各時代の希望

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第38章 さあ、しばらく休みなさい

本章はマタイ14:1、2、12、13、マルコ6::30~32、ルカ9:7~10に基づく DA 855.1

伝道旅行から帰ってくると、「使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。するとイエスは彼らに言われた、『さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい』。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」(マルコ6:30、31)。 DA 855.2

弟子たちは、イエスのもとへやってきて、すべてのことをイエスに語った。イエスと親密な間柄にあることから、彼らは、うまくいったこと、うまくいかなかったこと、骨折りの結果を見てうれしかったこと、失敗を見て悲しんだこと、自分たちの欠点や弱さなど、どんなことでもイエスに話したい気持になった。彼らは伝道者としての最初の働きにいろいろまちがいを犯した。そうした経験を率直にイエスにお話しした時、イエスは、彼らに教えなくてはならないことがたくさんあることにお気づきになった。イエスはまた、彼らが働きに疲れていて、休息が必要なことをお知りになった。 DA 855.3

しかし現在いる場所では、彼らは、必要な静かな生活を送ることができなかった。「それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」(マルコ6:31)。人々は、病気をなおしてもらおうと熱望し、またイエスのみことばをきこうと熱望して、キリストのもとにおしかけた。多くの者がイエスに心をひかれた。彼らには、イエスがあらゆる祝福のみなもとにみえたからである。そのとき、健康の恵みを受けようとしてキリストのまわりにむらがり集まったこれらの人々の中の多くは、イエスを自分の救い主として受け入れた。他の多くの者たちは、その時パリサイ人を恐れて、イエスを告白することをためらったが、彼らも、聖霊が降下したときに悔い改め、怒っている祭司たちと役人たちの前で、イエスを神のみ子として認めた。 DA 855.4

だがいまキリストは、弟子たちに言いたいことがたくさんおありになったので、彼らと一緒にいられるように、人目につかないところへ退きたいと望まれた。弟子たちは、働きを通して戦いの試練を経験し、いろいろな形の反対に出会った。それまでは彼らは何でもかんでもキリストに相談していたが、しばらくの間自分たちだけだったので、時々どうしたらよいか判断に困るようなことがあった。彼らは、自分たちの働きに多くの励ましを見いだした。なぜならキリストは、みたまなしには彼らをおつかわしにならなかったし、またキリストを信じる信仰によって、彼らは多くの奇跡を行ったからであった。だが彼らは、今いのちのパンによって養われる必要があった。彼らは、イエスと交わり、将来の働きのために教えを受けることができるようなどこかひっこんだ場所へ行く必要があった。「するとイエスは彼らに言われた、『さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい』」(マルコ6:31)。キリストは、主の奉仕に働くすべての人に対して、やさしさと憐れみに富んでおられる。キリストは、弟子たちに、神がお求めになるのはいけにえではなく、情深いことであるということを示したいと望まれた。彼らは、人々のための働きに全心全霊を注いでいたので、体力も知力も使い果たしていた。休息することは彼らの義務であった。 DA 855.5

弟子たちは、自分たちの働きが成功したので、それを自分の手柄にしたり、高慢な精神をいだいたりして、サタンの誘惑に陥る危険があった。彼らの前には大きな働きがあったが、何よりもまず彼らは、力が自分自身のうちにはなくて、神のうちにあるということを学ばねばならなかった。シナイの荒野におけるモーセ、ユダヤの丘におけるダビデ、あるいはケリテ川のほとりのエリヤのように、弟子たちは、忙しい活動の舞台からしりぞいて、キリストと交わり、自然と交わり、そして自分自身の心と交わる必要があった。 DA 855.6

弟子たちが伝道旅行に行っていたるすに、イエスは他の町々や村々をおとずれて、み国の福音をのべ伝えられた。バプテスマのヨハネが死んだという知 らせをイエスがお受けになったのは、ちょうどこのころであった。この出来事は、イエスご自身の歩みがたどりつつあった終局を、まざまざとイエスに思わせた。影がイエスの道にだんだん濃くなってきていた。祭司たちとラビたちは、イエスの死を企てる機会をねらい、スパイたちがイエスの後につきまとい、イエスを滅ぼそうとする陰謀が四方にふえていた。使徒たちがガリラヤのいたるところで教えを説いているという知らせがヘロデの耳に入り、彼の注意が、イエスとその働きに向けられた。彼は、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ」と言って、イエスに会いたいという希望を表明した(マタイ14:2)。ヘロデは、自分を領主の地位から追い出し、ユダヤ国民に対するローマの束縛をたち切るために、ひそかに革命が進められているのではないかということをしじゅう恐れていた。民衆の間には不満と反乱の精神がみなぎっていた。ガリラヤでのキリストの公衆伝道が長くつづけられないことは明らかであった。苦難の場面が近づいていたので、キリストは、しばらくの間、群衆の混乱から離れたいと望まれた。 DA 855.7

