祝福の山

奉仕の真実の動機

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」 MB 1156.1

(マタイ6:1) MB 1156.2

キリストの山上の言葉は、その生活によって無言のうちに教えてこられたことの表現であったが、人々はそれを理解することができなかった。イエスがこれほどの偉大な力を持ちながら、どうして最高の幸福と考えるものを獲得するためにそれをお用いにならないのか、彼らは理解することができなかった。彼らの精神と動機と方法は、イエスのものとは相反していた、彼らは細心の注意を払って律法を尊ぶと言いながら、自己賞揚が彼らの求めたほんとうの目的であった。だからキリストは、自己を愛する者は律法にそむく者であることを、彼らに明らかにしようとされたのである。 MB 1156.3

しかし、パリサイ人の抱いていた原則は、どの時代の人間も持っている特質である。パリサイ的精神は人間性の持つ精神である。だから救い主が、ご自分の精神や方法とラビのそれとを対照して示された時、その教えはどの時代の国民にも同じくあてはまるものであった。 MB 1156.4

キリストの時代にパリサイ人は、善行の報酬とみなされていたこの世の栄誉と繁栄とを獲得するために、たえず天の神の愛顧を得ようと努めていた。同時に彼らは、人々の注意を引き、聖人であるという評判を得るために、人々の前で慈善行為を見せびらかしていた。 MB 1156.5

神はこのような奉仕をお認めにならないこと、また、彼らが求めてやまなかった人々のへつらいと賞賛、それだけが彼らの受ける唯一の報いであるとイエスは言われて、彼らの虚栄心を調責された。 MB 1156.6

「あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と、イエスは仰せになった(マタイ6:3、4)。 MB 1156.7

こう言われたからといって、イエスは、親切な行為はいつも隠しておくべきだと教えられたのではない。使徒パウロは聖霊に感じて手紙を書き送り、マケドニヤのクリスチャンの物惜しみしない自己犠牲の精神を隠すことをせず、キリストが彼らのうちにあって働いた恵みを述べたのであったが、こうしてほかの人々も、同じ精神に満たされたのである。彼はコリントの教会に書き送ったときにも、「あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させた」と述べている(Ⅱコリント9:2)。 MB 1156.8

キリストご自身のことばが、その意味を明らかにしている一すなわち、慈善行為においては、その目的が人々から賞賛や栄誉を得ることであってはならないという意味である。真の敬虔は、決して誇示しよりとは努めない。賞賛とへつらいの言葉を願い、それにおぼれてしまう者は、ただ名目だけのクリスチヤンである。 MB 1156.9

キリストに従う者は、その善行によってほまれを自己に帰すのではなく、彼らに善行を行う恵みと力を与えたお方に帰さなければならない。よきわざがなし遂げられるのはすべて聖霊によるのであって、聖霊はそれを受ける人間の栄えのためではなくて、その与え主なる神に栄えを帰するために授けられる。キリストの光が魂の中で輝く時、くちびるは神への賛美と感謝に満たされる。あなたは自分の祈り、自分の義務を果たしたこと、自分の博愛、自分の自己犠牲などは 考えもしなければ、話題にもしない。イエスがますます大きくなり、自己は隠され、キリストがすべてのすべてとなるのである。 MB 1156.10

わたしたちは、自分の善行を示すためではなく、苦しんでいる人々への同情と愛をもって、真心から与えるのでなければならない。純粋な目的、心からの真の親切が、天によって高く評価される動機である。誠実のこもった心を、神はオフルのこがねよりも尊いものとみなされる。 MB 1157.1

わたしたちは報いなど考えずただ奉仕のことを思うべきである。しかし、この精神をもって行う親切は、必ずその報いを受ける。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」(マタイ6:4)。神ご自身が、ほかのすべての報いを包含する大きな報いであるのは事実だが、魂はその品性が神と同化してはじめて、神を受けてその交わりを楽しむことができるのである。同類のみが、同類を理解することができる。神がご自身をわたしたちにお与えになるのは、人類への奉仕のために自分を神にささげる時である。 MB 1157.2

自分の心と生活のうちに、神の祝福の流れが他の人々に流れ出るための場所を与える者はだれでも、その人自身、豊かな報いを受ける。山の流れが海に達するための通路を提供する丘や平野は、それによって少しの損害もこうむらない。与えたものは、百倍にもなって返ってくる。さざめき流れる小川は、そのあとに緑と豊かな実りの賜物を残してくれるからである。岸辺はあざやかな緑にはえ、樹木は深い緑を装い、草花は色とりどりに咲き誇る。焼けつくような暑さのもとで、地上の草木が枯死しようとしている時、川の流れに沿って緑が1つの線をえがき、山の宝を海に運ぶためにそのふところを開いた平野は、新鮮さと美しさによそおわれる。これは、自分をささげて神の恵みを世に流す通路となるすべての者に、どんな報いが与えられるかをあかしするためである。 MB 1157.3

