祝福の山

祝福

「そこで、イエスはロを開き、彼らに教えて言われた。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』」 MB 1126.1

(マタイ5:2、3) MB 1126.2

この言葉はいぶかる群衆の耳に、何か不思議で、新しいものとして聞こえるのである。このような教えは、彼らが祭司やラビたちからいつも聞いてきたことと全く違っている。その中には、彼らの誇りにへつらい、彼らの野望をあおる何ものもない。しかしこの新しい教師には、彼らをとらえてはなさない力がある。神の愛のかぐわしさが、彼の存在そのものから花の香りのように流れ出る。彼の言葉は「刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、地を潤す夕立のごとく」降る(詩篇72:6)。すべての者は、この人こそ、魂の秘密を読みながらも、なお憐れみ深く、人々に近づいてこられるお方であることを、直感的に感じる。彼らの心は、イエスに向かって開かれる。こうして彼らが聞き入っていると、いつの時代にも、人類が学ばなければならない教訓の意味を、聖霊が彼らに説明される。 MB 1126.3

キリストの時代に、民の宗教指導者たちは霊的宝に富んでいると自認していた。「神よ、わたしはほかの人たちのよう……でないことを感謝します」というパリサイ人の祈りは、その階級の気持ち、またさらに、国全体の気持ちを非常によく表現していた(ルカ18:11)。しかし、イエスをとりまく群衆の中には、自分の霊的な貧しさを認めた人々も何人かあった。魚が奇跡的にとれて、キリストの神聖な力があらわれた時、ペテロは救い主の足下にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」と叫んだ(ルカ5:8)。そのように、山上に集まった群衆の中にも、キリストの純潔を目の前にして自分が、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」であることを感じた魂があった(黙示録3:17)。そして彼らは、「すべての人を救う神の恵み」を切望したのである。これらの魂の中に、キリストのあいさつの言葉は希望をよびおこした。彼らは、自分たちの生涯が神の祝福を受けていることを知った。 MB 1126.4

イエスは祝福の杯を、「富んでいる、豊かになった、なんの不自由もない」と感じている者にも供されたのであったが、彼らはあざけって、そのめぐみの賜物を拒んでしまったのであった。自分は完全であり、かなり善良であると考え、自分の状態に満足している者は、キリストのめぐみと義にあずかることを求めない。誇りは必要を感じない。だから、キリストと、キリストがおいでくださって与えようとしておられる無限の祝福とに対して、心を閉ざしてしまうのである。そのような人の心には、イエスが人られる余地はない。自分自身も富んでおり尊敬すべき者と考えている者は、信仰をもって求めようとしないし、神の祝福を受けないのである。彼らは自分が十分だと感じているから、からのままで去るのである。自分を救うこはできない、また、自分では正しい行いはできないと知っている者は、キリストがお与えになる助けを感謝する者たちである。彼らは心の貧しい者であり、主は彼らを、幸福であると言明されたのである。 MB 1126.5

キリストは、お赦しになるに先だって、その人をまず悔い改めさせられる。そして、罪を認めさせるのは、聖霊の働きである。罪を認めさせる神の霊によって心を打たれた者たちは、自分の中に何もよいものがないことを悟る。彼らは、今までしてきたことはすべて、自我と罪がまざっていることを知る。彼らはあわれな取税人のように遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と叫ぶ(ルカ18:13)。その時、彼らは祝福されるのである。悔い改める者にはゆるしがある。キリストは、「世の罪を取り除く神の小羊」だからである。神の約束は「たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ、紅のように赤くても、羊の丘のようになるのだ」「わたしは新しい心をあなたがたに与え……わが霊をあなたがたのうちに置」く のである(イザヤ1:18、エゼキエル36:26、27)。 MB 1126.6

心の貧しい者についてイエスは、「天国は彼らのものである」と言われる。この王国は、キリストの聴衆が望んだような一時的な、地上の統治ではない。キリストは人々に、ご自身の愛とめぐみと義の霊的王国を開いておられた。メシヤの統治の旗印は、人の子のかたちであるから、はっきり目立っている。主の国民は心が貧しく、柔和で、義のために責められる者である。天国は彼らのものである。まだ十分に成就してはいないけれども、「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さる」お働きは、彼らのうちにはじまっているのである(コロサイ1:12)。 MB 1127.1

心の貧しさを深く感じ、自分のうちに何もよいものがないと感じるすべての者は、イエスを見上げることによって、義と力を見いだすことができる、イエスは、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われる(マタイ11:28)。イエスは、あなたの貧しさを、主のめぐみの富と交換するように仰せになる。わたしたちは、神の愛を受けるにふさわしくない。しかしわたしたちの保証人であるキリストは、それにふさわしく、また、彼に来るすべての者を豊かに救うことがおできになるのである。あなたの過去の経験がどうあろうと、また、現在の状況はどんなに落胆させるものであっても、弱く、力なく、気落ちしたままでイエスに来るならば、わたしたちの憐れみ深い救い主は、遠くからあなたを迎え、その愛のみ腕をあなたにのばし、その義の衣をあなたに着せられる。イエスは、ご自身の品性の白い衣をわたしたちに着せて、父なる神に紹介される。イエスは、父のみ前でわたしたちのために嘆願される。そして、わたしはすでに罪人の代わりになりました、このわがままな子をごらんにならないで、わたしを見てくださいと言われる。もしサタンがわたしたちの罪を責め、わたしたちを彼の餌食であると主張して、大声で訴えても、キリストの血はより大きな力をもって嘆願するのである MB 1127.2

「人はわたしについて言う、『正義と力とは主にのみある』と。……イスラエルの子孫は皆主によって勝ち誇ることができる」(イザヤ45:24、25)。 MB 1127.3

「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」 MB 1127.4

(マタイ5:4) MB 1127.5

ここにみられる悲しみとは、罪のための真心からの悲しみである。イエスは、「わたしが、この地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせる」と言われた(ヨハネ12:32)。人が、十字架にあげられたイエスを見るように引きよせられる時、彼は人類の罪深さをはっきり知る。彼は栄光の主を嘲笑し、十字架につけたのは罪であることを悟る。彼は、今まで、言い表せないほどのやさしさをもって愛されてきたのに、自分の生涯は忘恩と反逆の場面の連続であったことを知る。彼は最良の友なるお方を捨て、天のもっとも尊い賜物を乱用した。彼は、神のみ子を自分で再びくぎづけにしたのである。そしてその傷つき痛められた心を、もう一度さし貫いたのである。彼は広く、暗く、深い罪の淵によって、神からへだてられた。彼は絶望感にうちひしがれて悲しむのである。 MB 1127.6

このような悲しみは「慰められるであろう」。神はわたしたちがキリストのうちに逃げこむために、彼によって罪の束縛から解放し、神の子らの自由を喜ぶために、わたしたちの罪をあらわしてくださる。真の悔いをいだいて、わたしたちは十字架のもとに来ることができる。そしてそこに、わたしたちの重荷をおけばよいのである。 MB 1127.7

救い主の言葉はまた、苦悩や失望に苦しむ者に慰めの言葉となる。わたしたちの悲しみは地からわきでるのではない。神は「心から人の子を苦しめ悩ますことをされない」(哀歌3:33)。神が試練と苦悩とをゆるされる時は、「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるため」である(ヘブル12:10)。耐えがたく思われる試練も、信仰をもって受けるならば、祝福であることがわかる。この世の喜びを砕く残酷な一撃も、わたしたちの目を天に向ける手段となる。悲しみが彼らを、主にある慰めに導かなかった ならば、イエスを知らないでしまう人がどんなに多いことであろう。 MB 1127.8

