各時代の希望

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第27章 「きよめていただけるのですが」

本章はマタイ8:2~4、9:1~8、32~34、マルコ1:40~45、2:1~12、ルカ5:12~28に基づく DA 798.4

東洋で知られているすべての病気の中でハンセン病が一番恐れられていた。この病気は伝染してなおりにくいという特性がある上に、病人に恐ろしい結果を及ぼすので、どんなに勇敢な人でも恐怖に満たされるのであった。ユダヤ人の間では、それは罪を犯した罰とみなされ、そのために「打撃」とか「神の指」などと呼ばれていた。この病気は根深くて、根絶することができず、致命的であるために、罪の象徴とみなされた。ハンセン病にかかった人は、儀式の規則によって、けがれた者と宣告された。彼はすでに死んでしまった者のように、人々が住んでいるところからしめ出された。彼のさわったものはみなけがれた。空気も彼の呼吸によってけがれた。この病気の疑いのある者は、祭司にみてもらい、祭司が調べてみて病気かどうかを決定するのであった。もしハンセン病であると宣告されたら、彼は家族から隔離され、イスラエルの会衆から絶たれ、同じようにこの病気にかかっている者とだけしか交われない運命に定められた。律法の要求は曲げることができなかった。王や役人たちでさえ例外ではなかった。この恐るべき病気に襲われた君主は、王位を捨てて、社会から逃げ出さねばならなかった。 DA 798.5

ハンセン病にかかった人は友人や肉親から離れて、自分の病気ののろいを負わねばならない。彼は自分のわざわいを公表し、衣を裂き、警戒の声をあげて、不潔な自分の前から逃げるようにみんなに警告しなければならなかった。人々は、孤独な追放人が悲しい調子で「けがれた者、けがれた者」と叫ぶ声を、一つの合図として恐怖と嫌悪の念をもって聞いた。 DA 798.6

キリストが伝道しておられた地方には、このような病人がたくさんいた。イエスの働きのうわさは彼らの耳にもきこえ、かすかな望みの光をともした。しかし預言者エリシャの時代からこのかた、この病気にとりつかれた人がきよめられたという例がなかった、彼らはイエスがまだ誰のためにもされたことのないことを自分たちのためにしてくださるとは期待しなかった。しかしながら、心に信仰の芽ばえはじめた人が1人いた。それでもその男は、イエスにどうやって近づいてよいかわからなかった。ほかの人たちとの接触を禁じられているのだから、どうやっていやし主の前に出ることができよう。それにキリストが彼のよりな者をなおして下さるかどうか疑問だった。神の刑 罰のもとに苦しんでいると思われている者を、イエスが身をかがめて認めてくださるだろうか。パリサイ人魚医者たちと同じように、イエスも自分にわざわいを宣告して、人々の出入りするところから離れるように警告されるのではないだろうか。彼はイエスについて聞かされていたことをみな思い浮べてみた。イエスに助けを求めて追い返されたものは1人もなかった。このあわれな男は救い主をさがしだそうと決心した。自分は町から隔離されているが、イエスがわき道をとって山道を通られるのに出会うかも知れないし、あるいは町のそとで教えておられるのをみかけるかも知れない。困難は大きかったが、しかしそれだけが彼の唯一の望みであった。 DA 798.7

彼は救い主のみもとへ導かれる。イエスは湖のほとりで教えておられ、人々がそのまわりに集まっている。遠くに離れて立ちながら、彼は救い主の口から出ることばをいくつかとらえる。彼はイエスが病人の上に手をおかれるのを見る。足の不自由な人や、目の見えない人や、中風の者や、いろいろな病気で死にかかっている者たちが、健康を与えられて立ちあがり、救いを神に感謝するのが見える。信仰が彼の心の中で強まる。彼は集まっている群衆の方へ1歩また1歩と近づいて行く。自分が拘束されていることや、人々の安全や、みんなが恐怖の念をもって自分を見ることなど忘れている。彼はいやされるというありがたい望みのことしか考えない。 DA 799.1

