各時代の希望

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第37章 最初の伝道者たち

本章はマタイ10章、マルコ6:7~11、ルカ9:1~6に基づく DA 848.3

使徒たちはイエスの家族であった。イエスが歩いてガリラヤを旅行される時、彼らはイエスについてまわった。彼らは、身にふりかかる苦労と困難を、イエスとともにわけ合った。彼らはイエスの説教をきいた。彼らは神のみ子とともに歩み、そして語った。イエスの日ごとの教えから、彼らは、人類の向上のためにどのように働いたらよいかを学んだ。イエスがまわりに集まったおびただしい群衆に奉仕される時、弟子たちはそばにつきそっていて、イエスの言いつけを行い、その骨折りを軽くしようと努めた。彼らは人々を整理したり、苦しんでいる人たちを救い主のもとにつれてきたり、みんなが気持よくいられるようにしたりなど、いろいろ手伝った。彼らは興味を示している聴衆を見守り、その人たちに聖書を説明し、彼らの霊的な利益のためにいろいろな方法で働いた。彼らはイエスから学んだことを教え、毎日豊かな経験を積んでいた。しかし彼らはまた1人で働く経験も必要だった。彼らはまだもっと多くの教訓と大きな忍耐と 思いやりが必要だった。いま、救い主が親しくいっしょにおられて、彼らのまちがいを示し、彼らに助言を与え、彼らのまちがいを直してくださることができる間に、救い主は、彼らをご自分の代表者として送り出された。 DA 848.4

弟子たちは、イエスと一緒にいた時、祭司たちとパリサイ人たちの教えにたびたび悩まされたが、その悩みをイエスのところへ持って行った。イエスは言い伝えと対照的に、聖書の真理を彼らの前に示されたこうしてイエスは、神のみことばに対する彼らの信頼心を深め、ラビたちを恐れる気持や、言い伝えの束縛から、彼らを大いに解放された。弟子たちの訓練において、救い主の生活の模範は、単なる教義上の教えよりもはるかに効果があった。弟子たちがイエスと別れた時、イエスの顔つきや口調やことばの一つ一つが彼らによみがえってきた。福音の反対者たちと衝突した時、彼らは、たびたびイエスのみことばをくりかえし、その効果が人々にあらわれるのを見て、非常に喜んだ。 DA 849.1

イエスは、12人をみもとにお呼びになって、2人ずつ一緒になって町々や村々をまわるようにお命じになった。誰も1人ではつかわされず、兄弟と兄弟、友だちと友だちが組み合わされた。こうして彼らは、互に助け合い、励まし合い、共に助言したり祈ったりして、一方の力で他方の弱さを補うことができた。同じやり方で、イエスはのちに70人をつかわされた。福音の使者たちがこのように組み合わされることが、救い主のみこころであった。今の時代にこの模範にもっと忠実に従うなら、伝道の働きはもっとずっと成功するであろう。 DA 849.2

弟子たちのメッセージは、バプテスマのヨハネやキリストご自身のメッセージと同じに、「天国は近づいた」であった。彼らは、ナザレのイエスがメシヤであるかどうかということについて、人々と論争を始めるのではなく、イエスがなさったように慈善の働きを、キリストのみ名によってするのであった。「病人をいやし死人をよみがえらせ、重い皮膚病を患っている人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」とイエスは彼らに命じられた(マタイ10:8)。 DA 849.3

イエスは、公生涯の間、説教することよりも病人を治すことに、多くの時間をささげられた。イエスの奇跡は、イエスが滅ぼすためではなく救うためにおいでになったというみことばが事実であることを証明した。イエスの義はその前に行き、主の栄光はそのしんがりとなった(イザヤ58:8参照)。どこへ行かれても、イエスの恵みのおとずれが先立った。イエスのお通りになったあとには、イエスから憐れみを受けた人たちが健康を喜び、新しく与えられた力を試みていた。彼らのまわりに集まった群衆は、主のなさったみわざを、彼らの口から聞いた。イエスの声は、多くの人々がきいた最初の声であり、イエスのみ名は、彼らが語った最初のことばであり、イエスのみ顔は、彼らが仰いだ最初の顔であった。どうしてイエスを愛し、イエスを賛美しないでいられようか。イエスが町々や都市を通りすぎられる時、彼は、いのちの流れのように、いたるところにいのちと喜びとをまきちらされた。 DA 849.4

