各時代の希望

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第26章 カペナウムで

イエスは、あちらこちらへ旅行されるあいまにカペナウムに住まわれたので、この町はイエスご自身の町として知られるようになった(マタイ9:1参照)。この町はガリラヤの海の沿岸にあって、ゲネサレの美しい平野にまたがっているとまではいえないが、その境界の近くにあった。 DA 792.4

ガリラヤ湖の深いくぼみは、その岸に沿った平野に南国のようなおだやかな気候をもたらした。キリストの時代には、ここにしゅろの木やオリーブの木が茂っていた。ここにはまた果樹園やぶどう園や緑の野や、はなやかに咲きほこる美しい花々がみられ、それらはすべてがけから吹き出してくる新鮮な水によってうるおされていた。湖の沿岸や、すこし離れて湖をとりまいている丘には、町や村が点々とあった。湖は漁をする舟でいっぱいだった。どこも多忙で活動的な生活がみられた。 DA 792.5

カペナウムそのものは救い主の働きの中心地となるのに非常に適していた。この町は、ダマスコからエルサレム、エジプト、地中海へ通じる街道に沿っていたので、旅の往来のはげしいところであった。多くの国々からやってきた人たちはこの町を通り、あるいはあちらこちらへの旅の途中休息のために滞在した。ここでイエスはあらゆる国民とあらゆる階級の人々、貧しくていやしい人々にも、金持ちでえらい人々にもお会いになることができたので、その教訓はほかの国々や多くの家庭に伝えられるのであった。こうして預言の研究が刺激され、人々の注意が救い主に向けられ、イエスの使命が世の人々の前に示される のであった。 DA 792.6

サンヒドリンがイエスに反対する決議をしたにもかかわらず民衆はイエスの使命の発展を熱心に待っていた。全天は関心をもって活動していた。天使たちは、人々の心に働きかけ、彼らを救い主にひきよせて、イエスの伝道に道を備えていた。 DA 793.1

カペナウムでは、キリストが病気をなおしておやりになった貴族の息子が、キリストの力の証人であった。またこの宮廷の役人とその家族は、彼らの信仰を喜んであかしした。師であるイエスが自分たちの中におられるということがわかると、街中がわきたった。群衆がイエスの前へ集まってきた。安息日には、会堂が人でいっぱいになり、ついには大勢の人々が入りきれないでひき返さねばならなかった。 DA 793.2

救い主の話をきいた人々はみな「その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。」「それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(ルカ4:32、マタイ7:29)律法学者たちと長老たちの教えは、つめたくて形式的で、丸暗記した教えのようであった。彼らにとって神のみことばは生命力がなかった。彼ら自身の考えと言い伝えとが神のみことばの教えと入れ代っていた。習慣的にくりかえされる儀式を通して、彼らは律法を説明すると公言したが、しかし彼ら自身の心も聴衆の心も神からの霊感に動かされていなかった。 DA 793.3

イエスは、ユダヤ人の間でいろいろ意見の異なっている問題には関係されなかった。真理を示すことがイエスの働きであった。イエスのみことばは、父祖たちと預言者たちの教えを豊かな光で照し、聖書人々にとって新しい啓示となった。聴衆は、これまでにかつてなかったほど神のみことばに深い意味をめた。 DA 793.4

イエスは人々の困難をよく知っている者として、ら自身の立場に立って人々に応対された。彼は真理を最も率直で単純な方法で示すことによって、れを美しいものとされた。イエスのことばは純潔で洗練されていて、流れる川のように澄んでいた。イスのお声はラビたちの単調な調子にききなれた人ちにとって音楽のようだった。しかし、教えは単純であったが、イエスは権威を持つ者として語られた。この特徴のために、イエスの教えはほかのすべての人たちの教えと対照的だった。ラビたちは、聖書のみことばをある意味に、あるいはそれと正反対の意味にも解釈できるかのように、疑いとためらいとをもって語った。聞く者たちは毎日ますますわからなくなった。しかしイエスは聖書を疑問の余地のない権威のあるものとして教えられた。どんな問題であっても、イエスのみことばに反ばくする余地がないかのように、それは力強く語られた。 DA 793.5