彼はいまわしいみせものである。病気はびっくりするほど深く食いこみ、そのくさっていく肉体は見るも恐ろしいほどである。彼を見ると、人々は恐れてあとずさりする。人々は彼にふれまいとしてお互いにぶつかり合って逃げる。彼がイエスに近づかないように、とめようとする人々がいるがむだである。彼は彼らを見もしなければ、彼らの言うことを聞きもしない。彼は人々の嫌悪の表情など見向きもしない。彼は神のみ子しか見ない。彼は死にかけている者にいのちを謡る声しか聞かない。イエスのそばまで押しわけて進むと、彼は「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と叫んで、イエスの足もとに身を投げる。 DA 799.2

イエスは「そうしてあげよう、きよくなれ」とお答えになって、彼の上に手をおかれた(マタイ8:2、3)。 DA 799.3

たちまち、この病人に変化があらわれた。彼の肉体は健康になり、神経は鋭敏になり、筋肉がひきしまった。この病気特有のざらざらしたうろこ状の皮膚が消えて、そのかわりに健康な子供のはだにみられるような、なめらかな赤みがあらわれた。 DA 799.4

イエスは彼に、いまなされた働きを誰にも知らせずに、ささげ物を持ってまっすぐ宮に行くようにとお命じになった。このようなささげ物は、祭司たちが病人を診察して、病気がすっかりなおっていると宣告するまでは、受け入れられなかった。祭司たちは、この役目を行うことがどんなにいやでも、診察して病状を決定しなければならなかった。 DA 799.5

聖書のみことばには、キリストが彼に沈黙と敏速な行動の必要を非常にせきたてて命じられたことが示されている。「イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた、『何も人に話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい』」(マルコ1:43、44)。もし祭司たちがその彼のいやしの実情を知ったら、彼らはキリストへの憎しみから不正直な宣告をくだすかも知れなかった。この奇跡についてのうわさが彼らの耳にはいる前に、彼が宮に出頭するようにイエスは望まれた。こうして公平な決定がくだされ、ハンセン病をいやされたこの男はもう1度家族や友人たちの間で暮すことをゆるされるのであった。 DA 799.6

イエスが彼に沈黙を命じられた時、イエスのお考えにはほかの目的もあった。救い主は敵がいつもイエスの働きを制限したり、人々をイエスから離れさせようとしたりしているのを知っておられた。もし彼のいやしがうわさにのぼったら、この恐ろしい病気にかかっているほかの者たちがイエスのまわりにおしよせ、そのため彼らとの接触によって人々が伝染させられるということを、イエスは知っておられた。ハンセン 病にかかった多くの人は、健康の賜物を自分自身や他人の祝福となるように用いようとしなかった。また彼らをまわりにひきよせると、イエスが儀式の規則に禁じられていることを破っておられるという非難の機会を与えるのであった。こうして福音をのべつたえるイエスの働きが妨害されるのだった。 DA 799.7

この出来事は、キリストの警告が正しかったことを証明した。群衆はハンセン病にかかった人がいやされたのを目撃していたので、祭司たちの決定を知りたがった。彼が友人たちのところへもどってくると、大さわぎとなった。イエスの注意があったにもかかわらず彼は自分の病気がなおった事実をもはやかくそうと努力しなかった。実際それはかくしきれるものではなかったが、彼はこのできごとを広く公表した。自分を口止めしたのはイエスの遠慮にすぎないと考えて、彼はこの大医者の力を宣伝して歩いた。彼はこうして発表するたびに祭司たちや長老たちがイエスを殺そうという決意をますます固めることを理解していなかった。いやされた男は健康の恵みが非常にとうといものであることを知った。彼は人間としての力を与えられ、家族と社会へ復帰できたことを喜び、自分を完全な体にしてくださった医者であるイエスに栄光を帰さないではいられない気持だった。しかしこの出来事を言いふらした彼の行為は、結果においては救い主の働きをさまたげることになった。そのために、おびただしい群衆がイエスのもとに殺到し、イエスはしばらく働きをおやめにならねばならなかった。 DA 800.1

