祝福の山

主の祈り

「だから、あなたがたはこう祈りなさい」 MB 1165.8

(マタイ6:9) MB 1165.9

主の祈りは、救い主によって2度与えられた。最初は山上の垂訓の中で群衆に対して語られ、数か月のちに再び、弟子たちにだけ与えられた。しばらく主のもとを離れていた弟子たちが帰って来た時、主はひたすら神と交わっておられた。彼らが帰って来た ことにも気づかないかのように、主は声高く祈り続けられた。主のみ顔は天の光で輝いていた。その様子は見えない神のみ前にいるようであり、そのみことばには、神と語る者の持つ生きた力があった。 MB 1165.10

それを聞いていた弟子たちの心は強く感動した。彼らは、主が、父なる神との交わりに、お一人で幾時間もお過ごしになることがしばしばあることを知っていた。主は毎日を、つめかける群衆に奉仕することに、また、律法学者たちの反逆的な奇弁の真相を明らかにすることに費された。この休む間もない働きは、しばしば主をとても疲れさせたので、主の母や兄弟たち、また弟子たちさえも、主の生命まで犠牲になるのではないかと心配したほどであった。しかし、骨の折れる一日を終えて祈りの時を過ごされた主のみ顔には、平安の色が認められ、さわやかな気分がその身辺にただようように思われた。神と幾時間もお過ごしになってから、主は朝ごとに、天の光を人々にもたらすために出て来られた。弟子たちは、主の祈りの時間と、主の言葉や働きの力とを、結びつけて考えるようになった。今、彼らが主の懇願を聞いた時、彼らの心は、畏敬の念に満たされ低くされた。主が祈り終えられた時、彼らは自分たちの必要を強く感じて、「主よ、……わたしたちにも祈ることを教えてください」と叫んだ(ルカ11:1)。 MB 1166.1

イエスは、別に新しい形式の祈りをお与えになったのではなかった。あなたがたは、わたしがすでに与えたものを、理解することが必要なのだ、それにはまだ、あなたがたが達していない深い意味が含まれているのだとでも言われるかのように、主は彼らに、以前にお教えになったことを繰り返された。 MB 1166.2

けれども、救い主は、これらの言葉をそのまま用いるようにと言っておられるのではない。人類の一人として、主はご自身の、祈りの理想をお示しになったのである。その言葉はきわめて単純であって、幼な子でも口にすることができるが、その意味は非常に広く、どんなにすぐれた知者も、それを十分に把握することはできない。主はわたしたちに、感謝のささげ物を持って神のもとに来、わたしたちの必要を申し上げ、罪を告白し、さらに、神の約束に従って神の恵みを求めるようお教えになっている。 MB 1166.3

「あなたがたはこう祈りなさい、……われらの父よ」 MB 1166.4

(マタイ6:9) MB 1166.5

イエスは天の父を、われらの父よ、と呼ぶように、教えておられる。主はわたしたちを、「兄弟と呼ぶことを恥とされない」のである(ヘブル2:11)。救い主は熱心に、喜んで、わたしたちを神の家族の一員として迎えようとしておられるので、神に近づく時に用いる最初の言葉として、わたしたちと神との関係を保証する「われらの父よ」という言葉を述べておられる。 MB 1166.6

ここに、神はそのみ子を愛されるようにわたしたちを愛されるという、励ましと慰めに満ちたあの驚くべき真理が告げられている。このことをイエスは、弟子たちのための最後の祈りの中で、「あなたが……わたしを愛されたように、彼らをお愛しになった」と言っておられる(ヨハネ17:23)。 MB 1166.7

サタンが自分のものだと主張し、圧政をもって支配してきた世界を、神のみ子は、大いなるお働きによって愛のうちに包み、再びエホバのみ座とつながれたのである。この勝利が確立した時、ケルビムとセラビム、堕落しない諸世界の無数の大群衆は、神と小羊とに賛美の歌をささげた。彼らは、堕落した人類に救いの道が開かれて、地が罪ののろいからあがなわれることを喜んだ。ましてこのような驚くべき愛の対象であるわたしたち自身は、どれほど喜ぶべきであろうか。 MB 1166.8