イエスに従う者は、イエスが働かれたように働くのである。われわれは、飢えた者に食べさせ、裸の者に着せ、苦しみ悩む者を慰めるのである。われわれは、絶望している者に奉仕し、望みのない者に望みを起こさせるのである。その時われわれにもまた「あなたの義はあなたの前に行き、主の栄光はあなたのしんがりとなる」との約束が成就される(イザヤ58:8)。無我の奉仕にあらわされるキリストの愛は、悪事を行う者を矯正するのに、剣や裁判所よりも効果がある。剣や裁判所は、法律を犯す者に恐怖を与えるのに必要だが、愛の伝道者はそれ以上のことができる。心は譴責されるとしばしば固くなるが、キリストの愛にふれるととける。伝道者は肉体の病気を軽くすることができるばかりでなく、罪という悪疾から魂をきよめてくださることのできる大医師に罪人を導くことができる。神は、ご自分のしもべたちを通して、病人や不幸な人たちや悪霊につかれた人たちに、ご自分のみ声をきかせようと計画しておられる。神は人間といううつわを通して、世の人々が知らなかったような 慰め主になることを望んでおられる。 DA 849.5

弟子たちは、最初の伝道旅行では、「イスラエルの家の失われた羊のところ」にだけ行くことになっていた(マタイ10:6)。もしその時、異邦人やサマリヤ人に福音を説いていたら、彼らはユダヤ人に対する影響力を失ったであろう。彼らはパリサイ人の偏見を引き起こして、論争にまきこまれ、そのために働きの初めから落胆したであろう。使徒たちでさえ、福音はすべての国々に伝えられるのだということをなかなか理解しなかった。この事実を彼らが自らつかむことができるまでは、異邦人のために働く準備ができていなかった。もしユダヤ人が福音を受け入れたら、神は彼らを異邦人への使者にしようと考えておられた。そこで最初にユダヤ人がメッセージを聞いたのであった。 DA 850.1

キリストが働かれた伝道地のいたるところに、自身の必要にめざめて飢えかわくように真理を求めている魂があった。こうしたあこがれ求める心に、キリストの愛についての音信を伝える時がきていた。こうしたすべての人々に、弟子たちは、キリストの代表者として行くのであった。こうして信者たちは、弟子たちを天から任命された教師として仰ぐようになり、救い主が彼らの間からとり去られた時に、彼らは教師がないままにとり残されないのであった。 DA 850.2

この最初の旅行で、弟子たちは、イエスが前に行って友だちをおつくりになったところにだけ行くのであった。彼らの旅行の準備は、最も簡単なものであった。彼らの心をこの大きな働きからそらしたり、あるいは何かのことで反対を引き起こして今後の働きの門戸をとざしてしまうようなものは、何もゆるされないのであった。彼らは宗教教師の服を着たり、いやしい農夫たちと区別をつけるような服装をしたりしてはならなかった。彼らは会堂に入って人々を公の礼拝に呼び集めてはならなかった。彼らは戸ごと訪問の働きに努力を集中するのであった。もてなしを受けるために家から家を回ったり、不必要なあいさつなどに時間を浪費してはならなかった。しかしどこでも、価値のある人々やキリストご自身をもてなすかのように心から彼らを歓迎する人々のもてなしは受けてよかった。彼らは、「平安がこの家にあるように」との美しい挨拶で住居に入って行くのであった(ルカ10:5)。その家庭は、彼らの祈りや、賛美の歌や、家族が集まって聖書を開くことなどによって祝福されるのであった。 DA 850.3

