祝福の山
律法の精神
「廃するためではなく、成就するためにきたのである」 MB 1142.4
(マタイ5:17) MB 1142.5
むかし、雷鳴と炎の中で、シナイ山上から律法を宣告なさったのはキリストであった。焼き尽くす火のような神の栄光がその頂をおおい、山は主のこ臨在に震動した。イスラエルの群衆は地にひれ伏し、おののきながら律法の聖なる戒めに聞きいった。それは、この祝福の山の光景とは、何という違いであったろう。小鳥のさえずりのほか、静寂を破る物音の一つもない夏空のもとで、イエスはみ国の原則をお語りになった。しかし、愛にあふれた口調で、その日、民衆にお語りになったイエスは、シナイ山で宣告された律法の原則を彼らにお示しになっていたのである。 MB 1142.6
律法が与えられた当時、イスラエルはエジプトの長い生活のために堕落していたので、神の大能と威厳とを印象づけられる必要があった。それでも神は、愛の神として彼らにご自身をあらわされたのであった。 MB 1142.7
「主はシナイからこられ、 MB 1142.8
セイルからわれわれにむかってのぼられ、 MB 1142.9
パランの山から光を放たれ、 MB 1142.10
ちよろずの聖者の中からこられた。 MB 1142.11
その右の手には燃える火があった。 MB 1142.12
まことに主はその民を愛される。 MB 1142.13
すべて主に聖別されたものは、み手のうちにある。 MB 1142.14
彼らはあなたの足もとに座して、 MB 1142.15
教を受ける」(申命記33:2、3)。 MB 1142.16
各時代を通じて愛唱されてきた、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者」というすばらしいことばのうちに神がご自分の栄光をあらわされたのは、モーセに対してであった(出エジプト34:6、7)。 MB 1142.17
シナイで与えられた律法は、愛の原則の言明であり、天の律法の地上への啓示であった。それは仲保者キリストの手で制定され、そのみ力を通して、人間の心をこの原則に調和させることのおできになるキリストによって、語られたのであった。神はイスラエルに、「あなたがたは、わたしに対して聖なる民とならなければならない」と述べて、律法の目的をあらわされた(出エジプト22:31)。 MB 1142.18
しかし、イスラエルは律法の霊的性格を理解せず彼らのいわゆる服従とは、心が愛の主権に従うことではなく、単に形式と礼典の遵守にすぎないことがあまりに多かった。イエスがご自分の品性とお働きによって、神のきよく情け深い、父としての1生質を人々に あらわし、単に儀礼的な服従の無価値なことを示された時にも、ユダヤ人の指導者たちは、イエスの言葉を聞きいれずまた、理解もしなかった。彼らは、イエスは律法の要求をあまりに軽視していると考え、神から命じられて彼らが行っている、宮の奉仕の真髄である真理そのものが目前に示されると、彼らはただ外面ばかりを見て、イエスはその奉仕を破壊しようとしているのだと非難した。 MB 1142.19
キリストの語られるみことばは、静かではあったが、群衆の心を動かす熱と力がこもっていた。彼らはまたしても、ラビたちの生気のない言い伝えときびしい要求が聞かれるのではないかと耳を傾けていたが、そうではなかった。彼らは「その教えにひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マタイ7:28、29)。パリサイ人は、自分たちの教え方とキリストの教え方との大きな違いに気がついた、彼らは、真理の威厳と純粋さと美しさとが、落ちついた深い影響力を伴って、多くの人々の心をしっかりとつかんでゆくのを見た。救い主の天来の愛とやさしさが、人々の心を彼に引きよせた。ラビたちは、彼らが国民に与えてきた教えが、イエスの教えによってすっかりむだになってしまったのを見た。イエスは、彼らの誇りと排他的精神にとって都合のよかった隔ての中垣を打ちこわしておられるのであった。そして彼らは、成り行きにまかせておけば、イエスが彼らから民衆を全く引き離してしまのではないかと恐れた。そこで彼らは、機会があれば群衆をイエスから引き離して、サンヒドリンがイエスを罪に定めて、死刑にするきっかけを見つけようと、敵意を固めてイエスについてまわった。 MB 1143.1
山の上でも、イエスにはスパイの看視の目がついていた。そしてイエスが義の原則を教えられると、パリサイ人はそれを、イエスの教えは、神がシナイからお与えになった戒めに反するものだと、ささやき合う材料に利用した。救い主は、モーセを通して与えられた宗教とおきてへの信仰をくつがえすことは、一言も語られなかった。なぜなら、このイスラエルの大指導者がその民に伝えた天来の光は、その一筋一筋がキリストから受けたものだったのである。多くの人は、キリストが律法を廃するために来られたのだと思っているが、イエスはまちがう余地のない言葉で、神の律法への態度を明らかにしておられる。「わたしが律法や預言者を廃するために来た、と思ってはならない」とイエスは言われた(マタイ5:17)。 MB 1143.2
律法を廃することが自分の意図なのではないと宣言なさったお方は、人間を創造し、かつ律法をお与えになったお方である、日の光に漂うほこりから天上の諸世界に至るまで、自然界のものはすべておきてのもとにある。そして自然界の秩序と調和は、これらのおきてに従うことにかかっていろのである。それと同じく、すべての知的存在の生命を支配する偉大な義の原則があって、宇宙の安寧は、これらの原則に一致するか否かにかかっている。地球が創造される以前から、神の律法はあった。天使も、これらの原則によって治められている。そして、地が天と調和するためには、人もまた、天のおきてに従わなければならない。「明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった」時に、キリストは律法をお与えになった(ヨブ38:7)。地上におけるキリストの使命は、律法を廃することではなく、その恵みによって人類を再びその律法に従わせることであった。 MB 1143.3
山上でイエスの言葉に聞き入っていた愛された弟子ヨハネは、そのずっと後に聖霊の感動のもとに筆をとり、律法を永遠の義務として述べている。「罪とは律法に背くことである」。また「すべて罪を犯す者は、律法に背く者である」(Ⅰヨハネ3:4・英語欽定訳)。ヨハネは、ここで言う律法は、「あなたがたが初めから受けていた古い戒めである」ことを明らかにしている(Ⅰヨハネ2:7)。彼は創造の時すでに存在しており、シナイ山で反復された律法のことを言っているのである。 MB 1143.4
イエスは律法について、「廃するためではなく、成就するためにきた」と仰せになった。イエスはここで、「成就する」ということばを、「正しいことを成就する」のが自分の意向であると、バプテスマのヨハネに告げられた時と同じ意味でお用いになった。すなわ ち、律法の要求を満たす神の意志への完全な一致の模範を与える、ということである。 MB 1143.5
イエスの使命は、「教を大いなるものとし、かつ光栄あるものとすること」であった(イザヤ42:21)。イエスは、律法の霊的な性質を示し、その遠大な原則を教え、それが永遠の義務であることを明らかにされるのであった。 MB 1144.1
