各時代の希望
第39章 「あなたがたの手で食物をやりなさい」
本章はマタイ14:13~21、マルコ6:32~44、ルカ9:10~17、ヨハネ6:1~13に墓づく DA 858.2
キリストは弟子たちと一緒に人里離れた場所へしりぞかれたが、このめったにない平和と静けさのひと時は、まもなく破られた。弟子たちは、人々に邪魔されないところへひっこんだと思った。だが群衆は、天来の教師イエスの姿がみえなくなったとたんに、「イエスはどこにおられるのか」とたずねた。彼らの中には、キリストが弟子たちといっしょに行かれた方向に気づいていた者たちがいた。イエスと弟子たちに会うために、多くの者は陸づたいに、またある者たちは舟で湖を渡って追いかけた。過越節が近づいていたので、エルサレムに行く途中の巡礼者たちの団体が、イエスを見るために遠近から集まった。人々の数は増し加わって、ついに女子供のほかに5000人が集まった。キリストが岸にお着きになる前に、群衆がイエスを待っていた。しかしイエスは、彼らに見られないように上陸して、弟子たちと一緒に人々を離れてしばらくの時間を過ごされた。山の中腹から、イエスは、動いている群衆をごらんになった。するとイエスの心は、同情に動かされた。邪魔をされ、休息を奪われても、イエスは短気を起こされなかった。イエスは、人々がぞくぞくとやってくるのをごらんになった時、彼らの世話をすることがもっと必要であることに気がつかれた。イエスは、「飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれ」まれた(マルコ6:34)。イエスは、かくれ場所を出て、人々に奉仕するのに都合のよい場所をみつけられた。人々は、祭司たちと役人たちからは何の助けも受けなかった。しかしキリストが群衆に救いの道をお教えになった時、いやしを与えるいのちの水がキリストから流れ出た。 DA 858.3
人々は神のみ子の口から豊かに流れ出る憐れみのことばに耳をかたむけた。彼らは恵み深いことばを聞いたが、それは単純で、率直で、彼らの魂にとってギレアデの香油のようであった。キリストの聖なるみ手によるいやしによって、死にかけている者にはいのちと喜びが与えられ、病気に苦しんでいる者には安心と健康が与えられた。その日は彼らにとって地上の天国のように思われ、彼らは、もう何時間もものを食べていないことなどまったく念頭になかった。 DA 858.4
ついにその日もほとんど過ぎ去った。太陽は西に沈みかけていたが、まだ人々は立ち去りかねていたイエスは、終日、食事も休息もとらずに働かれた。イエスが疲れと空腹で青い顔をしておられたので弟子たちは働きをやめてくださいとたのんだ。しかしイエスは、まわりにつめかけている群衆から退くことがおできにならなかった。 DA 858.5
弟子たちは、ついにイエスのもとにきて、群衆自身のためにも彼らを去らせてくださるようにとすすめた。多くの者は、遠くからきていて、朝から何も食べてい なかった。彼らはまわりの町や村で食物を買うことができるかも知れなかった。しかしイエスは、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われ、ふり向いてピリポに、「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」とおたずねになった(マルコ6:37、ヨハネ6:5)。イエスがこう言われたのは、この弟子の信仰をためすためであった。ピリポは人の波を見わたして、これほどの群衆の欲求を満足させるだけの食物を準備することは不可能だと思った。彼は、200デナリのパンを買っても人々にくばるほど十分ではなく、たとえくばってみてもごく僅かずつしかないでしょうと答えた。イエスは、弟子たちの中にどれほどの食物があるかとおたずねになった。するとアンデレが、「ここに、大麦のパン5つと、さかな2ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」と言った(ヨハネ6:9)。イエスは、それを持ってくるようにお命じになった。それからイエスは、弟子たちに、人々の秩序を保っためと、イエスがしようとしておられることがみんなに見えるように、50人か100人ずつの組にして草の上にすわらせるようにお命じになった。その通り実行された時、イエスは食物を手にとり、「天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、12かごあった」(ルカ9:16、17)。 DA 858.6
人々に平和と幸福とを手に入れる方法をお教えになったイエスは、彼らの霊的必要と同じに、物質的必要も思いやられた。人々は疲れ、弱っていた。腕に赤ん坊をかかえ、すそにまつわりつく小さな子供をつれた母親たちもいた。多くの者は何時間も立ちつづけていた。彼らはキリストのみことばに熱心な興味をおぼえたので、1度も腰をおろそうと考えたこともなく、また群衆があまりに多いために、お互いに踏みつける危険もあった。イエスは彼らに休む機会を与えようとお思いになって、すわるようにお命じになった。その場所にはたくさんの草がはえていて、みな気持よく休むことができた。 DA 859.1
