各時代の希望

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第35章 「静まれ、黙れ」

本章はマタイ8:23~34、マルコ4:35~41、5:1~20、ルカ8:22~39に基づく DA 840.3

その日は、イエスのこ生涯の中でも出来事の多い1だった。ガリラヤの海のほとりで、イエスは最初のたとえ話をされたが、その中で、イエスはよく知られている実例を用いて、み国の性質と、そのみ国がどのようにして建設されるかをもう1度人々に説明された。イエスはご自分の働きを種を播く人の働きにたとえ、み国の発展をからし種の成長と粉の中に入れたパン種の効果にたとえられた。麦と毒麦、また魚とりの網のたとえの中で、イエスは義人と悪人の最後の厳粛な隔離を描写された。イエスのお教えになった真理のすぐれたとうとさが、かくされた宝と非常に高価な真珠によって例示され、一方イエスは家の主人のたとえを通して、弟子たちがイエスの代表者としてどのように働くべきかをお教えになった。 DA 840.4

1日中イエスは人々に教え、病人をいやされた。夕暮が迫ってきても、群衆はなおイエスのまわりにおし よせた。来る日も来る日も、イエスは食事や休息をされるひまもほとんどないくらい人々に奉仕された。パリサイ人たちが、悪意のある批評や偽りの宣伝をもって、たえずイエスにつきまとったことが、イエスの働きを一層きびしく、苦しいものにした。そしていま1日の終りに、イエスは疲れはててしまわれたので、湖を渡って、どこかさびしいところへかくれ場所を求めようと決心された。 DA 840.5

ゲネサレの東岸は人の住んでいないところではなく、湖畔のそこここに町があった。それでも西岸にくらべると、そこはさびしい地方であった。そこの住民はユダヤ人よりも異教徒が多く、ガリラヤとの往来はほとんどなかった。だからそこは、イエスが求めておられるかくれ場所にふさわしかったので、イエスはいま弟子たちに、そこへついてくるようにお命じになった。 DA 841.1

イエスが群衆を解散させられると、弟子たちはイエスをそのまま舟にのせて、いそいで舟をこぎ出した。だが出かけたのは彼らだけではなかった。岸の近くにはほかにも魚とりの舟があったので、それらの舟は、イエスに会ってみことばを聞きたいとまだ熱望してイエスについて行く人たちでたちまちいっぱいになった。 DA 841.2

救い主はおしかけた群衆からやっと解放されると、疲れと空腹のために力がつきはてて舟のともに横たわったまま、すぐに眠ってしまわれた。夜は静かで気持がよく、静けさが湖をおおっていた。しかしにわかに、暗闇が空一面にひろがり、東岸の山の谷間から風がはげしく吹きおろしてきて、すさまじい嵐が湖をおそった。 DA 841.3

太陽はすでに沈み、夜のくらやみが嵐の海にたれこめていた。波はうなり声をあげる風に荒れ狂い、弟子たちの舟に激しくぶつかって、いまにも舟をのみこみそうにみえた。この屈強な漁師たちは、これまで湖で生活し、何度嵐に会っても安全に舟をあやつってきたが、こんどだけは彼らの腕も力も役にたたなかった。彼らは嵐にまきこまれてどうすることもできず舟に水がたまってくるのを見ると望みが失われてしまった。 DA 841.4

彼らは自分たちのいのちを救うことに熱中していたので、舟の中にイエスがおられることを忘れていた。いま、自分たちの努力がむなしく、目の前にあるのは死だけであることを知ると、彼らはだれの命令で湖の横断に乗り出したかを思い出した。無力と絶望のはてに、彼らは、「主よ、主よ」と叫んだ。だが濃いくらやみがイエスのお姿を彼らの見えないところにかくしていた。彼らの声は嵐のうなりにのみこまれて、返答がなかった。疑惑と恐怖が彼らをおそった。イエスは自分たちを見捨てられたのだろうか。病気と悪鬼と死をさえ征服されたお方が、いま弟子たちを助けてくださる力がないのだろうか。困りきっている自分たちを気にかけてくださらないのだろうか。 DA 841.5

もう1度彼らは呼んでみる。だが答えるのは荒れ狂う疾風のうなり声だけである。もはや舟は沈みはじめている。もう少しで、彼らは飢えた波にのみこまれそうになる。 DA 841.6