これは、貧しい人々に憐れみをあらわす者たちが受ける祝福である。預言者イザヤはこう言っている、「また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これに着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。そうすれば、あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされ……。主は常にあなたを導き、良き物をもってあなたの願いを満ち足らせ……られる。あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる」(イザヤ58:7~11)。 MB 1157.4

慈善の行為には、二重の祝福がある。貧しい人に与える者は他人を祝福している一方、その人自身がさらに大きな祝福を受ける。魂に宿るキリストの恵みは、自我とは反対の品性、すなわち生活をきよめ、高め、豊かにさせる品性を育ててくれる。隠れたところでなされた親切な行為は、お互いの心を結びつけ、すべて寛大な思いの源である方の心に、人々を近づける。花から流れる香りのように、静かに生活から流れ出るわずかな心づかいや愛と自己犠牲の小さな行為——こうしたものが少なからず人生の祝福と弔福に寄与する。そして他人の利益と幸福のために自己を否定することは、たとえこの世では人目につかず賞賛されないものであっても、天では栄光の王——富んでおられたが、わたしたちのために貧しくなられたお方——との結合のしるしと認められていることが、ついにはわかるのである。 MB 1157.5

親切の行為は、隠れたところでなされても、その人の品性にあらわれる結果は隠すことができない。わたしたちは、キリストの弟子として、全くおのれをささげて働くなら、心は神の心と一つとなり、神の聖霊はわたしたちの心に働きかけて、神のみ手がふれるのに答えて、聖なる音をかなでるようにしてくださるのである。 MB 1157.6

ゆだねられた賜物を賢明に活用する者には、さらにタラントを増し加えられるお方は、愛するみ子を信じ、その恵みと力を通して活動する民の奉仕を喜んで認めてくださる。善行によって自分の能力を働かせながら、クリスチャン品性の発達と完成を求めていた者は、そのまいたものをきたるべき世界で刈り取る。この世界で始められた働きは、より高くよりきよい来世において、その極致に達して永遠に続くのである。 MB 1157.7

「また祈る時には、偽善者たちのようにするな」 MB 1158.1

(マタイ6:5) MB 1158.2

パリサイ人には、きまった祈りの時間があった。そして、そのきまった時刻に外出していることが多かったが、その時はどこにいても——おそらくは通りや市場など、人の往来のはげしい所であったろう——彼らは立ち止まり、大きな声で形式的な祈りを繰り返すのであった。単なる自己賞揚のためにささげられるこうした礼拝を、イエスは容赦なく非難された。とはいっても、イエスは公の祈りに反対なさったのではない。イエスご自身も弟子たちと一緒に祈ったり大勢の人々の前で祈ったりなさった。イエスは個人的な祈りを公にしてはいけないと教えておられるのである。密室の祈りの時には、祈りをお聞きになる神のほかだれの耳にも聞こえてはいけないのである。こうした願いの言葉は、好奇心から耳をそばだてて聞いてはならない。 MB 1158.3

「あなたは祈る時、自分のへやにはいり」なさい(マタイ6:6)。ひそかな祈りの場所を持ちなさい。イエスは神との交わりの場所をきめておられたが、わたしたちもそうすべきである。わたしたちは、どんなささやかな所でもよいから、ただ一人神と交わることのできる場所へたびたび退く必要がある。 MB 1158.4

「隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)。わたしたちはイエスのみ名によって、幼な子のように確信をもって神のみ前に出ることができる。わたしたちには仲介者はいらないのである。わたしたちは、自分を知って愛してくれる人に対するように、イエスを通して心を神に開けばよいのである。 MB 1158.5

神のほかだれの目も見ることができず、彼のほかだれの耳も聞くことのできないひそかな祈りの場所で、わたしたちは心の奥底にひそむ願いや望みを、無限の憐れみに富んでおられる父に注ぎ出せるのである。こうして、心が静まっている時に、助けを求める人間の叫びに必ずお答えになるあのみ声が、わたしたちの心に語りかけてくださる。 MB 1158.6