どうしてわたしたちは、疑いや不安にとらわれたり、自分が孤児であるように感じたりすることができるだろうか。律法を犯した者のために、主は人性をお取りになったのである。主はわたしたちが、永遠の平和と保証を持つことができるために、わたしたちのようになられたのである。天には、わたしたちの仲保者がおられる。だれでも主を個人的救い主として受け入れる者は、孤児として取り残され、自分の罪の重荷を負うままにされるようなことはない。 MB 1166.9

「愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である」「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」「わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(Ⅰヨハネ3:2、ローマ8:17)。 MB 1167.1

神に近づく第一歩は、神のわたしたちに対する愛を知りかつ信じることである(Ⅰヨハネ4:16参照)。なぜなら、神の愛に引かれることによって、わたしたちは神のもとに導かれるからである。 MB 1167.2

神の愛を知る時、利己主義は捨てられる。神を父と呼ぶことによって、わたしたちは神のすべての子らをわたしたちの兄弟と認めるのである。わたしたちはみな、人類という大きな織物の一部であり、同じ家族の一員である。祈りのうちに、わたしたちは、自分たちのことだけでなく隣人をも含めるべきである。自分のための祝福だけを求める者は、正しい祈りをささげているとは言えない。 MB 1167.3

無限の神は、父の名によって神に近づくことを、あなたの特権とされるとイエスは言われた。このことの意味するところを、すべて理解してもらいたい。世の親が、過失を犯した子供に嘆願する、その熱心さにもまさる熱心をもって、あなたを造られた方は罪人に嘆願される。人間のいかなる愛情深い心も、悔い改めない者を、このように優しく招きつづけたことはなかった。神はすべての住居にお住みになる。神は、わたしたちの語る言葉や、ささげるすべての祈りを聞き、あらゆる人の悲しみと失望を味わい、わたしたちが、父母や姉妹や友や隣人に対してどのような扱いをするかと注意しておられる。神は、わたしたちの必要に関心を寄せられる。そして神の愛と憐れみと恵みとは、わたしたちの必要を満たすためにたえず流れ出ている。 MB 1167.4

しかし、あなたがたが神を父と呼ぶならば、あなたがたは、自分が神の子であることを認め、神の知恵に導かれ、すべてのことにおいて服従することを承認したのである。それは、神の愛が変わらないものであることを悟ったからである。あなたがたは、自分の人生に対する神のご計画を受け入れる。神の子として、あなたがたは、神の名誉、神のご性格、神の家族、神の働きをあなたの最高の関心の対象とするのである。父なる神および神の家族のすべての者と、あなたがたとの関係を認め尊ぶことは、あなたがたの喜びとなってくる。神の栄光となり、神の家族の幸福に役立つことならば、取るに足りない小さな行為であっても喜んでするようになるのである。 MB 1167.5

「天にいます」キリストが「われらの父」として仰ぐように命じておられる方は、「天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる」。神のご配慮のうちに、わたしたちは、「わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます」と言ってやすらかにくつろぐことができる(詩篇115:3、56:3)。 MB 1167.6

「御名があがめられますように」 MB 1167.7

(マタイ6:9) MB 1167.8

主のみ名をあがめるためには、わたしたちは、神に畏敬の念をもって語らなければならない。「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111:9)。決して神の称号や名称を、軽々しく取り扱ってはならない。祈りをささげる時、わたしたちは、至高者の謁見室に入るのである。わたしたちは聖なるおそれをもって、神のみ前に出るべきである。天使たちも、神のみ前では顔をおおうのである。ケルビムや輝く聖なるセラピムも、厳粛な崇敬の念をもってそのみ座に近づくのである。まして、わたしたちのような有限で罪深い者は、いかにうやうやしい態度をもって、わたしたちの造り主なる主のみ前に出なければならないことであろう。 MB 1167.9