突然一すじのいなづまが暗闇をつらぬいて光る。するとこのさわぎにじゃまされないで横になったまま眠っておられるイエスのお姿が彼らの目にうつる。驚きと絶望のうちに、彼らは、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と叫ぶ(マルコ4:38)。自分たちが危険の中にあって死と戦っているのに、主はよくあんなに安らかに休んでおられるものだ。 DA 841.7

彼らの叫び声がイエスを起こす。いなづまのひらめきがイエスのお姿を照し出すと、そのお顔には天の平安がみられる。彼らはイエスの御目から、無我のやさしい愛を読みとり、心をイエスに向けると、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と叫ぶ(マタイ8:25)。 DA 841.8

この叫びをあげてかえりみられない魂はない。弟子たちが最後の努力をかたむけるためにオールをにぎりしめると、イエスが立ちあがられる。イエスが弟子たちのまん中に立たれると、嵐は荒れ狂い、波が彼らの上にくだけ、いなづまがイエスのお顔を照す。イエスは、これまでも幾度か憐れみの行為に使われ大み手をあげて、荒れ狂う海に、「静まれ、黙れ」と言 われる。 DA 841.9

暴風はやみ、大波は静まる。黒雲は消え去り、星が輝き出る。舟は静かな海の上に安定する。するとイエスは、弟子たちに向かって悲しげにこうおたずねになる、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコ4:40)。 DA 842.1

弟子たちは一言もなく静まりかえった。ペテロさえ、自分の心を満たした畏敬の思いを口に出そうとはしなかった。イエスについて行くために出かけてきた舟は、弟子たちと同じ危険に出会った。それらの舟に乗っていた人たちは恐怖と絶望にとりつかれたが、イエスの命令によって嵐の騒ぎは静まった。激しい嵐に吹きまくられて舟は一つところにかたまっていたので、舟の上の者はみなその奇跡を見た。静けさがやってくると、恐怖は忘れられた。人々は互に、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」とささやきあった(マタイ8:27)。 DA 842.2

イエスが目をさまして嵐に応じられた時、彼は平安そのものであった。そのことばにも顔つきにも恐怖の跡はみられなかった。イエスの心の中には恐怖がなかったのである。しかしイエスは、ご自分が大能の力を持っておられることをあてにされなかった。イエスが静かに落ちついておられたのは、天と地と海の主としてではなかった。イエスはその大能の力をさしおいて、「わたしは、自分からは何事もすることができない」と言われる(ヨハネ5:30)。彼は天父の力に信頼された。イエスが安心しておられたのは、信仰、すなわち神の愛と守りに対する信仰のゆえであった。鼠を静めたみことばの力は神の力であった。 DA 842.3

イエスが信仰によって天父の守りに安んじておられたように、われわれも救い主の守りに安心していることができる。もし弟子たちがイエスに信頼していたら、彼らは平安のうちに守られたのである。彼らは危険な時に恐れたことによって、不信仰をばくろした、自分を救おうと努力しているうちにイエスを忘れたのぐある。彼らが自分にたよることに絶望してイエスに助けを求めた時にはじめて、イエスは彼らに助けを与しることがおできになった。 DA 842.4

弟子たちの経験がそのままわれわれの経験である場合がどんなに多いことだろう。誘惑の嵐が迫り、はげしいいなづまがひらめき、波がわれわれの上におおいかぶさる時、われわれは助けてくださることのできるお方がおられることを忘れて、自分1人で嵐と戦う。望みが失われていまにも滅びそうになるまでわれわれは自分自身の力にたよる。そしてそれからイエスのことを思い出寅救ってくださいとイエスに呼び求める時、その叫びは無駄にならない。イエスは、われわれの不信と自信を悲しく思って責められるが、必要な助けをお与えにならないことは決してない、陸の上でも、海の上でも、心のうちに救い主を持っているなら、恐れる必要はない。救い主に対する生きた信仰によって、人生の海はおだやかになり、主が最善とごらんになる方法で、われわれは危険から救われるのである。 DA 842.5