生涯の試練は、わたしたちの品性から不純で粗野なものを取り去る、神の職人である。切り出され、角材とされ、削られ、刻まれ、磨かれるのは苦しい工程である、砥石車におしつけられるのはつらいことである。しかしこうして石は、天の神殿に置かれるように整えられるのである。主は無用の材料に対しては、こんな注意深い、行き届いた手間をかけられない。主の尊い石のみが、宮の型にならって磨かれるのである。 MB 1128.1

主は、ご自分にたよるすべての者のために働かれる。忠実な者は尊い勝利を得る。貴重な教訓を学び、すばらしい体験をすることができる。 MB 1128.2

わたしたちの天の父は、決して、悲しみに沈む者に無頓着ではおられない。ダビデがオリブ山を「登る時に泣き、その頭をおおい、はだしで行った」時、主は憐れみ深く彼を見守っておられた(サムエル下15:30)。ダビデは麻布を身にまとい、良心に責められていた。自分を低くしたその態度は、彼の悔いを立証していた。涙にむせび、自責にふるえる声で、彼は神に事情を訴えたのであった。主はそのしもべを、お捨てにならなかった。自分の息子の反逆に扇動された敵から、良心に責められたダビデが、命からがら逃げた時ほど、無限の愛のみ心にいとしく思われたことはなかった。「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」と主は言われる(黙示録3:19)。キリストは、悔いた心を引き上げ、悲しむ魂を洗練して、それを、ご自分の住居としてくださるのである。 MB 1128.3

しかし悩みが来る時、ヤコブのようになる人が何と多いことであろう。わたしたちはそれを、敵の手と思うのである。そして、暗やみの中で力が尽きるまで、めくらめっぽうに戦うのである。そして、慰めも救いも見いだせない。夜明けにヤコブに触れた神のみ手は、彼が格闘していたのは契約の天使であることを明らかにした。泣きながら力尽きたヤコブは、彼の魂が慕い求めていた祝福を受けるために、無限の愛の懐に倒れ伏した。わたしたちはまた、試練は益をもたらすことを学び、主のこらしめを軽んじることなく、主に責められる時、気落ちしないように学ぶ必要がある。 MB 1128.4

「見よ、神に戒められる人はさいわいだ。……彼は傷つけ、また包み、撃ち、またその手をもっていやされる。彼はあなたを6つの悩みから救い、7つのうちでも、災はあなたに触れることがない」(ヨブ5:17~19)。イエスはすべての打たれた者に、いやしのわざをもって来られる。失望、苦痛、苦難の生涯は、主の臨在の尊い啓示によって明るくされるのである。 MB 1128.5

神は、わたしたちが傷つき破れた心をもって、無言の悲しみに圧倒されるままに放置しておかれない。神はわたしたちに、目をあげて、愛のやさしいみ顔を見るように望まれる。聖なる救い主は、涙で目がくもって、主を見分けられない多くの者のそばに立たれる。主はわたしたちの手をにぎり、単純な信仰をもって主を見るようにと、また、わたしたちが主に導いていただきたいと願うようになることを望んでおられる。主のみ心は、わたしたちの苦しみ、悲しみ、試練にむかって開かれている。主は永遠の愛をもってわたしたちを愛し、わたしたちを慈愛をもって囲まれろ。わたしたちは主のことを心に思いつづけ、1日中、その慈愛をめい想することができる。主は魂を、日ごとの悲しみと困惑の上に引きあげ、平和の国に入れられるのである。 MB 1128.6

苦しみ悲しむ子らよ、このことを思い、望んで喜びなさい。「わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」(Ⅰヨハネ5:4)。 MB 1128.7

イエスと共にこの世の悲しみに同情し、その罪のために悲しんで泣く者もまた、さいわいである、そのような悲しみには、自我の思いがまじっていないのである。イエスは悲しみの人であり、どんな言葉も言い表せないような、心の苦悩にお耐えになった。イエスの心は、人の罪によって裂かれ、傷つけられた。イエスは人類の欠乏と災いをとり除くために、必死の熱心さで労苦された。群衆が、命を得るために主のもとにこようとしないのを見て、主の心は悲しみに打ちひ しがれた。キリストに従うすべての者は、この体験を共に持つのである。彼らが主の愛にあずかる時、失われた者の救いのための主の苦しみに入るのである。彼らは、キリストの苦難にあずかると同時に、やがてあらわれる栄光にもあずかるのである。主と共に悲しみの杯を飲み、主のみわざにおいて一つになる彼らは、主の喜びにも共にあずかるのである。 MB 1128.8

イエスが慰めの力を経験されたのは、悲しみを通してであった。彼は、人類のすべての苦難をお受けになった。「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである」(ヘブル2:18、イザヤ63:9)。主の苦しみを共に味わった者は、この働きにあずかる特権を持つ。「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれている」(Ⅱコリント1:5)。主は悲しむ者に、特別なめぐみを持っておられる。その力は心を溶かし、魂を捕らえるのである。主の愛は、痛み傷ついた魂に通路を開き、悲しむ者をいやす香油となる。「あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。神はいかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである」(Ⅱコリント1:3、4)。 MB 1129.1

「柔和な人たちは、さいわいである」 MB 1129.2

(マタイ55) MB 1129.3

山上の祝福の言葉の中には、クリスチャン経験の進歩のあとがたどられる。キリストの必要を感じ、罪のために悲しみ、苦難の学校でキリストとともに座った者は、天よりの教師から柔和を学ぶであろう。 MB 1129.4

不正な取り扱いを受けながらも、忍耐し、柔和であることは、異教徒やユダヤ人が賞賛する特性ではなかった。霊感のもとにモーセが、彼は地上におけるもっとも柔和な人であると書いた言葉は、当時の人々に賞賛とは受けとられなかった。むしろそれはあわれに思われたり、侮られるようなものであった。しかしイエスは、その王国の主要な資格の一つとして、柔和をおかれるのである。主ご自身の生涯と品性に、このとうとい徳性の神聖な美が現れているのである。 MB 1129.5

父の栄光の輝きであられるイエスは、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをと」られた(ピリピ2:6、7)。そのつつましい生活のすべての経験を通して、イエスは、王者として尊敬を求めることなく、他の人に仕えることを自分の仕事とする者のように、人々の中で生活することに同意された。彼の態度には、少しの偏狭さも、冷酷な厳格さもなかった。世の救い主は、天使の性質よりももっと偉大な性質をもっておられたけれども、その神々しい威厳は、すべての人の心をひきつける柔和と謙そんに結びつけられていた。 MB 1129.6

イエスは、自己をむなしくされた。彼がなされたすべての事に、自己は現れなかった。イエスは父のみ心に、すべてを従わせられた。地上の働きが終わるころ、「わたしは、わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました」と仰せになることがおできになった(ヨハネ17:4)。また主は、「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、……わたしに学びなさい」と命じられる(マタイ11:29)。「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て」なさい(マタイ16:24)。自我を引き下ろそう、もはや魂の至上権を、自我に持たせないようにしよう。 MB 1129.7