主は、「慈愛とあわれみとに富んだかたである」(ヤコブ5:11)。主はうむことを知らない愛をもって、わがままな者の告自を聞き、その悔い改めを受けいれようと待っておられる。かわいい幼な子が自分の顔を認めてほほえむのを待つ母親のように、主はわたしたちがいくぶんでも感謝をあらわすのを待っておられる。主がどんなに熱心に、またやさしく、わたしたちのことを心にとめておられるか理解することを主は望んでおられる。わたしたちの試練を主の憐れみに、悲しみをその愛に、傷をそのいやしの力に、弱さをその力に、むなしさをその充満にゆだねるように、主は、わたしたちを招いておられる。イエスのみもとに来た人で失望した者は一人もいない。「主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない」(詩篇34:5)。 MB 1158.7

隠れたところで主を求め、その必要を主に告げて助けを求める者の願いが、むなしくなることはない。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。わたしたちは、キリストを日々の友とする時、見えざる世界の力に囲まれているのを感じ、イエスを見つめることによって、そのみかたちに似た者となるのである。見ることによってわたしたちは変えられる。品性は天のみ国にふさわしく和らげられ、きよめられ、高められる。主と接して交わる時、そこには必ず敬虔と純潔と熱意とが増し加えられる。祈りを通してさとりが増し加わる。わたしたちは天の教育を受けているのであって、生活に勤勉と熱意があらわされてくるのである。 MB 1158.8

日々真剣な祈りによって神を仰ぎ、助けとささえと力を求める魂は、気高い抱負を持ち、真理や義務についての明確な認識が与えられ、行動の目的も高められ、たえず義に飢え渇くようになる。わたしたちは神との結びつきを保つことによって、人々に接する時に、自分の心を支配している光と平和と落ち着きとを、彼らのうちにひろめることができる。祈りによって与えられる力と、人間の思慮深さを養おうとするたゆまぬ努力とによって、人は毎日の義務を行う力が与えられ、どういう立場に置かれても、心の平静を保つことができるようになる。 MB 1158.9

わたしたちが神に近づくなら、神のためにあかしすることばや、み名をたたえる賛美の言葉を、神はわたしたちに授けてくださる。神はわたしたちに天使の歌のしらべ、天の父への感謝の言葉を教えてくださる。人生のあらゆる行為において、内住する救い主の光と愛が現される。世のどんなわずらいも、神のみ子を信じる信仰によって生きる者の生活には、何の影響も及ぼすことはできない。 MB 1159.1

「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな」 MB 1159.2

(マタイ6:7) MB 1159.3

異邦人は祈りを、罪をあがなう効力のあるものと考えていた。だから祈りが長ければ長いほど、その効力は大きくなると思っていた。もし彼らが自分の努力できよくなれるものなら、彼ら自身に何らかの取り柄があり、誇る根拠もあることになろう。祈りについてのこうした考えは、あらゆる誤った宗教制度の根本となっている、自分で自分をあがなうという原理の結果である。パリサイ人は、祈りについてのこの異教的な考えを取り入れていた。そしてこの観念は、今日、クリスチャンと称する人々の間ですら、決して消え去ってはいない。心に神の必要を少しも感じていないのに、慣例的なきまり文句を繰り返すのは、異邦人が「くどくどと祈る」願いと同じ性質のものである。 MB 1159.4

祈りは罪をあがなうものではない。祈りそれ自体には、何の取りえも功績もない。どのような美辞麗句を並べることができても、それは一つのきよい願いに比べることはできない。この上なく流ちょうな祈りも、心の本当の思いをあらわすものでなければ、むだなことばにすぎない。しかし信仰の祈りとは、真剣な心をもってささげる祈りのことである。それはちょうど、かなえてもらえるものと信じてこの世の友人に好意を求めるのと同様に、心のささやかな願いを申し上げることなのである。神は儀礼的な賛辞は求めておられない。だが自分が罪人であることと、まったく無力であることを悟って、砕かれ和らげられた心の叫びは、言葉にはあらわされなくても、憐れみあふれる父なる神のみもとに達するのである。 MB 1159.5

「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな」(マタイ6:16) MB 1159.6

神のみことばが命じている断食は、単なる形式ではない。この断食は、食物をとらずに荒布をまとい、頭に灰をふりかけるだけのことではない。真心から罪を悲しんで断食する者は、決してこれを誇示しようとはしないのである。 MB 1159.7