この世のどんなに高尚で柔和な人も、キリストの品性のこうこうしい美しさにくらべれば、そのかすかな反映にすぎない。キリストのことを霊に感じてソロモンは、「万人にぬきんで……彼はことごとく麗しい」と歌った(雅歌5:10、16)。ダビデもまた預言の幻のうちにみ姿を見て、「あなたは人の子らにまさって麗し」いと歌った(詩篇45:2)。イエスは、天父の本質の真の姿であり、その栄光の輝きである。地上における愛の生涯の始めから終わりまで、自己を犠牲にされたあがない主は、神の律法の性格の生きた表現であった。キリストの生涯によって、天来の愛とキリストのような原則とが、永遠の公正という法則の基礎であることが明らかにされている。 MB 1144.2
イエスは「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」と仰せになった(マタイ5:18)。キリストは、自ら律法に従うことによって、律法の不変性をあかしし、キリストの恵みによって、アダムの息子、娘はみな、完全にそれに従うことができることを証明された。キリストは山の上で、すべてのこと——人類にかかわるすべてのこと、あがないの計画に関するすべてのこと——が全うされるまでは、律法の最も小さい部分もすたれることはないと言明なさった。イエスは、律法が廃棄されるとはお教えにならない。そして、世界の終末に目を向けて、その時が来るまで、律法はその権威を保ちつづけることを保証しておられる。それだから、だれも律法を廃することが、イエスの使命であったと考えることはできないのである。天地が存続するかぎり、神の律法の聖なる原則は残る。神の義は「山のごとく」存続し、それは祝福の源となって、地をうるおす流れを送り出すのである(詩篇36:6)。 MB 1144.3
主の律法は完全であり、従って変わることがないから、罪人は、自分でその要求の水準に達することは不可能である。これが、イエスがわたしたちのあがない主としておいでになった理由であった。神のこ性質にあずかる者とすることによって、人を天の律法の原則に調和させるのが、イエスの使命であった。わたしたちが罪を捨て、キリストを救い主として受けいれる時に、律法は高められる。使徒パウロは、「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」と言っている(ローマ3:31)。 MB 1144.4
新しい契約による約束は、「わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」という約束である(ヘブル10:16)。キリストを、世の罪を取り除く神の小羊として指し示していた象徴の制度は、キリストの死とともにすたれるものであったが、十戒に具体的に表現された義の原則は、永遠のみ座と同様に不変のものである。1つの戒めも廃されていないし、一点一画も変更されてはいない生命の偉大なる律法として楽園の人類に知らされた原則は、楽園回復の後も変わることなく存続する、エデンが再び地上に栄える時には、目の下のすべてのものが神の愛の律法に従うのである。 MB 1144.5
「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」「すべてのさとしは確かである。これらは世々かぎりなく堅く立ち、真実と正直とをもってなされた」「わたしは早くからあなたのあかしによって、あなたがこれをとこしえに立てられたことを知りました」(詩篇119:89、111:7、8、 119:152)。 MB 1144.6
「これらの最も小さいいましめの1つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう」 MB 1144.7
(マタイ5:19) MB 1144.8
すなわちそういう人は、天国にはいらないというのである。それは、1つの戒めでも故意に破ろ者は、 そのどれをも、霊とまこととをもって守らないからである。「律法をことごとく守ったとしても、その1つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである」(ヤコブ2:10)。 MB 1144.9
罪を構成するのは不従順の大きな行為ではなくて、最も小さな点で神のあらわされたみこころに一致しないことである。それは、魂と罪との間に、依然としてかかわり合いがあることを示しているからである。心は、2つのものに仕えているのである。これは事実上、神を否定したことであって、神の政府の律法に対する反逆である。 MB 1145.1
かりに人が主のご要求を離れて、自分で義務の標準を立てる自由があるとすると、人それぞれに合うさまざまな標準ができることとなり、支配権は主のみ手から奪われてしまうことになる。人間の意志が最高権威とされ、高く聖なる神のみ旨——神の被造物に対する愛の目的——は尊ばれず、軽んじられることであろう。 MB 1145.2
人々が自分たちの道を選ぶ時はいつでも、神に敵対することになる。彼らは天の原則と戦っているのであるから、天のみ国に人ることはできない。彼らは、神のみこころを無視して、自分たちを、神と人との敵であるサタンの側に置いているのである。人は、神のお語りになった1つの言葉でもなく、また、多くの言葉でもなく、すべての言葉によって生きるのであるわたしたちは、たとえそれがどんなにささいなことに見えようとも、1つの言葉でも無視するなら安全を保つことはできない。この世においても、きたるべき世においても、人間の安寧と幸福のためにならないような律法の戒めは一つもない。神の律法に服従することによって、人間は生垣をめぐらされたように悪から守られる。神が築かれたこの障壁の1か所でもこわす者は、それが持つ保護の力を破壊したのである。なぜなら、敵が侵入して荒らし滅ぼすための通路を開いてしまったからである。 MB 1145.3
神のみこころの一点をあえて無視することによってわたしたちの最初の祖先は、この世界にわざわいの水門を開いてしまった。そして彼らの例にならう者はみな、同様の結果を刈り取る。神の愛がその律法の一つ一つの戒めの基礎である。そして戒めを離れる者は、自分で自分の不幸と破滅をもたらしているのである。 MB 1145.4
「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」 MB 1145.5
(マタイ5:20) MB 1145.6
律法学者やパリサイ人は、キリストばかりでなく弟子たちも、ラビの儀式と礼典を無視しているから、罪人であると非難してきた。弟子たちは、宗教の教師として敬ってきた人々から非難とけん責を受けて、当惑することがあった。イエスはその欺きの皮をはがされた。イエスは、パリサイ人が非常に高く評価していた義は、無価値なものであると断言された。ユダヤ民族は、自分たちが神の恩恵に浴している、特に選ばれた忠実な民だと主張していたが、キリストは、彼らの宗教は、魂を救う信仰に欠けていると仰せになった。彼らの見せかけの敬虔さや、人間の作りごとや、儀式、さらには彼らの誇りにしていた律法の外面的な要求の遂行などは、彼らをきよくする助けとはならなかった。彼らの心はきよくなく、その品性は気高いものでも、キリストのようなものでもなかった。 MB 1145.7