しかし、主のみ名をあがめるということには、もっと多くの意味が含まれている。キリストの時代のユダヤ人たちのように、外面的には最大の尊敬を神にささげながら、神のみ名を絶えず汚すということもあり得るのである。「主の名」は「あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる ……悪と、とがと、罪とをゆるす者」である(出エジプト34:5~7)。キリストの教会について、「その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」と書かれている(エレミヤ33:16)。この名は、キリストに従うすべての者に与えられる。それは神の子の遺産である。家族は父の名によって呼ばれる。預言者エレミヤは、イスラエルのきびしい苦難の時に、「われわれは、み名によって呼ばれている者です。われわれを見捨てないでください」と祈った(エレミヤ14:9)。 MB 1167.10

このみ名は、天使たちや堕落したことのない諸世界の人々によって、あがめられている。あなたがたが、「御名があがめられますように」と祈る時、あなたがたは、それがこの世において、また、あなたがたによってあがめられるようにと求めるのである。神はあなたを人々や天使たちの前に、ご自分の子としてお認めになった。「あなたがたに対して唱えられた尊い御名」を、汚すことのないように祈ることを望むのである。神はあなたがたを、神の代表者として世におつかわしになる(ヤコブ2:7参照)。生活のあらゆる行いのうちに、あなたがたは神のみ名をあらわすべきである。この願いは、神のご品性を持つことを要求する。生活と品性において、神の命とご品性そのものをあらわさないならば、神のみ名をあがめることも、世に神をあらわすこともできない。このことは、キリストの恵みと義を受けることによってのみ、なされるのである。 MB 1168.1

「御国がきますように」 MB 1168.2

(マタイ610) MB 1168.3

神は、わたしたちを子供として愛し、わたしたちのために配慮されるわれらの父である。神はまた、宇宙の偉大な王でもあられる。神のみ国に関する事柄はわたしたちに関する事柄である。わたしたちは、み国の建設のために働かなければならない。 MB 1168.4

キリストの弟子たちは、神の栄光のみ国がすぐに来るものと期待していたが、イエスは、この祈りを彼らにお与えになることによって、み国は、その時代に建設されるべきものでないことをお教えになった。彼らは、み国の出現をなお未来のできごととして、祈り求めるのであった。しかし、この祈願は、彼らに対する保証でもあった。彼らは、自分たちの時代にみ国の出現を見ることはできなかったが、イエスが彼らにそのことを祈るようにと言われたことは、神ご自身がお定めになる時に、み国が必ず来るという証拠である。 MB 1168.5

神の恵みのみ国は、罪と反逆に満ちた心が、日ごとに、神の愛の主権に服する時、今も建設されつつあるのである。しかし、神の栄光のみ国の建設は、キリストがこの世界に再臨される時まで完成を見ることはない。「国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる」(ダニエル7:27)。彼らは、「世の初めから」彼らのために用意されたみ国を受けつぐのである(マタイ25:34)。そして、キリストは大いなる力をご自身の手に収めて、統治なさるのである。 MB 1168.6

天の門は再びあげられ、幾千幾万の聖者とともに、わたしたちの救い主は王の王、主の主として出てこられる。エホバ・インマヌエルは、「全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる」「神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共に」います(ゼカリヤ14:9、黙示録21:3)。 MB 1168.7

しかし、その出現の前に、「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう」と、イエスは言われた(マタイ24:14)。み国は、恵みのよきおとずれが全地に伝えられるまで、出現しないのである。それだから、わたしたちが自分を神にささげ、他の人々を神のためにかち取る時、わたしたちはみ国の出現を早めるのである。自己を神の奉仕にささげ1盲人の目を開き、人々、を「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、……聖別された人々に加わるため」に、「ここにわたしがおりま嵐わたしをおつかわしください」と言う者だけが、心から「御国がきますように」と祈るのである(使徒行伝26:18、イザヤ6:8)。 MB 1168.8