神がわたしたちに求めておられる断食の目的は、魂の罪のために体を苦しめることではなく、わたしたちが罪の嘆かわしい性質を会得し、神の前に心を低くして、その寛大な恵みを受けられるようになる助けとなるためである。神はイスラエルに、「『あなたがたは衣服ではなく、心を裂け』。あなたがたの神、主に帰れ」と命じておられた(ヨエル2:13)。 MB 1159.8

わたしたちが苦行をしても、あるいは、自分の行為によって聖徒の受ける嗣業を買い取るものとなると考えたとしても、それは何の役にも立たない。「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」という質問を受けた時、イエスは「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」とお答えになった(ヨハネ6:28、29)。悔い改めとは、自己からキリストへと向きなおることである。そして信仰によってキリストを受け入れ、わたしたちのうちにキリストが生きてくださるようにする時、よきわざがあらわれる。 MB 1159.9

「あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食をしていることが人に知られないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである」とイエスは仰せになった(マタイ6:17、18)。神の栄光のためにすることは何であれ、喜ばしい心でなすべきであって、悲しい陰うつな気持ちでしてはいけない。イエスの宗教には、陰うつなところは何一つない。クリスチャンが悲しみに沈んだ態度をとって、主に失望したような印象を与えるなら、それは神のご品性をまちがってあらわし、 神の敵に論議の種を提供するのである。そのようなクリスチャンは、口先では神を父と呼びながら、陰うつな悲しみの態度で、みなし子の姿を世に示すのである。 MB 1159.10

キリストはわたしたちに、キリストに奉仕することが実際に楽しいものであると世にあらわすことを望んでおられる。自己犠牲や心の中の人知れない試練は、これを憐れみ深い救い主に申し上げよう。重荷は十字架のもとに置いて、まずあなたを愛された主の愛を受けて、道を進もう。人々は、魂と神との間でひそかに行われる交わりを知ることはないであろうが、聖霊が心に働きかけられた結果は、すべての人に明らかになるのである。「隠れた事を見ておられる」お方が、「あからさまに報いてくださる」からである(マタイ6:6・英語欽定訳)。 MB 1160.1

「あなたがたは自分のために……地上に、宝をたくわえてはならない」 MB 1160.2

(マタイ6:19) MB 1160.3

地上にたくわえられた宝は、永続しない。それは盗人らが押し入って盗み出し、虫が食い、さびがつき、火事や嵐で一掃される。そして「あなたの宝のある所には、心もある」(マタイ6:21)。地上にたくわえられた宝は心を奪い、天のことを除外してしまう。 MB 1160.4

金を愛することが、他の何ものよりも、当時のユダヤ人の心を捕らえていた欲望であった。心の中で、神が占めるべき位置を世俗が横領していた。これは今日も同じである。富をむさぼる気持ちは人間を全く魅了し、そのために人間の高貴さがそこなわれ、人間性が堕落して、ついに破滅の淵に陥ってしまうようになるのである。サタンに仕えることはわずらわしく、複雑で、身心を消耗させるものであり、人が営々として地上に蓄積する宝は、ほんの一時的なものにすぎない。 MB 1160.5

イエスは、「自分のため、虫も食わずさびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」と仰せになった(マタイ6:20、21)。 MB 1160.6

「自分のために天に宝をたくわえなさい」と教えられている。天の宝を手に入れるのはあなたのためなのである。あなたの持つすべてのものの中で、これだけが本当にあなたのものである。天にたくわえられる宝は不滅である。それは神が守っていてくださるから、火も洪水も滅ぼすことができず盗人も奪うことができず、虫も食わず、さびもつかない。 MB 1160.7

キリストが万物にまさって尊ばれるこの宝は、「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか」といわれる、その栄光の富である(エペソ1:18)。キリストの弟子は彼の宝石、彼の尊い特別の宝と呼ばれている。「彼らは冠の玉のように」なる、「わたしは人を精金よりも、オフルのこがねよりも尊くする」とキリストは言われる(ゼカリヤ9:16、イザヤ13:12・英語欽定訳)。キリストは純潔で完全な民を、ご自分の苦難と屈辱と愛の報いであり、同時にご自分の栄光をさらに増すものとしてごらんになる。キリストは、あらゆる栄光が輝き出る源なのである。 MB 1160.8

そしてわたしたちは、あがないのみわざに加わることを許され、キリストの死と苦難によって得られた富に、キリストとともにあずかることができるのである。使徒パウロは、テサロニケのクリスチャンにこり書き送った、「わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである」(Ⅰテサロニケ2:19、20)。キリストは、わたしたちにこの宝のために働けと命じておられる。品性こそ、人生の大きな収穫である。そして、キリストの恵みによって人の心の中に、天のことを思わせる言葉や行い、またキリストのような品性を築こうと努めるあらゆる努力などが宝を天に積むのである。 MB 1160.9