キリストの克己と謙そんを見上げる者は、ダニエルが人の子のようなお方を見た時に言ったように、「力が抜け去り、わが顔の輝きは恐ろしく変って、全く力がなくなった」と言わずにはいられない(ダニエル10:8)。わたしたちが誇る自立と自己至上主義は、サタンの配下であるしるしとして、その真の邪悪さが示される。人間の本性は、たえず自己を表現しようと戦い、競争している。しかしキリストに学ぶ者は、自己、誇り、至上権を愛する心がなくなり、心の中はおだやかになる。自我は聖霊の指導に服従する。そ の時わたしたちは、最高の地位を得たいと望まなくなる。わたしたちは他人をおしのけて、自分に注日を引くことを望まない。わたしたちの最高の地位は、救い主の足下にあると思うのである。わたしたちは導きのみ手を待ち望み、み声を聞こうとしてイエスを仰ぎ見るのである。使徒パウロはこの経験をもった。彼は、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」と語った(ガラテヤ2:19、20)。 MB 1129.8

キリストを心の中に宿られる客として受ける時、すべての思いに過ぎる神の平安が、キリスト・イエスによって、わたしたちの心と思いを支える。地上における救い堂の生涯は、戦いのさ中にあったが平和な生涯であった。怒った敵がいつもイエスをねらっていたが、彼は、「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」と言われた(ヨハネ8:29)。人間やサタンの怒りのどんな嵐も、神との完全な交わりの平静さを乱すことはできなかった。またイエスは、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」と言われる(ヨハネ14:27)。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)。わたしとともに神の栄光と、人類の向上のために奉仕のくびきを負いなさい。そのくびきは負いやすく、その荷が軽いことがわかるであろうと、主は言われる。 MB 1130.1

わたしたちの平和を破壊するのは、自己愛である。自己が生きている間は、屈辱や侮辱から自己を守ろうといつも見張っていなければならない。しかし自己に死に、わたしたちの命がキリストとともに神の中にかくれるならば、無視されても、軽べつされても、少しも心にとめなくなる。わたしたちは、人の非難に対して聞こえない者となり、嘲笑、侮辱に対しては見えない者となるのである。「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」(Ⅰコリント13:4~8)。 MB 1130.2

地上に源を持っている幸福は、境遇の変化と同じように変わりやすいものである。しかしキリストの平和は、変わらない永続的な平和である。それは人生のどんな境遇にも、この世の財産の額や友人の数によるのでもない。キリストが生きた水の泉であり、彼から得た幸福は決してうせ去ることはないのである。 MB 1130.3

家庭の中にキリストの柔和があらわされると、家族は幸福になる。それは争いを引き起こさせず怒った返答をさせない。いらだった感情を柔らかくし、やさしさがしみわたって、その楽しい囲いの中にいるすべての者にそれが感じられる。柔和のあるところはどこでも、地上の家族を天の一大家族の一部とするのである。 MB 1130.4

不当な非難をうけて苦しむことは、敵に復讐して良心の責めを感じるよりはるかによいことである。憎悪と復讐の精神はサタンから出たものである。そしてそれをもつ者には、悪い結果をもたらすだけであるキリストのうちに住む結果生じる謙そんな心と柔和は、祝福の真の秘訣である。「主は……へりくだる者を勝利をもって飾られる」(詩篇149:4)。 MB 1130.5

柔和な者は「地を受けつぐであろう」。罪がこの世界に入り、最初の両親がこの美しい地、彼らの王国の統治権を失ったのは、自己を高める野心によってであった。キリストが失われたものをあがなわれるのは、自己放棄によってである。主はわたしたちが、主と同じく勝利しなければならないと言われる(黙不録3:21参照)。「柔和な者は国を継ぐ」時、わたしたちは謙そんと自己屈服によって、主とともに世継ぎとなるのである(詩篇37:11)。 MB 1130.6

柔和な者に約束された地は、死の陰とのろいで暗くなったこの地上のようなところではない。「わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」(Ⅱペテロ3:13)。「のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝」する(黙示録22:3)。 MB 1131.1

そこには失望も、悲しみも、罪も、わたしは病気だと言う者もない。また、葬式の行列も、嘆きも、死も、別離も、悲嘆もない。そこにはイエスがおられ、平和がある。そこで「彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれる」のである(イザヤ49:10)。 MB 1131.2

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう」 MB 1131.3

(マタイ5:6) MB 1131.4

義は聖であり、神に似ることである。そして、「神は愛である」(Ⅰヨハネ4:16)。義は、神の律法にしたがうことである。なぜなら「あなたのすべての戒めは正し」く(詩篇119:172)、「愛は律法を完成するものである」からである(ローマ13:10)。義は愛であり、そして愛は神の光であり、命である。神の義はキリストの中に具体化した。わたしたちは、キリストを受け入れることによって義を受けるのである。 MB 1131.5

義が得られるのは、苦しい戦いや労苦によってではなく、ささげものや犠牲によってでもない。それはそれを受けたいと飢えかわくすべての者に、無償で与えられるのである。「さあ、かわいている者は、みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」(イザヤ55:1)。「彼らの義はわたしのものであると主はいわれる」(イザヤ54:17・英語欽定訳)。「その名は、『毛はわれわれの正義』ととなえられる」(エレミヤ23:6)。 MB 1131.6

どんな人間の力も、魂の飢えとかわきを満たすものを供給することはできない。しかしイエスは、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」(黙示録3:20)、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」と言われる(ヨハネ6:35)。 MB 1131.7

肉体の力をささえるために食物が必要であるように、霊の命をささえ、神のわざをなす力を受けるために、わたしたちは、天からのパンであるキリストが必要である。身体が命と活力を支える栄養をたえず受けているように、魂もキリストとたえず交わり、キリストにゆだね、全くたよらねばならない。 MB 1131.8

疲れた旅人が砂漠で泉をさがし求め、ついに発見して、焼けるようなかわきをいやすように、クリスチャンは、キリストの泉から命の清水を求めて飲むのである。 MB 1131.9

救い主の品性の完全さをはっきり知る時に、わたしたちは全く変えられ、主の純潔なかたちにかたどって新しくされることを願うのである。わたしたちが神を知れば知るほど、自分の品性の理想は高くなり、主のみかたちを反映したいとの願いはますます熱烈になる。魂が神に達しようとする時、神の要素と人間が結合されるのである。そして神を求める心は、「わが魂はもだしてただ神をまつ。わが望みは神から来るからである」と言うようになるのである(詩篇62:5)。 MB 1131.10

もしあなたが自分の魂の必要を感じるなら、もしあなたが義に飢えかわいているなら、それこそ、キリストがずっとあなたの心に働いておられる証拠である。それは主が聖霊の賜物を通して、あなたが自分ではすることができないことをあなたのためにしてくださるよう、あなたが主を求めるようになるためである。わたしたちは、浅い流れでかわきをいやそうと求める必要はない。もしわたしたちが信仰の道をわずかでも高くのぼるならば、わたしたちのすぐ上に大きな泉があるから、その豊かな水をわたしたちは自由に飲むことができるのである。 MB 1131.11

神の言葉は命の泉である。あなたが生きた泉をさがし求める時、聖霊によって、キリストとの交わりに入れられる。聞きなれた真理が新しい装いをもってあなたの心に現れ、聖書の聖句は閃光のように新しい意味をあらわすであろう。あなたはあがないのみわざと他の真理の関係を悟り、キリストがあなたを導いておられること、神聖な教師があなたのそばにおられることを知るであろう。 MB 1132.1

イエスは、「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」と言われた(ヨハネ4:14)。聖霊があなたに真理を開かれる時、あなたはもっとも尊い経験をしっかり胸にいだき、あなたに示された慰めの数々を他の人々に語りたいと切望する。その人々と交際する時、あなたはキリストの品性や働きについて何か新しい思想を伝えるであろう。あなたは主イエスの憐れみ深い愛についてあらたに示され、それを主を愛する人にも愛さない人にも伝えるようになるであろう。 MB 1132.2