律法的宗教は、魂を神と調和させるのに不十分である。悔い改めもやさしさも愛もない、堅く厳格なパリサイ人の伝統的宗教は、罪人のつまずきの石となるだけであった。彼らは、味を失った塩のようなものであった。彼らは、世を腐敗から防ぐ力を持っていなかった。唯一の真の信仰は、「愛によって働」き魂をきよめる信仰である(ガラテヤ5:6)。それは品性を改変するパン種のようなものである。 MB 1145.8
ユダヤ人はこうしたことをみな、預言者の教えから学んでいるべきであった。神のみ前に義とされることを求める魂の叫びとその応答は、何世紀も前に預言者ミカの言葉の中にあらわされている。「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。 主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか……。人よ、彼はさきによいことのなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか」(ミカ6:6~8)。 MB 1145.9
預言者ホセアは、「イスラエルは(自分のために)実を結ぶ茂ったぶどうの木である」(ホセア10:1・英語欽定訳参照)という言葉で、パリサイ主義の本質となっていろものを指摘していた、ユダヤ人は神に仕えると称しながら、実際は自分のために努力していた。彼らの義は、自分の考えに従って、自分の利益のために律法を守る、自分自身の努力の実であった、だからその義は、彼ら自身よりよいものではあり得なかった。彼らは自分をきよくしようとして、汚れたもののうちから清いものを出そうと努めていたのであった。神の律法は、神が聖であるのと同じように聖であり、神が完全であるのと同じように完全である、律法は神の義を人間に示している。人間は、自分の力ではこの律法を守ることができない。人間の性質は堕落し、ゆがんでおり、神のご品性とは全く似ても似つかなくなっているからである。利己的な心のわざは汚れたもののようであり、「われわれの正しい行いは、ことごとく汚れた衣のようである」(イザヤ64:6)。 MB 1146.1
律法は聖なるものであるが、ユダヤ人は、律法を守ろうとする自己の努力によっては、義に到達することができなかった。キリストの弟子たちは、天のみ国に入りたければ、パリサイ人の義とは異なった義を獲得しなければならない。神はみ子をお与えになることによって、律法の完全な義を彼らに提供なさった。もし彼らが心を十分に開いて、キリストを心に受けいれるなら、神の生命そのもの、神の愛が彼らのうちに宿って、彼らを神ご自身のみかたちに変えるのである。こうして彼らは、報いを求めない神の賜物によって、律法の要求する義を所有するのである。しかしパリサイ人は、「神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め」てキリストを拒否した(ローマ10:3)、彼らは神の義を受け入れようとしなかった。 MB 1146.2
イエスはさらに進んで、神の戒めを守るとはどういうことか、すなわちそれは、キリストのご品性を自分たちのうちに再現することであることを、聴衆にお教えになった。なぜなら、神はキリストにおいて、日々彼らの前にあらわされていたからである。 MB 1146.3
「兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない」 MB 1146.4
(マタイ5:22) MB 1146.5
主はモーセを通して、「あなたは心に兄弟を憎んではならない。……あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と言われた(レビ19:17、18)。キリストが示された真理は、預言者たちが教えてきたところと同じものであったが、人の心がかたくなで罪を愛していたために、わからなくなっていた。 MB 1146.6
キリストの言葉はその聴衆に対して、彼らは他人を罪人であると非難しているが、自分たちも悪意と憎しみを抱いているのであるから、同様に罪ある者であることを明らかにした。 MB 1146.7
彼らの集まっている所から、海を隔てたかなたは人跡まれなバシャンの地で、その荒涼とした峡谷と樹木のおい繁った山々とは、長い間ありとあらゆる犯罪者が好んだかくれ場であった。そこで行われた強盗や殺人の知らせは、民衆の心になまなましく、これら悪を働く者たちの告発に熱心な人が多かった。ところが同時に、彼ら自身も激しやすく論争好きであった。彼らはローマの圧政者に最もはげしい憎しみを抱き、他のすべての民族や、また自国民でも、彼らの考えに全面的に同調しない人々を憎んだりさげすんだりするのは、自由だと思っていた。彼らはこのすべてにおいて、「あなたは殺してはならない」と言明している律法を犯していた。 MB 1146.8
憎悪と復讐の精神はサタンから出、この精神がサタンに神のみ子を殺害させたのである。だれでも悪意や冷酷な心を抱く者は、これと同じ精神を抱いているのであって、その実は死に至らせるものである。 種の中に草木がすでに包まれているように、復讐心の中に悪の行為が包まれている。「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない」(Ⅰヨハネ3:15)。 MB 1146.9
「兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう」(マタイ5:22)。神は、わたしたちのあがないのためにみ子を賜うことによって、人間一人一人の魂をどんなに高く見ておられるかをお示しになった。神は、他人をさげすんでうわさする自由を、だれにも与えておられない。わたしたちは、周囲の人々に欠陥や弱点を見るであろうが、神は、すべての魂は自分のものである——すなわち創造によって自分のものであることと、キリストの尊い血をもって買いとられたゆえに、二重に自分のものである——と主張なさる。人はすべて、神のみかたちにかたどって創造されたのであって、どんなに堕落した者であっても大切にやさしく扱わなければならない。キリストが生命をささげられたところの1人の魂を、さげすんで語ったことばに対してさえ、神はその責任を問われるのである。 MB 1147.1
「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのかあなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」(Ⅰコリント4:7)。「他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである」(ローマ14:4)。 MB 1147.2
「また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(マタイ5:22)。旧約聖書では、「ばか者(fool)」ということばは背信者、すなわち悪に全くふけってしまった者を指すのに使われている。だれでも兄弟を背信者として、あるいは神をさげすむ者として非難する人は、その人自身が、同じ非難に値するとイエスは言われる。 MB 1147.3