宝のある所には心もある。他人に益を与えようとする努力はすべて、自分自身を益することになるのである。福音を広めるために金銭や時間をささげる者は、そのみわざと、みことばに接する魂のために関 心を持ち、祈りをささげる。愛情が他の人々に流れ出る時、なおいっそう神に献身するように刺激される。それは、人々のためにさらによい働きをすることができるようになるためである。 MB 1160.10

そして天に宝をたくわえていた者は、地上の富がすべて滅びる最後の日に、自分の生活によって獲得したものを見る。わたしたちは、キリストの言葉に注意を払うなら、大きな白いみ座のまわりに集まるその時に、わたしたちの働きを通して救われた魂を見るのである。そして、1人は幾人かを救い、さらにその人々が他の人々を救って、こうしてわたしたちの労苦の結果、大勢の人々がいこいの港に導かれる。彼らは冠をイエスの足もとに置いて永遠にわたってイエスを賛美するのである。キリストのために働いた者は、どんなに大きな喜びをもって、あがない主の栄光にあずかるこれらのあがなわれた人々を眺めることであろう。救霊のみわざに忠実だった人々にとって、天国はなんと尊いものであろう。 MB 1161.1

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである」(コロサイ3:1)。 MB 1161.2

「あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」 MB 1161.3

(マタイ6:22) MB 1161.4

1つの目的に徹し、まったく神に献身することが、救い主の言葉によって指摘された条件である。真理を識別し、どんな犠牲を払ってもそれに従おうという、いちずでゆるがない心を持つなら、あなたは神の光を受ける。ほんとうの敬虔さは、罪との妥協をすべて捨てる時にはじまる。その時、使徒パウロの言った言葉があなたの言葉となるのである。「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」「わたしは……わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであ」る(ピリピ3:13、14、8)。 MB 1161.5

しかし自己愛によって目が見えなくなると、そこにあるのは暗闇ばかりである。「あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう」(マタイ6:23)。この恐ろしい暗闇が、ユダヤ人をかたくなな不信仰のうちにおおって、彼らを罪から救うために来られたお方の品性と使命を、理解できなくしたのである。 MB 1161.6

誘惑に負けるのは、心がぐらついて神への信頼が揺らぐ時にはじまる。わたしたちは、自分を完全に神にささげる道を選ばないならば、暗闇の中にいるのである。少しでも保留するところがあれば、それは、サタンが誘惑によってわたしたちを惑わそうと侵入してくる戸口を開いておくことである。わたしたちの視力をかすませて、信仰の目で神を見ないようにすることができれば、罪への障壁がなくなることを、サタンは知っている。 MB 1161.7

罪深い欲望が心に満ちていることは、魂が惑わされていることを示している。その欲望にふけるごとに、魂は神をきらうようになる。わたしたちは、サタンの選んだ道を歩くなら、悪の影にとり囲まれ、1歩進むごとに暗さは増して、心の盲目はつのるばかりである。 MB 1161.8

自然界と同じ法則が、精神の世界の法則でもある。暗闇の中に住む者はついに視力を失ってしまう。そういう人は真夜中以上の暗黒に閉ざされ、真昼の明るさも彼にとっては光とはならない。彼は、「やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(Ⅰヨハネ2:11)。いつまでも悪を心に抱き、神の愛の訴えをあえて無視するならば、罪人は、善を愛する心と、神を慕う心と、天の光を受ける能力そのものさえも失ってしまうのである。憐れみの招待は今なお愛にあふれ、光はその魂をはじめて照らした時と同じく輝いているのに、み声はその耳に入らず、み光は目に見えないのである。 MB 1161.9

救われる望みが少しでもある限り、いかなる魂も最 終的に神に捨てられて、なすがままに放棄されることはない。「人が神から離れるのであって、神が人から離れるのではない」。天の父は、訴えと警告と憐れみの保証を与えて、わたしたちがこれ以上、どんな機会や特権にも答えなくなるまで、わたしたちのあとを追われるのである。責任は罪人の側にある。今日神の聖霊にさからうならば、この次にさらに強い力で光が来ても再びその光にさからうようになる。こうして反抗から反抗へと進み、ついに光は感銘を与えることができなくなり、罪人は神の聖霊にまったく応じなくなる。その時は、「あなたの内なる光」までが暗闇となる(マタイ6:23)。すでに知っている真理でさえ曲げられてしまって、そのためにかえって魂の盲目が増すばかりである。 MB 1161.10