しかしイエスは、激しいというよりも熱心だった。イエスは達成すべきはっきりした目的を持っているお方として語られた。イエスは永遠の世界の事実を示しておられた。どのテーマにも神があらわされた。イエスは、人々が地上の事物に心を奪われている状態を打破しようとされた。彼はこの世の事物を、永遠の利害関係に従属するものとして、その正しい関係に置かれた。しかしイエスはこの世の事物の重要さを無視されなかった。イエスは、天と地がつながっているということ、また神の真理を知ることによって、人は日常生活の義務を一層よく果たすことができるようになることをお教えになった。イエスは天をよく知っているお方として語り、神とご自分との関係を意識しておられたが、同時にまたご自分が人類家族の一人一人とつながっていることをみとめておられた。 DA 793.6

イエスのめぐみのみことばは聴衆に向くようにいろいろ変えられた。彼は「疲れた者を言葉をもって助けることを知」っておられた(イザヤ50:4)。それは人々を最もよくひきつける方法で真理の宝を彼らに伝えることができるように、イエスのくちびるに恵みがそそがれていたからであった。彼は、心に偏見をもっている人たちに接して、彼らの注意をとらえるような実例によって彼らを驚かせる気転をもっておられた。想像力を通してイエスは心にふれられた。イエスの例話は日常生活の事物からとられた。それは単純な例であったが、驚くほど深い意味をもっていた。空の鳥、野のゆり、種、羊飼と羊——こうした事 物によってキリストは永遠の真理を例示された。聴衆は、その後いつでもそうした自然界の事物を見るたびに、イエスのみことばを思い出した。キリストの例話はたえずその教訓をくりかえした。 DA 793.7

キリストは決して人々にへつらいを言われなかった。彼らの空想と想像とを高慢にするようなことを語ったり、彼らのじょうずな作り話をほめたりするようなことをされなかった。しかし偏見にとらわれないで深く物事を考える人たちは、イエスの教えを受け入れ、その教えによって自分たちの知恵がためされることを知った。彼らはどんな単純なことばにも霊的な真理があらわされているのに驚嘆した。最高の教育を受けた人たちも、イエスのみことばに魅力を感じ、教育のない人たちもいつも益を受けた。イエスは読み書きのできない人たちのためにメッセージをもっておられた。イエスはまた異教徒にさえ、彼らのためのメッセージをもっておられることを理解させられた。 DA 794.1

イエスのやさしい憐れみはいやしの力を伴って、疲れ悩んでいる心にそそがれた。怒った敵の狂乱の中にあってさえ、主は平和の雰囲気にかこまれておられた。イエスのお顔の美しさ、品性の美しさ、とりわけその顔つきと口調にあらわれている愛は、不信のために心のかたくなになっていないすべての人々をみもとへひきつけた。イエスの顔つきとことばの一つ一つからやさしい同情的な精神が輝き出ていなかったら、イエスはあのように多くの会衆をひきつけられなかったであろう。イエスのみもとにやってきた苦しんでいる人々は、イエスが忠実なやさしい友として自分たちと利害を一つにされていることを感じ、イエスの教えられる真理をもっと知りたいと望んだ。天は近くにあった。彼らは、イエスの愛の慰めがたえず自分たちの上にあるように、いつまでもイエスの前にいたいと望んだ。 DA 794.2

