各時代の希望
第36章 信仰のいやし
本章はマタイ9:18~26、マルコ5:21~43、ルカ8:40~56に基づく DA 846.1
イエスが、ガダラ人の地から西海岸へもどってこられると、群衆が集まってきてイエスを迎え、喜んでイエスにあいさつした。イエスはしばらく海辺に残って教えたり、いやしたりされてから、取税人たちと一緒に食事をするためにレビ・マタイの家へおいでになった。ここで会堂司(かいどうつかさ)のヤイロがイエスと出会った。 DA 846.2
このユダヤ人の長老は非常な苦しみのうちにイエスのみもとにやってくると、その足下に身を投げ出し、「わたしの幼い娘が死にかかっています1どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」と叫んだ(マルコ5:23)。 DA 846.3
イエスはすぐこのつかさと一緒にその家へお出かけになった。弟子たちは、これまで何度かイエスの情深い働きを見てきたが、イエスが高慢なラビの嘆願に応じられたのには驚いた。それでも彼らは、主に同行し、また人々も熱心な、期待に満ちた思いでついて行った。 DA 846.4
つかさの家は遠くなかったが、群衆が四方から押し合ったので、イエスは同行者たちとゆっくり進んで行かれた。心配な父親は、遅くなるのががまんできなかった。しかしイエスは、人々をあわれんで、時々立ちどまっては病人の苦しみをやわらげたり、心の悩みを慰めたりされた。 DA 846.5
彼らがまだ途中にいた時に、1人の使者が群衆をおしわけてやってきて、ヤイロに、娘が死んだという知らせを告げ、これ以上主をわずらわせても無益だと言った。そのことばはイエスの耳に入った。するとイエスは、「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」と言われた(ルカ8:50)。 DA 846.6
ヤイロは一層イエスの近くによりそい、一緒に自分の家へ急いだ。家にはすでに雇われた泣き人や笛吹きなどがやってきていて、泣き声や笛の音があたりの空気を満たしていた。群衆がつめかけて騒いでいることが、イエスの気にさわった。イエスは彼らを静めようとして、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われた(マルコ5:39)。人々はこの外来者のことばに憤慨した。彼らは子供が死んだのを見ていたので、イエスをあざ笑った。イエスはみんなが家から出るようにと要求され、少女の父親と母親、ペテロ、ヤコズ、ヨハネの3人の弟子をおつれになって、いっしょに死者のいる部屋にお入りになった。 DA 846.7
イエスは寝床のそばに近づき、ご自分の手に少女の手をおとりになって、彼女の家庭のききなれたことばで、「少女よ、さあ、起きなさい」と静かに言われた(マルコ5:41)。 DA 846.8
その瞬間、意識のない少女の体にかすかな動きが伝わった。生命の鼓動がふたたび始まった。くちびるは微笑んだ。`あたかも眠りからさめたように両眼をぱっちり開くと、少女はかたわらの人たちをふしぎそうにじっとみつめた。少女が起きあがると、両親は彼女を両腕にだきしめて、喜びに泣いた。 DA 846.9
つかさの家に行かれる途中、イエスは、群衆の中で1人のかわいそうな女に会われた。彼女は12年の間病気に苦しめられ、人生が重荷になっている女だった。医者と治療に全財産を使い果たしても、不治を宣告されたにすぎなかった。しかしキリストが行われたいやしのことをきいた時、望みがよみがえった。キリストのみもとに行くことさえできたら、自分はいやされるのだと彼女は確信した。苦しみ弱りながらも、彼女は、イエスが教えておられる海辺へやってきて、群衆をかきわけて進もうとしたが、むだだった。彼女は、レビ・マタイの家からもう1度イエスについて行ったが、やはりイエスのおそばに近づくことができなかった。彼女は絶望しかかっていた、するとその時、群衆をおしわけて、イエスが彼女の近くにやってこりれた。 DA 846.10
絶好の機会がきたのであった。彼女は大医師イエスの前にいた。だが混雑の最中にあって、彼女は イエスに話しかけることができずイエスのお姿をちらっと見ただけだった。唯一の救いの機会を失うことを恐れて、彼女は、「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう」と心の中に思い、前へ進み出た(マタイ9:21)。イエスが通りすぎようとされると、彼女は前へのり出して、イエスの衣のへりにかすかにさわることができた。その瞬間、彼女は、自分がいやされたことがわかった。1度だけさわることに、彼女の一生の信仰が集中されていた。するとたちまち、彼女の痛みと弱さは完全に健康にかわった。 DA 846.11
感謝の気持をもって、彼女は群衆の中からしりそこうとした。すると突然イエスが立ち止まられ、人々も一緒に立ちどまった。イエスはふりかえってあたりを見まわし、群衆のざわめきを圧倒してはっきりきこえる声で、「わたしにさわったのは、だれか」と言われた(ルカ8:45)5人々は、この質問に驚きの表情で答えた。イエスは四方から押し合う群衆の中で乱暴にあちらへ押されこちらへ押されしておられたのだから、それは奇妙な質問に思えた。 DA 847.1
いつでもすぐ口を出すペテロが、「ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか」と言った(マルコ5:31)。イエスは、「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」と答えられた(ルカ8:46)。救い主は不注意な群衆が偶然さわったのと、信仰をもってさわったのとを区別することがおできになった。このような信頼を、何にも言わないで、みすごすわけにいかなかった。イエスは、このいやしい女に喜びの泉となるような慰めのことば——イエスに従う者にとって世の終わりまで祝福となるようなことばを語りたいとお思いになった。 DA 847.2