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:10) MB 1169.1

神のみこころは、神の聖なる律法のうちに表明されている。そして、この律法の原則は天の原則である。神のご意志を知ることは、天使たちの達しうる最高の知識であり、神のみこころを行うことは、彼らの力を働かせる最高の奉仕である。 MB 1169.2

しかし、天においては、奉仕は、律法主義の精神で行われるようなことはない。サタンがエホバの律法に対して反逆した時、それまで考えもしなかったことに目覚めたかのように、天使たちは、律法があったことを意識した。奉仕をするにあたって、天使たちは、しもべとしてでなく、子として奉仕する。彼らと創造主との間には完全な一致がある。服従は彼らにとって苦役ではない。神に対する愛は、彼らの奉仕を喜びとする。そのように、栄光の望みなるキリストが内住するすべての心のうちに、「わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」という、キリストのみことばが反響するのである(詩篇40:8)。 MB 1169.3

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りは、この地上の悪の支配が終わり、罪が永久に滅ぼされ、義のみ国が樹立されるようにという祈りである。その時、地には、天におけるように、「善に対するあらゆる願い」が成就される(Ⅱテサロニケ1:11)。 MB 1169.4

「わたしたちの日ことの食物を、きょうもお与えください」 MB 1169.5

(マタイ6:11) MB 1169.6

イエスがわたしたちにお教えになった祈りの前半は、神のみ名、み国、みこころに関するものである。すなわち、み名があがめられますように、み国がきますように、みこころが行われますようにという祈りである、あなたがこのように、神の奉仕をあなたの第一の関心事とする時、あなたは確信をもって、あなた自身の必要が満たされるようにと祈ることができる。あなたが自我を捨て、自分自身をキリストにささげるなら、あなたは神の家族の一員であり、父の家のものはすべて、あなたのものなのである。神の宝はすべて、今の世にあっても来たるべき世にあっても、あなたに開かれている。天使の奉仕、聖霊の賜物、神のしもべたちの働き——これらすべてはあなたのためである。世界と、その中にあるすべてのものは、それがあなたに役立つ限り、あなたのものである。悪者から受ける敵意さえも、天国へ入るための鍛練という祝福となるのである。もし「あなたがたはキリストのもの」であるなら、「すべては、あなたがたのものなのである」(Ⅰコリント3:23、21)。 MB 1169.7

しかし、あなたは、相続財産の支配権をまだ与えられていない子供のようなものである。神は、サタンがその悪だくみによってエデンの最初の夫婦をあざむいたようにあなたをあざむくことがないため、あなたの貴重な所有物をあなたにゆだねなかったのである。キリストは、それをあなたのために、略奪者の手のとどかないところに安全に保持される。子供のように、あなたは日々、その日に必要なものを受ける。毎日あなたは「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈るべきである。明日のために十分持っていなくても、あわてて取り乱してはならない。「そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る」という神の約束の保証がある。ダビデは、「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が食物を請いあるくのを見たことがない」と言っている(詩篇37:3、25)。 MB 1169.8

ケリテ川のほとりでエリヤを養うためにからすをつかわされた神は、ご自分の忠実で自己犠牲的な子供たちを見過ごされることはない。正しく歩む者について、次のように書かれている。「そのパンは与えられ、その水は絶えることがない」「彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる」「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(イザヤ33:16、詩篇37:19、ローマ8:32)。 MB 1169.9

寡婦となった母マリヤの生活の苦労を軽くし、家族を養う手助けをなさったイエスは、子供たちに食物を与えるために苦労しているすべての母親に同情なさる。群衆が「弱り果てて、倒れている」のをごらんになって同情された方は、今も、苦しんでいる貧しい人々をあわれまれる(マタイ9:36)。そのみ手は、祝福をもって彼らに向かって伸ばされている。そして弟子たちにお与えになった祈りそのものの中で、主はわたしたちに、貧しい人々を忘れないようにとお教えになっているのである。 MB 1170.1

