各時代の希望
第40章 湖上の一夜
本章はマタイ14:22~33、マルコ6:45~52、コハネ6:14~21に基づく DA 863.1
春の夕暮のうす明りの中で、人々は草原にすわって、キリストがお備えになった食物を食べた。その日聞いたみことばは、神のみ声として彼らにのぞんだ。彼らが目に見たいやしのわざは、神の力だけしか行うことのできないものだった。しかしパンの奇跡はこの大群衆の一人一人の心をとらえた。全部の者がその恩恵にあずかった。モーセの時代に、神は荒野でイスラエル人をマナで養われたが、その日彼らを養われたのは、モーセが預言していたお方にほかならなかった。5つの大麦のパンと2匹の小さな魚から5000人の飢えた人々に食べさせるだけの十分な食物をつくり出すことは、どんな人間の力でもできなかった。そこで彼らは互いに「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った(ヨハネ6:14)。 DA 863.2
終日この確信は強まって行った。あの最高のみわざこそ、長い間待望していた救世主がわれわれの中におられる証拠である。人々の望みはだんだん高まっていく。この方こそユダヤをこの世の楽園にし、乳と蜜の流れる地にしてくださるお方である。彼はあらゆる望みを満足させてくださることができる。彼は憎むべきローマ人の権力を打破することがおできになる。彼はユダとエルサレムを救うことがおできになる。彼は戦いに傷ついた兵士たちをいやすことがおできになる。彼は全軍に食物を補給することがおできになる。彼は諸国を征服し、イスラエルが長い間求めていた主権を与えることがおできになる。 DA 863.3
民衆は熱心のあまりいますぐにもイエスを王位につけようとする。彼らは、イエスがご自分に注意をひきつけたり、栄誉を求めたりしようと努力されないのを見る。この点イエスは祭司たちや役人たちと根本的にちがっておられるので、彼らはイエスがダビデの位につく権利を主張されないのではないかと恐れる。彼らは相談し合って、イエスをむりやりにおし立て、イスラエルの王として宣言することに一致する。弟子たちも群衆と一緒になって、ダビデの位が彼らの主の正当な嗣業であることを宣言しようとする。キリストがこのような栄誉をこばまれるのは、遠慮のせいだと彼らは言う。民衆に救世主をあがめさせよう。高慢な祭司たちや役人たちにも、神の権威を帯びてこられたイエスを否応なしにあがめさせよう。 DA 863.4
彼らは自分たちの目的を実行する手はずを熱心に進める。だがイエスは、この成り行きをごらんになり、彼らには理解できないが、このような運動の結果がどうなるかを理解される。いまでさえ祭司たちと役人たちは、イエスのいのちをねらっている。彼らは、イエスが民衆を彼らから引き離しているといって非難している。イエスを王位につけようとする努力には暴力と反乱がともない、霊的王国のみわざがさまたげられるであろう。すぐにこの運動をとめなければならない。イエスは、弟子たちをお呼びになって、民衆を解散させるためにわたしは残るから、あなたがたは舟に乗ってすぐカペナウムへもどりなさいと命じられる。 DA 863.5
キリストの命令がこれほど実行できないことに思えたことはこれまでになかった。弟子たちは、イエスを王位につける民衆の運動を長い間待ち望んできた。彼らは、このような熱心さがみなむだになってしまうという考えに耐えられなかった。過越節を守るために集まってきている群衆は、この新しい預言者を見たがっていた。キリストに従っている者たちにとって、これこそ愛する主のためにイスラエルの王位を確立する絶好の機会に思えた。この新しい野心が燃えあがっている中を、淋しい岸辺にイエス1人を残して、自分たちだけで立ち去るのはつらいことだった。彼らはこの手はずに抗議した。だがイエスは、かつてこれまで彼らに対してとられたことのない権威をもって、いま彼らに語られた。彼らは、これ以上反対することが無益であることを知り、だまって海へ向かった。 DA 863.6
イエスは、こんどは群衆に解散するようにお命じになる。イエスの態度が断固としているので、彼らは従 わないわけにいかない。賛美と称賛のことばが彼らのくちびるから消える。イエスをつかまえようと前へ進み出た彼らの足はとまり、喜びにあふれ、熱心な表情が彼らの顔つきから消える。この群衆の中には堅固な精神と固い決意の人々がいるが、イエスの堂々たる態度とことば少ない静かな命令によって騒ぎがおさまり、彼らの計画は失敗する。彼らはキリストのうちに地上の一切の権威にまさる権力を認め、文句なく屈服する。 DA 863.7
