各時代の希望

41/87

第41章 ガリラヤにおける危機

本章はヨハネ6:22~71に基づく DA 866.5

キリストは、民衆がイエスを王として宣言することを禁じられた時、ご自分の歴史の転換期がきたことをお知りになった。きょうはキリストを王位につけようと望んでいる群衆が、あしたは彼から離れ去るであろう。彼らの利己的な野心が裏切られた時、彼らの愛情は憎しみに、彼らの賛美はのろいにかわるであろう。しかもこのことを知りながら、キリストは、その危機を避ける手段をとられなかった。初めからキリストは、ご自分に従う者たちにこの世の報酬について望みを与えておられなかった。ご自分の弟子になりたいと望んできた者に向かって、イエスは、「きつねには八があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と言われた(マタイ8:20)。もしキリストと共に世界を支配することができたら、群衆 は、キリストに忠誠をつくしたのである。だがキリストは、このような奉仕をお受けになることができなかった。いまキリストと関係のある者たちの中には、この世の王国の望みにひきつけられている者が多くいた。こうした人々の夢をさまさねばならない。パンの奇跡のうちにある深い霊的な教えは理解されていなかった。このことを明らかにする必要があった。しかしこの新しい啓示は同時にまた一層きびしい試みを生じさせるのであった。 DA 866.6

パンの奇跡についてのうわさが遠近にひろがると、人々は、イエスを見に翌朝非常に早くべッサイダに集まってきた。彼らは、大変な人数で、海と陸づたいにやってきた。前の晩帰って行った者たちも、イエスが向こう岸に渡られる舟がなかったので、まだそこにおられると思ってまたやってきた。しかしさがしても、イエスはおられなかったので、多くの者はまだイエスをさがし求めながらカペナウムに行った。 DA 867.1

とかくするうちに、イエスは1日だけ姿をお見せにならなかったあと、ゲネサレに着いておられた。イエスが上陸されたことがわかると、人々は、「その地方をあまねく駆けめぐり、イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた」(マルコ6:55)。 DA 867.2

しばらくして、イエスは、会堂に行かれたので、ベッサイダからきた人たちは、そこでイエスをみつけ出した。彼らは、弟子たちから、イエスが海をお渡りになった様子をきいた。嵐がたけり狂ったこと、逆風に向かって何時間もむなしく舟をこいだこと、キリストが海の上を歩いて姿を現わされたこと、そのために恐怖が起こったこと、安心しなさいとのキリストのことば、ペテロの冒険とその結果、突然に嵐が静まって舟が岸に着いたことなどを、彼らは、驚く群衆にありのまま詳しく語ってきかせた。しかし多くの者は、これに溝足しないで、イエスのまわりに集まり、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」とたずねた(ヨハネ6:25)。彼らは、イエスご自身の口から奇跡の話をもっとききたいと望んだのである。 DA 867.3

イエスは、彼らの好奇心を満足させられなかった。彼は、「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」と悲しそうに言われた(ヨハネ6:26)。彼らがイエスを求めたのはりっぱな動機からではなく、パンを食べさせてもらったので、キリストについていることによって、もっとこの世の利益を受けようと望んだからであった。救い主は「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」とお命じになった(ヨハネ6:27)。物質的な利益だけを求めてはならない。現世のために備えることだけが主要な努力であってはならない。霊的な食物すなわち永遠のいのちにいたるまで続く知恵を求めなさい。これは神のみ子だけが与えることのできるもので、「父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」(ヨハネ6:27)。 DA 867.4

ちょっとの間、聴衆の興味が呼び起こされた。彼らは叫んで言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ6:28)。彼らは、神の気に入るようにたくさんのわずらわしいわざを行ってきたが、もっと大きな功績になるために遵奉すべき新しいことがあったら聞きたいという気になった。彼らの質問は、天国に入る資格を得るためにはわれわれは何をしなければならないか、きたるべきいのちを手に入れるためにはどんな代価を払わねばならないかというのであった。 DA 867.5

「イエスは彼らに答えて言われた、『神がつかわされた者を信じることが、神のわざである』」(ヨハネ6:29)。天国の代価はイエスである。天国への道は、「世の罪を取り除く神の小羊」を信ずる信仰によるのである(ヨハネ1:29)。 DA 867.6