「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう」(ルカ6:38)。なぜなら神のことばは「園の泉、生ける水の井、またレバノンから流れ出る川である」からである(雅歌4:15)。1度キリストの愛を味わった心は、もっと深く飲むためにたえず呼び求める。そして与えるにしたがって、より豊かに、より潤沢に受けるのである。魂に対する神の啓示はすべて、知る能力と愛する能力を増し加える。魂は「もっとあなたを」と叫びつづける。すると、聖霊はいつも「さらに豊かに」(ローマ5:9、10・英訳)と答えて下さるのである。というのは、我らの神は、「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さる」ことを喜ばれるからである(エペソ3:20)。 MB 1132.3

失われた人類の救いのためにご自身をむなしくされたイエスには、聖霊が限りなく与えられた。同じように、主が内にお住まいになれるように心を全くささげる時、キリストに従うすべての者に聖霊が与えられるのである。わたしたちの主ご自身が、「御霊に満たされ」なさいと命令されたが(エペソ5:18)、この命令は、成就する約束でもある。キリストの中に「すべての満ちみちた徳を宿らせ」(コロサイ1:19)、「そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされ」ることは、父なる神の喜ばれるところであった(コロサイ2:10)。 MB 1132.4

地を生きかえらせる雨のように、神は惜しまずに愛を注いでこられた。神はこう仰せになっている「天よ、上より水を注げ、雲は義を降らせよ。地は開けて救を生じ、また義をも、生えさせよ」「貧しい者と乏しい者とは水を求めても、水がなく、その舌がかわいて焼けているとき、主なるわたしは彼らに答える、イスラエルの神なるわたしは彼らを捨てることがないわたしは裸の山に川を開き、谷の中に泉をいだし、荒野を池となし、かわいた地を水の源とする」(イザヤ45:8、41:17、18)。 MB 1132.5

「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた」(ヨハネ1:16)。 MB 1132.6

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう」 MB 1132.7

(マタイ5:7) MB 1132.8

人間の心は本来冷たく、暗く、愛なきものである。憐れみとゆるしの心があらわされる時はいつでも、それは人間から出たのでなく、その心に働く神の霊の感化によるのである。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである」(Ⅰヨハネ4:19)。 MB 1132.9

神ご自身が、すべての憐れみの源である。神のみ名は「あわれみあり、恵みあり」である(出エジプト34:6)。神はわたしたちの功績にしたがってわたしたちを取り扱われるのではない。神はわたしたちが、神の愛を受ける価値があるかどうかは尋ねられない。かえって神は、わたしたちを価値ある者とするために、その豊かな愛を注がれるのである。神は懲罰的ではない。神は罰することを求めずかえって救うことを願われる。摂理によって示されるきびしい処置でも、さまよう者の救いのために示されるのである、主は 人の苦痛を和らげ、その傷に主の香油をぬろうと熱望しておられる。神が「罰すべき者をば決してゆるさ」れないことは本当である(出エジプト34:7)。しかし神は、罪を取り去ろうと願っておられるのである。 MB 1132.10

憐れみある者は、「神の性質にあずかる者」である。彼らのうちに、神の慈悲深い愛があらわれている。心が無限の愛のみ心に一致するすべての者は、罪を責めるのでなく救おうと求める。心の中に住まれるキリストは、かわくことのない泉である。主が宿られるところには、いつも恩寵(おんちょう)があふれでるのである。 MB 1133.1

あやまちを犯し、誘惑に負け、欠乏と罪のうちにあるみじめな犠牲者の訴えに対して、クリスチャンは、「彼らは価値があるだろうか」とは問わない、かえって、「どうしたらわたしは彼らを助けることができるか」と尋ねる。どんなにみじめで、また、どんなに堕落した者の中にも、クリスチャンは、キリストが救おうとして死なれた魂を見、そのような魂のために、神は和解のつとめを、その子らにお与えになったことを知るのである。 MB 1133.2

憐れみある者とは、貧しい者、苦しむ者、しいたげられている者に同情をあらわす者である。ヨブはこう述べた。「これは助けを求める貧しい者を救い、また、みなしごおよび助ける人のない者を救ったからである。今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、また冠のようであった。わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となり、貧しい者の父となり、知らない人の訴えの理由を調べてやった」(ヨブ29:12~16)。 MB 1133.3

多くの人にとって、人生は苦しい戦いである。彼らは自分の無力を感じ、みじめで不信仰である。彼らは、自分が感謝するほどのものは何も持っていないと考尺ている。これらの苦闘し、よるべのない多くの者にとって、親切な言葉や、同情のまなざし、感謝の表現は、かわきにあえぐ魂への1杯の冷たい水のようになる。1つの同情の言葉、1つの親切な行為は、疲れた肩に重くのしかかっている重荷を持ち上げる。無我の親切から出るすべての言葉や行いは、失われた人類に対するキリストの愛の表現である。 MB 1133.4

憐れみ深い者は「あわれみを受けるであろう」「物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される」(箴言11:25)。慈悲深い心にはすばらしい平和があり、自分を忘れて他の人の益のために働く生涯には、祝福された満足がある。心に住み、生活に現れる聖霊は、かたくなな心を和らげ、同情とやさしさをよび起こす。あなたは、自分がまいたものを刈り取るのである。「貧しい者をかえりみる人はさいわいである。……主は彼を守って、生きながらえさせられる。彼はこの地にあって、さいわいな者と呼ばれる。あなたは彼をその敵の欲望にわたされない。主は彼をその病の床でささえられる。あなたは彼の病む時、その病をことごとくいやされる」(詩篇41:1~3)。 MB 1133.5

神の子らに仕えることで神に自分の命をささげた者は、宇宙のすべての資源を支配されるお方と連なるのである。彼の命は変わることのない約束の黄金の鎖によって、神の命と結ばれる。苦難と窮乏の時に主は彼を見捨てられない。「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ4:19)。さらに最終の窮乏の時、憐れみ深い者は、情け深い救い主の憐れみの中に、避難所を見いだす。そして、永遠の住居に受け入れられるのである。 MB 1133.6

「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」 MB 1133.7

(マタイ5:8) MB 1133.8

ユダヤ人は、儀式的なきよめに関しては実に厳格で、その規則はきわめてわずらわしいものであった。彼らの心は規則とか規定とか、外面的な汚れに対する恐れでいっぱいになっていた。それでいて、我欲や悪意が魂に与える汚点には気づかなかった。 MB 1133.9

イエスはこの儀式的きよめを、キリストの王国に人る条件の一つとしてあげずに、心の純潔の必要を指 摘された。上よりの知恵は、「第一に清」い(ヤコブ3:17)。神の都には、汚れたものは何一つ人れない。その住民となるすべてのものは、この地上で、心の清いものになっていなくてはならない。イエスに学んでいる者の中には、不注意なふるまいや、不適当な言葉や、下品な思いに対する嫌悪が徐々に強まってくる。キリストが心に住まわれる時、思いと行為が純潔になり、洗練されるのである。 MB 1133.10

しかし、「心の清い人たちは、さいわいである」とのイエスの言葉は、もっと深い意味をもっている。単に世が純潔と考える意味での純潔——肉体的なものにとらわれず、情欲に汚れていない——を言うのでなく、心のかくれた目的や動機において真実であり、誇りや利己主義から解放され、謙そんで、無我で、幼な子のような者であることを意味する。 MB 1134.1