イエスは聴衆の顔にあらわれる変化を非常に熱心に見守られた。興味と喜びをあらわしている顔はイエスに大きな満足を与えた。真理の矢が魂にささり、利己主義という壁をつらぬき、悔い改めとそしてついには感謝の思いをひき起こす時、救い主は喜ばれた。イエスの目が聴衆の群れを見渡して、その中に以前見えた顔を認められると、そのお顔はよろこびに輝いた。イエスは彼らのうちにご自分の王国の有望な民をごらんになった。真理がはっきりと語られて、それが何か大事な偶像にふれると、イエスは彼らの顔色が冷たく、きびしい顔つきに変るのを認められた。それはその光が歓迎されないことを物語っていた。人々が平和のメッセージを拒否するのをごらんになると、イエスの心はその奥底まで突き刺された。 DA 794.3

イエスは、会堂で、ご自分が建設するためにおいでになった王国について、またサタンのとりこを解放されるご自分の使命について語られた。イエスは鋭い恐怖の叫び声にさまたげられた。1人の狂人が人々の中からとび出してきて、「ああ、ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるので洗わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」と大声で叫んだ(ルカ4:34)。 DA 794.4

たちまち混乱と恐れが生じた。人々の注意はイエスからそれて、みことばをきかなかった。サタンが自分のとりこを会堂に入れた目的はここにあった。しかしイエスは悪鬼をいましめて、「黙れ、この人から出ていけ」と言われた。「すると悪霊は彼を人なかに投げ倒し、傷は負わせずに、その人から出て行った(ルカ4:35)。 DA 794.5

このあわれな苦しんでいる者は、サタンのために心が暗くなっていたが、救い主の前に出たときに、ひとすじの光がその暗黒をつらぬいた。彼はサタンの支配から自由になりたいという願いにめざめた。だが悪鬼はキリストの力に抵抗した。その男がイエスに助けを求めて訴えようとすると、悪霊が彼の口にことばを入れ、彼は恐怖に苦しみながら叫んだ。悪鬼につかれた男は、自分を自由にしてくださることのできるお方の前に自分がいることをある程度理解した。しかし彼がその偉大なみ手のとどくところに行こうとすると、ほかの者の意志が彼をひきとめ、ほかの者のことばが彼の口から語られた。サタンの力と、自由を求める彼自身の願いとの間の戦いは激しかった。 DA 794.6

試みの荒野でサタンを征服されたお方はふたたび敵と顔をあわされた。悪鬼は自分のとりこに対する支配力を保つために全力をつくした。ここで退いたら、イエスを勝利させることになるだろう。苦しめられているその男は、自分の人間性を破壊した敵との戦いにいのちを失わねばならないかのようにみえた。しかし救い主は権威をもって語り、とりこを解放された。さっきまで悪鬼にとりつかれていた男は驚きあやしむ人々の前に落ちついた自由な人間としてうれしそうに立った。悪鬼さえも救い主の神の力を証拠だてたのであった。 DA 795.1

男は自分が救われたことについて神を賛美した。最近まで狂気の炎に燃えていた目は、いま知性に輝き、感謝の涙にあふれた。人々は驚いて口のきけない者のようにだまっていた。口がきけるようになったとたんに、彼らはお互いに叫び合った。「これは、いったい何事か。権威ある新しい教だ。けがれた霊にさえ命じられると、彼らは従うのだ」(マルコ1:27)。 DA 795.2

この男が友人たちの前に恐ろしいみせものになり、自分で自分をもてあましていた苦悩のかくれた原因は、彼自身の生活の中にあった。彼は罪の快楽に魅惑され、人生をすばらしい謝肉祭にしようと考えた。彼は自分が世間の人から恐れられる者となり、家族の恥さらしになろうなどとは夢にも思わなかった。彼は罪のない道楽に時を過ごすことができると思った。しかし1度くだり坂になると、彼の足は非常な勢いでくだって行った。不節制と道楽は、彼の性質のとうとい特性を堕落させ、サタンが完全に彼を支配した。 DA 795.3