これらの弟子たちは、真理の先駆者となって、主の来臨に道を備えるのであった、彼らが伝えなければならないメッセージは、永遠のいのちのことばで、人々の運命は、そのことばを受け入れるかこばむかにかかっていた。このメッセージが厳粛なものであることを弟子たちに印象づけるために、イエスは彼らにこう言われた、「もしあなたがたを迎えもせずまたあなたがたの言葉を聞きもしない八があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう」(マタイ10:14、15)。 DA 850.4

いま救い主の目は将来を見通される。主は、ご自分の死後弟子たちがイエスのために証人となるもっと広い分野をごらんになる。イエスの預言の目は、ご自分がもう1度おいでになるまで、各時代にわたって、ご自分のしもべたちが経験することを、とらえられる。主は、ご自分に従う者たちに、彼らの会わねばならない戦いをお示しになる。主は、その戦いの性格と規模を明らかにされる。主は、弟子たちが会わねばならない危険と、必要な克己心を彼らの前に示される。主は、弟子たちが、気づかないうちに敵にとらえられることがないように、前もって結果を検討するように望まれる。彼らの戦いは、血肉との戦いではなく、「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エベソ6:12)。彼らは超自然の勢力と戦うのであるが、しかし超自然の助けが保証されている、天のすべての天使たちがこの軍勢の中にいる。また天使たちよりも強いお方がこの隊列の中におられる、主の軍勢の隊長を代表される聖霊が、戦闘を指揮するためにくだってこられる。われわれの弱点は多く、われわれ の罪と過失は悲しむべきものかもしれない。だが神の恩恵は、悔いた心でこれを求めるすべての人に与えられる。全能者の力は、神に信頼する人に協力するのである。 DA 850.5

イエスは「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ」と言われた(マタイ10:16)。キリストご自身は、真理のみことばをひとこともかくさずいつでも愛をもってそれをお語りになった。イエスは人々との交わりに、最大の機知と思いやりのある親切な注意とを働かされた。主は、決して不作法だったり、不必要にきびしいことばを出したり、感じやすい魂に不必要な苦痛を与えたりなどされなかった。主は、人間の弱さを非難されなかった。イエスは、偽善、不信、不義を恐れるところなく攻撃されたが、激しい譴責のことばを出される時には、その声に涙があった。道であり真理でありいのちであるイエスを受け入れることをこばんだエルサレム、イエスの愛された都エルサレムのために、イエスはお泣きになった。人々は救い主イエスをこばんだが、イエスはやさしい憐れみと、心を裂く深い悲しみとをもって彼らをごらんになった。どの魂もイエスの御目にはとうとかった。イエスはいつも天来の威厳を備えておられたが、同時にまたこの上なくやさしい思いやりをもって、神の家族の一人一人をかえりみられた。すべての人のうちに、イエスは堕落した魂をごらんになり、その魂を救うことがイエスの使命であった。 DA 851.1

キリストのしもべたちは、生れつきの心が命じるままに行動しない。彼らは、挑発されて、自我が頭をもたげ、不似合いなことば、枯れしぼむ草木をうるおす露や小雨のようではないことばをはきちらすことがないように、神と密接に交わる必要がある。こうしたことは、サタンが彼らにさせようと望んでいることである。なぜならそうしたことはサタンの手段だからである。怒っているのは龍である。怒りと非難のうちにあらわされるのはサタンの精神である。神のしもべたちは神の代表者となるのである。神は、彼らが神ご自身のみかたちと刻印とを備えている真理を、天の雰囲気のうちにとり扱うように望んでおられる。彼らが悪にうち勝つ力は、キリストの力である。キリストの栄光が彼らの力である。彼らは、キリストの美しさに目をそそぐ。その時彼らは、天来の機知とやさしさとをもって福音を示すことができる。こうして、腹が立つようなことがあってもやさしさを失わない精神は、どんな力強い議論よりも、真理のためにずっと効果的に語るのである。 DA 851.2