似た者同士が理解し合えるのである。あなたが自分の生活に、主の品性の本質である自己犠牲の愛の原則を受け入れない限り、あなたは神を知ることはできない。サタンに欺かれている心は神を暴君と見、情け容赦のないお方と見る。人間の利己的な特性とサタンの特性までも、慈愛深い創造主のせいにされる。「あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った」と主は言われる(詩篇50:21)。神の摂理は専制的で、復讐的な性質の表れであると解釈される。神のめぐみの富の宝庫である聖書も、同様に解釈される。天のように高く、永遠にわたる真理の栄光も、認められないのである。人類の大多数の者にとって、キリストご自身は「かわいた土から出る根」のようであり、彼らは主の中に「慕うべき美しさ」を見ないのである(イザヤ53:2)。イエスが、人性をとった神の啓示として人々の間におられた時、律法学者やパリサイ人たちは主に向かってこう言ったのである。「あなたはサマリヤ人で、悪霊に取りつかれている」(ヨハネ8:48)。弟子たちでさえ、我欲に目がくらんでいたので、父の愛を表すために来られた主をなかなか理解しなかった。ここに、イエスが人々のただ中で孤独に歩まれた理由がある。イエスは天においてだけ、十分に理解されたのであった。 MB 1134.2

キリストが栄光のうちに来られる時、悪者は彼を見るに耐えないのである。主を愛する者にとっては命である主の臨在の光が、不敬慶な者にとっては死となる。彼らにとって主の来臨の期待は、「ただ、さばきと、……激しい火とを、恐れつつ待つこと」である(ヘブル10:27)。主が現れる時、彼らは、彼らをあがなうために死なれたお方のみ顔から隠されることを祈るのである。 MB 1134.3

しかし、聖霊の内住によってきよめられてきた心にとっては、すべてが変わってくる。これらの人々は、神を知ることができる。モーセは主の栄光があらわされた時、岩の裂け目にかくれた。わたしたちが神の愛を見るのは、キリストの中にかくれる時である。 MB 1134.4

「心の潔白を愛する者、その言葉の上品な者は、王がその友となる」(箴言22:11)。信仰によって今ここで、わたしたちは神を見る。日々その経験の中に、神の摂理のあらわれの中に、わたしたちは主のいつくしみと憐れみをはっきり知る。わたしたちはみ子の品性の中に、神を認めるのである。聖霊は神と、神がつかわされたお方に関する真理を人間が理解し、心に受け入れられるようにされるのである。心の清い者は、自分たちのあがない主として新しい関係をもって神を見る。彼らは主の品性の純潔と美しさを見ると同時に、主のみかたちを反映することを切望する、彼らは悔い改めた息子を抱きかかえようとひたすら待っている父として神を見る。そして彼らの心は、言い表せない喜びと輝く栄光に満たされるのである。 MB 1134.5

心の清い者は、その偉大なみ手のわざに、また宇宙を構成している美しい事物の中に創造主を見る。神の書かれたみことばの中に、神の憐れみ、いつくしみ、めぐみの啓示をはっきりと読むのである。知恵のある者や賢い者には隠されている真理の数々が、幼な子にあらわされるのである。この世の知者にはわからない真理の美と尊さが、神のみ心を知り行おつと、幼な子のように信頼して望む者に、たえず示されていく。わたしたちは、自分が神の性質にあずかる者となることによって、真理を見分けるのである。 MB 1134.6

心の清い者は、神が彼らにこの世で生を与えてお られる間、神が目の前におられるかのように生活する。そしてアダムがエデンにおいて、神と共に歩み、語ったように、来たるべき不死の状態において、彼らもまた顔と顔をあわせて神を見るのである。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう」(Ⅰコリント13:12)。 MB 1134.7

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」 MB 1135.1

(マタイ519) MB 1135.2

キリストは「平和の君」である(イザヤ9:6)。キリストのみわざは、罪が破壊した平和を、天と地に同復することである。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)。だれでも罪と絶縁することに同意し、キリストの愛に心を開く者は、この天の平和を持つ者となる。 MB 1135.3

これ以外に、平和の基はない。心に受け入れられたキリストのめぐみは、敵意をしずめる。それは争いをしずめ、魂に愛を満たす。神との平和また隣人との平和を保っている者は、決して不幸になることはない。彼の心には嫉妬はない。そこには、悪意の入る余地がない。憎悪も存在しえない。神と調和している心は、天の平和の共有者である。そして周囲のすべての者に、その祝福された感化を及ぼすのである。平和の精神は、世の争いに疲れ、悩む人々の心に、露のようにとどまる。 MB 1135.4

キリストに従う者たちは、平和の使信をもって世につかわされている。きよい生活の静かな無意識の感化によってキリストの愛をあらわし、ことばと行為によって、他の人に罪をすてさせ、心を神にささげるように導く者は、平和をつくり出す人である。 MB 1135.5

「平和をつくり出す人たちはさいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。平和の精神は、彼らが天と結びついている証拠である。キリストの芳しい香りが彼らをとりまいている。その生活の香り、その品性の美しさは、彼らが神の子らである事実を世に示している。人々は、彼らがイエスと共にいたことを知るのである。「すべて愛する者は、神から生れた者であ」る(Ⅰヨハネ4:7)。「もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」。しかし、「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:9、14)。 MB 1135.6

「その時ヤコブの残れる者は多くの民の中にあること、人によらず、また人の子らを待たずに主からくだる露のごとく、青草の上に降る夕立のようである」(ミ力5:7)。 MB 1135.7

「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」 MB 1135.8

(マタイ5:10) MB 1135.9

イエスは彼に従う者たちに、地上の栄誉や富を得たり、または、試練のない人生を送れるような希望をお持たせにならない。かえって主は彼らに、自己犠牲と屈辱の道を主とともに歩む特権を提供される。というのは、世が彼らを知らないからである。 MB 1135.10

失われた世界を救うためにこられたお方は、神と人類との敵の連合勢力の反対に出会われた。悪人と悪天使たちは、無情な同盟をもって平和の君に向かって陣をしいた。救い主の言葉と行いの1つ1つは、神の憐れみのあらわれであったのだが、彼が世と似ていないことが、痛烈な敵意をかき立てた。生来の悪い欲望をほしいままにするのをイエスが許されなかったので、もっとも激しい反対と敵意を引き起こすことになった。そのように、キリスト・イエスにあって敬虔に一生を送ろうとする者はすべて、同じ敵意と反対を受けるのである。義と罪、愛と憎悪、真理と誤謬の間には、抑えがたい闘争がある。人がキリストの愛と聖潔の美しさを示すならば、彼はサタンの王国の臣下を引き離しているのである。だから悪の君はそれに抵抗して立ち上がる。キリストの霊に満たされているすべての者には、迫害と非難が待ちうけて いる。迫害の性質は時代によって変わるが、その本質——その根底を流れる精神——は、アベルの時以来、主の選民を殺してきたのと同じ精神である。 MB 1135.11

人々が神と調和することを求める時、十字架のつまずきが今なお終わっていないことに気づくであろう。もろもろの支配と、権威と、天上にいる悪の霊は、天の律法に服従するすべての者に対抗して陣をしくのである。こうして迫害は、キリストの弟子にとっては、悲しみをひきおこすどころか、かえって喜びとなるはずである。なぜならそれは、彼らが主の足跡に従っている証拠だからである。 MB 1136.1