キリストの公生涯における行為の一つ一つには遠大な目的があった。そこには行為自体にあらわれているよりももっと深い意味が含まれていた。この病人のいやしの場合もそうである。イエスはみもとにやってきたすべての者に奉仕される一方では、こなかった人々を祝福したいと心から望まれた。イエスは取税人、異教徒、サマリヤ人などをひきよせられる一方では、偏見と言い伝えの中にとじこめられている祭司たちや教師たちの心に訴えたいと熱望された。彼らの心を動かすためにはどんな方法も試みられないものはなかった。ハンセン病をいやされた男を祭司たちのもとへつかわすことによって、イエスは、一つのあかしを与えて彼らの偏見をとり除くおつもりだった。 DA 800.2

キリストの教えは神がモーセを通してお与えになった律法に反すると、パリサイ人たちは主張していた。しかしハンセン病からきよめられた男に律法に従ってささげ物をささげるようにイエスが命じられたことは、この非難が不当であることを証明した。それは、さとろうとする気のあるすべての入にとって、十分な証拠であった。 DA 800.3

エルサレムの指導者たちは、キリストを死刑にする口実をさがし出すためにスパイを送り出していた。イエスは人類に対するご自分の愛と、律法に対するご自分の尊敬と、罪と死から救うご自分の力との証拠を彼らに与えてこれに応じられた。こうしてイエスは、彼らについて、「彼らは悪をもってわが善に報い、恨みをもってわが愛に報いるのです」とあかしをたてられた(詩篇109:5)。「敵を愛し」なさいとの戒めを山でお与えになったイエスは、自らこの原則を実行し、「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いずかえって、祝福をもって報い」られた(マタイ5:44、Ⅰペテロ3:9)。 DA 800.4

このハンセン病にかかった人に追放を宣告した同じ祭司たちが、彼のいやしを証明した。この宣告は、公に発表され、記録されるので、それはいつまでもキリストをあかしするものであった。そしてこのいやされた男が、病気の跡さえないという祭司たち自身の保証によって、イスラエルの会衆の中へ復帰した時、彼自身が恩人であられるイエスの生きた証人となった。彼は喜びにあふれてささげ物をささげ1イエスのみ名をあがめた。祭司たちは救い主の天来の力について確信させられた。真理を知り、光によって益を受けるように、彼らに機会が与えられた。もししりぞけられたら、その機会は過ぎ去ってふたたび返ってこないのであった。多くの人々は光をしりぞけた。それでも光が与えられたことはむだではなかつた。一時何のしるしもみえなかった多くの人々の心が動かされた。救い主の在世中には、その使命は祭司たちや教師たちの中に愛の反応をすこしも呼び起 こさないようにみえた。しかしキリストの昇天後、「祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった」(使徒行伝6:7)。 DA 800.5

ハンセン病にかかった人をその恐るべき病気からきよめられたキリストの働きは、魂を罪からきよめられるキリストの働きの実例である。イエスのみもとにきた男は、「全身重い皮膚病」であった(ルカ5:12)。その致命的な病毒は彼の全身にひろがっていた。弟子たちは主が彼にさわられないようにしようとした。この病人にさわるとその人もけがれた者となるからであった。しかしイエスは病人に手をおいても、けがれを受けられなかった。イエスの手がふれたことによって、いのちを与える力がさずけられた。ハンセン病はきよめられた。罪という病もこれと同じである、——それは根強く、致命的で、人間の力できよめることはできない。「その頭はことごとく病み、その心は全く弱りはてている。足のうらから頭まで、完全なところがなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ」(イザヤ1:5、6)。しかしイエスは、人類の中に住むためにおいでになって、何のけがれもお受けにならない。イエスの前に出ることには罪人にとっていやしの力がある。信仰をもって「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と言いながらイエスの足もとにひれ伏す者は誰でも、「そうしてあげよう、きよくなれ」との答えを聞くのである(マタイ8:2、3)。 DA 801.1

イエスは、あるいやしの場合には、求められた祝福をすぐにはお与えにならなかった。ところがこのハンセン病にかかった人の場合には、訴えがなされたとたんに祝福が与えられた。この世の祝福を祈り求める時に、われわれの祈りに対する答えは遅れるかも知れない。あるいは神はわれわれの求めるものよりもほかのものをお与えになるかも知れない。 DA 801.2