後悔した時はすでに遅かった。失われた人間性をとり戻すためには富も快楽も犠牲にしたいと思った時には、彼は悪魔の手ににぎられていてどうにもならなかった。彼は敵の側に身をおいたので、サタンが彼の才能を全部手に入れた。誘惑者は多くの魅力的なものをみせて彼を誘惑したが、いったんこのあわれな男が自分の手中におちいると、悪魔は容赦なく残酷になり、恐ろしい怒りをもってのぞんだ。悪に負ける者はみなそうなるのである。彼らの若いころの魅力的な快楽の結果は、絶望の暗黒か破滅した魂の狂気である。 DA 795.4

荒野でキリストを試み、カペナウムの狂人を支配した同じ悪霊が不信のユダヤ人を支配した。しかし悪霊は、ユダヤ人の前では敬虔さをよそおい、救い主をこばむ動機について彼らをあざむこうとつとめた。彼らの状態はあの狂人の状態よりも絶望的だった。なぜなら彼らはキリストの必要を感じないために、サタンの力に固くとらえられていたからであった。 DA 795.5

キリストが人々の中で個人的に伝道された期間は、暗黒の王国の勢力が最も活動していた時であった。各時代にわたってサタンと悪天使たちは、人間の肉体と精神とを支配して罪と苦難とを生じさせようと努力してきた。そして彼はそうしたすべての悲惨な状態を神のせいにした。イエスは神のご品性を人々にお示しになっていた。彼はサタンの力をうち破り、そのとりこを解放しておられた。天からの新しいいのちと愛と力とが人々の心に働きかけていたので、悪の君は自分の王国の主権を守るために戦いに立ちあがった。サタンは全軍を召集してあらゆるところでキリストと争った。 DA 795.6

義と罪との間における最後の大争闘もまた同じである。天から新しいいのちと光と力とがキリストの弟子たちの上にくだる一方で、一つの新しいいのちが地から生じてサタンの働きを活気づける。地上のあらゆる要素は緊張につつまれる。何世紀もの争闘を通して身につけた狡猾(こうかつ)さをもって、悪の君は変装して働く。彼は光の天使の装いをしてあらわれ、多くの人々が「惑わす霊と悪霊の教とに気をとられ」る(Ⅰテモテ4:1)。 DA 795.7

キリストの時代にはイスラエルの指導者や教師たちはサタンの働きに抵抗するのに無力だった。彼らは悪霊をおさえることのできる唯一の方法をおろそかにしていた。キリストが悪魔を征服されたのは神のみことばによってであった。イスラエルの指導者たちは、神のみことばの解説者であると自称していたが、彼らは自分たちの言い伝えを支持し、人間のつくった慣習を強制するためだけにみことばを研究していた。 彼らは自分たちの解釈によって、神が決して意図されなかった意味をみことばに与えた。彼らの神秘的な解釈は、神が明らかに示しておられることを不明瞭(ふめいりょう)にした。彼らはつまらない専門用語について論争し、最も本質的な真理を事実上否定した。こうして不信仰の種が広くまかれた。神のみことばはその力を奪われ、悪霊は思いのままに働いた。 DA 795.8

歴史はくりかえされている。聖書を目の前に開いて、その教えをとうとぶと告白しながら、今日多くの宗教家たちは、聖書を神のみことばとして信じる信仰を破壊している。彼らはみことばを批評するのに忙しく、みことばにはっきり言われていることよりも自分自身の意見を第一にする。彼らの手によって、神のみことばは人を生れかわらせる力を失う。不信仰がはびこり、不義が盛んな理由はここにある。 DA 796.1

サタンは、聖書に対する信仰をひそかに破壊してしまうと、人々を他の光と力のみなもとにみちびく。こうして彼は巧妙に入りこむ。聖書の明らかな教えと、罪についてさとらせてくださる神の聖霊の力から離れる者は、悪鬼の支配を招いているのである。聖書についての批評と空論とは、古代の異教が近代化されたものである降神術と接神論とが、われらの主イエス・キリストの教会と自称している教会の中にさえ足場を獲得する道を開いた。 DA 796.2

