各時代の希望

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第28章 レビ・マタイ

本章はマタイ9:9~17、マルコ2:14~22、ルカ5:27~39に基づく DA 804.4

パレスチナのローマ官吏の中で、取税人ほど憎まれた者はなかった。外国の権力によって税を課せられるということが、自国の独立権が失われたことをユダヤ人に思い出させ、たえず彼らを怒らせた。取税人はローマの圧制の手先であったばかりではなかった。彼らはまた自分自身のために強奪者となり、民を犠牲にして私腹を肥やした。ローマ人の手からこの任命を受けたユダヤ人は、国民の名誉を裏切る者とみなされた。彼は変節者として軽蔑され、社会の最も下等な階層に入れられた。 DA 804.5

レビ・マタイはこの階級に属していたが、彼はゲネサレでの4人の弟子たちの次に、キリストの奉仕に召された。パリサイ人はマタイをその職業から判断していたが、イエスはこの男のうちに真理を受け入れるために心が開かれているのをごらんになった。マタイは救い主の教えを聞いていた。罪をさとらせる神のみたまが彼の罪深さを示した時、彼はキリストの助けを求めたいと熱望した。だが彼は、ラビたちの排他心になれていたので、この大教師イエスが自分に注目されるだろうとは考えていなかった。 DA 804.6

ある日、この取税人が収税所にすわっていると、イエスが近づいてこられるのが見えた。「わたしに従つてきなさい」ということばが自分に向かって語られるのを聞いた時の彼の驚きは大きかった。 DA 804.7

マタイは、「いっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた」(ルカ5:27、28)。ちゅうちょもなく、質問もせず金もうけの商売が貧乏と苦労にとり代えられるという考えもなかった。イエスといっしょにいるということ、イエスのみことばをきき、イエスの働きに加われるということだけで彼は十分だった。 DA 805.1

これより前に召された弟子たちも同じだった。イエスがペテロとその仲間に「わたしに従ってきなさい」とお命じになった時、彼らはすぐに舟と網を捨てた。これらの弟子たちの中には、生活の面倒をみなければならない友人たちをかかえている者もあった。しかし彼らは救い主の招きを受けた時、ちゅうちょして、わたしはどうして生活し家族を養えるでしょうかとたずねなかった。彼らは召しに従順だった。後になってイエスが、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」とおたずねになった時、彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えることができた(ルカ22:35)。 DA 805.2

金持ちだったマタイにも、貧乏だったアンデレとペテロにも、同じ試みが与えられたが、彼らはそれぞれ同じように献身した。成功の瞬間に、すなわち、網が魚でいっぱいになり、これまで通りの生活をつづけたいという気持が最も強かった時に、イエスは、海辺で、弟子たちに福音の働きのために一切を捨てるように求められた。同じように一人一人の魂は、この世の幸福を望む心と、キリストとのまじわりを望む心と、そのどちらが最も強いかを試みられるのである。 DA 805.3

原則はいつでもきびしい。全心全霊を働きにうちこみ、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思」うようでなければ、だれも神への奉仕に成功することはできない(ピリピ3:8)。自分のために少しでも取って置く者はキリストの弟子になることはできないし、ましてや共労者となることはできない。人々が大いなる救いの真価を知る時、キリストの生活にみられた自己犠牲が彼らの生活の中にみられる。キリストがどこへみちびかれようとも、彼らはよろこんで従うのである。 DA 805.4

マタイがキリストの弟子の1人として召されたことから非常な憤慨がひき起こされた。宗教教師が、直弟子の1人として取税人をえらぶということは、宗教的社会的国民的な慣例に反していた。パリサイ人は、人々の偏見に訴えることによって、イエスに対する人気の流れを反対の方向に変えようと望んだ。 DA 805.5

取税人たちの間に、広く行きわたる興味が起こった。彼らの心は天来の教師イエスへひきつけられた。マタイは弟子にしてもらったことをよろこんで、以前の仲間をイエスにみちびきたいと熱望した。そこで彼は自分の家にふるまいの席を設けて、親戚や友人たちをいっしょに呼んだ。そこには取税人たちばかりでなく、いかがわしい評判の人たちや用心深い隣人たちから排斥されているような人々がたくさんきていた。 DA 805.6