しかし罪からの救いをもとめる時にはそうではない。われわれを罪からきよめて神の子とし、聖なる生活を送ることができるようにしてくださるのが神のみこころである。「キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである」(ガラテヤ1:4)。「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである」(Ⅰヨハネ5:14)。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)。 DA 801.3

カペナウムの中風患者のいやしを通して、キリストはもう1度この同じ真理をお教えになった。この奇跡が行われたのは、罪をゆるすキリストの力をあらわすためであった。中風患者のいやしもまたほかのとうとい幾つかの真理を例示している。それは望みと励ましに満ちており、またあら探しをするパリサイ人と関連していたことから、警告の教訓も含んでいる。 DA 801.4

あのハンセン病にかかった人と同じように、この中風患者の回復の望みはすっかり失われていた。彼の病気は罪の生活の結果であって、その後悔のために苦しみは一層ひどかった。彼は心の苦しみと肉体の苦痛から救われたいと望んで、ずっと前からパリサイ人たちや医者たちに訴えていた。しかし彼らは彼の病気はなおらないと冷淡に宣告し、彼を神の怒りにまかせた。パリサイ人は苦悩を神の不快のしるしとみなし、病人や困っている人たちから遠ざかっていた。ところが自分たちはきよい者だといばっている当人たちが、実は彼らが罪人呼ばわりしている苦しむ者たちよりももっと罪が重い場合がしばしばあった。 DA 801.5

中風の男はまったく無力であった。そしてどこからも助けを受ける見込みがないことを知って、彼は絶望に沈んでいた。その時彼はイエスのすばらしいみわざについて聞いた。彼は自分と同じに罪深くて無力なほかの人たちがいやされたことを聞いた。ハンセン病さえきよめられたということだった。そこでこうした話を伝えた友人たちは、イエスのところへ行くのならいやされるかもしれないと信じるように、彼をはげました。しかし彼は自分がどうして病気になったかを思い出すと、望みが消えた。純潔な医者であられるイエスは自分がみ前に出ることをおゆるしにならな いだろうと、彼は恐れた。 DA 801.6

しかし彼が熱望したのは肉体的な回復よりもむしろ罪の重荷からの解放だった。もしイエスにお会いすることができて、罪のゆるしと天とのやわらぎの保証が与えられるなら、神のみこころにしたがって死のうが生きようが満足だった。死にかけている男の叫びは、ああ、あの方のみ前に出られますようにということだった。ぐずぐずしている時間はなかった。すでに彼の衰えた肉体には死の徴候が見えはじめていた。彼が友人たちに、寝台にのせてイエスのところにつれて行ってくれるようにたのむと、彼らは喜んでそうすることを引受けた、だが救い主のおられる家の内塁外には人々が密集していて、病人とその友人たちがイエスのそばに近づくことも、あるいはみ声のきこえるところまで行くことさえできなかった。 DA 802.1

イエスはペテロの家で教えておられた。いつもの習慣通り、弟子たちはイエスのそば近くにすわっており、「ガリラヤやユダヤの方々の村から、またエルサレムからきたパリサイ人や律法学者たちが、そこにすわっていた」(ルカ5:17)。この人たちはスパイとしてやってきて、イエスを訴えるとがをみつけようとしていた。この役人たちの外側に、熱心な者、敬虔な者、好奇心のある者、不信心な者など、雑多な群衆がむらがっていた。彼らはいろいろな国籍や、社会のあらゆる階層を代表していた。「主の力が働いて、イエスは人々をいやされた」(ルカ5:17)。命のみたまは会衆をおおっていたが、パリサイ人と学者たちはその臨在を認めなかった。彼らは必要を感じなかったので、いやしは彼らのためではなかった。イエスは「飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせ」になった(ルカ1:53)。 DA 802.2