福音の教えと並んで、偽りの霊の仲介にすぎない力が働いている。多くの人々はただの好奇心からこうしたものに手を出すが、人間の力以上のものが働いている証拠を見て、だんだんおびきよせられ、ついには自分の意志よりも力の強い意志に支配されるようになる。彼はその神秘的な力からのがれることができない。 DA 796.3

魂の防備はうち破られる。彼には罪に対する防壁がない。神のみことばとみたまの抑制がひとたび拒否されると、人はどこまで堕落の深みに落ちるかわからない。秘密な罪や支配的な情欲のために、彼はカペナウムの悪鬼につかれた男と同じように無力なとりことなる。それでもなお彼の状態には望みがないのではない。 DA 796.4

われわれが悪魔にうち勝つことができる方法は、キリストが勝たれた方法、すなわちみことばの力によってである。神はわれわれの同意なしには心を支配なさらない。しかし神のみこころを知り、これを行おうと望むとき、次の神の約束はわれらのものである。「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」(ヨハネ8:32、7:17)。これらの約束を信ずることによって、誰でもみな誤謬のわなと罪の支配から救われるのである。 DA 796.5

人はみなどんな力によって支配されようと自由である。キリストのうちに救いをみいだすことができないほどどん底まで堕落した者はなく、またそれほど悪い人間はいない。悪鬼につかれたあの男は、祈りの代りに、サタンのことばしかしゃべることができなかった。それでも彼の心の中にある無言の訴えはきかれた。困っている魂の叫びは、たとえそれがことばにならなくても、決してみすごされることはない。天の神との契約関係にはいることに同意する者は、サタンの力や自分自身の弱い性質のままにうちすてられることはない。彼らは救い主から、「むしろわが力にたよりて我とやわらぎを結べ、われと平和をむすぶべし」と招かれている(イザヤ27:5・文語訳)。暗黒の悪霊たちはかつて自分たちの支配下にあった魂を求めて戦う。しかし神の天使たちがすぐれた力をもってその魂のために戦うのである。主はこう言われる、「勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。しかし主はこう言われる、『勇士がかすめた捕虜も取り返され、暴君が奪った獲物も救い出される。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救うからである』」(イザヤ49:24、25)。 DA 796.6

会堂の中の会衆がまだ畏敬の念にわれを忘れている間に、イエスはしばらく休むためにペテロの家へ退かれた。だがここにもまた暗い影が落ちていた。ペテロの妻の母親が高い熱のために病床に横たわ っていたのである。イエスは病気を責められた。すると病人は起きあがって主と弟子たちの必要に奉仕した。 DA 796.7

キリストのみわざについてのうわさはたちまちカベナウム中にひろがった。ラビたちを恐れたために、人々は安息日に病気をなおしてもらうためにやってこようとはしなかった。だが太陽が地平線にかくれたとたんに大さわぎが始まった。家から、商店から、市場から、町の住民がイエスの泊まっておられるそまつな住居へおしかけた。病人は寝いすにのせてつれてこられた。つえにすがってやってくる者もあれば、友人たちにささえられて力なくよろめきながら、救い主の前に出る者もあった。 DA 797.1

何時間にもわたって、人々は出たり入ったりした。なぜなら翌日になればこのいやし主がまだ自分たちの中におられるかどうかだれにもわからなかったからである。カペナウムでこのような日がみられたことはかつてなかった。大気は勝利の声と救いの叫びに満たされた。救い主はご自分がひき起こされた歓喜をお喜びになった。イエスは、ご自分のところにやってきた人々の苦難をごらんになって、同情に心を動かされたが、彼らに健康と幸福を回復しておやりになる力があることを喜ばれた。 DA 797.2