もてなしはイエスを主賓としてなされたが、イエスはその心づくしを受け入れるのにちゅうちょされなかった。イエスはこのことがパリサイ党を怒らせ、また民の目にご自分の信用を落すことをよくご存じだった。しかし慣例はイエスの行動を左右することができなかった。イエスにとって外面的な偉さはすこしも重要でなかった。イエスの心に訴えたものはいのちの水にかわき、それを求めている魂であった。 DA 805.7

イエスは取税人たちの食卓に主賓としておつきになり、同情心と社交的な親切とによって、ご自分が人間性の尊厳を認めておられることをお示しになった。そこで人々は、イエスの信頼に値する者になりたいと心から願った。彼らのかわいた心に、イエスのみことばは、いのちを与える祝福の力となってのぞんだ。社会からのけ者にされていたこの人たちに、新しい衝動がめざめ、新しい生活の可能性が開かれた。 DA 805.8

このような集まりで救い主の教えに深い感銘を受け、キリストが昇天されてからはじめてキリストを認めた者が少なくなかった。聖霊が豊かにそそがれ、1日に3000人が悔い改めた時、その中には、取税人たちの食卓で初めて真理を聞いた人たちが多くまじっていて、彼らのうちのある者は福音の使者となった。 マタイ自身にとっても、ふるまいの席でのイエスの模範はいつも教訓となっていた。軽蔑されていたこの取税人は最も献身的な伝道者の1人となり、彼自身の伝道において主のみ足跡に忠実に従った。 DA 805.9

ラビたちは、イエスがマタイのふるまいの席に出席されたことを知ると、イエスを非難する機会ととらえた。しかし彼らは、弟子たちを通して働きかけようと望んだ。ラビたちは、弟子たちの偏見をひき起こすことによって、彼らを主からひき離そうと望んだ。弟子たちにはキリストのことを非難し、キリストには弟子たちのことを悪く言って、一番傷つきやすいところにねらいをつけるのがラビたちの手段だった。これは、サタンが天で不満を感じて以来、いつもしてきた方法である。不和と離反をひき起こそうとする者はみな彼の精神に動かされているのである。 DA 806.1

ねたみ深いラビたちは、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」とたずねた(マタイ9:11)。 DA 806.2

イエスは、弟子たちがその非難に答えるのを待たないで、自らお答えになった。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12、13)。パリサイ人たちは、自分たちは霊的に健康であるから、医者の必要はないと主張し、取税人や異邦人を魂の病気で死にかけている者とみなしていた。だから、イエスの助けを要している階級へ医者として行かれるのが、イエスの働きではなかっただろうか。 DA 806.3

しかしパリサイ人たちは、自分を偉いものに思っていたが、実際には彼らは彼らが軽蔑している人たちよりも悪い状態にあった。取税人たちは彼らよりも頑迷さや自己満足の念がなく、したがって真理の感化に対してもっと心が開かれていた。イエスはラビたちに、「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい」と言われた(マタイ9:13)。このようにイエスは、彼らが神のみことばを説明すると主張しながら、その精神については全く無知であることをお示しになった。 DA 806.4

パリサイ人たちはその時はだまっていたが、しかし彼らの敵意は一層固くなっただけであった。彼らは次にバプテスマのヨハネの弟子たちをさがし出して、救い主に反対させようと試みた。このパリサイ人たちは、バプテスマのヨハネの使命を信じていなかった、彼らはヨハネの節制生活、彼の単純な習慣、彼の粗末な衣服などを嘲笑的に指さして、彼を狂信者だと断言していた。ヨハネが彼らの偽善を攻撃したので、彼らはヨハネのことばに抵抗し、人々がヨハネに反対するようにあおりたてていた。神のみたまはこのような嘲笑者たちの心に働いて、彼らに罪をさとらせられたが、彼らは神の勧告をしりぞけ、ヨハネは悪鬼につかれていると断言していた。 DA 806.5