1人になられると、イエスは「祈るためひそかに山へ登られた」(マタイ14:23)。何時間もイエスは神に嘆願しつづけられた。その祈りはご自分のためではなく、人々のためであった。主はサタンのために人々の理解力がくもり、判断が誤ることのないように、ご自分の使命の天来の性格を人々に示す力が与えられるように祈られた。救い主は、この地上で自ら伝道される日がほとんど終わり、しかも彼をあがない主として受け入れる者が少ないことをご存知だった。魂の苦しみと戦いのうちに、主は弟子たちのために祈られた。彼らは苦痛なまでに試みられるのであった。世間一般のまちがった信念にもとつく彼らの宿望は、非常な苦痛に満ちた屈辱的な方法で失望させられるのであった。彼らはキリストがダビデの位にのぼられるどころか、十字架につけられるのを見るのであった。これこそイエスの真の即位となるのだった。だが彼らは、そのことを認めなかったので、その結果、強い試みが彼らにのぞみ、彼らはそれを試みとして認めることが困難となるのだった。聖霊によって心を照され、理解力が増し加えられなければ、弟子たちの信仰は失われるであろう。キリストのみ国についての彼らの観念が大部分現世的な誇張と名誉に限られていることが、イエスにとって苦痛だった。彼らのために、重荷がイエスの心に重くのしかかっていたので、イエスは、苦痛とにがい涙とをもって、嘆願を口に出された。 DA 864.1
イエスはすぐに出発するように命じられたが、弟子たちはすぐには陸地を離れなかった。彼らはイエスが自分たちのところへおいでになることを望んで、しばらく待った。しかし夕やみがたちまち迫ってくるのを見て、彼らは「舟に乗って海を渡り、向こう岸のカペナウムに行きかけた」(ヨハネ6:17)。彼らは不満な気持でイエスを残してきた。 DA 864.2
イエスを自分たちの主と認めてから、こんなにいらだった気持はこれまでに感じたことがなかった。彼らはイエスを王として宣言することがゆるされなかったので、不平を言った。イエスの命令にこんなにたやすく従ったことで自分たちを責めた。もっとがんばったら、われわれの目的は達成されたかも知れないと、彼らは議論した。 DA 864.3
彼らの思いと心は、だんだん不信に占められた、名誉欲が彼らを盲目にしていた。彼らは、イエスがパリサイ人から憎まれているのを知っていた。彼らはイエスがあがめられるべきであると考えていたので、そうなるのをぜひ見たかった。偉大な奇跡を行うことがおできになる先生といっしょにいて、しかも欺瞞者としてののしられることはとても耐えられない試みだった。自分たちはいつでもにせ預言者の弟子とみなされるのだろうか。キリストは王としての権威を主張されないのだろうか。これほどの力を持ったお方がなぜご自分の真の性格を示して、われわれの道を苦痛のないものにしてくださらないのだろうか。イエスはなぜバプテスマのヨハネを非業の死から救われなかったのだろうか。弟子たちはこのように議論したので、ついには彼ら自身の上に非常な霊的暗黒を招いた。イエスはいったいパリサイ人たちが主張するように詐欺師なのだろうかと、彼らは質問した。 DA 864.4
弟子たちは、その日キリストのふしぎなみわざを目に見ていた。天が地におりてきたように思えた。この輝かしく、とうとい日の思い出によって、彼らは信仰と望みに満たされるべきだった。そうしたことについて、心に満ちあふれるままに語り合っていたら、彼らは試みにおちいるようなことはなかったのである。だが彼らは失望に心を奪われていた。「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」と言われたキリストのみことばに注意が払われなかつた(ヨハネ6:12)。それは弟子たちにとって大きな 祝福の時であったのに、彼らはそのことをまったく忘れていた。彼らは波の立ちさわぐ湖のまん中にいた。彼らの思いもまた荒れて、理性を欠いていたので、主は、彼らの魂を苦しめ、彼らの心を占領するような何かほかのものをお与えになった。人間が自分で重荷と苦労とをつくり出す時に、神はたびたびそういうことをなさる。弟子たちは自分で苦労をつくるに及ばなかった。すでに危険が急速に迫っていた。 DA 864.5
激しい嵐がしのびよってきていたのに、彼らはそのために備えができていなかった。その日は申し分のない天気だったので、それは突然な変化だった。疾風に襲われると、彼らは恐れた。彼らは不満も不信もいらだっている気持も忘れた。だれもが舟が沈まないように働いた。ベッサイダから、イエスにお会いすることになっていた地点までは、海上いくらもない距離で、普通の夫候の時なら、その旅には数時間しかかからなかった。だがいま彼らは、目ざす地点からだんだん遠くへ流された。明け方の4時になるまで、彼らはほねおって舟をこいだ。それから彼らは疲れ果ててしまってもうだめだとあきらめた。嵐と暗黒の中で、彼ら自身、己の無力さがわかったので、主がいてくださったらと熱望した。 DA 865.1
イエスは彼らをお忘れになっていなかった。陸上で見守っておられるイエスは、恐怖にとりつかれたこの人たちが嵐と戦っているのをごらんになっていた。一瞬間も、イエスは、弟子たちを見失っておられなかった。イエスの目は大事な人たちをのせて嵐にもまれている舟を最も深い心配のうちに追っていた。なぜなら、この人たちは世の光となるのだった。母親がやさしい愛情をもって子供を見守るように、憐れみ深い主は弟子たちを見守っておられた。彼らが自分の心に打ち勝ち、きよくない野心を征服し、謙遜な気持で助けを祈った時、その助けが与えられた。 DA 865.2