しかし人々は、天来の真理についてのこの宣言を信じようとしなかった。イエスは、メシヤが行うであろうと預言に予告されているわざをされた。ところが人々は、自分たちの利己的な望みによってメシヤのわざとしてえがいていたものを目に見なかった。なるほどキリストは、1度は大麦のパンで群衆を養われた。しかしモーセの時代には、イスラエルは40年間マナで養われたので、これよりもはるかに大きな祝福がメ シヤに期待された。もしイエスが、自分たちの見たような多くのふしぎなわざをなさることができるのだったら、なぜご自分の民の全部に健康と力と富とを与え、われわれを圧制者から解放し、権力と名誉の座に高めてくださることができないのかと、彼らの不満な心に疑問が起こるのだった。イエスが、ご自分は神からつかわされた者だと主張しながら、しかもイスラエルの王となること塗拒絶されたことは、彼らにははかり知ることのできない一つの神秘であった。イエスの拒絶は誤って解釈された。多くの者は、イエスご自身がご自分の使命について、その天来の性格に疑問を持たれたので、当然の権利を主張しようとされないのだとの結論をくだした。こうして彼らは、心を不信に向かって開き、サタンがまいた種は、その種類に従って誤解と背信という実を結んだ。 DA 867.7

そこで1人のラビが、なかば嘲笑的にこう質問した。「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(ヨハネ6:30、31)。 DA 868.1

ユダヤ人はマナを与えてくれた人としてモーセをあがめ、うつわにすぎない彼に賛美をささげて、そのわざをなしとげられたキリストを見落していた。彼らの先祖たちは、モーセに向かってつぶやき、彼の天来の使命を疑い、これを否定した。いま同じ精神で、イスラエルの子らは、自分たちに神のメッセージを伝えておられるお方を拒絶した。 DA 868.2

「そこでイエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない』」(ヨハネ6:32)。マナをお与えになったお方が彼らの中に立っておられた。荒野のヘブル人をみちびき、天からのパンで彼らを日々養われたのはキリストご自身であった。この食物は天のまことのパンの型であった。無限に満ち足りた神のみもとから流れ出るいのちを与えるみたまは、まことのマナである。「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」と、イエスは言われた(ヨハネ6:33)。 DA 868.3

聴衆のある者たちは、イエスが言われたのはこの世の食物のことであるとまだ考えて、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」と叫んだ。するとイエスは、「わたしが命のパンである」とはっきり言われた(ヨハネ6:34、35)。 DA 868.4

イエスがお用いになった比喩は、ユダヤ人のよく知っている比喩であった。モーセは、聖霊の感化を受けて、「人はパンだけでは生きず人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」と言った(申命記8:3)。また預言者エレミヤはこう書いた、「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」(エレミヤ15:16)。ラビたち自身の間にも、パンを食べるということの霊的な意味は、律法を学び、よいわざを実行することであるという言いならわしがあったそして、メシヤが来臨されると、イスラエル全体が養われるということがよく言われていた。預言者たちの教えは、パンの奇跡に含まれている深い霊的な教訓を明らかにした。キリストは、会堂の聴衆に、この教訓を明らかにしようとしておられた。もし彼らが聖書を理解していたら、彼らは、「わたしが命のパンである」というキリストのみことばをさとったのである(ヨハネ6:35)。疲れて、弱り果てた大群衆が、キリストから与えられたパンで養われたのはついきのうのことであった。そのパンから肉体の力と元気とを受けたように、彼らは、キリストから永遠のいのちにいたる霊的な力を受けられるのであった。「わたしに来る都決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」とイエスは言われた。しかし主は、「あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない」とつけ加えられた(ヨハネ6:35、36)。 DA 868.5

彼らは、聖霊のあかしと、魂に示される神の啓示とによってキリストを見たのであった。キリストの力について生きた証拠が日々彼らに示されたが、それでも彼らはもっとほかのしるしを求めた。もしほかのしるしが与えられたとしても、彼らはあいかわらず不信のままであっただろう。自分たちが見たり聞いたりし たことによって確信が得られないのなら、彼らにもっと多くのふしぎなわざを示すことはむだだった。不信はいつでも疑問の口実をみつけ、どんな絶対的な証拠も理屈で片づけられてしまうのである。 DA 868.6