キリストご自身も、モーセの死体についてサタンと論じ争われた時、「相手をののしりさばくこと」はあえてなさらなかった(ユダ9)。告発は悪魔の武器であるから、もしそうなさっていたら、キリストは、サタンの領域にご自分を置かれたことになる。サタンは聖書の中で、「われらの兄弟らを訴える者」と呼ばれている(黙示録12:10)。イエスは、サタンの武器は一切用いようとはなさらなかった。ただ「主がおまえを戒めて下さるように」と仰せになっただけである(ユダ9)。 MB 1147.4
これはわたしたちのための模範である。わたしたちは、キリストに敵対する者との争いにまき込まれても、報復の精神をいだいて口を開いたり、ののしりさばくように聞こえる言葉を語ったりしてはならない。神の代弁者として立つ者は、天の君でさえ、サタンと争った時に避けてお用いにならなかったようなことばを語ってはならない。審判と宣告のわざは、神にゆだねるべきである。 MB 1147.5
「兄弟と和解し……なさい」 MB 1147.6
(マタイ5:24) MB 1147.7
神の愛は否定一方のものではなく、むしろ積極的、活動的な原則であり、他人を祝福するためにたえず流れ出る生きた泉である。キリストの愛が心に宿っているなら、わたしたちは同胞に対して、憎しみを抱かないだけではなく、どんな点でも彼らに対する愛をあらわそうと努めるのである。 MB 1147.8
イエスは、「祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」と仰せになった(マタイ5:23、24)。犠牲のささげ物は、それをささげる者がキリストによって、神の憐れみと愛にあずかる者となったという信仰を表していた。しかし、自分では愛に欠けた精神をほしいままにしながら、神のゆるしの愛に対する信仰を表明することは、おかしなことである。 MB 1147.9
神に仕えると告白する者が、兄弟に不正を働いたり傷つけたりする時、彼はその兄弟に、神のご品性を正しくあらわしていない。そして、神と調和するためにはその悪を告白し、それを罪と認めなければなら ない。兄弟から受けた仕打ちは、自分が兄弟にしたことよりももっと悪いことであったかも知れないが、そうだからと言って、それがわたしたちの責任を軽くするわけではない。神のみ前に出た時に、だれかが自分にうらみを持っていることを思い出したなら、祈りや感謝の供え物や任意のささげ物をそのまま残して、不和の関係にあるその兄弟のもとに行き、謙そんに罪を告白してゆるしを請わなくてはいけない。 MB 1147.10
何か兄弟からだまし取ったり傷つけたりしたなら、そのつぐないをしなければならない。もし、知らずに偽ったあかしをたてたり、兄弟のことばを誤って伝えたり、あるいは何らかの点で兄弟の感化力をそこねたなら、それを話した人々の所へ行って、誤って述べたために、兄弟を中傷することになった言葉をすべて取り消すべきである。 MB 1148.1
もし、兄弟どうしの間の争いを他の人たちの前に持ち出さず、クリスチャンの愛の精神をもってお圧いの間で率直に話し合ったなら、どれほど多くの不幸を招かないで済むことだろう。多くの人々を傷つける不幸なできごとの根が、どんなにか多く絶やされ、キリストに従う者たちはどんなにか親しくやさしく、キリストの愛のうちに結び合うことだろう。 MB 1148.2
「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである」 MB 1148.3
(マタイ5:28) MB 1148.4
ユダヤ人は自分たちの道徳を誇り、異教徒の情欲的習慣を憎々しく眺めていた。ローマ帝国の支配によって、パレスチナに送られてきたローマの軍人たちは、ユダヤ人にとって、たえず怒りの対象であった、それはこうした外国人とともに、異教の風習やみだらなことや放蕩などが流れ込んできたからである。カペナウムでは、ローマの軍人が、はでな身なりの女をつれて広場や遊歩場によく姿をあらわした。また、彼らの遊覧船が静かな水の上に浮かんで、歓楽のどよめきが湖の静けさを破ってわき起こったりしたのである。群衆はこうした者へのきびしい宣告を、イエスから聞くものと期待していた。これに反して、彼らが自分たちの心の邪悪さをあらわにする言葉を聞いた時、彼らはどんなにか驚いたことであろう。 MB 1148.5
邪悪な思いを愛してこれを心に抱く時、それはどんなにひそかな思いであっても、罪が依然として心を支配していることを示すものだと、イエスは言われた。魂はまだ、苦い胆汁があり、不義の縄目がからみついている。みだらな場面を思って楽しむ者、汚れた思いをいだき、色情をもって眺めたりしている者は、それがついには、あからさまな罪となってあらわれ、はずかしめと心をかき裂く嘆きを味わって、自分の心の隅にひそめていた悪の正体をみることになる。人が嘆かわしい罪に陥る時のその誘惑が、そこで明らかにされた悪を作り出すのではない、それはただ、心の中に秘め隠されていたものを発達させて、明らかにするに過ぎない。それは、その心に思うように、その人となりもまたそのようなのである。というのは、「命の泉」は、心から流れ出るからである(箴言4:23)。 MB 1148.6
「もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい」 MB 1148.7
(マタイ5:30) MB 1148.8
病気が体中に広まって生命を奪うのを防ぐためには、人は、右手であっても切り捨てるだろう。まして、魂の生命を危険にさらすものを、進んで放棄するのは当然のことである。 MB 1148.9
サタンに捕らわれ堕落していた魂は、福音によってあがなわれ、神の子らの輝かしい自由にあずかるはずである。神のみ旨は、罪の不可避の結果である苦しみから解放することだけではなく、罪そのものから救うことである。汚れてゆがんだ魂も変えられてきよくなり、「われらの神、主の恵み」を身につけて、「御子のかたちに似たもの」となることができる(詩篇90:17、ローマ8:29)。「目がまだ見ず耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント2:9)。神のみかたちに回復された、人類の到達することのできる輝かしい運命は、永遠のみが明 らかにすることができるのである。 MB 1148.10
わたしたちが、この高い理想に達するためには、魂をつまずかせるものは犠牲にしなければならない。わたしたちが罪の支配下にあるのは、意志による。この意志を服従させることが、目を抜き出したり、手を切りとったりするという表現であらわされているのである。意志を神に従わせることは、人生を障害をもった体で過ごすかのように思えることがよくある。しかしこのようにして、命に入れるのであれば、体に傷をもち、障害をもつ者となるほうがよいのだとキリストは言われる。不幸と見えることが、何よりの幸福への門口なのである。 MB 1149.1
神は生命の泉であるから、わたしたちは神と交わっている時だけ、生命を持つことができる。神から離れても、しばらくは生存することができるが、そこには生命がない。「みだらな生活をしているやもめは、生けるしかばねにすぎない」(Ⅰテモテ5:6)。わたしたちの意志を神に従わせてはじめて、神はわたしたちに、生命をわけ与えることがおできになる。自己放棄により、神の生命を受けてはじめて、わたしの指摘したこれらの罪に、打ち勝つことができるのであるとイエスは仰せになった。罪を心の中にひめて、人の目から隠すことはできても、神のみ前にはどうして立つことができよう。 MB 1149.2