彼らがもうだめだと思った瞬間、かすかな光の中に彼らの方へ向かって海の上を近づいてくる一つのふしぎな姿が現われる。しかし彼らにはそれがイエスであることがわからない。自分たちを助けにこられたお方を、彼らは敵だと思う。彼らは恐怖に圧倒される。鉄のような筋肉でオールをにぎっていた手が離れる。舟は波のまにまに揺れ、全部の目はあわだつ海の白い波頭の上を歩いてくる人間の光景に釘づけにされる。 DA 865.3
彼らはその姿を彼らの滅亡を予告する幻影と考え、恐ろしさのあまり叫び声をあげる。イエスは彼らのそばを通り過ぎられるかのように進んで行かれる。すると彼らは、それがイエスであることを認め、大声をあげて助けを懇願する。愛する主はふりかえられ、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」とのお声が彼らの恐怖を静める(マタイ14:27)。 DA 865.4
彼らがこのすぼらしい事実を信ずることができたとたんに、ペテロはうれしさのあまりわれを忘れた。彼はまだ信じられないかのように叫んだ。「『主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください』。イエスは、『おいでなさい』と言われた」(マタイ14:28、29)。 DA 865.5
イエスをみつめながら、ペテロは安全に歩いて行く。だが自己満足のうちに舟の中の仲間たちの方をちらっとふりかえった時、彼の目はイエスからそれる。風は荒れ狂っている。波が高くうねってペテロと主との間にまっすぐやってくると、ペテロは恐れる。一瞬キリストの姿がペテロの視界からかくれると、彼の信仰は失われる。ペテロは沈み始める。しかし大波が死と語っている間に、ペテロは荒れ狂う波から目をあげてイエスを見つめ、「主よ、お助けください」と叫ぶ(マタイ14:30)。すぐにイエスは、ペテロのさし出した手をつかんで、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われる(マタイ14:31)。 DA 865.6
ペテロは、主の手につかまりながら並んで歩いて、一緒に舟の中に入った。だがペテロはこんどはおとなしくだまっていた。彼は仲間たちに自慢する理由がなかった。不信と高慢のためにあぶなくいのちを失いかけたからである。イエスから目をそらした時、彼は足場を失い波のまん中に沈んだのだ。 DA 865.7
われわれも、苦難におそわれる時、ペテロのようになることがどんなに多いことだろう。われわれは、目を救い主にそそがないで、波をみつめる。われわれ の足はすべり、もりあがった波がわれわれの魂の上を越える。イエスは、ペテロが滅びるために、みもとにこいと命じられたのではなかった。イエスは、ご自分に従うようにわれわれを召しておいて、そのあとでわれわれを捨てるようなことをなさらない。イエスはこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である」(イザヤ43:1~3)。 DA 865.8
イエスは弟子たちの品性をお読みになった。イエスは弟子たちの信仰がどんなにきびしく試みられるかを知っておられた。海上での出来事を通して、イエスは、ペテロに彼自身の弱さを示そうと望まれた。すなわち彼の安全は、たえず神の力にたよっていることにあることを示そうと望まれたのである。試みの嵐のさなかにあって、彼は、まったく自分にたよらずに、救い主によりたのむ時はじめて安全に歩むことができるのであった。ペテロの弱いところは、彼自身が一番強いと考えていたところにあった。彼は、自分の弱さを感じないうちは、キリストによりたのむ必要を認めることができなかった。もし彼が海上でのあの経験を通して、イエスが彼に教えようとされた教訓を学んでいたら、彼は、大きな試練がやってきた時に失敗しなかったであろう。 DA 866.1
日ごとに、神は、ご自分の子らをお教えになる。日常生活の環境を通して、神は、ご自分の子らが神の摂理によって彼らに負わされている一層広い舞台での役割を果たすように、彼らを準備しておられる。人生の大危機における勝利か敗北かを決定するのは、毎日の試みの結果である。 DA 866.2
たえず神によりたのんでいることを認めない者は、試みに負ける。われわれは、自分の足がしっかり立っていて、決して動かされることがないといまは思うかも知れない。わたしは自分が信じたお方を知っている、何ものも神とそのみことばに対するわたしの信仰をゆり動かすことはできないと、確信をもって言うかも知れない。だがサタンは、われわれの先天的後天的な性格に乗じ、われわれ自身の必要と欠点とをわれわれの目からおおいかくそうとたくらむ。自分自身の弱さを認め、イエスにしっかり目をそそぐことによってのみ、われわれは、安全に歩むことができるのである。 DA 866.3
イエスが舟の中の席につかれたとたんに、風はやみ、「舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた」(ヨハネ6:21)。恐怖の夜につづいて夜明けの光がさしてきた。弟子たちと、舟の中にいたほかの者たちは、感謝の思いでイエスの足下にひざまずき、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った(マタイ14:33)。 DA 866.4