主はご自分の民が、試練をまぬかれるという約束はなさらなかったが、はるかに良いものを約束された、主は、「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」と言われた(申命記33:25)。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12:9)。もしあなたが、主のために火の燃える炉を通るように召されるならば、イエスは、バビロンの忠実な3人の青年たちと共におられたように、あなたのかたわらにおられる。あがない主を愛する者は、主とともに屈辱とそしりにあうたびに喜ぶ。彼らは、主を愛しているので、主のための苦しみを少しもいとわないのである。 MB 1136.2

すべての時代にわたって、サタンは神の民を迫害してきた。サタンは彼らを拷問にかけ、死に至らせた。しかし彼らは、死ぬことによって勝利者となった。彼らは、その不屈の信仰によって、サタンよりも強いお方をあらわした。サタンは彼らを責め、肉体を殺すことはできた。しかし、キリストとともに神のうちにかくれている命に触れることはできなかった。サタンは牢獄の中に幽閉することはできたが、その魂をしばることはできなかった。彼らは「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ8:18)。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」と叫びながら、暗黒のかなたに栄光を見ることができた(Ⅱコリント4:17)。 MB 1136.3

試練と迫害を通して、神の栄光——品性——が神の選ばれた民のうちにあらわされる。世に憎まれ、迫害される神の教会は、キリストの学校において教育され、訓練を受ける。彼らは地上の狭い道を歩き、苦難の炉で精錬される。彼らは激しい戦いの中にあってもキリストに従う。彼らは自己を犠牲にし、にがい失望を経験する。しかし彼らの苦しい経験は、罪の結果とその苦悩を教えるのである。そして、彼らは嫌悪の情をもってそれを見るのである。キリストの苦難にあずかる彼らは、キリストの栄光にあずかる者とされるのである。聖なる幻の中に預言者は神の民の勝利を見た。「またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、……勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。彼らは、神の僕モーセの歌と、小羊の歌とを歌って言った、『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります』」(黙示録15:2、3)。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう」(黙示録7:14、15)。 MB 1136.4

「人々があなたがたをののし(る)……時には、あなたがたは、さいわいである」 MB 1136.5

(マタイ5:11) MB 1136.6

サタンは堕落して以来、欺瞞(ぎまん)によって働いてきた。彼は神を偽り伝えたように、その部一下によって神の子らを誤表するのである。救い主は、「あなたをそしる者のそしりがわたしに及んだ」と仰せになる(詩篇69:9)。同じようにして、室の弟子たちの上にそしりが及ぶのである。 MB 1136.7

この世に生を受けた者の中で、人の子ほど残酷な中傷を受けた者はなかった。イエスは、神の聖なる 律法の原則に確固として従われたので、愚弄され嘲笑を受けられた。人々は理由なしに主を憎んだ。しかし主は敵の前に冷静に立ち、非難はクリスチャンの遺産の一部であると言明しておられる。また弟子たちに、いかにして悪意の矢をふせぐべきかを教え、迫害にあっても気落ちしないようにと命じておられる。 MB 1136.8

中傷は人の評判を悪くすることはできるが、品性に汚点をつけることはできない。それは神の守りのうちにあるのである。わたしたちが罪に同意しない限り、人間でもサタンでも、魂に汚点をつける力はない。神に信頼している人は、どんな苦しい試練、どんな絶望的な状況にあっても、以前自分が繁栄していて、神の光とめぐみに浴していると思えた時と、全く変わらないのである。彼の言葉も、動機も、行動も、誤解され曲解される。しかし彼は、もっと重大な事がらに関心をもつのでそれを気にしない。モーセと同じく、彼は「見えないかたを見ているようにして」(ヘブル11:27)「見えるものにではなく、見えないものに目を注」いで忍ぶのである(Ⅱコリント4:18)。 MB 1137.1

キリストは人に誤解され、悪い評判を立てられているすべての者を知っておられる。神の子らはどんなにそしられ、軽蔑されても、冷静な忍耐と信頼をもって待つことができる。なぜなら秘密にされているもので、明るみに出ないものはなく、神をあがめる者は、人と天使たちの前で神から光栄を与えられるからである。 MB 1137.2

イエスは、「人々があなたがたをののしり、また迫害する時は」「喜び、よろこべ」と言われた。そして主は聴衆に「苦しみを耐え忍ぶ……模範」として(ヤコブ5:10)、主のみ名によって語った預言者たちを示しておられる。アダムの子らのうち、一番はじめのクリスチャンであったアベルは、殉教の死を遂げた。エノクは神とともに歩んだが、世は彼を知らなかった。ノアは狂信者、世を騒がせる者と嘲笑された。「なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った」「ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった」(ヘブル11:36、35)。 MB 1137.3

どの時代にも、神が選ばれた使者たちは、ののしられ、迫害された。しかしその苦難を通して、神の知識が広まったのである。キリストの弟子はみなこの列に加わり、預言者たちと同じ働きを推し進めなければならない。そして敵は、真理に逆らっては何一つなし得ず、むしろ真理のためになっていることを覚えるべきである。侮辱のことばが浴びせられても、神は真理が前面に出され、検討と論議の主題になるよう意図しておられる。人々の心を、ゆり動かさなければならない。あらゆる論争、あらゆる非難、良心の自由を束縛するあらゆる企ては、ともすれば眠りをむさぼりがちな人心を、目覚めさせる神の手段である。 MB 1137.4

このような結果は、神の使者たちの生涯の中に何度もみられた、かの高貴で雄弁なステパノがサンヒドリン議会の扇動によって石で打ち殺された時、福音事業は何らの損失もこうむらなかった。ステパノの顔に輝いた天の光と、彼の臨終の時の祈りに聞かれた神のような憐れみなどは、そこに立っていた頑迷な一議員の罪を指摘する鋭い矢のようなものであった。こうして迫害者のパリサイ人サウロは、異邦人や、王たちやイスラエルの子らにキリストの名をもたらす選びの器となったのである。 MB 1137.5

それからずっと後になって、年老いたパウロは、ローマの牢獄からこのように書いた。「わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、……一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者が(いる)。……見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリスト(である)」(ピリピ1:17、豆5、18)。パウロの投獄によって、福音は広まった。カイザルの宮殿の中でさえ、魂がキリストへ導かれた。「神の変ることのない生ける御言」の「朽ちない種」は、それを撲滅しようとするサタンの働きによって、人々の心にまかれる(Ⅰペテロ1:23)。神の子らをそしり、迫害することによって、キリストのみ名があがめられ、魂は救われるのである。 MB 1137.6

迫害とそしりによってキリストのための証人となる 者の、天において受ける報いは非常に大きい。人々は地上の幸福を求めているが、イエスは彼らに天の報いをさし示される。しかしイエスは、何もかも来世に置くことはなさらない。報いは、この地上から始まるのである。主は昔アブラハムにあらわれて、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」(創世記15:1)と言われた。これは、キリストに従うすべての者が受ける報いである。エホバ・インマヌエルは——「知恵と知識との宝が、いっさい隠され」「満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿って」いるお方である(コロサイ2:3、9)。そしてわたしたちが、宝の性質を受けようとますます心を開くにつれて主と一つになり、主を知り、主をわがものとするようになる。また主の愛と力を知り、キリストのはかり知れない富を持ち、「また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされ」「その広さ、長さ、高さ、深さ」をますます理解するようになるのである(エペソ3:19、18)、——「これが主のしもべらの受ける嗣業であり、また彼らがわたしから受ける義である」と主は言われる(イザヤ54:17)。 MB 1137.7