中風患者をはこんできた人たちは何度も何度も群衆の中を押しわけて進もうとしたがむだだった。病人は言いようのない苦痛のうちにあたりをみまわした。待ち望んだ助けを目の前にしながら、どうして望みをすてることができよう。病人の思いつきで、友人たちは彼を屋上にはこびあげ、屋根を破ってイエスの足もとに病人をおろした。講話は中断された。救い主はその悲しげな顔つきをごらんになり、訴える目がじっとご自分にそそがれているのをごらんになった。イエスは事情を理解された。イエスがその困り疑っている魂をみもとにひきよせられたのであった。この中風患者がまだ家にいた時に、救い主は彼の良心に自覚をお与えになった。彼が罪を悔い改め、自分を健康にしてくださるイエスの力を信じた時、救い主のいのちを与える憐れみは、まずその切望する心を祝福した。イエスは、最初のかすかな信仰の光が、イエスを罪人の唯一の助け手として信じる信仰に育って行くのを見守り、それが救い主のみもとに行きたいと努力する度にだんだん強くなって行くのをごらんになっていた。 DA 802.3

いま救い主は、苦しむ者の耳に音楽のようにひびくことばで、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた(マタイ9:2)。 DA 802.4

絶望の重荷は病人の魂からころがり落ちる。ゆるしの平安が彼の心に宿り、彼の顔の輝きにあらわれる。彼の肉体の苦痛は去り、身も心も一変する。無力の中風患者がいやされ、不義の罪人がゆるされたのだ。 DA 802.5

単純な信仰をもって、彼はイエスのみことばを新しいいのちの賜物として受け入れた。彼はもうこれ以上何も願わないで、うれしさのあまりことばもなくただ幸福な沈黙のうちに横たわっていた。天の光は彼の顔にかがやき、人々は畏敬の思いをもってその光景をながめた。 DA 802.6

ラビたちはイエスがこの病人をどう処置されるかを見ようと熱心に待っていた。彼らは、この病人から助けを求められた時、望みや同情を与えることを拒絶したことを思い出した。それだけで満足しないで、彼らはこの男が罪のために神からわざわいを受けているのだと宣告した。目の前にこの病人を見た時・そうしたことが彼らの心に新たによみがえった。人々がみなその光景を興味深く見守っているのを見て彼らは人々に対する自分たちの影響力が失われるのではないかと、恐ろしい不安を感じた。 DA 802.7

これらの偉い人たちはことばこそかわさなかった が、お互いに顔を見合わせることによって、人々の感動の波を防ぎとめるために何かしなければならないという同じ思いをお互いの胸から読みとった。イエスは中風患者の罪がゆるされたと宣告された。パリサイ人はこのことばをとらえて、それを神への冒?とし、死刑に値する罪として示すことができると考えついた。彼らは心の中で「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」と言った(マルコ2:7)。 DA 802.8

イエスがじっと目をそそがれると、彼らは小さくなってあとずさりした。するとイエスは、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか」と言われた。そして「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言われて、中風の者に向かい、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた(マタイ9:4~6)。 DA 803.1

すると担架にのせられてイエスのところへつれてこられたその男は、若者のようなはずむ力で立ちあがる。いのちを与える血潮が彼の血管に脈打つ。彼の体の器官がどれも急に活動をはじめる。近づいていた死の青白さが消えて、健康の輝きがあらわれる。「すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、『こんな事は、まだ1度も見たことがない』と言った」(マルコ2:12)。 DA 803.2

ああ、罪のある者と苦しんでいる者とをいやすために身をかがめられた驚くべきキリストの愛。悩んでいる人類の苦難を悲しみ、これをやわらげてくださる神。ああ・このように人の子らに示された驚くべき力。だれが救いのメッセージを疑うことができよう。だれが憐れみ深い救い主のいつくしみを軽んじることができよう。 DA 803.3

あの朽ちかけていた肉体に健康を回復するのに要したのは、創造の力以外の何ものでもなかった。地のちりから造られた人間にいのちを宣告した同じ声が、死にかけていた中風患者に命を告げた。しかも肉体に命を与えたのと同じ力が心を新たにしたのであった。創造の時に、「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立った」が、その主が罪ととがのうちに死んだ魂に命を語られたのであった(詩篇33:9)。肉体のいやしは、心を新たにした力の証拠であった。キリストは中風患者に「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」起きて歩めとお命じになった(マルコ2:10)。 DA 803.4