ふたたびキリストは、かたくなな心に向かって、「わたしに来る者を決して拒みはしない」と訴えられた(ヨハネ6:37)。信仰をもってキリストを受け入れる者は永遠のいのちを持つと、主は言われた。1人も失われることはない。パリサイ人とサドカイ人が、来世のいのちについて論争する必要はない。人々は、望みのない悲しみのうちに死者を嘆くには及ばない。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6:40)。 DA 869.1

しかし民の指導者たちは、感情を害して言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」(ヨハネ6:42)。彼らは、イエスのいやしい素性を嘲笑的に引き合いに出して、偏見をあおりたてようと試みた。彼らはガリラヤ人の一労働者としてのイエスの生活と、貧しくていやしいその家族とを軽蔑的にほのめかした。この無教育な大工の主張には注意を払う価値がないと、彼らは言った。また彼らは、イエスの生れが神秘的であったために、イエスの親だってあやしいものだとあてこすり、こうしてイエスの生れについての人間的な境遇をイエスの経歴の汚点として表現した。 DA 869.2

イエスはご自分の生れの神秘について説明しようとされなかった。イエスは、海を横断されたことについての質問にいっさいお答えにならなかったように、ご自分が天からおくだりになったことについての質問にも返答されなかった。 DA 869.3

イエスはご自分の生涯に目立っている奇跡に注意を求められなかった。イエスはご自分から名声のない者となられ、しもべのかたちをおとりになった。しかしイエスのことばとわざとがその品性をあらわした。心を天来の光に向けて開いている者ならだれでも、イエスを「父のひとり子……めぐみとまこととに満ちてい」るお方として認めるのである(ヨハネ1:14)。 DA 869.4

パリサイ人の偏見には、彼らの質問に表現されているよりも根深いものがあった。それは、彼らの邪悪な心に根をおろしていた。イエスの一つ一つのことばと行為は、彼らの心のうちに敵対意識を引き起こした。それは彼らのいだいている精神が、イエスのうちに共感を呼び起こさなかったからである。 DA 869.5

「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に「彼らはみな神に教えられるであろう」と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである」(ヨハネ6:44、45)。天父の愛に引きよせられ、それに応ずる者のほかは、だれもキリストのもとにこないであろう。しかし神は、すべての心をみもとに引きよせておられるのであって、神から引きよせられるのに反抗する者だけがキリストのみもとにくることをこばむのである。「彼らはみな神に教えられるであろう」ということばの中に、イエスは、「あなたの子らはみな主に教をうけ、あなたの子らは大いに栄える」というイザヤの預言に言及された(イザヤ54:13)。ユダヤ人は、この聖句を自分たちにあてはめていた。神が自分たちの教師であるというのが彼らの自慢であった。しかしイエスは、この主張がどんなにむなしいものであるかを示して、「父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである」と言われた(ヨハネ6:45)。彼らは、キリストを通してのみ天父から知識を受けることができるのであった。人間は神の栄光を見ることに耐えられなかった。神から学んだ者はみ子の声をきいていたのであって、彼らはナザレのイエスこそ、自然と啓示とを通して天父を宣言されたお方であることを認めるのであった。 DA 869.6

「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある」(ヨハネ6:47)。愛されたヨハネは、こうしたことばをきいたが、聖霊は彼を通して教会にこう宣言された。「そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子の うちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(Ⅰヨハネ5:11、12)。またイエスは、「わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」と言われた(ヨハネ6:40)。キリストは、われわれがキリストと一つ精神になるために、われわれと一つ肉体になられた。われわれが墓から出てくるのは、この結合によるのである。すなわちキリストの力のあらわれとしてだけでなく、信仰によってキリストのいのちがわれわれのものとなったからである。キリストの真の品性を見、キリストを心に受け入れる者は、永遠のいのちを持つ。キリストがわれわれのうちに住まわれるのは、みたまを通してであり、神のみたまが信仰によって心に受け入れられる時、それは永遠のいのちの始まりとなる。 DA 869.7

