各時代の希望
第25章 海辺での召し
本章はマタイ4:18~22、マルコ1:16~20、ルカ5:1~11に基づく DA 789.1
ガリラヤの海に夜が明けようとしていた。弟子たちは、収穫のなかった一晩の骨折り仕事に疲れて、まだ湖の上の漁船にいた。イエスは水ぎわで静かな時間を過ごすためにきておられた。イエスは毎日ご自分のあとについてくる群衆からのがれて、朝早くしばらく休む時間をとりたいと望まれた。しかしまもなく人々が彼のまわりに集まりはじめた。その数はたちまちふえて、イエスは四方から押された。そうしているうちに、弟子たちは陸へあがってきていた。群衆の殺到からのがれるために、イエスはペテロの舟にとび乗られて、岸からすこしひっぱり出すようにと彼に命じられた。これでイエスのお顔はもっとよく見え、みんなに声がきこえるので、イエスは舟から波打ちぎわの群衆にお教えになった。 DA 789.2
天使たちは、彼らの光栄ある司令官イエスが漁師の舟にすわられて、波のまにまにあちこちゆられながら、水ぎわまで押しよせてきている群衆に救いのよいおとずれを述べ伝えておられるこの光景をじっと見ていた。天であがめられているお方が、み国の重要な事がらを戸外で一般の民衆に告げ知らせておられるのであった。しかしイエスの働きにとってこれ以上ふさわしい場面はなかった。湖、山々、ひろがっている畑、地にふりそそぐ日光など、すべてはイエスの教訓を例示し、それを彼らの心に印象づけるための材料となった。だからキリストのどんな教訓もむだにはならなかった。イエスの口から出る一言一言が、ある人々にとっては永遠のいのちのことばとなった。 DA 789.3
刻一刻と岸辺の群衆は数を増した。つえにすがった老人たち、丘からやってきたがんじょうな百姓たち、湖の骨折り仕事からやってきた漁師たち、商人たちやラビたち、金持ちで教育のある人たち、年よりや若い人たちなどが、病気で苦しんでいる者たちをつれて、この天来の教師のみことばをきくためにおしよせた。預言者たちは、このような光景を予見してこう書いた。 DA 789.4
「ゼブルンの地、ナフタリの地、 DA 789.5
海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、 DA 789.6
異邦人のガリラヤ、 DA 789.7
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、 DA 789.8
死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」 DA 789.9
(マタイ4:15、16) DA 789.10
イエスが海辺で説教された時、彼の心の中には、このゲネサレの海辺の群衆のほかに他の聴衆があった。イエスは、後の世まで見渡して、牢獄や裁判所に、あるいは試みや孤独や苦悩の中にいるご自分の忠実な者たちをごらんになった。喜びも戦いも困窮も、すべての光景がイエスの前に示された。まわりに集まった者たちに語られたみことばを通して、イエスはまたこうしたほかの魂にとって、試みの中で望みとなり、悲しみの中で慰めとなり、暗黒の中で天の光となるみことばを語っておられた。ガリラヤの海で漁師の舟の上から語られたその声は、聖霊を通して、世の終りまで人々の心に平安を語っているのがきかれるのであった。 DA 789.11
説教が終ると、イエスはペテロに向かって、海へ乗り出してひとあみあげるために網をおろすように命じられた。しかしペテロは落胆していた。一晩中かかって何もとれなかったのである。その1人ぽっちの時間の間中、彼は牢獄の中でただ1人苦悩しているバプテスマのヨハネの運命について考えていた。彼はイエスと弟子たちの前途や、ユダヤに対する使命の不成功や、祭司たちとラビたちの敵意などについて考えていた。彼自身の商売さえ思わしくなかったので、からっぽの網のそばで見つめていると、落胆のために将来は暗く見えたのだった。「先生」と彼は言った、「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(ルカ5:5)。 DA 789.12
水のきれいな湖で、魚を網でとるのに適している時 間は夜しかなかった。一晩中骨折ってもうまくいかなかったのだから、昼間網をおろしても望みはないように思えた。しかしイエスが命令されたのだから、弟子たちは、主を愛する気持から、従う気になった。シモンとその兄弟がいっしょに網をおろした。彼らが網をひきあげようとすると、大量の魚が中にはいっていて、網が破れはじめた。彼らはヤコブとヨハネを助けに呼ばねばならなかった。とれた魚を舟にあげてみると、それは舟が2そうともあぶなく沈みそうになるほどいっぱいの荷となった。 DA 789.13