イエスは最後の病人がなおるまで働きをやめられなかった。群衆が立ち去り、シモンの家が静けさにつつまれたのは夜おそくになってからだった。長いさわぎの1日が過ぎ去って、イエスは休まれた。しかし町がまだ眠りにつつまれているころ、救い主は「朝はやく、夜の明けるよほど前に、……起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)。 DA 797.3

こうしてイエスの地上生活の日々が明け暮れた。イエスはたびたび弟子たちにひまをおやりになって自分の家をたずねさせたり、休息させたりされた。だがご自分は、弟子たちがイエスを働きからひき離そうとする努力を静かにおしとどめられた。イエスは無知な人々に教え、病人をなおし、盲人に視力を与え、群衆を養うために、1日中働かれた。そして夕方や早朝に天父とまじわるために山のかくれ場に行かれた。たびたびイエスは一晩中祈りと瞑想をし、夜明けに、人々の中で働くために帰られた。 DA 797.4

朝早く、ペテロと仲間たちがイエスのところにやってきて、カペナウムの人たちがもうイエスに面会したがっていると言った。弟子たちは、キリストに対するこれまでの世間の人たちの態度にひどく失望していた。エルサレムの当局者たちはイエスを殺そうと求めていた。故郷の町の人たちでさえイエスの命をとろうとした。だがカペナウムでは、イエスは人々からよろこんで熱心に歓迎されたので、弟子たちの望みは新たに燃えた。自由を愛するガリラヤの人々の中から新しい王国の支持者が出るかも知れないと思われた。しかし、彼らはイエスが「『わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである』と言われた」のをきいて驚いた(ルカ4:43)。 DA 797.5

当時力ペナウムにみなぎっていた興奮の中にあって、イエスの使命の目的が見落される恐れがあった。イエスはただふしぎなことをされる人、あるいは肉体の病気をなおされる人として、人々の注意をご自分にひきつけることで満足されなかった。彼は人々を彼らの救い主としてのご自分にひきよせようとしておられた。人々はイエスが王として地上の統治権を確立するためにおいでになったと信じたがったが、イエスは人々の心を世俗的なものからはなれて霊的なものへ向けようと望まれた。単なる世俗的な成功はイエスの働きを邪魔するのであった。 DA 797.6

軽はずみな群衆の驚嘆はイエスの心をいらだたせた。イエスの生活には自分を主張するということがすこしもなかった。世間の人たちが地位や富や才能にささげる尊敬は、人の子イエスには無関係だった。人々から忠節をつくされたり、人々の尊敬をあつめたりするために一般に用いられる手段を、イエスは用いられなかった。イエスがお生れになる何世紀も前に、そのことがイエスについて預言されていた。「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい 灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する」(イザヤ42:2~4)。 DA 797.7

パリサイ人はきちょうめんな儀式主義や、これ見よがしの礼拝と慈善行為などによって、世間からえらい者に見られたいと望んだ。彼らは宗教を討論の主題とすることによって、宗教への熱心さを示した。反対派の間で長時間にわたって大声で論争がつづけられ、学問のある律法学者たちの怒った論争の声が街頭できかれることが珍しくなかった。 DA 798.1

イエスの生活は、こうしたすべてのことと著しい対照をなしていた。その生活には、さわがしい論争やこれ見よがしの礼拝や称賛を受けんがための行為はまったく見られなかった。キリストは神のうちにかくされ、神はみ子の品性のうちに啓示されていた。イエスはこの啓示に人々の心を向け、これに彼らの尊敬をささげさせたいと望まれた。 DA 798.2

義の太陽キリストは、さんぜんと輝く光を世に放って、その栄光で人々の感覚をくらませるようなことをなさらなかった。「主はあしたの光のように必ず現れいで」と、キリストについて書かれている(ホセア6:3)。朝の光は静かにやさしく地を照して、暗い影を追いやり、世人を命に目覚めさせる。そのように、義の太陽キリストは「その翼には、いやす力を備えて」のぼられるのである(マラキ4:2)。 DA 798.3