悲しい思いのうちに、ヨハネの弟子たちは、首切られたヨハネのからだを運んで行って埋葬した。それから彼らは、「イエスのところに行って報告した」(マタイ14:12)。この弟子たちは、キリストが民衆をヨハネか弓引き離しておられるようにみえた時、キリストをねたんだ。彼らは、キリストがマタイの食卓に取税人たちと一緒にすわられた時、パリサイ人たちと一緒にキリストを非難した。彼らは、キリストがバプテスマのヨハネを自由の身にされなかったので、キリストの天来の使命を疑った。しかしいま自分たちの師が死んだので、彼らはその大きな悲しみのうちにあって、慰めと、将来の働きについての指導とを心から求めてイエスのところへやってきて、イエスと利害を一つにした。彼らもまた救い主と交わる静かなひと時が必要であった。 DA 856.1

湖の北端ベッサイダの近くに、さびしい地方があって、そこはいま春の新鮮な緑が美しく、イエスと弟子たちにとって有難いかくれ場所にみえた。この場所へ向かって、彼らは舟で湖を横切って出かけた。ここでは、街路の交通や都会の雑踏と騒がしさから離れていられるのであった。自然の景色そのものが休息であり、感覚にとって有難い変化だった。ここでなら、怒って妨害する声、すなわち律法学者たちとパリサイ人たちのやりかえしや非難の声を聞かないで、キリストのみことばに耳を傾けろことができた。ここだったら、主との交わりのうちにしばらくのとうとい交わりを楽しむことができた。 DA 856.2

キリストの弟子たちがとった休息は、放縦な休息、ではなかった。彼らがひきこもって過ごした時間は、快楽を追い求めることに費されなかった。彼らは、神のみわざについて、またみわざをもっと能率的に進展させる可能性について、共に語り合った。弟子たちはこれまでキリストといっしょにいて、キリストを理解することができた。キリストは、彼らには、たとえをもって語られる必要がなかった。イエスは、弟子たちのあやまちをただし、民衆に接触する正しい方法を明らかにされた。イエスは、天来の真理のとうとい宝をもっと十分に彼らにお見せになった。彼らは、神の力によって活気づけられ、望みと勇気がわき起こった。 DA 856.3

イエスは、奇跡を行うことがおできになり、また弟子たちにも奇跡を行う力をさずけておられたが、この疲れ果てたしもべたちに、人をさけていなかに行って休むようにお命じになった。収穫は多く働き人が少ないとキリストが言われた時、彼は、弟子たちに休むまもなく働く必要があるとは強調されないで、「だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」と言われた(マタイ9:38)。神は、各人の能力に応じて、一人一人をその働きに任命された(エペソ4:11~13参照)。神は、ある人々は何の重荷も、魂の苦しみもないのに、少数の人々にだけ重い責任を負わせようとは望まれなかった。 DA 856.4

キリストの憐れみのことばは、当時の弟子たちに語られたのと同じに、今日の働き人に向かって語られる疲れはてて弱っている者に向かって、キリストは、「さ あ、あなたがたは、人を避けて、……しばらく休むがよい」と言われる。人々の霊的な必要に奉仕することにおいてさえ、いつも働きの重荷と緊張のうちにあることは賢明ではない。なぜなら、このようにして本人自身の信仰がおろそかになり、心と魂とからだの能力に過重な負担がかかるからである。キリストの弟子たちは克己心を要求され、また犠牲を払わねばならない。しかし熱心の度が過ぎたために、サタンが人間の弱味につけこみ、神の働きが妨害されるようなことがないように注意することもまた必要である。 DA 856.5