自我に固執して、意志を神に従わせようとしないなら、あなたは死を選んでいるのである。罪は、それがどこに見いだされようとも、神は焼き尽くす火である。もしあなたが罪を選び、罪から離れようとしないなら、罪を焼き尽くす神の臨在が、必ずあなたを焼き尽くすだろう。 MB 1149.3
自己を神にささげることには犠牲が伴うが、これは、より高いものを得るために、より低いものを犠牲にすることであり、霊的なもののために世俗的なものを犠牲にすることであり、永遠のもののために滅びゆくものを犠牲にすることである。神はわたしたちの意志を、破壊しようとは考えておられない。神がわたしたちにさせようとしておられることは、わたしたちの意志の働きを通してはじめて行うことができるのである。意志は神にささげられなければならないが、それは、練りきよめられ、神の思いと一つに結びついたその意志を、わたしたちが再び受けて、神がご自分の愛と大能の潮流を、わたしたちを通して注ぐことができるようになるためである。強情でわがままな心には、この降伏がどんなにつらく苦しいものに思われても、そうするほうが「あなたにとって益である」(マタイ5:30)。 MB 1149.4
ヤコブはかたわとなり、どうすることもできなくなり、契約の天使の胸にすがってはじめて信仰の勝利を知り、神の王子という称号を受けることができた。彼が「そのもものゆえに歩くのが不自由になっていた」時に、武器をたずさえたエサウの一隊は彼の前にしずめられた(創世記32:31)。そして、あの輝かしい王位の継承者パロは、ぬかずいて彼の祝福を懇願した。同様に、「救いの君」は「苦難をとおして」全うされ(ヘブル2:10)、また信仰の子らは「弱いものは強くされ」「他国の軍を退かせた」(ヘブル11:34)。そのように、「足の弱い者(は)……獲物を取り」(イザヤ33:23)、弱い者は「ダビデのように」、また「ダビデの家は……主の使のようになる」のである(ゼカリヤ12:8)。 MB 1149.5
「夫がその妻を出すのはさしつかえないでしょうか」 MB 1149.6
(マタイ19:3) MB 1149.7
ユダヤ人の間では、男は、ごくささいなことで妻を出すことが許されており、出された妻は、再び結婚してもかまわなかった。この習慣から、非常な不幸と罪が生じた。イエスは山上の垂訓で、結婚の誓約に対する不誠実以外のことでは、結婚のきずなが解消されないことを言明された。「だれでも不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである」とイエスは仰せになった(マタイ5:32)。 MB 1149.8
また、後にパリサイ人が、離婚の合法性について質問した時、イエスは創造において制定されたものとして、結婚の制度に彼らの注意を向けられた。「モー セはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった」とイエスは言われた(マタイ19:8)。イエスは、すべてのものが「はなはだよかった」と神が仰せになった祝福されたエデンの園の時代に、彼らを注目させられた。神の栄光と人間の幸福のための2つの制度、すなわち結婚と安息日の起源がここにあった。その時、創造主は聖なる2人に結婚の契りを結ばせて、「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」と仰せになった(創世記2:24)。創造主は、世の終わりに至るまでのすべてのアダムの子らのために、結婚の律法を宣言された。永遠の父なる神ご自身がよしと宣言されたのは、人間にとって最高の祝福と発達の律法であった。 MB 1149.9
人類の保管にゆだねられた、その他のあらゆる良い神の賜物と同様に、結婚も罪によってゆがめられたが、その純潔と美しさを回復するのが福音の日的である。旧約聖書においても新約聖書においても、結婚の関係は、キリストとその民、すなわちカルバリーの価を払って買いとり、あがなわれた者たちとの間のやさしく聖なる結合をあらわすために用いられている。キリストはこう言っておられる、「恐れてはならない。……あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主、あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であ」る(イザヤ54:4、5)。「主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである」(エレミヤ3:14)。雅歌では、花嫁がこう言うのが聞かれる、「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」。そして彼女にとって「万人にぬきんで」た彼は、ご自分の選んだ者にこう言われる、「わが愛する者よ、あなたはことごとく美しく、少しのきずもない」(雅歌2:16、5:10、4:7)。 MB 1150.1
後に、使徒パウロは、エペソのクリスチャンに書き送った中で、キリストが教会の頭であり、体なる教会の救い主であるのと同じく、夫は妻の頭として、妻を守り、家族を一つに結び合わせるきずなとなるように、主が定められたことを述べた。そこでパウロはこう言っているのである、「教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである、夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、ことばによって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を……愛さねばならない」(エペソ5:24~28)。 MB 1150.2
キリストの恵みが、そしてこれのみが、この制度を神の意図された通りのもの、すなわち、人類の祝福と向上の手段となすことができる。こうして人間の家族は、その一致と平和と愛によって、天の家族を代表することができるのである。 MB 1150.3
今日も、キリストの時代と同様、社会のありさまは、この神聖な関係に関する天の理想とは、あまりにもかけはなれた状態である。しかしながら、交わりと喜びを望んでいたにもかかわらず、苦さと失望を経験した人々に、キリストの福音は慰めと平安を与える。キリストのみたまによって与えられる忍耐と柔和が、苦い運命を甘く楽しいものにするのである。キリストが宿っている心は、キリストの愛に十分に満ち足りているので、自己に同情や関心を引こうとあせることがない。また、魂を神にささげているために、人間の知恵の及ばないことを、神の知恵がなしとげてくださる神の恵みの啓示によって、かつては互いに離れて無関心であった人々の心が、地上のいかなるきずなよりも強く永続的なきずなによって結ばれる。これこそ、試練にも耐えてゆくことのできる黄金の愛のきずなである。 MB 1150.4
「いっさい誓ってはならない」 MB 1150.5
(マタイ5:34) MB 1150.6