嵐を静めたこの奇跡には、もう一つの霊的教訓がある。どの人の経験も聖書のみことばの真実を立証している。「悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができない……わが神は言われる、『よこしまな者には平安がない』と」(イザヤ57:20、21)。罪はわれわれの平安を破壊してしまった。自我を征服しないかぎり平安はない。人間の力では、心の中の支配的な欲情を制することができない。弟子たちが荒れ狂う嵐を静めることができなかったように、われわれはこの点において、無力である。だがガリラヤの大波に平安を語られたお方は、どの魂にも平安のことばを語ってこられた。どんなに嵐がはげしくても、イエスに向かって「主よ、助けてください」との叫びをあげる者には救いがある。魂を神にやわらがせてくださるイエスの恩恵によって、人間の欲情との戦いは静まり、心はイエスの愛のうちに休まる。「主があらしを静められると、海の波は穏やかになった。こうして彼らは波の静まったのを喜び、主は彼らをその望む港へ導かれた」(詩篇107:29、30)、「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。「正義は平和を生じ、正義の結 ぶ実はとこしえの平安と信頼である」(ローマ5:1、イザヤ32:17)。 DA 842.6

救い主と、その連れの一行が朝早く岸に着くと、昇る太陽の光が平和を祝福するかのように海と陸にふりそそいでいた。だが波うちぎわに足をつけたとたんに、彼らの目は荒れ狂う嵐よりももっと恐ろしい光景にぶつかった。墓場の隠れ場所のあたりから2人の狂人が彼らを八つ裂きにしそうな勢いで飛びかかってきたのである。狂人たちの体のまわりには、つながれていたところから逃げ出すときにたち切った鎖の一部がたれさがっていた。その肉体は裂け、とがった石で自ら切ったところから血が流れていた。長くのびてもつれた髪の毛の下には目がぎらぎら光り、彼らにとりついている悪鬼によって人間のかたちがわからなくされてしまったかのように、人間というよりは野獣のようにみえた。 DA 843.1

弟子たちや連れの人たちはおびえて逃げ出した。だが彼らはすぐにイエスがいっしょにお逃げにならなかったのに気がつき、ふりかえってイエスをさがした。イエスは彼らが逃げ出したところに立っておられた。嵐を静め、サタンに出会ってこれを征服されたイエスは、この悪鬼どもの前から逃げ出されなかった。この人たちが歯をくいしばり、口にあわをふいてイエスに近づくと、イエスは波に静まるように合図された手をおあげになった。するとこの人たちはもうそれ以上近よれなかった。彼らは怒って立っていたが、イエスの前では無力だった。 DA 843.2

イエスは権威をもって、けがれた霊に、彼らから出るようにお命じになった。イエスのみことばは、この不幸な人たちの暗くなった心をさしつらぬいた。自分たちを苦しめている悪鬼から救ってくださることのできるお方が近くにおられるということを、彼らはおぼろげながらさとった。彼らはイエスをおがもうとして地にひれふした。だがイエスの憐れみを乞おうとして彼らが口を開くと、悪鬼が彼らを通して語り、「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」とはげしく叫んだ(マルコ5:7)。 DA 843.3

イエスは、「なんという名前か」とおたずねになった。すると答は「レギオンと言います。大ぜいなのですから」であった(マルコ5:9)。悪鬼はこの苦しんでいる人間を伝達の仲介として、イエスに、自分たちを国の外へ追い出さないでいただきたいと願った。そこから遠くない山腹にぶたの大群が飼われていた。悪鬼どもはこのぶたの群れの中へ入らせてもらいたいとたのんだ。イエスはそれをおゆるしになった。するとたちまちぶたの群れは恐慌にとりつかれた。ぶたの群れは気が狂ったようにがけを駆けくだり、水ぎわにとまることができないで、そのまま湖にとびこんで死んでしまった。 DA 843.4

そうしているうちに、悪鬼につかれていた人間に驚くべき変化が起こった。彼らの心に光がさし込み、その目は知性に輝いた。長い間サタンのかたちにゆがめられていた彼らの顔つきがにわかにおだやかになり、血にそまった手が静かになった。彼らは喜びの声をあげて、自分たちが救われたことを神に感謝した。 DA 843.5