キリストは真の必要を満たすことのほかには決して奇跡を行われなかった。しかも奇跡の一つ一つは、万国の民をいやす葉をもったいのちの木に人々をみちびくような性質のものだった。弟子たちの手によってくばられた質素な食物には、いろいろな教訓の宝が含まれていた。用意されたものは粗末な食事だった。魚と大麦のパンは、ガリラヤ湖のほとりの漁師たちの家族の常食だった。キリストは人々の前にぜいたくな食事を並べることもおできになった。だが食欲を満足させるためだけに用意された食物は、彼らのためになる教訓を与えなかった。キリストは、この教訓を通して、神が人のためにお与えになった自然の食糧が正しく用いられていなかったことを彼らにお教えになった。ゆがめられた食欲を満足させるために作られるぜいたくな食事をしている人たちは、人の住居から遠く離れたところで、キリストから与えられた休みと質素な食事を楽しんだこの人たちのような喜びを味わったことは決してなかった。 DA 859.2
もし今日人々が、創世当時のアダムとエバのように、単純な習慣のうちに自然の法則と一致した生活を送るなら、人類家族の必要は豊かに満たされるのである。想像だけの必要は少なくなり、神の方法で働く機会が多くなる。しかし利己心と不自然な食欲をほしいままにすることから、一方では有り余っているのに、一方では足りないために、この世に罪と不幸とが生じた。 DA 859.3
イエスは、人々のぜいたくへの欲求を満足させることによって、彼らをひきつけようとはされなかった。興奮した長い1日のあとで、疲れと空腹とをおぼえているこの大群衆にとって、質素な食事は、キリストの力の保証であったばかりでなく、また日常の一般的な必要についてもキリストが彼らのためにやさしく心を用いておられることの保証であった。救い主はご自分に従う者たちにこの世のぜいたくを約束されなかった。彼らの食事は、質素であり、また乏しいことさえあるかもしれない。彼らは貧乏な境遇にとじこめられているかも知れない。だがキリストのみことばには、彼らの必要が満たされることが保証されており、 キリストは、彼らに、この世のよいものよりもはるかによいもの、すなわちご自身の臨在といういつまでも続く慰めを約束しておられる。 DA 859.4
5000人に食物をお与えになったことによって、イエスは、自然界のベールを開いて、たえずわれわれの幸福のために働いている力をお示しになる。地の作物の生産に、神は毎日奇跡を行っておられる。自然の働きを通して、あの群衆に食物を与えたのと同じ働きがなしとげられる。人は土地をたがやし、種をまく。だが種子を発芽させるのは神からのいのちである。「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実」を生じさせるのは、神の雨と空気と日光である(マルコ4:28)。地の作物畑から毎日幾百万の人々を養われるのは神である。人は、穀物を管理し、パンを作ることに、神と協力するように求められる。そのために人は、神の働きを見落す。彼らは当然神の聖なるみ名にささげられるべき栄光を神にささげない。神の力の働きが、自然の原因や人間の手段のせいにされる。神の代りに人間があがめられ、神の恵みの賜物は利己的な用途に悪用されて、祝福ではなくわざわいとなる。神はこうしたことをすべて変えようとしておられる。神は、われわれのにぶい感覚がめざめて、神の憐れみ深い親切を認め、神の力のみわざについて神をあがめるように望まれる。神はまた、神の賜物がみこころ通りに、われわれにとって祝福となるように、その賜物を通してわれわれが神を認めるように望まれる。キリストの奇跡が行われたのは、この目的を達成するためであった。 DA 860.1
群衆に食べさせたあとに、たくさんの食物が残った。しかし無限の力のみなもとをすべて自由に用いることがおできになるイエスが、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」と言われた(ヨハネ6:12)。このことばには、パンをかごに入れることよりももっと深い意味があった。これには二重の教訓があった。何一つむだにしてはならない。われわれは、この世で益となるものは一つものがしてはならない。人類を益するのに役立つものは何一つおろそかにしてはならない。地上の飢えた人々の必要を満たすものは何でも集めなさい。また霊的な事物にも同じ注意を払わねばならない。食べくずのかごが集められた時、人々は家にいる友人たちのことを心に思った。彼らはキリストが祝福されたパンを友人たちに分け与えたいと望んだ。かごの中味はそうした熱心な群衆にくばられて、まわりのすべての地方にはこばれて行った。これと同じように、ごちそうになった者は、魂の飢えを満足させるために、天からくだるパンを他人に与えるのであった。彼らは、神のすばらしい事がらについて学んだことをくりかえすのであった。何一つ失われてはならなかった。彼らの永遠の救いにかかわることばは、一つもむだに地面に落ちてはならなかった。 DA 860.2