人々は、彼らの先祖が荒野で食べたマナのことをキリストの前に引き合いに出して、その食物が備えられたことが、あたかもイエスの行われた奇跡よりも偉大なことであるかのように言ったが、イエスはご自分が与えるためにおいでになった祝福とくらべる時に、その賜物がどんなに貧弱であったかをお示しになっている。マナはこの世の生存をささえることしかできなかった。それは死がやってくるのをとめることもできなければ、永遠のいのちを保証することもできなかった。しかし天のパンは、魂を養って永遠のいのちに入らせるのであった。イエスはこう言われた、「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」(ヨハネ6:48~51)。この比喩に、キリストは、いまもう一つをつけ加えられる。死ぬことによってのみ、キリストは、人にいのちを与えることがおできになるのであって、次に続くことばの中に、キリストは、ご自分の死を救いの手段としてさし示しておられる。すなわち、「わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」とイエスは言っておられる(ヨハネ6:51)。 DA 870.1

ユダヤ人は、エルサレムで、ちょうど過越節を祝おうとしていた。それは死の天使が、エジプトの家々を撃った時、イスラエルが救済された夜を記念するものであった。神は、彼らが過越の小羊を神の小羊イエスとして見、この象徴を通して、世の人々のいのちのためにご自分をお与えになったキリストを受け入れるように望まれた。しかしユダヤ人は、象徴だけを重視して、その意義を見失っていた。彼らは主のからだをわきまえなかった。過越節の儀式に象徴されているのと同じ真理が、キリストのみことばのうちに教えられた。しかしそれもまた認められなかった。 DA 870.2

そこでラビたちは、立腹して叫んだ、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」(ヨハネ6:52)。ニコデモが「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか」とたずねた時のように、彼らもキリストのみことばを字義通りの意味に解釈したようなふりをした(ヨハネ3:4)。ある程度彼らは、イエスの言われた意味がわかっていたのであるが、それを認めようとしなかった。イエスのみことばの意味をとりちがえることによって、彼らはイエスに対する偏見を民衆にうえつけようと望んだのであった。 DA 870.3

キリストはご自分の象徴的な表現をやわらげようとされなかった。彼はさらに強いことばで、その真理をくりかえされた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べずまた、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」(ヨハネ6:53~56)。 DA 870.4

イエスの肉を食べ、その血を飲むということは、判ストを自分自身の救い主として受け入れ、キリストがわれわれの罪をゆるしてくださることと、彼のうちにあるときわれわれが完全であるということとを信じることである。キリストの愛を見つめ、これについて瞑想し、これを飲むことによって、われわれはキリストの性 質にあずかる者となるのである。肉体にとって食物がなくてはならないように、魂にとって、キリストはなくてはならないものである。食物は、われわれがそれを食べて、それがわれわれの生命の一部となるのでなければ、何の役にもたたない。同様にキリストは、もしわれわれが彼を自分自身の救い主として知るのでなければ、われわれにとって何の価値もないのである。理論的な知識はわれわれに何の益も与えない。キリストのいのちがわれわれのいのちとなるためには、キリストを食べ、キリストを心に受け入れねばならない。キリストの愛、キリストの恵みを同化しなければならない。 DA 870.5

しかしこのような比喩でさえ、信者とキリストとの関係にある特権を表わしてはいない。イエスは、「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう」と言われた(ヨハネ6:57)。神のみ子が天父への信仰によって生きられたように、われわれもキリストへの信仰によって生きるのである。イエスは、神のみこころにまったく服従されたので、その生涯には天父のみがあらわされた。キリストは、すべての点にわれわれと同じように試みをお受けになったが、ご自分をとりかこむ悪に少しもけがされずに世人の前に立たれた。このように、われわれもまたキリストが勝利されたように勝利するのである。 DA 871.1

あなたはキリストに従う者だろうか。そうなら、霊的生活について書かれていることはすべてあなたのために書かれているのであって、それはあなた自身をイエスに結合させることによって達成されるのである。あなたの熱意は衰えつつあるだろうか。あなたの初めの愛は冷たくなっただろうか。キリストがさし出されている愛をもう1度受け入れなさい。彼の肉を食べ、彼の血を飲みなさい。そうすればあなたは、天父と一つになり、またみ子と一つになる。 DA 871.2

不信なユダヤ人は、救い主のみことばのうちにある字義的な意味よりほかには何もわかろうとしなかった。儀式の律法の中には、血を飲むことが禁じられているので、彼らはこんどはキリストのみことばを神聖をけがすことばとして解釈し、互にそのことについて議論した。弟子たちの中にさえ、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」という者が多かった(ヨハネ6:60)。 DA 871.3