ぶたの群れの番をしていた人たちは、がけの上からこの光景を見ていた。彼らはいそいでこの出来事を雇い主とほかのすべての人たちに知らせようと走った。全住民が驚き恐れて、イエスに会いに集まって来た。この悪鬼につかれていた2人の人間は国中の恐怖のまとであった。彼らの居る場所を無事に通り抜けられる者は誰もいなかった。彼らは通りかかる人に悪鬼のすさまじさでとびかかるのだった。ところがいまこの2人が、衣服を身につけ、正気になって、イエスの足下にすわってみことばをきき、健全な心身にして下さったイエスのみ名をたたえていた。しかしこのふしぎな光景を見た人たちはよろこぼなかった。彼らにとってぶたの損失は、サタンのとりこになっていたこの人たちの救いよりも重大に思えた。 DA 843.6

この損害がぶたの所有者たちに及ぶがままにされたのは、彼らに対する憐れみからだった。彼らは世俗の事に心を奪われ、霊的生活の重大な利害を気にしていなかった。イエスは、彼らがイエスの恵みを 受け入れるように、利己的無関心という魔力をたち切ろうと望まれた。だがこの世の事物の損失に対する残念さと憤慨のために、彼らの目は救い主のあわれみに対して盲目になった。 DA 843.7

超自然の能力があらわされたことから、人々の迷信が起こり、恐怖心が刺激された。この見知らぬ人が自分たちの中にいたら、これ以上どんな災難が起こるかも知れなかった。彼らは経済上の損失を恐れ、イエスにいてもらいたくないと決心した。イエスと一緒に湖を渡ってきた人たちは、前の晩に起こった出来事について、すなわち嵐の中で危険だったことや、風と海が静められたことなどをすっかり話した。だが彼らのことばには効果がなかった。恐怖のうちに、人々はイエスのまわりにむらがり集まってきて、ここから出て行っていただきたいとイエスにたのんだ。そこでイエスは承知されて、すぐ対岸へ向かって舟を出された。 DA 844.1

ガダラ人の目の前には、キリストの力と憐れみの生きた証拠があった。彼らは理性をとり戻した人々を見た。だが彼らは、この世の利益が危険にさらされることを恐れたので、目の前で暗黒の君を征服されたお方を侵入者としてとり扱った。こうして、天の賜物であられるイエスは、彼らの門口から退けられた。われわれは、ガダラ人のように、キリストご自身の前から立ち去る機会はない。だがイエスのみことばに従うことをこばむ者が多い。服従にはこの世の何かの利益を犠牲にすることが含まれているからである。イエスの存在によって金銭上の損失が起こるのを防ぐために、多くの者はキリストの恵みをこばみ、そのみたまを追い出すのである。 DA 844.2

だが悪鬼を追い出してもらったこの2人の思いはこれとまったくちがっていた。彼らは自分たちを救ってくださったお方について行きたいと望んだ。イエスの前にいると、これまで自分の生活を苦しめ、人間性を破壊してきた悪鬼から安全に守られているのを感じるのだった。イエスが舟に乗ろうとされると、彼らはそばから離れないで、足下にひざまずき、いつでもイエスのみことばがきかれるおそばにおいてくださいと嘆願した。しかしイエスは、家へ帰って、主がどんなにすばらしいことを自分たちのためにして下さったかを語りなさいとお命じになった。 DA 844.3

ここに彼らのなすべき働きがあった。それは異教の家庭へ帰って、自分たちがイエスから受けた祝福を語ることであった。救い主と別れることは彼らにとってつらいことだった。異教の同国人と交わることには必ず大きな困難がつきまとうにちがいなかった、また長い間社会から孤立していたために、キリストの指示されたような働きをする資格は彼らにはないように思われた。だがイエスが彼らの義務を指摘されたとたんに、彼らはすぐに従った。彼らは自分の家族や隣人にイエスのことを語っただけでなく、デカポリスのいたるところを歩いて、どこででもキリストの救いの力をのべつたえ、自分たちが悪鬼から解放された模様を語ってきかせた。この働きをすることによって、彼らは、単に自分の利益だけのためにイエスの前にとどまっているよりも、もっと大きな祝福を受けることができた。われわれは救いのよきおとずれをのべつたえる働きをすることによって、救い主の近くにひきよせられるのである。 DA 844.4