パンの奇跡は、神によりたのむことについて教訓を教えている。キリストが5000人を養われた時、食物は手もとになかった。キリストがお用いになれる手段はないように見えた。キリストは、この荒野に女子供のほか5000人と共におられた。イエスがご自分についてくるようにこの大群衆を招かれたのではなかった。彼らは、招かれたり、命じられたりしてきたのではなかった。しかし群衆が長い時間イエスの教えをきいたあとで、気が遠くなりそうにおなかがすくことを、イエスはわかっておられた。なぜならイエスこ自身も彼らと同じに食物を必要とされたからである。彼らは家から遠く離れており、夜が迫っていた。彼らの多くは食物を買う金がなかった。彼らのために荒野で40日間断食されたイエスは、彼らを空腹のまま家へ帰そうとは思われなかった。神の摂理がイエスをその立場に置いたのだった。そこでイエスは、必要を満たす手段を求めて、天父によりたのまれた。 DA 860.3
われわれもまた困難な立場におちいった時には、神によりたのむべきである。われわれは、向こう見ずな行動によって苦境におちいることがないように、人生の一つ一つの行為に、知恵と判断とを働かすべきである。神がお備えになった手段を無視し、神がわれわれにお与えになった才能をまちがったことに用いて、困難にとび込むようなことがあってはならない。キリストの働き人は、絶対的にキリストの教えに 従うべきである。この働きは神の働きである。だから他人の祝福になりたければ、神のご計画に従わねばならない。自我を中心とすることはできない。自我が誉を受けることはできない。もしわれわれが自分自身の考えにしたがって計画すれば、主は、われわれをわれわれ自身の誤りの中に放置される。しかし神の指示にしたがっていて、それでも苦境におちいるようなことがあれば、神は、われわれを救ってくださる。われわれは落胆してあきらめてしまわないで、どんな危急の時にも、無限にどんな手段でもお用いになれる神に助けを求むべきである。われわれは、しばしばきびしい境遇にとりかこまれることがあるが、そういう時こそ絶対の信頼心をもって神によりたのまねばならない。神は、主の道に従おうとして困難におちいっている魂を1人ももれなく守ってくださる。 DA 860.4
キリストは、預言者を通して、「飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これに着せ、……苦しむ者の願いを満ち足らせ」よとわれわれにお命じになった(イザヤ58:7~10)。キリストはまた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」とわれわれにお命じになった(マルコ16:15)。しかしわれわれは、必要が大きく、われわれの手にある資金が少ないのを見る時、どんなにしばしば気持ちが沈み、信仰がなくなることだろう。アンデレが大麦のパン5つと小さな魚2匹を見た時のように、われわれは「こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」と叫ぶ(ヨハネ6:9)。自分の持っているものを全部ささげたくないのと、他人のために費したり費されたりするのを恐れるために、われわれはしばしばちゅうちょする。しかしイエスは、「あなたがたの手で食物をやりなさい」とわれわれにお命じになった(マルコ6:37)。キリストの命令は約束である。その約束の背後には、海辺で群衆を養われたのと同じ力がある。 DA 861.1
飢えた群衆の一時的な必要を満たされたキリストの行為の中に、ご自分のすべての働き人に対するキリストの深い教訓が含まれている。キリストは天父からお受けになった。彼は弟子たちにお与えになった。弟子たちは群衆に与え、人々は互いに与え合った。同じように、キリストにつながっている者はみな、キリストから天の食物である命のパンを受け、それを他人に与えるのである。 DA 861.2
イエスは、神にまったく信頼しきって、わずかなパンのたくわえを手にとられた。そしてキリストご自身の家族である弟子たちのために少しの分け前しかなかったが、イエスは彼らに食べるようにとはおっしゃらずに、人々にくばりなさいと命じて弟子たちの手に渡し始められた。食物はイエスの手で何倍にもふえたので、ご自身が命のパンであられるキリストにさし出された弟子たちの手は決してからにならなかった。少しのたくわえが、みんなのために十分であった。人々の欲求が満たされてから、その食べくずが集められ、キリストは弟子たちと天の神から与えられたこのとうとい食物をとられた。 DA 861.3