しかしペテロは、いま舟や積荷のことなど頭になかった。彼にとってこの奇跡は、これまで見たほかのどんな奇跡にもまさって神の力のあらわれであった。彼はイエスが自然界のすべてを支配されるお方であることを知った。神の前にいることによって、彼自身のけがれがあらわされた。彼は、主に対する愛、自分の不信仰の恥ずかしさ、キリストがいやしい人間の肉体をとられたことに対するありがたさ、特に限りなく純潔であられるイエスの前にあって感じさせられる自分自身のけがれに圧倒された。仲間の者たちが網の中のえものをとりいれている時、ペテロは、救い主の足下にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだ(ルカ5:8)。 DA 790.1
預言者ダニエルが神の天使の前に死んだようになって倒れたのは、同じように神の聖潔の前に出た時であった。彼は、「わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」と言った(ダニエル10:8)。同じようにイザヤも主の栄光を見た時、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」と叫んだ(イザヤ6:5)。欠点と罪をもっている人性が、完全な神性と対照された時、彼は自分がまったく足りない、けがれた者であることを感じた。神の偉大さと尊厳を見ることをゆるされた者はみなこのようであった。 DA 790.2
ペテロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだが、それでもイエスから離れることができない気持で、その足下にすがりついた。救い主は「恐れることはない、今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」とお答えになった(ルカ5:10)。イザヤに神からのメッセージが委ねられたのは、彼が神の聖潔と自分自身の無価値とを認めてからであった。ペテロがキリストの働きに召しを受けたのは、彼が自我を放棄し、神の力によりたのむようになってからであった。 DA 790.3
この時まで、弟子たちはだれも、イエスの共労者として完全に一致していなかった。彼らはキリストの奇跡の多くを見、キリストの教えをきいていたが、これまでの職業をまったく捨てきっていなかった。バプテスマのヨハネの投獄は全ての弟子たちにとって苦い失望であった。もしこうしたことがヨハネの使命の結果であるならば、宗教界の全ての指導者たちが一つになってイエスに反対する時、彼らは主についてほとんど望みを持つことができないであろう。こういう事情だったので、彼らはしばらくの間魚とりの仕事にもどる方が安心だった。ところがいまイエスは、これまでの生活をすててイエスと利害を共にするようにと彼らを召された。ペテロはすでに召しを受け入れていた。岸辺にお着きになると、イエスはほかの3人に「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」とお命じになった(マタイ4:19)。すぐに彼らは全てをすててイエスに従った。 DA 790.4
彼らに網と漁船をすてるように求める前に、イエスは、神が彼らの必要を満たしてくださるという保証をお与えになった。ペテロの舟を福音の働きのために用いたことは豊かに報いられた。「彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さる」主は、「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう」と言われた(ローマ10:12、ルカ6:38)。このはかりをもって、主は弟子たちの奉仕に報いられた。主の奉仕に払われたすべての犠牲は「神の恵みの絶大な富」にしたがってつぐなわれるのである(エペソ2:7)。キリストから離れて湖ですごしたあの悲しい夜の 間中、弟子たちは不信仰に苦しめられ、収穫のない骨折り仕事に疲れた。しかしイエスがそばにおられる時に彼らの信仰は燃え、喜びと成功とが与えられた。われわれの場合も同じである。キリストを離れる時、われわれの働きには収穫がなく、不信と不満におちいりがちである。しかしイエスがそばにおられ、イエスのさしずの下に働く時、われわれはイエスの力の証拠を見て喜ぶのである。魂を落胆させるのがサタンの働きであり、信仰と望みを起こさせるのがキリストの働きである。 DA 790.5
この奇跡によって弟子たちに与えられたもっと深い教訓は、われわれにとってもまた一つの教訓である。すなわち、みことばによって海から魚を集めることがおできになったお方は、またご自分のしもべたちが「人間をとる漁師」となることができるように、人々の心を感動させ、これをご自分の愛のきずなでみもとにひきよせることがおできになるのである(マタイ4:19)。 DA 791.1