「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください」と祈る時、わたしたちは、自分たちのためだけでなく、他の人々のためにも求めているのである、そして、神がわたしたちにお与えになるものは、わたしたちのためだけに与えられるのではないことを認めるのだ。神は、わたしたちが飢えている者に食物を与えるように、わたしたちに委託しておられる。「あなたは恵みをもって貧しい者のために備えられました」(詩篇68:10)。また主は、次のように言われた。「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持ちの隣り人などは呼ばぬがよい。……むしろ、宴会を催す場合には、貧しい人、障害のある人、足の不自由な人、盲人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」(ルカ14:12~14)。 MB 1170.2

「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである」「少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる」(Ⅱコリント9:8、6)。 MB 1170.3

日ごとのパンを求める祈りは、肉体をささえる食物だけでなく、魂を養って永遠の命に至らせる霊的な食物をも求めるものである。イエスはわたしたちに、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」と言っておられる(ヨハネ6:27)。また、「わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と言っておられる(ヨハネ6:51)。わたしたちの救い主は、いのちのパンである。その愛を見、その愛を心の中に受け入れることによって、わたしたちは天から下ってきたパンを食べるのである。 MB 1170.4

わたしたちは、みことばを通じてキリストを受け入れる。そして、わたしたちが神のみことばを理解し、その真理を心に悟ることができるように聖霊が与えられる。神のみことばを読む時には、その日の必要に対してわたしたちを力づける真理を、神が聖霊をつかわしてあらわしてくださるように、日ごとに祈るべきである。 MB 1170.5

わたしたちの必要とするもの——物質的、霊的祝福を——日ごとに求めるように教えることによって、神は、わたしたちの益のために一つの目的を達成しようとしておられる。神は、わたしたちが神の絶えざるご配慮に依存していることを認めさせようと望んでおられる。それは、わたしたちをご自身との交わりに入れようと望まれるからである。キリストとのこの交わり、すなわち、祈りと、みことばのこの上なく尊い真理を学ぶことを通じて、飢えた魂は養われ、渇く者は命の泉でうるおされるのである。 MB 1170.6

「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください」 MB 1170.7

(ルカ11:4) MB 1170.8

イエスは、わたしたちが他の人々を赦す時にのみ、自分が神からの赦しを受けることができるとお教えになっておられる。わたしたちを神のもとに引きつけるのは、神の愛であり、その愛がわたしたちの心に触れる時、必ず兄弟に対する愛が生み出されるのである。 MB 1170.9

主の祈りを言い終わったあとで、イエスは、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであ ろう」と言われた(マタイ6:14、15)。赦さない者は、神の憐れみを受ける唯一の通路を遮断しているのである。わたしたちを傷つけた者が、その悪を告白しないならば、彼らを赦さなくともよいと考えてはならない。悔い改めと告白によって心を低くすることは疑いなく彼らのなすべきことである。しかし、わたしたちは、彼らがあやまちを告白してもしなくても、わたしたちに対して罪を犯した者に対して、憐れみの心を持たなければならない。どんなにひどく彼らがわたしたちを傷つけたとしても、恨みをいだき、自分の受けた危害について自己をあわれむ心を持つべきではない。神に対するわたしたちの罪を赦されたいと望むように、わたしたちは、わたしたちに対して悪をなしたすべての者を赦すべきである。 MB 1170.10

しかし、赦しは、多くの人が考えるよりももっと広い意味を持っている。神が「豊かにゆるしを与えられる」という約束をお与えになる時、その約束の意味はわたしたちの理解できるすべてを超えるかのように「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」と神は言い添えておられる(イザヤ55:7~9)神の赦しは、罪の宣告からわたしたちを解放する法的行為であるばかりではない。それは罪の赦しであるだけでなく、わたしたちを罪から救うことである。心を変えるものは、あふれでる贖罪的愛である。ダビデは、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈った時、赦しということを正しく理解していた(詩篇51:10)。また彼は、「東が西から遠いように、主はわれらのとがをわれらから遠ざけられる」と言っている(詩篇103:12)。 MB 1171.1

