各時代の希望

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第42章 言い伝え

本章はマタイ15:1~20、マルコ7:1~23に基づく DA 874.6

律法学者たちとパリサイ人たちは、過越節の時にイエスに会うことを予期して、イエスにわなをしかけておいた。しかしイエスは、彼らの意図をお知りになって、この集まりに出られなかった。すると「パリサイ 人と、ある律法学者たちとが、……イエスのもとに集まった」(マルコ7:1)。イエスが彼らのところへ行かれなかったので、彼らはイエスのところへやってきた。一時は、ガリラヤの人たちがイエスをメシヤとして受け入れ、この地方の祭司政治の権力が打破されるかのようにみえた。12弟子の使命は、キリストの働きの発展を示し、弟子たちを一層直接にラビたちと衝突させたので、エルサレムの指導者たちの警戒心を新たに引き起こしていた。キリストの公生涯の初めごろ彼らがカペナウムへ送ったスパイたちは、キリストに安息日違反の罪を着せようとしてかえって混乱させられた。だがラビたちは、彼らの目的を達成するのに懸命であった。そこで、キリストの行動を看視し、キリストを告発する理由をみつけ出そうとして、もう1度代表団が送られた。 DA 874.7

前と同じように、苦情の理由は、イエスが神の律法をわずらわしいものにしている伝統的な戒律を無視されているということだった。これらの戒律は神の律法の遵守を保護するためにつくられたものであるが、実際は律法そのものよりも神聖なものにみなされていた。もしこれがシナイ山で与えられた十戒と両立しない場合には、ラビの戒律に優先権が与えられた。 DA 875.1

最も厳重に遵守を励行されたものの一つは、儀式上のきよめを守ることであった。食事の前に守るべき形式を無視することは、憎むべき罪であって、この世においても来世においても罰せられるのであった。そしてこの罪を犯す者を根絶することは、一つの善行とみなされていた。 DA 875.2

きよめについての規則は、かぞえきれないほどあった。その全部をおぼえるには一生の年月をかけても足りないくらいであった。ラビの規則を守ろうとする者の生活は、儀式上のけがれとの長い戦いであり、洗いときよめとの果てしないくりかえしであった。人々はつまらない区別と、神が要求されたことのない遵守に心を奪われて、彼らの注意は、神の律法の大原財から離れた。 DA 875.3

キリストと弟子たちは、こうした儀式上の洗いを守られなかったので、スパイたちはこのような無視を告発の理由にした。しかし彼らは、キリストを直接に攻撃しないで、キリストのところへやってきて、弟子たちを批判した。群衆のいるところで、彼らは、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」と言った(マタイ15:2)。 DA 875.4

真理のことばが特別な力をもって魂に訴える時にはいつでも、サタンは、手先の者たちを扇動して、あまり重要でない問題について論争を始めさせる。こうしてサタンは、実際の問題から注意を引き離そうとするのである。よい働きが始められるといつでも、あら探しの名人が形式や規則的なことについて口を出し、大事な実際問題から人々の心をそらそうとする。神がご自分の民のために特別な方法で働こうとしておられるようにみえる時には、魂を滅ぼすことにしか役立たないような論争にさそいこまれてはならない。われわれにとって最も大事な問題は、わたしは救いの信仰をもって神のみ子を信じているだろうか、わたしの生活は神の律法と一致しているだろうかということである。「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがない」「もし、わたしたちが彼の戒めを守るならば、それによって彼を知っていることを悟るのである」(ヨハネ3:36、Ⅰヨハネ2:3)。 DA 875.5

イエスは、ご自分や弟子たちを弁護しようとされなかった。イエスは、ご自分に向けられた非難については何も言われずに、人間の儀式を固守している人たちの動機となっている精神を示し始められた。イエスは彼らがくりかえし行っていること、また彼らがイエスをさがしにくる前に行ったことを例としてあげられた。 DA 875.6

イエスはこう言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずの このものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている」(マルコ7:9~12)。彼らは、第5条の戒めを、すこしも重要なものではないかのように捨てたが、昔の人々の言い伝えを励行することにはすこぶる厳格であった。人が財産を宮にささげることは親を養うよりももっと神聖な義務である、またどんなに必要が大きかろうと、このように聖別されたものを一部でも父または母に分け与えることは神聖をけがすことであると、彼らは民に教えた。親不孝な子供は、自分の財産に「コルバン」ということばを宣告しさえすればよかった。そうすればその財産は、神にささげられるので、彼はそれを一生の間自分が使用するためにとっておくことができ、彼の死後それは宮の奉仕に用いられるのであった。このように彼は、生きても死んでも、神へのみせかけの献身というおおいの下で、勝手に親をはずかしめ、まただましたのであった。 DA 875.7