救い主は彼らに答えて言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:61~63)。 DA 871.4

世の人々にいのちを与えるキリストのいのちは、そのみことばのうちにある。イエスが病気をいやし、悪鬼を追い出されたのはそのみことばによってであった。そのみことばによって、主は海を静め、死人をよみがえらせられた。人々は彼のみことばに力があったことをあかしした。キリストは、旧約のすべての預言者たちと教師たちとを通して語られたように、神のみことばをお語りになった。聖書全体はキリストを表わすものであって、救い主は、ご自分に従う者の信仰をみことばの上に固くすえようと望まれた。キリストの目に見える存在がとり去られた時、みことばが彼らの力のみなもとでなければならない。主と同じように、彼らも「神の口から出る一つ一つの言で生き」るのであった(マタイ4:4)。 DA 871.5

われわれの肉体の生命が食物でささえられるように、われわれの霊的生命は、神のみことばによってささえられる。だからどの魂も、神のみことばから自分のためにいのちを受けるのである。栄養をとるには自分が食べねばならないように、われわれは、自分自身でみことばを受け入れねばならない。われわれは、みことばを他人の頭脳を仲介として受けるだけであってはならない。神のみことばをさとることができるように、聖霊の助けを神に求めながら聖書を注意深く研究しなければならない。1節をとりあげて、神がわれわれのためにその1節の中におかれた思想を確かめる仕事に頭脳を集中しなければならない。われわれは、その思想がわれわれ自身のものとなるまで、それについて考えをめぐらさねばならない。その時 われわれは、「主が言われたこと」を知るのである。 DA 871.6

イエスの約束と警告の中には、わたしのことが言われている。神は世を愛してその独り子を賜わったが、それは、わたしがみ子を信ずることによって滅びることなく永遠のいのちを得るためである。神のみことばのうちに述べられている経験はわたしの経験となるのである。祈りと約束、教えと警告はわたしのものである。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:19~20)。このように信仰によって真理の原則を受け入れ、それを同化する時に、それはわれわれの生命の一部となり、生活の原動力となる。神のみことばは魂に受け入れられて、思想を形成し、品性の発達の要素となる。 DA 872.1

信仰の目をもってイエスをたえずながめることによって、われわれは強められる。神は、飢えかわいているご自分の民に最もとうとい啓示をお与えになる。彼らはキリストが自分自身の救い主であることを発見する。キリストのみことばを食べる時に、彼らは、それが霊でありいのちであることを知る。みことばは、生れながらの世俗的な性質を滅ぼし、イエス・キリストのうちにある新しいいのちを与える。聖霊は、助け主として魂にくだる。人を生まれ変らせる神の恵みの力によって、神のみかたちが、弟子のうちに再現され、彼は新しい人間となる。愛が憎しみに入れ代り、心は神のみかたちにかたどられる。「神の口から出る一つ一つの言で生きる」というのは、このことである(マタイ4:4)。これが天からくだるパンを食べることである。 DA 872.2

キリストは、ご自身と彼に従う者との間の関係について永遠の聖なる真理を語られた。イエスは、イエスの弟子と称する入々の性格を知っておられ、イエスのみことばは彼らの信仰を試みた。イエスは、彼らがイエスの教えを信じてこれを実行すべきであると宣言された。イエスを受け入れた者はみな、イエスの性質にあずかり、その品性に一致するのであった。このことは彼らの心に宿っている野心を放棄することを意味した。そのためには、イエスに全的に献身することが必要であった。彼らは、自己犠牲的で、柔和で、心のへりくだった者となるように召された。彼らは、いのちの賜物と天の栄光にあずかる者となりたければ、カルバリーの人イエスの歩まれた狭い道を歩まねばならない。 DA 872.3