神はキリストによって、ご自身をわたしたちの罪のためにお与えになった。主は、その愛をあらわし、ご自分にわたしたちを引き寄せるために、十字架の残酷な死を受け、わたしたちのために、「自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために」罪の重荷を負われたのであった。そして、「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」と言っておられる(エペソ4:32)。神の命なるキリストをあなたのうちに住まわせ、あなたを通して天来の愛をあらわし、希望のない者に希望を、罪にうちひしがれた心に、天の平和を与えるようにしよう。わたしたちが神のもとに来る時、まずわたしたちが出会う条件は、自分が神から憐れみを受けたのであるから、他の人々に神の恵みをあらわすために、自己をささげることである。 MB 1171.2

赦しを与える神の愛を受け、また、その精神をあらわすために欠くことのできない一つのことは、神がわたしたちに対していだいておられる愛を知り、かつ信じることである(Ⅰヨハネ4:16参照)。わたしたちがその愛を認めないように、サタンはあらゆるあざむきをもって働いている。彼は、あやまちや罪があまりに大きいので、主はわたしたちの祈りをかえりみてくださらず、わたしたちを祝福し、救ってはくださらないと思わせようとする。わたしたち自身のうちには、欠点以外何も見られず、神にとって魅力のあるものは何も見られない。サタンは、むだだ、品性の欠陥を改めることはできないと、わたしたちに告げる。わたしたちが神のもとに行こうとする時、敵は、祈ってもむだだ、あなたはあの悪事をしたではないか、あなたは神に対して罪を犯し、自己の良心にそむいたではないかとささやくだろう。しかしわたしたちは、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と敵に告げることができる(Ⅰヨハネ1:7)。わたしたちが罪を犯した、祈ることができないと感じる時こそ、まさに祈るべき時なのである。恥じ、誇りをいたく傷つけられているかも知れないが、祈り、かつ信じなければならない。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである」(Ⅰテモテ1:15)。神との和解すなわち赦しがわたしたちに与えられるのは、わたしたちのわざに対する報いとしてで はない。それは、罪深い人間の功績のために与えられるのではなく、わたしたちに対する賜物であって、それが与えられる根拠は、キリストのしみのない義のうちにあるのである。 MB 1171.3

わたしたちは罪の言いわけをして、自分の罪を軽くしようとしてはならない。わたしたちは、罪についての神の評価を受け入れなければならない。それは実に重いものである。カルバリーのみが、罪のいかにおそるべきものかを明らかにする。もしわたしたちが、自分の罪を負わなければならないのであれば、それはわたしたちを、打ち砕くことであろう。しかし、罪なき方がわたしたちに代わってくださった。不義を受けるべき方ではないのに、主はわたしたちの不義を負われた。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」(Ⅰヨハネ1:9)。なんと輝かしい真理だろう。神はご自身の律法に対して義でありながら、なおイエスを信じるすべての者を義とされるお方なのである。「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために、とがを見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず」(ミカ7:18)。 MB 1172.1

「わたしたちを試みに合わせないで、悪しき者からお救いください」 MB 1172.2

(マタイ6:13) MB 1172.3

試みとは罪へ誘うことである。これは神から出るものでなく、サタンとわたしたちの心の悪から出るのである。「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」(ヤコブ1:13)。 MB 1172.4