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」 MB 1162.1

(マタイ6:24) MB 1162.2

キリストは、だれも2人の主人に兼ね仕える者はないとか、兼ね仕えてはならないとか言うのではなく、兼ね仕えることはできないと言われるのである。神と富との利害関係には、協調も一致もない。クリスチャンの良心が、抑制し、自己犠牲を求め、あるいはとどめたりするところを、世の人はその線を越えて、利己的性癖のままにふるまうのである。境界線の一方には、自己を否定してキリストに従う者たちがおり、その向こう側には、世を愛して流行を追い、不まじめに暮らし、禁断の楽しみにふける放縦な者たちがいる。境界線の向こうには、クリスチャンは行くことができない。 MB 1162.3

だれも中立の立場を取ることはできない。神を愛しもせず、義の敵に仕えもしない中間層は存在しない。キリストは人間のうちに生き、その才能を通して働き、その能力を通して活動なさるのである。人間の意志はキリストの意志に従い、人間は聖霊とともに行動しなければならない。その時、生きているのはもはや彼らではなく、彼らのうちにキリストが生きるのである。神に自分を完全にささげない者は、別の力に支配され、まったく違った言葉をささやく別の声に耳を貸すのである。どっちつかずの奉仕は、人間を暗闇の軍勢の心強い友として、敵の側に置いてしまう。キリストの兵士と自称する者がサタンと結束し敵を助けるなら、彼らはキリストの敵であることを証明することになる。彼らは神聖な信頼を裏切る。彼らはサタンと忠実な兵士との間のつなぎであって、敵はこれを仲介としてキリストの兵士の心をさらおうとたえず努めている。 MB 1162.4

この世における悪の側の最も強力なとりでは、ならず者や、堕落しきった者の罪の生活ではない。それは見たところ立派で道徳的に見えながら、心に一つの罪を抱き、一つの悪にふけっている者の生活である。心の中で何か大きな誘惑と戦っていて、ちようどがけのふちでふるえながら立っているような人にとって、このような実例は、非常に力のある誘惑である。生命と真理と名誉についての高尚な考え方を授かっていながら、神の聖なる律法の一つを故意に破る者は、神の高尚な賜物を悪用して、罪へのおとりとしたのである。素質も才能も同情心も、さらには寛大で親切な行為でさえも、他の人をいざなって、この世の命もきたるべき世の命も破滅させてしまう、サタンのおとりとなることもあるのである。 MB 1162.5

「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである」(Ⅰヨハネ2:15、16)。 MB 1162.6

「思いわずらうな」 MB 1162.7

(マタイ6:25) MB 1162.8

生命を与えてくださったお方は、それを維持する食物が必要なことをご存じである。体を造ってくださったお方が、衣服の必要をかえりみないということはない。生命という大きな賜物を与えてくださったお方は、それを補うために必要なほかのものを、お与えにならないことがあろうか。 MB 1162.9

イエスは何の思いわずらいもなく、賛美の歌をさえ ずっている小鳥に聴衆の注意を向けられた。小鳥は「まくことも、刈ることも」しない(マタイ6:26)。それなのに、大いなる天の父はその食物を備えてくださる。そしてイエスはこう仰せになる。「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」(マタイ6:26)。 MB 1162.10

主は、すずめの落ちるのをごらんになる。 MB 1163.1

人の心の痛みも、ご存じである。 MB 1163.2

主はどこにでも、わたしたちと共におられて、 MB 1163.3

なげきの涙に目をおとめになる。 MB 1163.4

主にたよる者は、主に捨てられたりはしない。 MB 1163.5

決して、捨てられたりすることはない。 MB 1163.6

野山には花が咲き誇っていた。イエスはみずみずしく朝露にぬれたその姿をさして、「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」と仰せになった(マタイ6:28)。野の花の優美な姿や繊細な色合いは人間が巧みに写し出すことができるかもしれないが、いったいだれが1輪の花、1枚の葉にさえ生命を与えることができるだろうか。道ばたの草花のどれ一つをとっても、その存在は、天空に星の世界を設けたのと同じ力によって造られたのである。すべて造られたもののうちに、神の偉大な心臓から生命が脈打っている。神は野の花を、地の王たちの身を飾ったいかなる装いよりもさらにはなやかに装われた。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイ6:30)。 MB 1163.7