イエスは、ことばによっても、行為によっても、神に献げ物をする人間の義務を軽くされたのではなかった。10分の1と献げ物について律法のすべての指示をお与えになったのは、キリストであった。イエスは、この世におられた時、貧しい女が持っているだけのものを全部宮の金庫にささげたのをおほめになった。しかし祭司たちとラビたちの神への表面的な熱心さは、自分たちの勢力を拡大しようとする欲望をおおいかくすためのみせかけであった。民は彼らからあざむかれていた。彼らは神が負わせられなかった重荷も背負っていた。キリストの弟子たちでさえ、父祖伝来の偏見とラビの権威によって彼らに負わされているくびきからまったく解放されていたわけではなかった。いまラビの本性をばくろすることによって、イエスは、神に仕えようと心から望んでいるすべての者を言い伝えの束縛から解放しようとされた。 DA 876.1

「偽善者たちよ」と、イエスは陰険なスパイたちに向かって言われた、「イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」(マタイ15:7~9)。キリストのことばは、パリサイ主義の制度全体に対する非難であった。ラビたちは、自分たちの規則を天の戒めよりも上位におくことによって、自分自身を神よりも高いところにおいているのだと、イエスは断言された。 DA 876.2

エルサレムからの代表者たちは、怒りに満たされた、彼らは、イエスを、シナイ山で与えられた律法の違反者として告発することができなかった。なぜならイエスは、彼らの言い伝えに反対して律法を擁護されたからである。イエスが示された律法の大いなる戒めは、人間が考え出した小さな規則とくらべる時に著しい相違がみられた。 DA 876.3

イエスは、群衆に、そしてあとからもっとくわしく弟子たちに、けがれは外からくるものではなくて内からくるものであると説明された。純潔と不純とは魂の問題である。人をけがすのは、人間のつくった外面的な儀式を無視することではなくて、悪い行為、悪いことば、悪い思い、神の律法を犯すことなどである。 DA 876.4

弟子たちは、偽りの教えをばくろされた時のスパイたちの怒りに気がついた。彼らは、怒った顔を見、なかばつぶやくような不満と報復のことばを聞いた弟子たちは、キリストが開かれた本を読むように人の心を読まれる証拠を何度もお示しになったことを忘れて、キリストにそのみことばの効果を告げた。彼らは、キリストが、怒った役人たちと和解してくださるように望んで、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」とイエズに言った(マタイ15:12)。 DA 876.5

イエスは、「わたしの天の父がお植えにならなかつたものは、みな抜き取られるであろう」とお答えになった(マタイ15:13)。ラビたちが高く評価している慣習や言い伝えは、この世のものであって、天からのものではなかった。そうしたものが民に対してどんなに大きな権威をもっていても、神の試みに耐えることはできなかった。神の戒めの代りに人間が考え出したものはどんなものでも、「神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれる」その 日に無価値なことがわかるのである(伝道の書12:14)。 DA 876.6

神の戒めに人間の戒律を代用することはやまなかった。クリスチャンの間にさえ、昔の人々の言い伝えというだけでほかに何の根拠もない制度や慣習がみられる。このような制度は、ただ人間の権威に支えられて、天から指示された制度と入れ代ったのである。人々は自分たちの言い伝えを固守し、自分たちの風習を尊重し、彼らに誤りを示そうとする者に対して憎しみをいだく。今日、神の戒めとイエスを信ずる信仰とに注意を喚起するようにわれわれが命じられる時に、キリストの時代にあらわされたのと同じ敵意がみられる。神の残りの民について、こう書かれている、「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った」(黙示録12:17)。 DA 877.1

だが「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう」(マタイ15:13)。いわゆる教会の父祖たちの権威の代りに、天と地の主であられる永遠の父のみことばを受け入れるようにと、神はわれわれに命じられる。ここにだけ誤りのまじっていない真理がある。ダビデは、「わたしはあなたのあかしを深く思うので、わがすべての師にまさって知恵があります。わたしはあなたのさとしを守るので、老いた者にまさって事をわきまえます」と言った(詩篇119:99、100)。人間の権威、教会の慣習、昔の人々の言い伝えを受け入れる者はみな、「人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」と言われたキリストのみことばのうちに含まれている警告を心に留めるがよい(マタイ15:9)。 DA 877.2