サタンは、人々と天使たちの前にわたしたちの品性の欠陥をあらわし、わたしたちを彼のとりこだと主張するために、わたしたちを試みにあわせようとするのである。ゼカリヤの象徴的な預言の中で、サタンは、主の使いの右に立って、汚れた衣を着た大祭司ヨシュアを訴え、主の使いが彼のためにしようとしていることに反対していた。これは、キリストが、ご自分のもとに引き寄せようとしておられるすべての人に対する、サタンの態度を示している。敵はわたしたちを罪に導き、わたしたちを全天の前に、神の愛に値しない者であると訴える。しかし、「主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか』」「またヨシュアに向かって言った、『見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう』」(ゼカリヤ3:2、4)。 MB 1172.5

神は大いなる愛をもって、わたしたちのうちに、聖霊による尊い徳を育成しようとしておられる。神がわたしたちに障害や迫害や困難がくるのをおゆるしになるのは、のろいとしてでなく、わたしたちの生涯の最高の祝福としてである。うち勝ったあらゆる試み、勇敢に耐えたすべての試練は、わたしたちに新しい経験を与え、わたしたちの品性建設の働きを押し進める。神のみ力によって試みに抵抗した人は、世界と全天にキリストの恵みの力をあらわすのである。 MB 1172.6

しかし、たとえきびしい試練がきても、それによって恐れてはならないが、それと同時に、自分の心の悪い欲望に引かれて行くことを、神がおゆるしにならないように祈るべきである。キリストがお与えになった祈りをささげることによって、わたしたちは自己を神の導きにゆだね、神がわたしたちを安全な道にお導きくださるように求めるのである。この祈りを心からささげながら、自分の好き勝手な道を歩こうと決心することはできない。わたしたちは、神のみ手が自分を導くのを待つのである。わたしたちは神のみ声が、「これは道だ、これを歩め」と言うのを聞くだろう(イザヤ30:21)。 MB 1172.7

サタンのささやきに従うことによって得られる利益を、いつまでも考えていることは安全ではない。罪は、それにふけるすべての者に不名誉と災いをもたらす。しかし、その性質は、人の目をくらます欺瞞的なものであって、甘言をもって人を誘うのである。もしわたしたちが、あえてサタンの領域に踏み込むならば、彼 の力から守られるという保証はない。できるかぎりわたしたちは、誘惑者が自分に近づくすべての道を閉ざさなければならない。 MB 1172.8

「わたしたちを試みに会わせないで」という祈りは、それ自体約束である。わたしたちは自分を神にゆだねるならば、神は「あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」という保証を持っている(Ⅰコリント10:13)。 MB 1173.1

悪から守られる唯一の道は、キリストの義を信じる信仰によって、心の中にキリストを宿すことである。わたしたちが誘惑に負けるのは、利己主義が心にあるからである。しかし、神の大きな愛を見る時、利己主義は憎むべき、いまわしいものに思われ、それを心の中から追い出したいと願うようになる。聖霊がキリストを高め、わたしたちの心がやわらげられる時、試みはその力を失い、キリストの恵みは品性を変えるのである。 MB 1173.2

キリストは、ご自分が代わって死なれた魂を決してお捨てにならない。人はキリストを離れ、試みに負けることもあろう。しかしキリストは、ご自分の命をもってその代償を払われた者から離れることはない。もし霊の目が開かれるならば、多くの魂が圧迫され悲嘆にくれて、ちょうど荷車が重い東を積まれて押しひしがれているように、死ぬばかりになっているのを見るだろう。わたしたちは、天使が、危機にひんしている、これらの試みられる者を助けるために、すみやかに飛びかうのを見る。天からのみ使いたちは、これらの魂を取り囲む悪の勢力を押しかえし、彼らを導いて、その足を堅い基の上に置くのである。2つの勢力の間に戦われる戦いは、この世の軍隊によって戦われる戦いと同様に現実的であり、この霊的闘争の結果に永遠の運命がかかっている。 MB 1173.3

