の感化に従い、イエスが彼女のたのみをかなえてくださる能力を持っておられることに絶対の信仰を持っている。彼女は主の食卓から落ちるパンくずを求めている。彼女はもし犬の特権が与えられるなら、喜んで犬としてみられたいというのである。彼女は、その行動に影響するような国民的あるいは宗教的な偏見や誇りなどを持っていないので、イエスがあがない主であり、また願うことは何でもかなえてくださることができるお方であることをすぐに認める。 DA 878.5

救い主は満足された。主はご自分に対する彼女の信仰を試みられた。彼女に対する態度によって、イエスは、イスラエルから社会ののけもののようにみなされていたこの女が、もはや外国人ではなくて、神の家族の子供であることを示された。天父の賜物にあずかることは、子供として彼女の特権である。キリストはいま彼女のたのみを聞き入れ、弟子たちへの教訓をとじられる。同情と愛の顔つきで彼女の方へふり向かれたイエスは、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」と言われた(マタイ15:28)。その時から、彼女の娘は健康になった。悪鬼はもう彼女を苦しめなかった。女は救い主を認め、自分の祈りがきかれた喜びのうちに帰って行った。 DA 879.1

この旅行の間にイエスが行われた奇跡はこれだけであった。イエスがツロとシドンの境に行かれたのはこの奇跡を行うためであった。イエスは、この苦しんでいる女を救い、同時にご自分がおられなくなった時弟子たちのためになるように、軽蔑されている民の1人に対する憐れみのみわざを通して、模範を残そうと望まれたのであった。イエスは、弟子たちがユダヤ人的排他心を捨て、自分の民のために働くと同時に、さらにまたほかの民のためにも働くことに関心を持つように望まれた。 DA 879.2

イエスは、長年の間かくされてきた真理の深い奥義を示したいと望まれた。それは、異邦人がユダヤ人と同じ世継ぎであり、「福音によりキリスト・イエスにあって、……共に約束にあずかる者となることである」(エペソ3:6)。弟子たちにはこの真理がなかなかわからなかったので、天来の教師は次々と教訓をお与えになった。カペナウムで百卒長の信仰に報いられたことによって、またスカルの住民に福音を説かれたことによって、イエスはご自分がユダヤ人の偏狭さを持っておられない証拠をすでに示された。しかしサマリヤ人は神のことをいくらか知っていたし、また百卒長はイスラエルに親切を示していた。いまイエスは、弟子たちを1人の異教徒と接触させられたが、彼らは、この女がその属している民と同じように、イエスの恵みを期待する理由は何もないと思っていた。イエスはこのような者をどう扱うべきかについて、手本を与えようとお思いになった。弟子たちは、イエスが恵みの賜物をあまりにも惜しげなく施されると思っていた。イエスは、ご自分の愛が民族や国民に限定されるものではないことを示したいと望まれた。 DA 879.3

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言われた時、イエスは、事実を述べられたのであって、このカナン人の女のための働きにおいて、ご自分の任務を果たしておられた(マタイ15:24)。この女はイスラエルが救うべきであった失われた羊の1匹であった。キリストがしておられたのは、彼らに割り当てられた働きで、しかも彼らがなおざりにしてきた働きであった。 DA 879.4

この行為によって、弟子たちの心は、目の前におかれている異邦人のための働きについて、もっと広く開かれた。彼らはユダヤの外側に有用な広い伝道地を見た。彼らは、より大きな恵みを受けている人たちの知らない悲しみに耐えている魂を見た。軽蔑すべき相手として教えられてきた人々の中に、大いなるいやし主の助けを熱望し、ユダヤ人に豊かに与えられている真理の光を飢えかわくように求めている魂が いた。 DA 879.5

のちになって、弟子たちがイエスを世の救い主と宣言したために、ユダヤ人がもっとかたくなに弟子たちから離れた時、またキリストの死によってユダヤ人と異邦人とのへだての壁がうち倒された時、この教訓は、福音の働きが風習や国籍によって制限されないということを示している他の同じような教訓とともに、キリストの代表者たち炉その働きを指導する上に大きな影響を及ぼした。 DA 880.1

救い主がフェニキヤを訪れ、そこで奇跡を行われたことにはもっと広い目的があった。この働きがなされたのは、苦しんでいる女のためだけでもなければ、弟子たちや弟子たちの働きを受け入れた人々のためだけでもなかった。それは「あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るため」であった(ヨハネ20:31)。1800年前に(注・本書の執筆当時からかぞえて)人々とキリストとの間をさまたげていた勢力は今日も働いている。ユダヤ人と異邦人との間のへだての壁を築きあげた精神は、いまも生きている。誇りと偏見のために、異なった階級の人々の間に頑固なへだての壁が築かれてきた。キリストとその使命はまちがって解釈され、一般の人々は、自分たちは事実上福音の働きからしめ出されていると思っている。だがキリストからしめ出されていると彼らに思わせてはならない。人間やサタンが築くことのできる壁で信仰によって突破できないものは一つもない。 DA 880.2

フェニキヤの女は、ユダヤ人と異邦人の間につみあげられた壁に信仰をもってぶつかった。落胆させられるようなことに抵抗し、疑いたくなるような様子がみえたにもかかわらず、彼女は救い主の愛に信頼した。キリストは、われわれがこのようにキリストに信頼するように望まれる。救いの祝福はすべての魂のためである。自分自身でえらぶ以外には、どんなものも、人が福音を通しイエス・キリストにあって約束にあずかる者となるのをさまたげることはできない。 DA 880.3

神は差別的階級制度を憎まれる。神はこの種のものをすべて無視される。神の御目には、すべての人の魂は同じ価値がある。神は「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれ一人一人から遠く離れておいでになるのではない」(使徒行伝17:26、27)。年令、地位、国籍、宗教上の特権などの区別なく、だれでもみな神のもとにきて生きるように招かれている。「『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』……ユダヤ人とギリシャ人との差別はない」「もはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく」「富める者と貧しい者とは共に世におる、すべてこれを造られたのは主である」「同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んでくださるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである」(ローマ10:11、12、ガラテヤ3:28、箴言22:2、ローマ10:12、13)。 DA 880.4