いまイエスが人々の中にまじって、彼らの食卓で飲み食いされると、彼らはイエスのことを大食家だとか大酒飲みだとか言って攻撃した。二のような攻撃をする彼ら自身こそやましいのであった、神についてまちがった解釈がなされ、サタン自身の特性が神に着せられるように、主の使者たちもこうした悪人たちによって曲解された。 DA 806.6

パリサイ人たちは、イエスが暗黒の中にある人々に天の光を与えるために取税人や罪人たちといっしよに食事をしておられるのだということを考慮しようとしなかった。天来の教師のまかれる一つ一つのみことばが生きた種であって、それは発芽して神の栄えのために実を結ぶのだということを、彼らは認めようとしなかった。彼らは光を受け入れまいと決心していた。彼らは、バプテスマのヨハネの使命に反対してきていたのに、イエスに対する反対に彼らの協力を1得ようと望んで、いまヨハネの弟子たちの友情を求めようとした。彼らは、イエスが昔からの言い伝えを廃しようとしておられると言った。また彼らはバプテスマのヨハネの厳格な敬虔さと、取税人や罪人といつしょに食事をされたイエスの行動とを比較した。 DA 806.7

ヨハネの弟子たちはこの時非常な悲しみのうちにあった。それは彼らがヨハネの伝言をもってイエス に会いに行く前だった。彼らの愛する教師は牢獄の中におり、彼らは悲嘆のうちに日をすごしていた。しかもイエスは、ヨハネを釈放するために、何の努力もされず、むしろヨハネの教えに不信を表明しておられるかのようにさえみえた。もしヨハネが神からつかわされたのなら、なぜイエスとその弟子たちはこんなにまったく異なった道を歩まれるだろう。 DA 806.8

ヨハネの弟子たちはキリストの働きをはっきり理解していなかった。パリサイ人たちの非難には何か根拠があるかも知れないと、彼らは思った。彼らはラビたちが規定した規則の多くを守り、律法のわざによって義とされることを望んでさえいた。ユダヤ人は断食を功績の行為として実行し、彼らの中で最も厳格な者は毎週2日間断食した。ヨハネの弟子たちが、イエスのもとにやってきて、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」とたずねた時、彼らもパリサイ人たちも断食していた(マタイ9:14)。 DA 807.1

イエスは非常にやさしく彼らにお答えになった。イエスは、断食について彼らのまちがった観念をなおそうとはされずご自分の使命について彼らが正しい見方をするようにされただけだった。しかもイエスは、バプテスマのヨハネ自身がイエスについてのあかしに用いたのと同じ譬を使ってこのことを説明された。ヨハネは「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている」と言った(ヨハネ3:29)。イエスがこの例をとりあげて「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか」と言われたとき、ヨハネの弟子たちは彼らの教師のことばを思い出さずにはいられなかった(ルカ5:34)。 DA 807.2

天の大君がご自分の民の中におられた。神の最高の賜物が世に与えられていた。貧しい者に喜びあれ。キリストが彼らをみ国の世継ぎとするためにおいでになったからである。富める者に喜びあれ。キリストは永遠の富を手に入れる方法を彼らにお教えになるからである。無知な者に喜びあれ。キリストは彼らを救いについて賢明な者とされるからである。知識のある者に喜びあれ。キリストは彼らがこれまできわめたところよりももっと深い神秘を明らかにされるからである。世の基がおかれた時からかくされていた真理は、救い主の使命によって人々に開かれるのであった。 DA 807.3

バプテスマのヨハネは救い主を見て喜んだ。天の大君と共に歩み、共に語る特権にあずかっていた弟子たちには何という大きな喜びの機会があったことだろう。いまは彼らが嘆いたり断食をしたりする時ではなかった。暗黒と死の影にすわっている人々に光を照すために、彼らは心を開いてキリストの栄光を受けねばならない。 DA 807.4

キリストのみことばは明るい光景をえがき出したが、その向こうには濃い影が落ちていて、イエスの御目だけがそれを認めていた。「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」とイエスは言われた(ルカ5:35)。主が売り渡され、十字架につけられるのを見る時に、弟子たちは嘆き断食するであろう。あの二階の広間で弟子たちに語られた最後のことばの中に、イエスは、「しばらくすればわたしを見なくなる、またしばらくすればわたしに会えるであろう……よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう。あなたがたは憂えているが、その憂いは喜びに変るであろう」と言われた(ヨハネ16:19、20)。 DA 807.5