弟子たちは、キリストと民との間の伝達のチャンネルであった。このことは今日のキリストの弟子たちにとって大きな励ましでなければならない。キリストは大中心、すなわちすべての力のみなもとである。キリストの弟子たちは、キリストから補給を受けるのである。どんなに賢明な者でも、どんなに霊的な心を持った者でも、受ける時にのみ与えることができる。彼らは自分自身では魂の必要を何一つ満たすことができない。われわれは、キリストから受けるものだけを与えることができる。われわれはまた、他人に与える時にのみ受けることができる。われわれは、たえず与えるときに、たえず受ける。そして多く与えれば与えるほどますます多く受ける。こうしてわれわれは、たえず信じ、頼り、受け、与えることができるのである。 DA 861.4
キリストのみ国を建設する働きは、どう見ても進展が遅く、不可能なことがらが前進を妨げているようにみえるけれども、それでもそれは前進するのである。この働きは神からのものであり、神が資金を用意し、また真実で真面目な弟子たちを助手としてつかわされるが、彼らの手にも飢えた大衆に与える食物が満たされるのである。神は、滅びつつある魂にいのちの みことばを与えるために愛をもって働く人々のことをお忘れにならない。これらの魂は、こんどはほかの飢えた魂に与えるために、食物を求めて手をさし出すのである。 DA 861.5
神のためのわれわれの働きにおいて、才能や手腕のある人の力量にあまりたよりすぎる危険がある。こうしてわれわれは、ただ1人の偉大な働き人であられる主を見失うのである。キリストのために働く者が、自分自身の責任を認めないことがよくある。彼は、すべての力のみなもとであられるキリストによりたのまないで、自分の重荷を団体におしつける危険がある。神の働きにおいて人間の知恵や数をたよりにするのは大きな間違いである。キリストのための働きにおける成功は、数や才能よりもむしろ純粋な目的と熱心によりたのむ信仰の真実な単純さにかかっている。個人の責任を負い、個人の義務をとりあげ1キリストを知らない人々のために個人的な努力を払わねばならない。あなたの責任をあなたよりももっと豊かな才能をそなえていると思われるほかの人におしつけないで、あなたの才能にしたがって働きなさい。 DA 862.1
「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」との質問があなたの心に浮ぶ時、あなたの答に不信が反映してはならない(ヨハネ6:5)。「あなたがたの手で食物をやりなさい」との救い主のご命令を弟子たちがきいた時、彼らの心にはあらゆる困難が浮んだ(マルコ6:37)。食物を買いに村まで出かけるのですかと、彼らは質問した。そのように今も、いのちのパンに欠乏している時、主の民は、彼らに食物を与えるために遠くのだれかを呼びにやりましょうかと質問する。しかしキリストは何と言われただろうか。イエスは、「人々をすわらせなさい」と言われ、そこで彼らに食べさせられた(ヨハネ6:10)。そのように、あなたが必要を感じている魂にかこまれている時には、キリストがそこにおられると知りなさい。キリストと交わりなさい。あなたの大麦のパンをイエスのもとに持って行きなさい。 DA 862.2
われわれの持っている資金はみわざのために十分とは思えないかも知れない。しかし神の満ち足りた力を信じて、信仰をもって前進する時、われわれの前には豊かな資源が開かれる。この働きが神からのものならば、その完成のためには、神が自ら資金を備えてくださる。正直に単純に神によりたのむ者に、神は報いてくださる。少しのものでも、それが天の主への奉仕に賢明に経済的に用いられる時、それは与える行為そのものによって増し加わる。キリストのみ手にある時に、少しの食物の供給は、飢えた群衆が満足するまで、いつまでも減らなかった。もしわれわれが、受けるために信仰の手をさし出して、すべての力のみなもとであられる神のもとへ行くならば、われわれは、どんなに見込みのない事情の中にあっても、われわれの働きは支えられ、他人にいのちのパンを与えることができる。 DA 862.3
主はこう言われる、「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう」「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。……神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。 DA 862.4
『彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう』 DA 862.5
と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さる方は、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(ルカ6:38、Ⅱコリント9:6~11)。 DA 862.6