悪鬼から解放されたこの2人はデカポリス地方に福音をのべつたえるためにキリストからつかわされた最初の宣教師となった。彼らがキリストの教えを聞く特権を与えられたのはほんの数分間にすぎなかった。彼らはキリストから一つの説教さえきかされなかった。彼らは、毎日キリストといっしょにいた弟子たちのように、人々を教えることはできなかった。だが彼らは、自分自身のうちにイエスがメシヤであるという証拠を持っていた。彼らは知っていることを語ることができた。キリストの力について自分自身が目で見、耳で聞き、心に感じたことを語ることができた。これこそキリストの恵みにふれたことのある人ならだれでもできることである。愛された弟子ヨハネは「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について——このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、か つ、あなたがたに告げ知らせるのである」と書いた(Ⅰヨハネ1:1、2)。キリストの証人として、われわれは、知っていること、自分が見、聞き、感じたことを語るのである。もし1歩1歩イエスに従ってきているならば、われわれは、イエスがわれわれをみちびかれた道について何か要点にふれたことを語ることができるのである。イエスの約束を試みて、その約束が真実であったことを語ることができる。キリストの恵みについて知ったことをあかしすることができる。これこそ主が求めておられるあかしであって、このあかしが欠けているために、世の人々は滅びつつあるのである。 DA 844.5

ガダラ人はイエスを受け入れなかったが、イエスは彼らを、彼らが自らえらんだ暗黒の中に捨てておかれなかった。イエスにここから立ちのくように命じた時、彼らはイエスのみことばをまだきいていなかった。彼らは自分たちがこばんでいるものについて何も知らなかった。そこでイエスはもう1度彼らに光をお送りになったが、それは彼らが聞くことをこばむことのできない者を通してであった。 DA 845.1

ぶたを全滅させることによって、人々を救い主から離れさせ、その地方の福音宣伝を妨げようとするのがサタンの目的だった。ところがこの出来事は、他のどんなことによってもなし得られないほど、国中をわき立たせ、注意をキリストに向けさせた。救い主ご自身は立ち去られたが、イエスからいやされた者たちはイエスの力の証人として残った。暗黒の君の仲介をしていた者が光の伝達者、神のみ子の使者となった。人々はそのすばらしい知らせをきいて驚いた。この地方のいたるところに福音の門戸が開かれた。イエスがデカポリスにお帰りになると、人々はみもとに群れ集まった。そして3日の間、一つの町の住民だけでなく、周囲のあらゆる地方の幾千の人々が救いのみことばを聞いた。悪鬼の力さえ救い主に制せられ、悪の働きはくつがえされて益となる。 DA 845.2

ガダラ人と出会ったことは、弟子たちにとって教訓となった。そこにはサタンが全人類をひきずり込もうとしている堕落の深みと同時に、そのサタンの力から人を解放されるキリストの使命が示されている。悪鬼にとりつかれて墓場を住居とし、激情を制御できず、いまわしい欲望のとりことなっていたこのみじめな人間どもは、人がサタンの支配下にまかされる時にどんなことになるかを示している。サタンの影響は、たえず人々の感覚を混乱させ、心を支配して悪へ向け、暴力と犯罪とをそそのかすことに集中される。サタンは肉体を弱くし、知性をくもらせ、魂を堕落させる。人々が救い主の招待をこばむ時にはいつでも、彼らはサタンに負けているのである。今日、人生の各方面において、家庭で、商売で、また教会の中でさえ、多くの人々がキリストをこばんでいる。暴力と犯罪が地にひろがり、道徳的暗黒が死のとばりのように人々の住居をおおっているのはこのためである。サタンは見かけのよい誘惑で人々をだんだん悪い方へひつばって行って、ついにはまったく堕落させ、破滅させてしまうのである。サタンの力に対するただ一つの防備はイエスのこ臨在のうちにある。人類と天使の前で、サタンは人類の敵であり、人類を滅ぼす者であることがばくろされた。一方キリストは人の友、また人を救うお方であることが示された。キリストのみたまは、品性を高め、性質を高貴にするような一切のものを人のうちに発達させる。それはまた肉体と精神と魂によって神の栄えをあらわすように人を築きあげる。「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(Ⅱテモテ1:7)。神は「そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光(品性)にあずからせて下さるからである。」また「更に御子のかたちに似たものとしようとして」、われわれを招かれたのである(Ⅱテサロニケ2:14、ローマ8:29)。 DA 845.3

堕落してサタンの道具となってしまった魂が、今でも、キリストの力によって義の使者として生まれ変わり、「主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか」を告げるために神のみ子によってつかわされている(マルコ5:19)。 DA 845.4