ラビたちの意見によれば、宗教の本質はいつも忙しく活動していることにあるというのであった。彼らは、人よりもすぐれた自分たちの信仰を示すために、何か外見的な業績にたよった。こうして彼らは自らの魂を神から引き離し、自己満足のうちに自己を築きあげた。同じ危険が今も存在している。人々は、活動が増し、神のためのどんな働きにも成功するようになると、人間的な計画や方法にたよる危険がある。祈りが少なくなり、信仰がうすくなりがちである。弟子たちと同じように、われわれは、神によりたのむことを忘れて、自分の活動を救い主にしようとする危険がある。われわれは、たえずイエスをながめて、働きをなすのはキリストの力であることを認める必要がある。われわれは、失われた者の救いのために熱心に働く一方では、瞑想と祈りと神のみことばの研究に時間をとら拙ばならない。多くの祈りによってなしとげられ、キリストの功績によってきよめられた働きだけが、善に対して力のあるものであったことが最後にわかるであろう。 DA 857.1

イエスの一生ほど骨折りと責任で多忙な生活はほかになかった。それなのに、祈っておられるイエスの姿がどんなにかしばしば見受けられたことだろう。彼はどんなに始終神と交わられたことだろう。キリストの地上生涯の歴史には、次のような記録がいくつも見られる。「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」「おびただしい群衆が教えを聞いたり、病気をなおしてもらったりするために、集まってきた。しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」「このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた」(マルコ1:35、ルカ5:15、16、6:12)。 DA 857.2

他人の幸福のために全的にささげられた生涯において、救い主は、旅の往来と、毎日毎日ご自分についてくる群衆から退くことが必要であることに気がつかれた。ひっこんでだれにも邪魔されないで天父と交わるために、イエスはたえまない活動の生活と人間のいろいろな必要との接触から離れられねばならなかった。イエスは、われわれと同じお方、われわれの必要と弱さを共にされるお方として、全的に神によりたのまれた。そして義務と試練に対して張り切って出て行くために、イエスは、ひそかな祈りの場所で、神の力をお求めになった。罪の世にあって、イエスは、魂の戦いと苦しみに耐えられた。主は、神と交わることによって、ご自分に重くのしかかっている悲しみの重荷をおろすことがおできになった。そこにイエスは、慰めと喜びを見いだされた。 DA 857.3

キリストを通して、人類の叫びは限りなく憐れみ深い天父に達した。人としてキリストは、人性と神性とを結合する天来の電流によって、ご自分の人性が充電されるまで、神のみ座に嘆願された。世の人々にいのちを与えるために、イエスは絶え間ない交わりを通して神からいのちを受けられた。イエスの経験がわれわれの経験となるのである。 DA 857.4

「さあ、あなたがたは、人を避けて」とイエスはわれわれに命じられる(マルコ6:31)。イエスのみことばに留意する時、われわれはもっと強く、もっと役立つ者となる。弟子たちは、イエスを求めて、すべてのことをイエスに語った。するとイエスは、彼らを力づけ、彼らに教えられた。もしきょうわれわれが時間をとってイエスのみもとに行き、われわれの必要をイエスに告げるならば、われわれは失望させられないであろう。主は、われわれの右側にいて助けてくださる。われわれは、もっと単純になり、もっとイエスに信頼し、もっとイエスを信用する必要がある。「大能の神、とこしえの父、平和の君」という名のお方、「まつりごと はその肩にあり」といわれているお方は、「霊妙なる議士」である。われわれは、そのお方に知恵を求めるように招かれているのである。彼は「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与え」てくださる(イザヤ9:6、ヤコブ1:5)。 DA 857.5

神の訓練を受けているすべての者のうちには、世とその慣例や習慣に一致しない生活があらわされる。だれでもみな、神のみこころを知るために、個人的な経験をする必要がある。われわれは、神が心に語られるのを個人的にきかねばならない。ほかの声がみな沈黙して、静けさのうちに神の前に待つ時、魂の静寂は神のみ声を一層明らかにする。神は、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とわれわれに命じておられる(詩篇46:10)。ここにだけ真の休息が見いだされる。これこそ神のために働くすべての者にとって効果的な準備である。あわただしい群衆の中にあって、人生の激しい活動の緊張のうちにあって、このように活気づけられた魂は、光と平和の雰囲気にとりかこまれる。その生活はかぐわしい香りを放ち、人々の心に達する神の力をあらわすのである。 DA 858.1