「天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなた は髪の毛一すじさえ、自くも黒くもすることができない」からであると、この戒めの理由が説明されている(マタイ5:34~36)。 MB 1150.7
すべては神から出ている。わたしたちが持っているもので、受けなかったものはない。いや、そればかりでなく、わたしたちが持っているもので、キリストの血で買いとられていないものはない。わたしたちの所有する一切のものは、十字架の印が押され、とうてい評価することができない尊い血潮で買われて、わたしたちのところにくるのである。なぜなら、それは神の生命だからである。だから、あたかも自分のものであるかのように、あるものをさして、わたしたちが、自分の約束を果たすことを誓う権利のあるものは何一つない。 MB 1151.1
ユダヤ人は、第三の戒めは、神のみ名を冒とく的に用いることを禁じたものであると理解していたが、自分たちは、ほかの誓いの言葉は自由に川いてよいと考えていた。誓いを立てるのは、彼らの間で普通のことであった。偽って誓うことはモーセを通して禁じられていたが、彼らは、誓いによって課せられる義務から免れるためにいろいろな工夫をこらしていた。彼らは巧みに律法の網の目を避けて、のがれることのできるかぎり、真に冒とく的なことをあえて行うのを恐れはしなかったし、偽りの誓いからしりごみすることもしなかった。 MB 1151.2
イエスは、彼らの誓いの習慣は、神の戒めを犯すものだと言って、その風習を非難された。しかし救い王は、語ることがすべて真実で、真実以外の何物でもないことを、厳粛に神にかけて誓う裁判の際の誓いを禁じられたのではない。イエスご自身も、サンヒドリンの前で裁判を受けられた時、誓いのもとに証言することを拒まれなかった。大祭司が「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」と言うと、イエスは「あなたの言うとおりである」とお答えになった(マタイ26:63、64)、もしキリストが山上の嘱訓において、裁判の誓いを非難されたのであれば、ご自分がさばかれているこの時に、大祭司をとがめて、弟子たちのためにご自分の教えを実行なさったことであろう。 MB 1151.3
仲間を欺くことには恐れを感じないが、自分の造り主にいつわりを言うのは恐ろしいことであると教えられ、また、聖霊によってその印象を強く与えられてきた者が非常に多くいる。誓いを立てる時には、人の前のみならず、神の前にもあかしを立てているのであって、もし偽りのあかしを立てるなら、それは心を読みとり、事実を正確に知っておられるお方にそれを言うのだと、彼らは感じさせられた。この罪には恐ろしい審判が続くと知ることは、彼らを抑制する力があるのである。 MB 1151.4
しかし終始一貫して、誓ってあかしすることのできる者がいるとすれば、それはクリスチャンである。クリスチャンは、わたしたちが言い開きをしなくてはならない神の御目には、すべての心の思いがあからさまであることを知って、たえず神のみ前にいるかのように生活するのである。そして、誓いを立てるように法的に求められた時には、自分の言うことは真実であって、真実以外の何ものでもないことの証人となってくださるように、神に訴えるのは正しいことである。 MB 1151.5
イエスはさらに進んで、誓いを立てることが不必要になる原理を規定なさった。イエスは、真実そのものが話の法則となるべきことをお教えになった。「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである」(マタイ5:37)。 MB 1151.6
このこ言葉は、冒とくに近い無意味な言葉や、ののしりの言葉をすべて非難している。また、一般社会や実業界の常である心にもないお世辞や、真実の回避や、へつらいの言葉や、誇張や、商売上のうそなどを非難している。この言葉はまた、自分を実際以上に見せかけようとしたり、本心を伝えない言葉を口にしたりする者は、誠実とは言えないことを教えている。 MB 1151.7
もしキリストのこの言葉に注意が払われるなら、悪意のある推量や不親切な批判はひかえることであろう。というのは、一体だれが、他人の行動や動機について語る時に、真実そのものを語っているという確信が持てようか。高慢や怒りや恨みなどが、異なっ た印象を与えることがどんなに多いことだろう。ちょっとした目つきや一つの言葉、あるいは声の抑揚でさえ、偽りをにおわすことができるのである。事実でさえ、言い方によっては、誤った印象を与えるのである。真実「以上に出ることは、悪から来るのである」。 MB 1151.8
クリスチャンのすることはすべて、日光のように透明でなければならない。真実は神からのものである。欺瞞は、その無数の形のどの一つをとっても、みなサタンからのものである。そしてだれでも、いかなる点においても、公正な真実から離れる者は、悪魔の手中に自分を売り渡しているのである。とはいうものの、真実そのものを語るのは容易なことではない。真実を知らなければ、真実を語ることはできない。しかし先入感や偏見や不完全な知識や誤った判断などのために、処理しなければならない事柄の正しい理解が、どんなにさまたげられていることだろう。わたしたちは、真理なるお方によってたえず心が導かれないかぎり、真実を語ることはできない。 MB 1152.1
キリストは使徒パウロを通して、「いつも……やさしい言葉を使いなさい」「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい」と命じておられる(コロサイ4:6、エペソ4:29)。こうした聖句に照らし合わせると、キリストの山上の言葉は、冗談やつまらぬ話やみだらな会話を非難していると考えられる。キリストのお言葉は、わたしたちの言葉が真実なものであるばかりでなく、きよいものでもあるべきだと要求しているのである。 MB 1152.2
キリストに学んだ者は、「実を結ばないやみのわざに加わらない」(エペソ5:11)。彼らは、「口には偽りがな」い聖なる者たちとの交わりのために準備をしているので(黙示録14:5)、その生活と同じように言葉も、単純で率直で真実なのである。 MB 1152.3
「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」 MB 1152.4
(マタイ5:39) MB 1152.5
ユダヤ人の立腹は、ローマの兵隊たちとの接触からたえず生じていた。ユダヤとガリラヤの各地に部隊が駐留しており、それによってユダヤ人は、民族としての自分たちの零落ぶりを思わせられていた。彼らは苦々しく心に思いながら、高くかなでられるラッパの音を聞き、ローマの旗の下に集まって、ローマの権力を象徴するこの旗に敬礼をささげる兵隊たちを眺めていた。ユダヤ国民とローマ兵士との衝突はひんぱんに起こり、このことが民衆の憎悪に火をつけた。ローマの役人は、兵卒を護衛にしてここかしこと急ぐ時には、よく、畑仕事をしているユダヤの農夫を捕らえては、山道で強制的に荷を運ばせたり、必要な労役を提供させたりした。これはローマの法律と風翌に従ったことであって、この要求に反抗すれば、詰責と残酷な仕打ちを受けるだけであった、ローマのくびきを振り捨てたいという願いが、日一日と、ユダヤ人の心に深まっていった。ことに、大胆で荒っぽいガリラヤ人の間には、反抗の精神がみなぎっていた。国境の町カペナウムはローマ駐留軍の所在地で、イエスが教えておられる間にも兵士の一隊が目について、聴衆はイスラエルの屈辱を苦々しく思い起こすのであった。人々は、この方こそローマの誇りをへしおるお方であると期待して、熱をこめてキリストを見た。するとイエスは、悲しげに、目前の人々の顔を見つめられる。イエスは彼らのけわしい顔つきに、復讐の精神がありありとあらわれているのをごらんになり、人々が圧制者たちを打ちくだく権力を、どんなに期待しているかを悟られる。イエスは悲しげに、彼らにこうお命じになる。「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」 MB 1152.6