この試みは大きすぎた。力ずくでイエスをおしたてて王としようとした人々の熱意はさめた。会堂におけるこの講話によって自分たちの目は開かれたと、彼らは断言した。いまや彼らは夢からさめた。彼らの考えによれば、イエスのみことばは、彼がメシヤではないということ、また彼と関係があってもこの世の報酬は何も得られないということのはっきりした告白であった。彼らは、キリストの奇跡を行う力を歓迎し、病気と苦しみから解放されることを熱望したが、キリストの自己犠牲的な生活に共鳴しようとしなかった。彼らはイエスの語られた神秘的な霊的王国を好まなかった。キリストを求めた不誠実で利己的な人々は、もはやキリストを望まなかった。もしキリストが、ローマ人からの解放のためにその権力と勢力とをそそがれないのなら、彼らはキリストと関係したくなかった。 DA 872.4

イエスは彼らに、「あなたがたの中には信じない者がいる」とはっきり言われて、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」とつけ加えられた(ヨハネ6:64、65)。イエスは、もし彼らが天父に引きつけられないなら、それは彼らの心が聖霊に向かって開かれていないからであるということを彼らが理解するように望まれた。「生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(Ⅰコリント2:14)。魂がイエスの栄光を仰ぎ見るのは、信仰によってである。この栄光は、信仰が聖霊によって魂のりちに燃えあがるまではかくされているのである。 DA 872.5

この弟子たちは、自分たちの不信を公然と譴責されたので一層イエスから遠ざかった。彼らは非常に不快だったので、救い主を傷つけてパリサイ人の敵意を満足させようと望んで、イエスに背を向け、軽蔑の色を浮べて立ち去った。彼らは自ら選択して、精神のない形式、実の入っていないからを取った。彼らの決心はその後もかわらなかった。彼らはふたたびイエスとともに歩まなかったからである。 DA 873.1

「箕(み)を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め……るであろう」(マタイ3:12)。それはふるい分ける一つの時代であった。真理のみことばによって、からは麦から分けられつつあった。彼らは、うぬぼれが強く、独善的で、譴責を受け入れることができずまた世俗への愛着のためにつつましい生活を受け入れることができなかったので、多くの者がイエスから離れた。今日も多くの者が同じことをしている。カペナウムの会堂でこれらの弟子たちが試みられたように、今日も魂が試みられる。真理が心にうえつけられると、彼らは、自分たちの生活が神のみこころに一致していないことをさとる。彼らは自分自身のうちに完全な変化が行われなければならないことを認めるが、自己犠牲的な働きをとりあげたくない。だから彼らは、自分の罪がばくろされると怒るのである。彼らは、弟子たちがイエスを離れ去ったように、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」とつぶやきながら、気を悪くして行ってしまうのである(ヨハネ6:60)。 DA 873.2

彼らの耳には称賛とお世辞はこころよいが、真理は歓迎されない。彼らはそれを聞くことができない。民衆が従い、大群衆が養われ、勝利の叫びが聞かれると、彼らは、声高らかに賛美する。しかし神のみたまのさぐりによって彼らの罪があらわされ、その罪を離れるように命じられると、彼らは、真理に背を向けてふたたびイエスと共に歩まない。 DA 873.3

こうした不満な弟子たちがキリストから離れ去ると、異なった精神が彼らを支配した。彼らは、1度は非常な興味をもって見ていたイエスに、心をひかれるものを何も見ることができなかった。彼らは、イエスの敵をさがし出した。それは彼らが敵の精神と働きに一致していたからであった。彼らは、イエスのことばを誤解し、彼の宣言を曲解し、彼の動機を攻撃した。彼らは、イエスにとって不利なあらゆる項目を集めることによって、自分たちの行動を正当づけた。このような偽りのうわさによって、非常な怒りがかきたてられたので、イエスの生命は危険になってきた。 DA 873.4

ナザレのイエスが自分はメシヤではないと告白したという知らせがたちまちひろがった。こうして、前の年にユダヤにおいてそうであったように、ガリラヤにおいても民衆の感情の流れはイエスにさからった。イスラエルのために残念なことに、彼らは救い主をこばんだ。なぜなら彼らはこの世の権力を与えてくれるような征服者をあこがれたからである。彼らは永遠のいのちにいたるまで保つ食物でなく、朽ちる食物を望んだ。 DA 873.5

イエスは、これまで弟子だった者たちが、人のいのちであり光であるご自分のもとから離れ去って行くのを憐れみの思いをもってごらんになった。ご自分の憐れみが理解されず、その愛が報いられず、いつくしみが軽んじられ、救いがこばまれたという意識が、イエスの心を言い表しようのない悲しみで満たした。イエスが「悲しみの人で、病を知っていた」といわれたのは、このような事情からであった(イザヤ53:3)。 DA 873.6