ピリピの獄中で、パウロとシラスが真夜中に神に祈り、神を賛美した時、彼らの心を満たしたのはこの喜びであった。キリストは彼らのそばにおられ、主の臨在の光は天の宮の栄光をもって暗やみを照らした。ローマから福音の進展を見たパウロは、捕らわれの身であることも忘れて、「わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」と書き送った(ピリピ1:18)。山上の、キリストのことばがそのまま、迫害のさ中にあるピリピ教会へ書き送ったパウロの使信の中に反響している。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」と(ピリピ4:4)。 MB 1138.1

「あなたがたは、地の塩である」 MB 1138.2

(マタイ513) MB 1138.3

塩は、保存の性質があるので尊重される。そして、神は神の子らを、塩と呼ばれるのである。神が彼らを、神のめぐみにあずかるものとなさったのは、他の人々を救う器にするためであることを、教えようと望まれたのである。全世界の中から一つの民を選ばれた神の目的は、彼らを神の息子、娘とすることだけでなく、彼らを通して、救いをもたらす恵みを世界が受けるためである(テトス2:11参照)。主は単に、アブラハムを神の特別な友とするためばかりではなく、主が、国々に与えようと望まれた特権を取り次ぐ者とするために、彼を選ばれたのである。イエスは十字架におかかりになる前、弟子たちとともになされた最後の祈りの中で、「彼らが真理によって聖別されろように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」とお祈りになった(ヨハネ17:19)。同様に、真理によってきよめられたクリスチャンは、世が道徳的に腐敗しきってしまわないようにする保存力をもつのである。 MB 1138.4

塩は、それを加えた物質とよく混ぜねばならない、保存するためには、塩は浸透しなければならない。そのように、人々に福音の救済の力が及ぶのは、個人的な接触と交わりによってである。人々は集団としてではなく、個人として救われるのである。個人的な感化には力がある。わたしたちは、益を与えたいと思う人に近づいて行かなければならない。 MB 1138.5

塩の味はクリスチャンの活力——心にあるイエスの愛、生活に浸透するキリストの義——をあらわす。キリストの愛はひろがり、くい込む性質がある。それがわたしたちのうちに宿る時、他の人々に向かってあふれでるのである。わたしたちは、人々の心がわたしたちの無我の関心と愛によって暖められるまで、彼らと親しくなるべきである。誠実な信徒は生きた活力を発散する。それは、彼らが働きかける相手の魂の中にしみ込んで、新しい道徳的な力を与える。品性を変える働きをするのは、人間の力ではなく聖霊の力である。 MB 1138.6

イエスは厳粛な警告をしておられる、「もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たずただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」(マタイ 5:13)。 MB 1138.7

キリストのみことばを聞いていた人々は、味を失って役に立たなくなったので外に捨てられた塩が、道ばたで白く光っているのを目にしていた。それはパリサイ人の状態と、彼らの宗教が社会に及ぼす影響とをよくあらわしていた。またそれは神のめぐみの力が去って、冷たくキリストなき者となった、すべての人の生活を示すものである。口では何と言おうと、そのような人は、人と天使から味のない、不快なものと見られる。キリストが「あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいのであなたを口から吐き出そう」と言われたのは、そのような人に対してである(黙示録3:15、16)。 MB 1139.1

キリストを個人的救い主として信じる生きた信仰なしに、懐疑的な世界にわたしたちの感化を及ぼすことは不可能である。わたしたちは、自分で持っていないものを他人に与えることはできない。わたしたちはキリストに自分をささげればささげるほど、人類の祝福と向上のために大きい感化を及ぼすのである。実際の奉仕、純粋な愛、現実の体験がないところに、他人を助ける能力も、天との結合も、生活の中におけるキリストの味もないのである。イエスのうちにある真理を世に伝える器として、わたしたちが聖霊に用いていただかない限り、わたしたちは味を失った塩のようで、全く値打ちのないものである。キリストのめぐみに欠けることによって、わたしたちが信じると主張する真理は何らきよめる力をもたないことを、わたしたちは世に立証するのである。こうしてわたしたちの影響が及ぶ限りにおいて、神のみことばの力を無にしてしまう。「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鏡鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である」(Ⅰコリント13:1~3)。 MB 1139.2

愛が心を満たすと、それは他の人々に向かってあふれでる。それはその人々から親切にされたからではなく、愛が行為の原則であるからである。愛は品性を変え、衝動を支配し、敵意を押え、愛情を高尚にする。この愛は宇宙のように広く、天使たちの愛と調和する。その愛を心に抱けば全生涯を美しくし、まわりのすべての者にその祝福を注ぐ。わたしたちを地の塩とするのは、これである。ただこれだけなのである。 MB 1139.3

「あなたがたは、世の光である」 MB 1139.4

(マタイ514) MB 1139.5

イエスは人々を教えられた時、たびたび周囲の自然界からたとえをひき、それによって教えを興昧深くし、聴衆の注目を集められた。人々は朝早くから集まっていた。輝かしい太陽は、谷間や山の小道にひそんでいる影を追い出しながら、次第に青空にのぼっていく。東の空には、まだ紅が消えないでいる。朝の光はきらきらと山野にみなぎり、鏡のように静かな湖水の面は黄金の光を反映し、バラ色の朝雲をうつしていた。どのつぼみも花も小枝も、朝露に光っていた。自然は新しい日の祝福にほほえみ、鳥は木々の小枝で楽しく歌っていた。救い主は目の前の群衆をごらんになり、目を転じて上ってくる太陽を見て、弟子たちに、「あなたがたは、世の光である」と言われた。太陽が夜の陰を追い払い、世界を命に目ざめさせながら愛の使いをはたしていくように、キリストに従う者たちは、誤謬と罪の暗黒の中にいる人々に天の光をまき散らしながら、自分の使命を果たすために出て行かなければならない。 MB 1139.6

輝かしい朝の光の中に、周囲の丘に点在する町々や村々がくっきりと浮かびでた、その光景は八々の注目を引き付けずにはいなかった。イエスはその町々を指さして、「山の上にある町は隠れることができない」と言われた。イエスは、さらにつけ加えて「また、 あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである」と言われた。イエスのみことばに耳を傾けていた者の大多数は農夫や漁師であった。彼らの粗末な家には1つの部屋しかなく、1つのあかりが燭台の上にあって、家の中のすべてのものを照らしていた。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とイエスは教えられた(マタイ5:14~16)。 MB 1139.7

キリストから輝きでる光のほかには、堕落した人類を照らす光は、過去にもなかったし、またこれからも決してないのである。救い主イエスは、罪のうちにある世の暗黒を照らす唯一の光である。キリストについて、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」と書かれている(ヨハネ1:4)。主の命を受けることによってのみ、主の弟子たちは光を掲げる者となることができたのである。魂のうちにあるキリストの命、品性にあらわされたキリストの愛が、彼らを世の光としたのである。 MB 1140.1

人類は、それ自身のうちに光をもっていない。キリストから離れるならば、わたしたちは、火がともっていない灯心のようであり、太陽に顔をそむけた月のようである。したがって暗い世界にただ一筋の光を与えることもできない。しかし、わたしたちが義の太陽に向かい、キリストと接触する時、神の臨在の輝きによって心が全く燃やされるのである。 MB 1140.2