この言葉は、旧約聖書の教えの反復にすぎない。「目には目、歯には歯」という規定がモーセを通して与えられた律法の一項目であったのは事実だが、しかしこれは民法であった(レビ24:20)。「『わたしが悪に報いる』とぼってはならない」「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう……』と言ってはならない」「あなたのあだが倒れるとき楽しんではな らない」「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ」という主の言葉が、彼らにはあったのだから、だれも復讐を正当化することはできなかった(箴言20:22、24:29、17、25:21)。 MB 1152.7
イエスの地上の一生は、この原則を具体的にあらわしたものであった。救い主が天の家郷を後にされたのは、敵にいのちのパンを与えるためであった。ゆりかごから墓場まで、中傷と迫害の連続であったが、イエスからはただ、寛大な愛があらわされるばかりであった。預言者イザヤを通してイエスはこう言っておられる、「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった」(イザヤ50:6)。「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」(イザヤ53:7)。そしてカルバリーの十字架からは、幾世紀後の今日まで、ご自分を十字架にかける者たちのための祈りと、死にゆく強盗に与えられた望みの言葉とが伝わってくる。 MB 1153.1
天父のこ臨在がキリストを取り囲んでいたので、無限の愛なる神が世の祝福のためにお許しになること以外は、何一つキリストの身にふりかかってこなかった。これが、キリストの慰めの源であった。わたしたちにおいてもそうである。キリストのみたまに満たされた人は、キリストのうちに宿っている。彼を狙う打撃は、ご臨在をもって囲んでいてくださるキリストに当たる。彼に起こることはみな、キリストを経てくるものである。キリストが彼の守り手であるから、彼は自分で悪に手向かう必要がない。主のゆるしがなければ何ものも彼に触れることはできない。そして許されることはみな、相共に働いて彼を愛する者たちの益となるのである。 MB 1153.2
「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて1マイル行かせようとするなら、その人と共に2マイル行きなさい」(マタイ5:40、41)。 MB 1153.3
イエスは弟子たちに、権威の座についている者の要求に反抗するのではなく、かえって求められる以上のことをするように命じられた。彼らはまた、国家の法律が要求する以上のことであっても、できる限り、義務をすべて遂行すべきことを教えられた。モーセを通して与えられた律法は、貧しい者を慈愛深くかえりみることを課していた。貧しい者が負債の質物、すなわち担保として上着を与える場合、債権者は家に入ってそれを取ることは許されなかった。彼はその質物が持ってこられるのを、通りで待たねばならなかった。そしてどんな事情であれ、その質物は、日暮れには持ち主に返さなければならなかった(申命記24:10~13参照)。キリストの時代には、この憐れみの規定はほとんどかえりみられていなかった。だがイエスは弟子たちに、たとえモーセの律法が認める以上のことが要求されても、法廷の判決には服するように教えられた。衣服の一部が要求されても、彼らは従うべきであった。債権者に彼の分を与えるのは無論のこと、もし必要なら法廷が定めた以上に、提供しなければならないのである。「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」また、使いの兵士がともに1マイル行くように要求するなら、2マイル行きなさい、とイエスは言われた(マタイ5:40)。 MB 1153.4
イエスはさらに続けて、「求める者には与え、借りようとする者を断るな」と仰せになった(マタイ5:42)。同じ教えは、モーセを通して与えられていた、「貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない」(申命記15:7、8)。この聖句が、救い主のことばの意味を明らかにしている。キリストは、施しを求めるすべての者に、無分別に与えることを教えておられるのではなく、「その必要とする物を貸し与えよ」と言っておられるのである。そして、わたしたちは「何も当てにしないで貸(す)」のであるから、これは貸すというよりもむしろ与えるのである(ルカ6:35)。 MB 1153.5
「敵を愛(せ)」 MB 1154.1
(マタイ5:44) MB 1154.2
「悪人に手向かうな」という救い主の教えは、復讐心に燃えるユダヤ人には受け取りがたい言葉であったため、彼らは互いにつぶやき合った。しかしイエスはここで、一層強い言葉を述べられた。 MB 1154.3
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」(マタイ5:43~45)。 MB 1154.4
これが律法の精神であって、ラビたちはこれを、冷酷できびしい不当な要求のように誤って解釈していたのであった。彼らは、自分たちがほかの者よりすぐれていて、イスラエル人であるために、特別な神の恵みを受ける資格があると考えていた。だが彼らが軽べつする取税人や罪人よりも、幾分でも高い動機に動かされているならば当然、寛大な愛の精神をあらわすはずであるとイエスは指摘された。 MB 1154.5
イエスは宇宙の支配者である神を、「われらの父」という新しい名前で聴衆にさし示された。イエスは、神がどのようにやさしく人々に愛情を注いでおられるかを、彼らが理解することをお望みになった。神は失われた魂の一人一人を心にとめ、「父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる」ことを、イエスはお教えになっている(詩篇103:13)。このような神の観念は、聖書の宗教以外でどの宗教も世に与えたことがなかった。異教は、陣を、愛の対象としてではなく、恐れの対象として見るように教える。つまり、子供らに愛の賜物を惜しみなくお与えになる父としてではなく、犠牲をささげることによってなだめられる、悪意をもった神であると示すのである。イスラエルの民でさえ、神に関する預言者の尊い教えに盲目になっていて、父のような神の愛のこの啓示は、この世にとって初めての主題であり、新しい賜物のように思えたのであった。 MB 1154.6