イエスは、ご自分から離れ去って行く人たちをとめようとしないで、12人弟子に向かって、「あなたがたも去ろうとするのか」と言われた(ヨハネ6:67)。 DA 873.7

ペテロが答えて、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう」とたずね、「永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」とつけ加えた(ヨハネ6:68、69)。 DA 873.8

「わたしたちは、だれのところに行きましょう」(ヨハネ6:68)。イスラエルの教師たちは形式主義のとりこであった。パリサイ人とサドカイ人はしじゅう言い争っていた。イエスを去ることは、慣例や儀式をやかましくいう連中や自分自身の名誉を求める野心 家たちの仲間に入ることであった。弟子たちは、キリストを受け入れてから、以前のどんな生活よりも平和と喜びとを感じていた。どうして彼らは、罪人の友イエスをあざけり迫害した人たちのところへもどって行けようか。彼らは、長い間メシヤを待望してきた。そのメシヤがいまおいでになったのである。彼らは、イエスの前から立ち去って、イエスの生命をねらい、またイエスに従う者となったために彼らを迫害した人たちのところへ行くことはできなかった。 DA 873.9

「わたしたちは、だれのところに行きましょう」。キリストの教え、また愛といつくしみについてのキリストの教訓から離れて、不信の暗黒、世間の邪悪さの中に入って行くことはできなかった。救い主のふしぎなみわざを目に見た多くの人々が主を捨てて去ったが、ペテロは、「あなたこそキリストです」と弟子たちの信仰を表明した(マルコ8:29)。自分たちの魂の錨(いかり)であるこのお方を失うことを考えただけで、彼らは恐れと苦痛に満たされた。救い主なしでは、暗い嵐の海をただようのも同然であった。 DA 874.1

イエスのみことばと行いの多くは、限りある人間の心には神秘的に思えるが、そのことばと行いの一つ一つには、われわれをあがなうための働きにおける明確な目的があって、それぞれの結果を生ずるように考慮されていた。もしわれわれがキリストの意図を理解することができるなら、すべてのことが重要であり、完全であり、そしてキリストの使命と調和していることがわかるのである。 DA 874.2

われわれは、いま神のみわざと方法とを理解することはできないが、人に対する神のすべての態度の根底には神の大いなる愛があることを認めることができる。イエスの近くに生活している者は、敬虔の奥義について多くのことをさとる。譴責が与えられ、品性が試みられ、心の意図が明るみに出されるのは、憐れみによるものであることを彼は認める。 DA 874.3

イエスが試金石となる真理を示され、そのために多くの弟子たちが離反した時、彼はご自分のことばの結果がどうなるかをご存知であった。しかし主は、達成すべき憐れみの目的をもっておられた。イエスは、試みの時に、愛する弟子たちの一人一人が激しく試みられることを予見しておられた。ゲッセマネのキリストの苦しみ、キリストが売り渡され十字架につけられることは、彼らにとって非常にきびしい試練となるのであった。もし前もって試練が与えられなかったら、ただ利己的な動機から行動していた多くの者たちも弟子たちとの関係を続けたであろう。彼らの主が法廷で有罪の宣告を受けられた時、またかつてイエスを王として歓呼した群衆がイエスをののしり、イエスに悪口を浴びせた時、あるいはまたやじ馬たちが「十字架につけよ」と叫んだ時、一こうして彼らの世俗的な野心が裏切られた時、これらの利己的な連中は、イエスへの忠誠心を捨てることによって、虫のよい望みがこわれてしまったことに悲嘆と失望とを感じていた弟子たちに一層心の重荷となるにがい悲しみを与えたであろう。こうした暗黒の時に、イエスから離れ去った連中の手本によって、他の者たちも彼らにひきずられたかも知れなかった。しかしイエスは、ご自分に真に従っている者たちを、ご自分の存在によってまだ強めることがおできになる間に、この危機を招かれたのであった。 DA 874.4

憐れみ深いあがない主は、ご自分を待っている運命を十分に知っておられたので、やさしくも弟子たちのために道を平らにし、最大の試練に彼らを備えさせ、最後の試みのために彼らを強められた。 DA 874.5