「野の花を考えよ」「鳥を見よ」と仰せになるのは、花を造り、すずめに歌をさずけられたお方である。自然の美しさの中から、学者の知っている以上の神の知恵を学ぶことができる。ゆりの花びらに、神はあなたにおくることばをお書きになった——そしてそれは不信と自我と思いわずらいを捨て去る時に、はじめてあなたの心が読むことのできる言葉である。さえずる小鳥ややさしい花を神がお与えになったのは、あなたの人生の歩みを明るく楽しいものにしようとする、父の心からあふれでる愛のゆえではなかったろうか。花や小鳥はなくても、生存に必要なものはすべて与えられていた。だが神は、単に生存に十分なだけを備えることで満足なさらなかった。神がいかにあなたを愛しておられるかを知らせるために、地にも大空にも美しいものを満たされたのである。すべて造られたものの美しさは、神の栄光の輝きのかすかなあらわれにすぎない。神があなたの幸福と喜びのために、自然の事物にこうした無限の技巧をこらされたとすれば、まして必要な祝福をすべて与えてくださるのを、疑うことができるだろうか。 MB 1163.8

「野の花を考えてみるがよい」。日光に向かって開く花はみな、星を導いているのと同じ法則に従っている。しかもその生命は、何と単純で美しく新鮮なことであろう。神は花を通して、わたしたちの注意をキリストのような品性のもつ美しさに向けようとしておられる。花にこれほどの美しさを与えたお方は、それよりはるかにまさって、魂がキリストの品性の美しさに装われることを願っておられる。 MB 1163.9

野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。草木が冷たい暗い土から、あるいは川底の泥の中から芽生え育って、どうして美しく花を咲かせ、香りを漂わせるのか考えてみるがよいとイエスは仰せになる。だれが、ゆりのあの褐色のごつごつした球根の中に、美の可能性を想像することができるだろうか。しかし、その中に隠れている神の生命が、その呼びかけに従い、雨と日光を受けて開く時、人々はその優雅で美しい姿に驚くのである。それと同じく、神の恵みの働きかけに従うすべての者の心の中に、神の生命が芽ばえるのである。この神の恵みはちょうど雨や日光のように、すべての人に豊かな祝福をもたらすものである。草花を創造したのは神の言葉であるが、その同じ言葉があなたのうちに、聖霊の実を生み出すのである。 MB 1163.10

神の律法は愛の律法である。神はあなたを美で囲み、あなたを地にお置きになったのは、あなたがただ自己にのみ没頭するためではなく、キリストの愛によって、生活を輝かしく美しいものとするためであるこ とを、教えようとされたのである。それは、花のように、愛の奉仕によって、人々に喜びを与えることである。 MB 1163.11

両親がたは、どうか子供たちを、草花の教訓によって教えていただきたい。子供たちを庭や野原や茂った木立のもとにつれて行って、自然の中から神の愛の言葉を読みとることを教えなさい。鳥や花や木を見ては神のことを思わせなさい。すべて楽しい美しいことの中に、子供たちへの神の愛があらわれていることを理解させなさい。子供たちに、あなたの宗教の楽しさを示して教えなさい。口を開く時には、親切な言葉を語りなさい。 MB 1164.1

神が大きな愛を持っておられるから、自分の性質は変えられて、神と調和するようになることを、子供たちに教えなさい。神はきれいな花を咲かせて、彼らの生活を美しくしようと思っておられることを教えなさい。きれいな花を摘む子供たちに、花をお造りになった神は、花よりもっと美しいお方であることを教えなさい。そうすれば彼らの幼い心は、神に信頼するようになり、「ことごとく美しい」お方であるイエスは、彼らにとって、毎日の生活の親しい友となることであろう。そして子供たちの生活は、神の純潔なかたちに変えられていくことであろう。 MB 1164.2

「まず神の国……を求めなさい」 MB 1164.3

(マタイ6:33) MB 1164.4

キリストの言葉に聞きいっていた人々は、それでも何か地上の王国のことを言われるのではないかと待望していた。イエスが天の宝を彼らに開いておられた時にも、多くの人々の心に第一に浮かんだのは、この人とつながっていれば、この世における自分たちの前途は、どう開けて行くのだろうという思いであった。彼らは、この世のことを何よりも思いわずらっていた。まるで、被造物をやさしく守られる神がいないかのような生活を送っている、周囲の異教徒と何ら変わらないことを、イエスは明らかになさった。 MB 1164.5