真理の敵との戦いにはいった人たちは、人間だけでなく、サタンとその部下にも対抗しなければならない。こうした人々は、「わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである」との救い主のみことばを覚えているがよい(ルカ10:3)。彼らは、神の愛のうちに安んじるがよい。そうすれば、個人的にひどい仕打ちを受けても、冷静な精神を保つことができる。主は、彼らに天来のよろいかぶとを着せてくださる。聖霊が心と思いに働くので、彼らの声はおおかみのほえるような調子を帯びない。 DA 851.3

弟子たちへの教えを続けて、イエスは「人々に注意しなさい」と言われた(マタイ10:17)。彼らは、神を知らない人たちを盲目的に信頼して、自分の考えを彼らに打ち明けるようなことをしてはならなかった。そうすることは、サタンの部下たちを有利にするからであった。人間の考え出したことは、しばしば神のご計画にさからう。主の宮を建てる者たちは、山で示された型、すなわち天の型に従って建てるのである。神のしもべたちが、聖霊のみちびきのもとにない人たちの助言にたよる時、神ははずかしめられ、福音は裏切られる。世の知恵は神には愚かである。これにたよる者は必ずまちがう。 DA 851.4

「彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、……またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」(マタイ10:17、18)。迫害は光をひろめる。神のしもべたちは、世のえらい人たちの前にひっぱり出されるが、この人たち は、こういうことがなければ、福音をきくことは決してないかもしれない。この人たちは、真理を曲解してきた。彼らはキリストの弟子たちの信仰についてまちがった非難をきいてきた。しばしば彼らの信仰の本当の性格を知る唯一の手段は、彼らの信仰を審問するためにつれてこられた人たちのあかしである。審問の際に、彼らは答えねばならず、また裁判する人たちは陳述されるあかしをきかねばならない。神の恵みは、その危急に応ずるために、神のしもべたちに与えられる。「言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である」(マタイ10:19、20)。神のみたまがご自分のしもべたちの心を照すとき、神の力と尊さを伴った真理が示される。真理をこばむ者は、弟子たちを訴え、圧迫しようとする。しかしたとえ死にいたるまで損害と苦難を受けても、主の民は、天来の模範であられるキリストの柔和をあらわすのである。このようにして、サタンの部下とキリストの代表者たちの間の相違がみられる。救い主は役人たちや民衆の前で高められるのである。 DA 851.5

弟子たちは殉教者の勇気と不屈の精神を、こうした徳が必要となるまでは、与えられなかった。それが必要となった時、救い主の約束は成就した。ペテロとヨハネがサンヒドリンの会議であかしをたてた時、人々は「不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め」た(使徒行伝4:13)。ステパノについては、こう書かれている、「議会で席についていた人たちは皆、ステパノに目を注いだが、彼の顔は、ちょうど天使の顔のように見えた。」人々はステパノが、「知恵と御霊とで語っていたので、それに対抗できなかった」(使徒行伝6:15、10)。パウロもまた、カイザルの法廷で審問を受けた時のことを、こう書いている。「わたしの第1回の弁明の際には、わたしに味方をする者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。……しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、すべての異邦人に聞かせるように、主はわたしを助け、力づけて下さった。そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである」(Ⅱテモテ4:16、17)。 DA 852.1

キリストのしもべたちは裁判にかけられた時に陳述することばを前もって準備してきめておくのではなかった。彼らの準備は、日々に神のみことばのとうとい真理をたくわえ、祈りを通して信仰を強めることによってなされるのであった。彼らが裁判に呼び出された時に、聖霊は必要な真理を彼らに思い出させてくださるのであった。 DA 852.2

神と、神がおつかわしになったイエス・キリストとを知るために日々熱心に努力する時に、魂には力と能率とが与えられる。聖書を熱心に研究することによって得られた知識は、ちょうどよい時にぱっと思い出される。しかしもしだれでもキリストのみことばを知ることを怠っていたら、またもし彼らが試みの時にキリストの恵みの力をためしていなかったら、彼らは、聖霊がキリストのみことばを思い出させてくださることを、期待することはできなかった。彼らは日々二心のない愛情をもって神に仕え、それから神に信頼するのであった。 DA 852.3