わたしたちに対しても、ペテロに対してと同じく、次の言葉が語られる。「サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(ルカ22:31、32)。神がわたしたちを、お見捨てにならなかったことを神に感謝しよう。「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」「そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」神は、神と人の敵との戦いにおいて、わたしたちをお見捨てにならない(ヨハネ3:16)。主は、「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう」と言っておられる(ルカ10:19)。 MB 1173.4

生けるキリストと、つらなって生きなさい。そうすれば、主はみ手をもってあなたをしっかりとささえ、決して放されないであろう。神があなたに対して持っておられる愛を知り、かつ信じなさい。そうすれば、あなたは安全である。その愛は、サタンのあらゆる欺瞞と攻撃に対して不落の要塞である。「主の名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救を得る」(箴言18:10)。 MB 1173.5

「国と力と栄えはかぎりなくあなたのものだからです」 MB 1173.6

(元訳マタイ6:13参照) MB 1173.7

主の祈りの最後の句は、最初の句と同様に、われらの父を、あらゆる力、権威、名の上にある方としてさし示している。救い主は、弟子たちの前に横たわる年月が、彼らの夢想しているような、世的な繁栄と栄誉の輝きの中にあるものでなく、人間の憎しみとサタンの怒りのあらしで暗くなっているのをごらんになった。国家の闘争と破滅の中にあって、弟子たちの歩みは危険に取り囲まれ、彼らの心はしばしば恐怖におそわれるのだった。彼らは、エルサレムが荒廃し、神殿が一掃され、その礼拝が永久に終わりを告げ、イスラエルが、人けのない海岸の難破物のように、全土に散らされるのを見た。イエスは、「戦争と戦争のうわさとを聞くであろう」「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである」と言われた(マタ イ24:6~8)。しかし、キリストに従う者は、自分たちの望みが絶たれたのではないか、神は地をお見捨てになったのではないかなどと、恐れるべきではなかった。力と栄えとは神に属し、神の偉大な目的は、何ら妨げられることなく、その完成へ向かって前進するのである。日ごとの必要を言いあらわす祈りの中で、キリストの弟子たちは、悪のあらゆる力と支配を越えて、万物の主宰者であり、彼らの父であり、永遠の友である神を仰ぎ見るように命じられているのである。 MB 1173.8

エルサレムの滅亡は、世界を襲う最後の滅亡の象徴である。エルサレムの破滅によって部分的成就を見た預言は、もっと直接的には、最後の時代に適用されるべきものである。わたしたちは今、大きな厳粛な事件の門口に立っている。かつてなかったような危機が、目前にある。しかし、わたしたちには、弟子たちに対すると同様に、神のみ国が万物を支配するという保証が快く響いて来る。未来の諸事件の成り行きは、わたしたちの造り主のみ手のうちにある。天の王は、教会の諸問題ばかりでなく、国家の運命をも支配しておられる。聖なる教師は、そのご計画の完成のために働くすべての者に、クロスに言われたように、「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」と言っておられる(イザヤ45:5)。 MB 1174.1

預言者エゼキエルの幻の中で、ケルビムの翼の下に人の手のようなものが見えた。これは、そのしもべに、彼らを成功させるのは神のみ力であることを教えるためであった。神がご自分の使者としてお用いになる人々は、神のみわざが自分たちに依存していると思うべきではない。有限な人間が、この責任を負うように任されてはいない。まどろむことがない神、常にそのご計画の完成のために働いておられる神が、ご自身の働きを押し進められるのである。神は悪人の目的をくじき、神の民に危害を加えようとする者の企てを、混乱させられる。王であり、万軍の主である神は、ケルビムの間に座して、国家間の争闘と騒乱の中に、その子らを、今なおお守りになる。天にあって支配される方は、わたしたちの救い主である。主はあらゆる試みを計り、すべての人を試みる炉の火を見守られる。王たちのとりでが破壊され、怒りの矢が神の敵の心臓をつらぬく時にも、神の民は神のみ手の中で安全である。 MB 1174.2

「主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。……あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます」(歴代志上29:11、12)。 MB 1174.3