イエスは言われた、「これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである」「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(ルカ12:30、マタイ6:32、33)。わたしはあなたがたに、愛と義と平和の国を明らかにするために来たのである。心を開いてこの国を受け入れ、そのために尽くすことを第一のこととしなさい。これは霊の国ではあるが、この世の生活の必要がかえりみられないのではないかと恐れるには及ぼない。あなたがたがみずから神の奉仕にささげるなら、天でも地でもすべての権力を持っておられる方が、あなたがたの必要を満たしてくださるのである。 MB 1164.6

イエスは、わたしたちが努力をしなくてもよいようにしてくださるというのではなく、すべてのことにおいて、イエスを最初とし最後とし最上とするようにと、教えておられるのである。わたしたちは、自分の品性と生活において、イエスの義が完成されるのを妨げるような事業や務めにたずさわったり、あるいはそうした楽しみを求めたりしてはならない。わたしたちのすることは何であれ、主に対してするように心からしなければならない。 MB 1164.7

イエスは地上に住んでおられた時、神の栄光を人々の前にあらわし、またすべてを天父のみこころに従わせることによって、あらゆる点において人生を尊ばれた。わたしたちもその模範に従うなら、この世の生活で必要なものはすべて「添えて与えられる」と、イエスは約束しておられる。たとえ、わたしたちが貧しくても豊かでも、病気であっても健康でも、また無知な者であっても知恵ある者であっても、すべては神の恵みの約束のうちに備えられているのである。 MB 1164.8

どんなにかよわい魂でも、神に助けを求めてすがるならば、神は永遠のみ腕をもって、いだいてくださるのである。金銀は滅びるが、神のために生きる魂は神とともにながらえる。「世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(Ⅰヨハネ2:17)。この地上で損失と苦難にあいながらも、導きと知恵、慰めと希望を求めて神によりすが ることを学んだ者を受け入れようと、神の都の黄金の門は開かれるのである。天使の歌声で迎えられ、命の木はその実を実らせる。「『山は移り、丘は動いても、わがいつくしみはあなたから移ることなく、平安を与えるわが契約は動くことがない』と、あなたをあわれまれる主は言われる」(イザヤ54:10)。 MB 1164.9

「だから、あすのことを思いわずらうな……。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」 MB 1165.1

(マタイ6:34) MB 1165.2

もしあなたが、神のみわざを行うためにみずからを神にささげたなら、明日のことを思いわずらう必要はない。あなたが仕えている神は、はじめから終わりを知っておられるお方である。あなたの視界からは隠されている明日のできごとも、全能なる神の御目には明らかなのである。 MB 1165.3

わたしたちが、自分の関係していることを自分の手で処理し、自分の知恵だけで成功させようとすることは、神から与えられていない重荷を引き受けて、神の助けなしにそれをになおうとしているのである。そうすることは、神の責任を自分でとり、事実上自分自身を神の地位においているのである。危険や損害は、確かにふりかかってくるのであるから、それを予想して懸念するのももっともなことである。だが神はわたしたちを愛して、恵みを施そうとしておられることをほんとうに信じる時、わたしたちは将来のことを心配しなくなる。わたしたちは、ちょうど子供が愛情深い親を信頼するように、神を信頼する。その時、わたしたちの意志は神の意志に没入して、悩み苦しみは消えてゆくのである。 MB 1165.4

キリストは、明日の重荷を今日負おうとする時、助けを与えるとは約束しておられない。ペテロやパウロのようにイエス・キリストの使徒たちは、信仰のために投獄の苦しみをなめた。しかし彼らは、神の愛の約束を求めることを忘れなかった。「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われたが(Ⅱコリント12:9)、しかしその恵みは、荒野のマナのように、1日に必要なだけその日に与えられるのである。荒野の旅をしていたイスラエルの大群衆のように、わたしたちも朝ごとに、1日分の必要な天のバンをいただくことができる。 MB 1165.5

1日だけしかわたしたちに与えられていないのであるから、わたしたちは今日、神のために生きなければならない。この1日、真剣に仕えて、目的も計画も心労もすべてキリストのみ手におゆだねすべきである。また、神はわたしたちを心に留めておられるのだから、わたしたちの思いわずらいを神におまかせすべきである。「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ29:11)。「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)。 MB 1165.6

もし日ごとに主を求めて悔い改め、みずから進んで神にある自由と喜びの経験を味わい、神の恵み深い招きに喜んで応じ、キリストの服従と奉仕のくびきをになうなら、つぶやきはすべてなくなり、困難はすべて取り除かれ、現在直面している複雑な問題もことごとく解決される。 MB 1165.7