この中風患者は、キリストのうちに魂と肉体のいやしを見いだした。霊的ないやしに肉体的な回復がつづいた。この教訓をみのがしてはならない。今日肉体の病気にかかりながら、この中風患者のように、「あなたの罪はゆるされた」とのことばをきくのを待ち望んでいる者が幾千人となくいる。とどまるところを知らず、満たされることのない欲望をもった罪の重荷こそ、彼らの病気の根源である。彼らは魂をいやしてくださるお方のもとに行くまでは安心が得られない。イエスだけがお与えになることのできる平安によって、心に活力が与えられ、肉体に健康が与えられる。 DA 803.5

イエスは「悪魔のわざを滅ぼしてしまうため」においでになった(Ⅰヨハネ3:8)。「この言に命があった」。イエスは「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」と言われる。イエスは「命を与える霊」である(ヨハネ1:4、10:10、1コリント15:45)。イエスは、この地上において病人をいやし、罪人にゆるしをお告げになった時と同じに、いまもなおいのちを与える力を持っておられる。主は「あなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいや」される(詩篇103:3)。 DA 803.6

中風患者のいやしが人々に与えた効果は、ちょうど天が開いて天国の栄光があらわされたようなものだった。病気をいやされたこの男が1歩ごとに神を賛美し、荷物を羽毛のように軽々とかついで群衆の間を通って行くと、人々はうしろへさがって道をあけ、畏敬の念にうたれた顔つきで彼をじっと見つめ、「きょうは驚くべきことを見た」とそっとささやき合った (ルカ5:26)。 DA 803.7

パリサイ人は驚きのあまり口の利けない人のようにだまりこみ、敗北感に圧倒された。彼らは、彼らのねたみを群衆にたきつける機会がここにはないことを知った。彼らが神の怒りにまかせてしまった男のためになされた不思議なわざが、人々に強い印象を与えたので、ラビたちは一時忘れられてしまった。彼らが神にだけあると言っていた力をイエスが持っておられることを人々は知った。だがイエスのやさしくて威厳のある態度は、ラビたち自身のこうまんな態度といちじるしい対照をなしていた。彼らは口にこそ出さないが、自分たちよりもすぐれたお方が目の前におられることを認めて、まごつき、赤面した。イエスがこの地上で罪をゆるす権威を持っておられるという証拠が強ければ強いほど、彼らはますます固く不信のからにとじこもった。彼らは、中風患者がイエスのみことばによっていやされるのを見たペテロの家から、神のみ子を沈黙させる新しい計略を考え出すために出て行った。 DA 804.1

肉体の病気は、それがどんなに悪質で、根深いものであっても、キリストの力によっていやされた。しかし魂の病気は、光に目をとじた人々をもっと固くとらえていた。ハンセン病や中風は、頑迷さや不信ほど恐ろしくはなかった。 DA 804.2

中風をいやされた男の家では、ほんのちょっと前に寝床にのせられたまま静かに家からかつぎ出されて行った彼が、寝床をらくらくとかついで帰ってきた時、大きな喜びがあった。彼らは喜びの涙を浮かべてまわりに集まり、自分の目が信じられないようだった。彼は元気に満ちた1人前の男として彼らの前に立った。以前にはいのちがかよっているようには見えなかった彼の両腕が、すぐに彼の意志に従った。ちぢかんで鉛色をしていた彼の肉体が、いまは若々しく赤味をおびていた。彼はしっかりした足どりで自由に歩いた。彼の顔つきの一つ一つには喜びと望みが書かれ、罪と苦難のしるしに代って純潔と平和の表情が見られた。喜びと感謝のことばがその家からのぼって行き、神は、望みのない者に望みを回復し、傷ついた者に力をお与えになったみ子を通して栄光を受けられた。この男とその家族は、イエスのためならいつでも命をささげようと思った。彼らの信仰をくもらせる疑いはなく、彼らの暗い家庭に光をお与えになったイエスへの忠誠心をさまたげる不信はなかった。 DA 804.3