神は、神に仕える者——ユダヤ人の考えに従えば、ラビの要求事項をみたす者——を愛されるのであって、この世のそのほかの者はみな、神の不興とのろいのもとにあるのだと、ユダヤ人は考えていた。しかしそうではない、世界全体は、悪しき者も良き者も、ともに神の愛の光の中にあるのだと、イエスは言われた。神は「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして」くださっているのであるから、この真理は自然界からも学ぶことができたわけである(マタイ5:45)。 MB 1154.7
年々地球が大地の産物をうみだし、太陽のまわりをまわるのは、その固有の力によるのではない。神のみ手が遊星を導き、正しい位置に保って、天を秩序正しく運行させているのである。夏と冬、種まき時と刈り入れ時、昼と夜がそれぞれ規則正しくめぐるのも、神の力によるのである。花が咲き、葉が繁り、草木が繁茂するのは神の言葉によるのである。わたしたちのもっている良いものは、日の光も、雨も、食べ物も、命の一瞬一瞬も、すべて愛の賜物である。 MB 1154.8
わたしたちがまだ人を愛する心がなく、品性に美しさがなく、「人に憎まれ、互に憎み合っていた」時に、天の父は、わたしたちに憐れみをかけてくださった。「わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって……わたしたちは救われたのである」(テトス3:3~6)。神の愛を受けいれる時、その愛は、わたしたちをもそれと同じように、自分を喜ばせる者ばかりでなく、どんなにひどい欠点とあやまちと罪の中にいる者にもやさしく親切を尽くす者とする。 MB 1154.9
神の子供とは、神のこ性質を受け継いでいる者である。わたしたちが神の家族の一員であることを証明するものは、この世の地位でも生まれでも国籍でも、あるいは宗教上の恩典でもなく、それは、愛——全人類を包容する愛——である。罪人でさえ、その心が神の聖霊に対して全く閉ざされているのでなければ、親切には応じてくる。彼らは、憎まれれば憎むが、愛されればまた愛することもできるのである、しかし、憎しみに対して愛で報いるのは、神の聖霊だけである。感謝の気持ちのない者や悪しき者に親切 を尽くし、何も当てにしないで善をなすこと——これが天の王家の紋章であり、いと高き者の子らがその高い身分を明らかにする確かなしるしである。 MB 1154.10
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 MB 1155.1
(マタイ5:48) MB 1155.2
「それだから」という言葉は、今まで述べてきた事の結論を意味する。イエスは聴衆に、神のゆるがない憐れみと愛を語ってこられて、それだからあなたがたも完全な者になれと命じておられる。天の父は、「恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深い」お方であって、あなたを高めるために身を低くなさったのである(ルカ6:35)。それだから、あなたの品性も神と似たものとなって、人々とみ使いの前に傷なく立てるのだ、とイエスは仰せになった。 MB 1155.3
永遠の生命を受ける条件は、恵みのもとにあってもエデンの時と同様で、完全な義、神との調和、神の律法の原則への完全な一致である。旧約聖書に示されている品性の標準は、新約聖書に示されているのと同じである。この標準は、わたしたちの到達できないものではない。神のお与えになる命令や指図にはみな約束、しかも非常に積極的な約束が含まれていて、それがその命令の基礎となっている。神は、わたしたちが神に似た者となることができるように、備えをしてくださっている。そして神は、人が曲がった意志をさしはさんで神の恵みをむなしくしない限り、これをなしとげてくださる。 MB 1155.4
神は言葉に表現できない愛をもって、わたしたちを愛してくださっている。わたしたちが人知を越えたこの愛の長さ、広さ、深さ、高さをいくぶんでも理解する時に、わたしたちの愛は、神に向かって目覚める。人を引きつけるキリストの美しさがあらわされることによって、また、わたしたちがまだ罪人であった時にわたしたちにあらわされたその愛を知ることによって、かたくなな心は溶かされ、和らげられ、罪人は変えられて天の子となる。神は、強制な手段はお用いにならない。愛こそ、人の心から罪を追放するために、神がお用いになる力である。愛によって神は、高慢を謙そんに、敵意と不信を愛と信仰に変えられる。 MB 1155.5
ユダヤ人は自分自身の努力によって完全の域に達しようと営々刻苦してきたが、ついにそれができなかった。彼らの義では、決して天のみ国に入れないことを、キリストはすでに語っておられた。今キリストは彼らに、天に入るすべての者のもつ義の性格を指摘なさる。山上の垂訓のあいだずっと、その実について語ってこられたが、今は一言をもって、その根源と本質とを指摘なさる。すなわち、神が完全であられるように、あなたがたも完全な者となれ、と仰せになったのである。律法は、神のご品性の写しにすぎない。あなたの天の父のうちに、神の政府の基礎である原則が完全にあらわれているのを見てほしい。 MB 1155.6
神は愛である。太陽の光のように、愛と光と喜びは、神からすべての被造物に流れ出る。与えることが神のご性格である。神の生命そのものが、無我の愛のほとばしりである。神はご自分が完全であると同様に、わたしたちも完全になるように——と仰せられる。神が宇宙にとって光と祝福の中心であられるように、わたしたちは、わたしたちの小さな範囲でそうならなければならない。わたしたちは、神の愛の光がわたしたちを照らし、その輝きを反映するのでなければ、自分では何も持っていない。神が神の領域で完全であられるように、わたしたちは自分の領域で完全な者となることができる。 MB 1155.7
イエスは、あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさいと仰せになった。もし神の子供であれば、あなたがたは神の性質を受けついでおり、従って神に似た者とならざるを得ない。子供はみな、父親の生命によって生きる。あなたがたは、神の子供であって、その聖霊によって生まれたのであれば、神の生命によって生きる。キリストには、「満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って」いる(コロサイ2:9)。そしてイエスの生命は「わたしたちの死ぬべき肉体に」あらわされる(Ⅱコリント4:11)。あなたの中にあるこの生命が、イ エスに生み出したのと同じ品性を生み出し、イエスにあらわしたのと同じわざをあらわす。こうしてあなたは、主の律法のすべての戒めに調和するようになる。「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」るからである(詩篇19:7)。愛を通して「律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる」のである(ローマ8:4)。 MB 1155.8