女の方をごらんになって、イエスは、だれが自分にさわったのか知りたいと強く主張された。かくしてもむだなことがわかると、彼女はふるえながら前へ出て、イエスの足下にひれ伏した。彼女は、感謝の涙を流して、自分の苦難の物語を告げ、救われた次第を語った。イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」とやさしく言われた(ルカ8:48)。いやしの力をただイエスの衣にさわる行為だけに求める迷信の余地を、イエスはお与えにならなかった。いやしが行われたのは、イエスとの外面的な接触によってではなくて、イエスの天来の力にすがる信仰によってであった。 DA 847.3
イエスのまわりにひしめき合って驚いている群衆は、いのちの力を受けられることを認めていなかった。しかし苦しんでいる女が、いやされることを信じてイエスにさわろうと手をさし出した時、彼女はいやしの力を感じた。霊的なことにおいてもこれと同じである。不用意に宗教のことを語ったり、魂のかわきや生きた信仰がなくて祈ったりしても、それは何の役にもたたない。キリストをただ世の救い主として受け入れる口さきだけの信仰では、決して魂をいやすことができない。救いにいたる信仰は、頭だけで真理に同意することではない。全部わかるまでは信仰を働かそうとしない人は、神から祝福を受けることができない、キリストについて信ずるだけでは十分でない。キリストそのものを信じなければならない。われわれを益する信仰は、キリストを自分自身の救い主として信ずる信仰、キリストの功績を自分自身のものとする信仰だけである。信仰を一つの意見として持っている人が多い。人を救う信仰は、キリストを受け入れる者が神との契約関係に入る一つの取引である。真の信仰はいのちである。生きた信仰とは、活力と信頼心とが増し加わり、それによって魂が勝利する力となることを意味する。 DA 847.4
イエスは、女をいやされてから、彼女が自分の受けた祝福を感謝するように望まれた。福音によって提供される賜物は、それをこっそり確保したり、ひそかに楽しんだりするためではない。だから主は、神の恵みを告白するようにと、われわれに呼びかけておられる。「『あなたがたはわが証人である』と主は言われる。『わたしは神である』」(イザヤ43:12、13)。 DA 847.5
キリストの忠実さについてわれわれが告白することは、キリストを世にあらわすために天のえらばれた方法である。われわれは、昔の聖人たちを通して知らされた神の恩恵を告白すべきであるが、しかし最も 効果があるのは、われわれ自身の経験によるあかしである。神の力の働きを自分自身のうちにあらわす時、われわれは、神の証人である。各個人はそれぞれ他人とちがった人生を持っており、また本質的に他人とちがった経験を持っている。神は、われわれの賛美が、それぞれ特有の個性を帯びてみもとにのぼることをお望みになる。このようなとうとい告白によって神の恵みの栄光を賛美することは、それがクリスチャン生活によって裏づけられる時、抵抗することのできない力をもって魂の救いのために働くのである。 DA 847.6
10人のハンセン病人がいやしを求めてイエスのところへやってきた時、イエスは、彼らに、行って祭司に見せなさいとお命じになった。彼らは途中できよめられたが、イエスを賛美するためにもどってきたのは、その中の1人だけだった。ほかの者たちは自分をいやしてくださったお方を忘れて、そのまま行ってしまった。いまでもこれと同じことをしている者がどんなに多いことだろう。主は人類の利益のためにたえず働いておられる。主はいつも恵みを与えて下さる。主は病人をその苦しみの床から起こし、人々を目に見えない危険から救い、天使たちに命じて人々を災難から助け、「暗やみに歩きまわる疫病」、と「真昼に荒す滅び」から守って下さる(詩篇91:6)。それでも彼らの心は感じない。神は人類をあがなうために天の全財産をお与えになったのに、彼らはその大きな愛を心にとめない。忘恩のために、彼らは神の恵みに心をとざしている。彼らは「荒野に育つ小さい木のように、何も良いことの来るのを見ない」で、その魂は「荒野の、干上がったところに住」んでいる(エレミヤ17:6)。 DA 848.1
神の賜物の一つ一つについて記憶を新たにすることは、われわれ自身のためである、こうして、もっと多くを求め、もっと多くを受けるように、信仰が強められる。他人の信仰と経験についての話を残らず読むよりも、自分自身が神から受ける一番小さな祝福の方がずっと大きな励ましとなる。神の恵みに答える魂は、「潤った園」のようになる。彼は「すみやかにいやされ、」彼の「光は暗きに輝き」主の栄光が彼の上にみられる(イザヤ58:8~11参照)。だから主のいつくしみとそのやさしい多くの憐れみとを忘れないようにしよう。イスラエルの民のように、あかしの石を立て、神がわれわれのためにしてくださったことについて、とうとい物語をそれにきざみつけよう。そうしてこの世の旅路において、主がわれわれをどのように扱われたかをふりかえってみて、感謝にみちた心でこう叫ぼう、「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか。わたしは救の杯をあげて、主のみ名を呼ぶ。わたしはすべての民の前で、主にわが誓いをつぐなおう」(詩篇116:12~14)。 DA 848.2