福音に対する敵意は非常に激しく、この世の最も親しいきずなさえ無視されるのであった。キリストの弟子たちは、自分自身の家族の者から裏切られて死に渡されるのであった。「また、あなたがたはわたしの名のゆえに、すべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とイエスはつけ加えられた(マルコ13:13)。しかしイエスは、不必要に迫害に身をさらさないようにとお命じになった。イエスご自身も、彼のいのちを求める者からのがれるために、ある働き場所を去って他の場所へ行かれたことがたびたびあった。イエスがナザレでこばまれ、ご自分の町の人たちが彼を殺そうとした時、彼はカペナウムに行かれたが、そこでは「その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた」(ルカ4:32)。同じように、キリストのしもべたちも、迫害に落胆しないで、魂の救いのためにまだ働くことのできる場所をさがすのであった。 DA 852.4

しもべはその主人以上のものではない。天の君イエスはベルゼブルと呼ばれたが、彼の弟子たち同 じょうに曲解されるであろう。しかしどんな危険があろうと、キリストに従う者たちは、自分たちの主義を公言しなくてはならない。彼らは、かくすことをいさぎょしとしない気持がなければならない。彼らは、安全を保証されるまでは真理を告白しないでいるということはできない。彼らは、人々に危険を警告する見張り人として立てられているのである。キリストから受けた真理を、自由に公然と、すべての人に分け与えねばならない。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ」と、イエスは言われた(マタイ10:27)。 DA 852.5

イエスご自身、決して妥協によって安全をお求めにならなかった。イエスの心は全人類に対する愛であふれていたが、イエスは、彼らの罪を決して甘やかされなかった。イエスは、人々が自分の魂——イエスがご自分の血で買われた魂を滅ぼす道を歩むのを彼らの友としてだまって見ていることがおできにならなかった。イエスは、人が自分自身に忠実であるように、自分のもっと高い永遠の利害に忠実であるように、ほねおられた。キリストのしもべたちは同じ働きに召されているのであって、彼らは、不和を防こうとして、真理を放棄するようなことがないように気をつけねばならない。彼らは「平和に役立つこと……を、追い求め」るのであるが、真の平和は決して主義を妥協させることによって確保することはできない(ローマ14:19)。だれでも主義に忠実であれば必ず反対が引き起こされる。霊的であるキリスト教は、不麹順の子らによって反対されるであろう。しかしイエスは、弟子たちに、「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」とお命じになった(マタイ10:28)。神に忠実な者たちは、人間の権力やサタンの敵意を恐れるにおよぼない。キリストのうちに彼らの永遠のいのちが確保されているのである。被らのただ一つの恐れは、真理を放棄するようなことはないか、そうすることによって神からの名誉ある信任を裏切るようなことはないかということでなければならない。 DA 853.1

人々の心を疑いで満たすことが、サタンの働きである。サタンは、神がきびしくさばかれるおかたであると人々に考えさせる。サタンは人々を誘惑して罪を犯させておいて、自分は悪人だから天父のみもとに行くことはできないとか、天父の憐れみを請うことはできないと、彼らに考えさせる。主はすべてこうしたことをご存知である。イエスは、弟子たちが必要と弱さのうちにある時に、神の同情が彼らにあることを保証しておられる。ため息が出るたびに、苦痛を感じるたびに、魂が悲しみに刺されるたびに、その心のうずきは天父の心に伝わるのである。 DA 853.2

聖書には、高く聖なるところにおられる神は、何もしないで、だまってただ1人でおられるのではなく、みこころをなそうと待っている千々万々の聖天使たちにとりかこまれておられることが示されている。われわれがみわけることのできない方法で、神は、宇宙のどんな部分とも活発に交わっておられる。しかし、神の関心と全天の関心が集中されているのは、この一粒の世界、救うためにひとり子をお与えになった魂である。神は、しいたげられている者の叫びを聞くために、み座から身をかがめておられる。真心からの祈りの一つ一つに対して、「わたしはここにいる」と、神はお答えになる。神は苦しんでいる人々やしいたげられている人々を起こして下さる。われわれのすべての苦しみに神が苦しんで下さる。誘惑されるたびに、試みられるたびに、神のみ前にある天使が、救い出すために近くにいるのである。 DA 853.3