このガリラヤの漁師たちは、いやしい、無学な人たちであった。しかし世の光であられるキリストは、彼らをその選ばれた立場にふさわしい資格のある者となさることが十分おできになった。救い主は教育を軽んじられなかった。なぜなら神の愛に支配され、神の奉仕に献身する時、知的な教養は一つの祝福であるからだ。しかしイエスは当時の賢人たちをみすごされた。それは彼らが自信が強すぎて、悩んでいる人類に同情することができずナザレの人イエスの共労者となることができなかったからである。偏狭な彼らはキリストから教えられることを軽蔑した。主イエスは、主の恵みを伝えるのにさまたげるもののない水路となる人々の協力をお求めになる。神と共に働く者になりたいと思う者がだれでも学ばねばならない第一のことは、自分にたよらないという教訓である。その時彼らはキリストの品性を与えられる用意ができる。これはどんなに科学的な学校の教育によっても得られないものである。それは天来の教師イエスからのみ得られる知恵の実である。 DA 791.2
イエスは無学な漁師たちをお選びになったが、それは彼らが当時の言い伝えやまちがった慣習によって教育されていなかったからである。彼らは生れつき才能を持った人たちで、謙遜で教えやすく、キリストがご自分の働きのために教育なさることのできる人たちであった。世の一般の人たちの中には、もしその能力が呼びさまされて活動するならば、世の中の最も尊敬されている人々と同等の立場まで高められるのに、そうした能力を持っていることに気がつかないで、日々の骨折り仕事を根気よくくりかえしている人々がたくさんいる。このような眠っている才能が目覚めるにはじょうずに接せられることが必要である。イエスがご自分の共労者とするために召されたのはこういう人たちであった。こうしてイエスは、彼らにご自分とまじわる特権をお与えになった。世のえらい人たちは決してこのような教師をもたなかった。弟子たちが救い主の訓練を受けた時、彼らはもはや無知でも無教養でもなかった。彼らは頭も品性もイエスのようになり、世の人々は彼らがイエスと共にいた者であることを知った。 DA 791.3
教育の最高の働きは知識だけを与えることではなくて、それは心と心、魂と魂とがふれ合うことによって受けられる生きた力をさずけることである。命を生ずることができるのは命だけである。だから神の命に3年の間日々接触していた彼らの特権はどんなに大きかったことだろう。この神の命から命を与えるあらゆる衝動が流れ出て世の祝福となったのである。愛された弟子ヨハネはほかのすべての仲間たちにまさって、このすばらしい命の力に屈服した。彼はこう言っている。「このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである」「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(Ⅰヨハネ1:2、ヨハネ1:16)。 DA 791.4
主の使徒たちの中には、彼らにとって誇りとなるようなものは何もなかった。彼らの働きの成功はただ神のおかげであったことは明らかであった。この人たちの生涯、彼らの築いた品性、彼らを通して神が 達成された偉大なみわざは、すなおで従順なすべての者に神がどういうことをしてくださるかということについてのあかしである。 DA 791.5
キリストを最も多く愛する者は最も多くよいことをする。自我を捨てて、聖霊が心に働かれる余地をつくり、神にまったく献身した生涯を送る者の有用さには限りがない。もし人々が、不平を言ったり、途中で弱ったりしないで、必要な訓練に耐えるなら、神は日々に、時々刻々に彼らを教えてくださる。神はご自分の恵みをあらわそうと熱望しておられる。もし神の民が障害をとり除くなら、神は人間という水路を通して救いの水の豊かな流れをそそがれる。もしいやしい身分の人たちを励まして彼らのできるよいことをさせるならば、またもし彼らの上にその熱意をおさえるような抑制の手がおかれないならば、いまキリストの働き人が1人しかいないところに100人の働き人がいるであろう。 DA 792.1
もし人々が神に屈服するならば、神は彼らをそのままに受け入れて、ご自分の奉仕のために彼らを教育される。神のみたまが魂に受け入れられる時、その魂のあらゆる才能が目覚めさせられる。あますところなく神にささげられた心は、聖霊の導きのもとに、調和のとれた発達をとげ1神のご要求を理解しこれを果たすように力づけられる。動揺しがちな弱い性格は、力強い、しっかりした性格に変えられる。ふだんの献身によって、イエスと弟子との間に密接な関係が結ばれ、そのクリスチャンは心と品性がキリストのようになる。キリストとつながることによって、彼はもっとはっきりした、もっと広い見解を持つようになる。彼の判断力はますます鋭くなり、その意見は一層つりあいのとれたものとなる。キリストのために役立ちたいと熱望する者は、義の太陽キリストのいのちを与える力によって活気づけられ、神の栄えのために豊かな実を結ぶことができる。 DA 792.2
科学や芸術において最高の教育を受けた人々が、世の人々から無学のレッテルをはられているようないやしい身分のクリスチャンからとうとい教訓を学んできた。しかしこれらの無名の弟子たちは、すべての学校の中の最高の学校で教育を受けたのであった。彼らは、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」といわれているキリストの足下にすわったのであった(ヨハネ7:46)。 DA 792.3