イエスが墓から出ておいでになる時、彼らの悲しみはよろこびに変るのであった。イエスの昇天後そのお姿はみえなくなるが、慰め主を通してイエスはなお彼らとともにおられるので、彼らは悲嘆のうちに時をすごさないのであった。彼らが悲嘆のうちに時をすごすことは、サタンの望むところだった。サタンは、彼らがあざむかれ、失望したという印象を世に与えたいと望んだ。しかし信仰によって、彼らは、イエスが彼らのために奉仕しておられる天の聖所をながめるのであった。彼らはキリストの代表者であられる聖霊に心を開き、そのご臨在の光をよろこぶのであった。しかし誘惑と試練の日がくるのであった。その 時彼らは、この世の支配者たちや暗黒の王国の指導者たちと衝突するのであった。その時キリストは、自ら彼らのそばにおられず、彼らは慰め主を認めなかった。その時こそ彼らが断食することは一層ふさわしいのであった。 DA 807.6

パリサイ人は、形式を厳格に守ることによって自分をえらそうにみせようとつとめたが、一方その心はねたみと争いに満ちていた。聖書にこう言われている、「見よ、あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしをもって人を打つためだ。きょう、あなたがたのなす断食は、その声を上に聞えさせるものではない。このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか。人がおのれを苦しめる日であろうか。そのこうべを葦のように伏せ、荒布と灰とをその下に敷くことであろうか。あなたは、これを断食ととなえ、主に受けいれられる日と、となえるであろうか」(イザヤ58:4、5)。 DA 808.1

真の断食は単なる形式的な行事ではない。神がおえらびになった断食は、「悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事……飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせる」ことであると聖書に書かれている(イザヤ58:6、10)。ここにキリストの働きの精神と性格が示されている。キリストの一生は世の救いのためにご自身を犠牲にされることであった。試みの荒野で断食されても、マタイのふるまいの席で取税人たちといっしょに食事をされても、イエスは、失われた者の救いのためにご自身のいのちを与えておられた。ただ嘆き悲しんだり、肉体を痛めつけたり、おびただしい犠牲を払ったりすることなどの中に真の信心の精神があらわされるのではなく、それは神と人とに対する心からの奉仕に自分をささげることに示されるのである。 DA 808.2

イエスは、ヨハネの弟子たちへの答をつづけ、譬を用いてこう言われた、「だれも、新しい着物から布切れを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布切れも古いのに合わないであろう」(ルカ5:36)。バアテスマのヨハネのメッセージを、言い伝えや迷信に織り込んではならなかった。パリサイ人の見せかけとヨハネの信心とをまぜ合わせようとする試みは、両者の不一致をますます明らかにするだけであった。 DA 808.3

キリストの教えの原則をパリサイ主義の形式に一致させることもまたできなかった。キリストは、ヨハネの教えによって生じた破れをふさがれるのではなかった。キリストは古いものと新しいものとの分離をますます明らかにされるのであった、イエスはこの事実をさらに次のような例をもって示された「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に人れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう」(ルカ5:37)。新しい酒を入れる容器として用いられた皮袋は、しばらくすると乾いてもろくなり、同じ目的のためにはもう役立たなくなった。このよく知られた例を用いて、イエスはユダヤ人の指導者たちの状態をお示しになった。祭司たち、律法学者たち、役人たちは、型にはまった儀式と言い伝えにこり固まっていた。彼らの心は、イエスがひからびた皮の酒袋にたとえられたように、ちぢまっていた。律法的な宗教に満足しているかぎり、彼らが天の生きた真理の保管者となることは不可能だった。彼らは、自分自身の義は十分であると思っていたので、自分たちの宗教に新しい要素がはいりこむことを望まなかった。彼らは、人類に対する神の恵みを彼ら自身と関係のないものとして受け入れることをしなかった彼らはそれを自分たちの善行のせいにして、彼ら自身の功績に結びつけた。愛によって働き、魂をきよめる信仰が、儀式と人の命令から成り立っているパリサイ人の宗教と結合する余地はなかった。イエスの教えを既成宗教と結びつけようと努力してもむだであつた。神の重要な真理は、発酵するぶどう酒のように、パリサイ的言い伝えという古い朽ちた袋を破るのであった。 DA 808.4