1羽のすずめでさえも地に落ちるとかならず天父の注意をひく。サタンは神を憎むあまりに、救い主の関心のまとになっているものを何でも憎む。サタンは神のみ手のわざを傷つけようとし、もののいえない被造物さえ滅ぼすことを喜ぶ。神の守りのみ手によってのみ、鳥たちは生きて、その喜びの歌でわれわれを喜ばせることができるのである。しかし神は、すずめでさえもお忘れにならない。「それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」(マタイ10:31)。 DA 853.4

イエスは続けてこう言われる。あなたがたが人々 の前でわたしを告白するように、わたしも神と聖天使たちの前であなたがたを告白しよう。あなたがたは地上にあってわたしの証人、世の人々をいやすためにわたしの恵みが流れて行く水路となるのである。同じようにわたしも、天においてあなたがたを代表する者となる。天父はあなたがたの欠点のある品性をごらんにならないで、わたしの完全を着せられたあなたがたをごらんになる。わたしは天父の祝福をあなたがたに注ぐ仲立ちである。そして、失われた者のためにわたしと犠牲を共にすることによって、わたしを告白する者はだれでも、あがなわれた者の栄光と喜びを共にする者として、わたしはその人を告白しよう。 DA 853.5

キリストを告白したい者は、自分のうちにキリストに住んでいただかねばならない。彼は、自分が受けていないものを伝えることはできない。弟子たちは、教理について雄弁に語ることも、キリストご自身のみことばをくりかえすこともできたかもしれなかった。しかしもしキリストのような柔和と愛とをもっていなかったら、彼らは、キリストを告白していることにならなかった。告白はどうであろうと、キリストの精神に反する精神は、キリストをこばんでいるのである。人は、悪口やおろかなおしゃべりや、不真実なことばや不親切なことばなどによって、キリストをこばむかもしれない。人はまた生活の重荷を避けたり、罪の快楽を追い求めたりすることによって、キリストをこばむかもしれない。彼らは世に従ったり、無作法な行為をしたり、自分自身の意見に執着したり、自分自身を義としたり、疑いをいだいたり、とり越し苦労をしたり、暗黒のうちに住んだりすることなどによって、キリストをこばむかもしれない。すべてこうしたやり方によって、彼らはキリストが自分のうちにおられないことを宣言するのである。そこでキリストは、「人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう」と言われる(マタイ10:33)。 DA 854.1

救い主は、福音に対する敵意が克服されるだろうとか、しばらくしたらその反対がやむだろうなどと望んではならないと、弟子たちに命じられた。キリストは、「平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」と言われた(マタイ10:34)。このように戦いが起こるのは、福音の影響ではなくて、福音への反対の結果である。あらゆる迫害の中で耐えるのに一番つらいのは、家庭内の不一致、地上の一番親しい友との不和である。しかしイエスは、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない」と宣言しておられる(マタイ10:37、38)。 DA 854.2

キリストのしもべたちの使命は、高いほまれであり、聖なる信任である。「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」とキリストは言われる(マタイ10:40)。キリストのしもべたちに対して神のみ名によってなされる親切な行為は、一つとして認められなかったり、報いられなかったりするものはない。また神は、ご自分の家族のどんなにかよわい者にも、どんなにいやしい者にも、やさしく目をとめておられる。「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに(すなわち信仰とキリストを知る知識において子供のような人々に)冷たい水1杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ10:42)。 DA 854.3

こうして救い主はその教えを終えられた。選ばれた12人は、キリストが行かれたように、「貧しい人々に福音を宣べ伝え……囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせる」ために、キリストのみ名によって出て行った(ルカ4:18、19)。 DA 854.4