キリストの弟子は、人々の間にある1つの光以上のものでなければならない。彼らは世の光である。イエスは、ご自分の名をもって呼ばれるすべての者に向かって、あなたがたはわたしに心をささげた、そこでわたしはあなたがたをわたしの代表者として世に与えたのだと仰せになる。父なる神がみ子を世につかわされたように、「わたしも彼らを世につかわしました」と主は言われる(ヨハネ17:18)。、キリストが父なる神を啓示するチャンネルであるように、わたしたちは、キリストを世にあらわすチャンネルでなければならない、クリスチャンよ、救い主は大いなる光の源であられると同時に、人間を通してこの世にご自身をあらわされることを忘れないでほしい。神の祝福は、人間の器を通して与えられる。キリストご自身も、人の子として世界にこられたのである。神性と結合した人性が、人間に接触しなければならない、主の個々の弟子からなるキリストの教会は、人々に神を啓示するために、天が定めたチャンネルである。光の天使は滅びるばかりの魂に、天の光と力をあなたを通して与えようと待ちうけているのである。人間の器が命じられた働きに、失敗したらどうであろうああ、その時、この世界は、約束された聖霊の感化をそれだけ失うことになるのである。 MB 1140.3

しかしイエスは弟子たちに、「あなたがたの光を輝かすために努力せよ」とはお命じにならなかった。イエスは「それを輝かせよ」と言われたのである。キリストが心に宿られるならば、その臨在の光をかくすことは不可能である。もしキリストの弟子であると白称する者が世の光でないなら、それは生きた力が彼らから去ったためである。また、もし彼らが与えるべき光をもっていないなら、それは彼らが光の源であるお方と結合していないからである。 MB 1140.4

どの時代においても、「彼ら……のうちにいますキリストの霊」は、神の真の子らをその時代の人々の光とした(Ⅰペテロ1:11)。ヨセブはエジプトにおいて、光を掲げる者であった。彼の純潔、慈愛、親を思う愛は偶{象教国のただ中でキリストをあらわした。イスラエル人がエジプトから約束の地へ行く道中、彼らの中の真心をもった人々は、周囲の国々の光であった。彼らを通して神は世にあらわされた。バビロンではダエルとその友らが、ペルシャではモルデカイが暗い王宮に輝かしい光を放った。 MB 1140.5

同じように、キリストの弟子たちは、天へ向かう途上で光を掲げる者として置かれている。神について誤った考えをもち、暗黒に閉ざされている世界に、彼らを通して父なる神の憐れみといつくしみがあらわされるのである。彼らのよい行いを目撃して、他の人々は、天にいます父をあがめるようになる。実に賛美さ れるにふさわしく、また、その姿に似るにふさわしい品性をお持ちになっている神が、宇宙の王座にいますことが明らかにされたからである。心に燃える神の愛、生活にあらわれるキリストのような調和は、世の人々が天のすぐれたところであることを知るように与えられた、天のかすかなあらわれにほかならない。 MB 1140.6

こうして人々は、「神がわたしたちに対して持っておられる愛を信じる」ように導かれるのである(Ⅰヨハネ4:16)、こうしてかつては罪深く、堕落していた魂は変えられ、「その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに」立たせられるのである(ユダ24)。 MB 1141.1

「あなたがたは、世の光である」との救い主のみことばは、主の弟子たちに世界的任務がゆだねられた事実を示している。キリストの時代には、神のみことばの守り手に任じられた者たちと、地球上の他のすべての国々との間に、利己毛義、高慢、偏見が、強く高い障壁を築いていた。しかし救い主は、このすべてを変えるために来られたのである。人々が主の口から聞いた言葉は、彼らが今まで祭司やラビから聞いてきたことと全く違っていた。キリストはへだての壁、利己主義、国民と国民をへだてる偏見を打破し、人類家族全体に対する愛をお教えになっている。主は利己主義が規定する狭い囲いから人々を引きあげ1すべての国境線や社会の人為的な差別を廃される、主は隣人と見知らぬ他人、また友人と敵の区別をなくされる。そしてわたしたちに、すべての困窮者を隣人と見、世界をわたしたちの伝道地とみなすようにお教えになっている。 MB 1141.2

太陽の光が地のどんな片すみにもさし込むように、福音の光が地に住むすべての魂にまで及ぶように、神は計画しておられる。キリストの教会が主の目的をなしとげていたならば、暗黒の中に座し、死の地と死の陰にいるすべての者の上に光が注がれたことであろう。ひとところに集まってしまって、責任と十字架を負うことを避けるかわりに、教会員はすべての国にちらばり、キリストの光を輝かし、また魂の救いのために主が働かれたように働いて、この「み国の福音」はすみやかに全世界に伝えられたにちがいないのである。 MB 1141.3

神がメソポタミヤの平原からアブラハムを召されてから、今日わたしたちを召されるまで、神の召しの日的は、みわざの達成されることである。「わたしは……あなたを祝福し、……あなたは祝福の基となるであろう」と神は言われた(創世記12:2)。「起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから」(イザヤ60:1)、福音の預言者イザヤを通して語られたキリストのみことばは、山上の説教に反響しているにすぎないのであるが、このみことばは、終わりの時代に住むわたしたちのために語られたのである。もしあなたの心に宅の栄光がのぼり、あなたが万人にぬきんでる主の美しさ、美しさの極みであるおかたを見、あなたの魂が一}三の臨在の栄光によって輝くようになったら、この言葉は主からあなたに送られているのである。あなたはキリストとともに変貌の山に立っただろうか。山のふもとにはサタンに捕らわれた多くの魂がいる。彼らは、自分たちを解放してくれる信仰と祈りのことばを待ちわびているのである。 MB 1141.4

わたしたちはキリストの栄光を瞑想するだけでなく、主がいかにすぐれているお方であるかを語るべきである。イザヤはキリストの栄光を見たばかりでなく、キリストについて語った。ダビデは瞑想しているうちに心が燃え、その舌をもって語った。彼が神のおどろくべき愛を瞑想した時、自分が見たり感じたりしたことを話さずにいることはできなかった。信仰をもって、贖罪のすばらしい計画や、神のひとり子の栄光を見ながら、それを語らない者があるだろうか。わたしたちが滅びないで、永遠の命を得るように、キリストがカルバリーの十字架上に死んであらわされた測りしれない愛を瞑想し、凝視しながら、救い主の栄光を賛美することばを持っていないという者があるだろうか。 MB 1141.5

「その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、『栄光』と」(詩篇29:9)。イスラエルの歌い手は琴に合わせ、美しい声で主を賛美した、「わたしはあな たの威厳の光栄ある輝きと、あなたのくすしきみわざとを深く思います。人々はあなたの恐るべきはたらきの勢いを語り、わたしはあなたの大いなることを宣べ伝えます」(詩篇145:5、6)。 MB 1141.6

カルバリーの十字架は人々の上に高く掲げられ、それに、人々の心がひきつけられ、彼らの思いが集中させられなければならない。その時、すべての霊的機能は神からの直接の力に満たされる。そして、全力をあげて主のための真の働きに集中するのである。働き人たちは地を照らす生きた器として、世界に光の流れを送るのである。 MB 1142.1

キリストはどんなに喜んで、主に心をささげる人間の器をお受けになることであろう。主はご自分のうちに具体化された愛の奥義を世に伝えるために、人を神と結合させられるのである。それを語ろう。それについて祈ろう。それを歌おう。主の栄光の使命を広く宣べ伝え、地の果てまで押し進めよう。 MB 1142.2

忍耐強く耐えた試練、感謝して受けた祝福、おおしく退けた誘惑、柔和、親切、憐れみ、習慣となった愛は、品性に輝く光であり、命の光がさし込んだことのない利己心の暗さときわめて対照的である。 MB 1142.3