パリサイ人は、自分たちは賢いから教えを受ける必要はない、義人だから救いの必要はない、高い誉を 受けているからキリストから栄えを受ける必要はないと考えていた。救い主は彼らから離れ、天の使命を受け入れるようなほかの人々をさがされた、イエスは、教育のない漁夫たち、市場の取税人、サマリヤの女、喜んでみことばをきく一般の人々などを新しい酒を入れる新しい袋としてごらんになった。福音の働きにうつわとして用いられる者は、神が彼らに送られる光をよろこんで受け入れる魂である。こういう人々は真理の知識を世に与えるための神の代理者である。もし神の民が、キリストの恵みによって新しい袋となるならば、神はそれに新しいぶどう酒を満たされるのである。 DA 808.5

キリストの教えは、新しい酒として表現されているが、それは新しい教理ではなくて、世の初めから教えられていたことを啓示したものであった。しかしパリサイ人たちには、神の真理の本来の意義と美しさとがわからなかった。彼らにとって、キリストの教えはほとんどすべての点において新しく、したがって、それを認識することも、承認することもできなかった。 DA 809.1

イエスは、真理を求める心と理解力とを破壊する偽りの教えの力を指摘された。「まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」(ルカ5:39)。父祖たちと預言者たちとを通して世に与えられてきたすべての真理は、キリストのみことばのうちに新しい美しさを放って輝いた。しかし律法学者たちとパリサイ人たちは、とうとい新しい酒を望まなかった。古い言い伝え、慣例、習慣を空にしてしまうまでは、彼らは、頭や心にキリストの教えを入れる余地がなかった。彼らはいのちのない形式に執着し、生きた真理と神の力から離れた。 DA 809.2

このことが結局はユダヤ人を滅亡させたが、それはまたわれわれの時代にも多くの魂を滅亡させるであろう。マタイのふるまいの席でキリストから非難されたパリサイ人たちのように、幾千の者が同じあやまちを犯している。多くの者は心にいだいている何かの考えを放棄したり、何か大事な意見を捨てたりするよりは、むしろ光の父から与えられる真理をこばむのである。彼らは自分に信頼し、自分自身の知恵にたよっていて、自分の霊的な貧しさをみとめない。彼らは何かの方法である重要な働きをすることによって救われることを強調する。そしてその働きに自我を織り込む方法がないことを知ると、備えられた救いをこばむのである。 DA 809.3

律法的な宗教は決して魂をキリストに導くことができない。なぜならそれは愛のない宗教、キリストのない宗教だからである。自分を義とする精神に動かされての断食や祈りは、神の御目に憎むべきものである。荘厳な礼拝の集まり、宗教的儀式のくりかえし、外面的な苦行、強制的な犠牲などは、こうしたことを行う人が自分自身を義とし、天国にはいる資格があるとみなしていることを公告している。しかしそれはまったくの欺瞞である。われわれは自分自身のわざによって救いを買うことは決してできない。 DA 809.4

キリストの時代にそうであったように、今日も同じである。パリサイ人たちは自分の霊的欠乏がわからない。彼らに次のような警告が与えられている、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」(黙示録3:17、18)。信仰と愛は火で練られた金である。しかし多くの者にとって、金は光沢を失い、とうとい宝は失われた。キリストの義は、彼らにとっては、着たことのない衣、ふれたことのない泉である。彼らに向かってこう言われている、「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう」(黙示録2:4、5)。 DA 809.5

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51:17)。人は、最高の意味において、イエスを信じる者となることができる前に、自分自身をむなしくしなければならない。自我が放棄される時、主はその人を新しい人間にすることがおできになる。新しい袋は新しいぶどう酒を入れることができる。キリストの愛は新しいいのちをもって信者を生かす、われわれの信仰の創始者でありまた完成者であるおかたを見つめる人のうちに、キリストの品性があらわされるのである。 DA 810.1