キリストへの道

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疑いをいかにすべきか

多くの人、ことにまだ信仰に入って日の浅い人々は、心に疑惑をいだいで悩むことがあります。聖書の中には説明のできないこと、また理解に苦しむことが多くありますので、悪魔はそれらを用いて、聖書は神の啓示であるとの信仰を揺り動かそうとします。彼らは「どうすれば私は正しい道を知ることができましょう。もし聖書が本当に神のみ言葉であるとすれば、私は、どうすればこのような疑いと困難な問題から救われることができるでしょうか」と尋ねます。 SC 1972.1

神は、私たちに、信仰の基礎を置くに足る証拠を十分与えられた上でなければ、信じるようにはお求めになりません。神の存在も、品性も、また、み言葉の真実性もみな、私たちの理性に訴えるあかし、しかも多くのそうしたあかしによって確立されています。けれども、神は、疑う余地を全く取り除かれたのではありません。私たちの信仰は、外見的なものの上に築くのではなく、証拠の上に築くのでなければなりません。疑おうと思う者には疑うことができますが本当に真理を知りたいと求めている人は、信仰の基礎となる十分の証拠を発見することができます。 SC 1972.2

限りある心をもって、限りなき神のご性質やみわざを十分に悟ることは不可能です。どんなに鋭い知能の持ち主でも、どれほど教育を受けた人にとっても、聖なる神は神秘に包まれてよくわからないのです。「あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府(よみ)よりも深い、あなたは何を知りうるか」(ヨブ11:7、8)。 SC 1972.3

使徒パウロは「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ローマ11:33)と言っています。しかしたとえ、「雲と暗やみとはそのまわりに」あっても「義と正とはそのみくらの基である」(詩篇97:2)のです。 SC 1972.4

こうして私たちは神が私たちを扱われる方法、またなぜそうされたかというみ旨を理解して、無隈のみ力に限りなき愛とあわれみが結びついているのを認めることができますし、また私たちの益であるかぎり神の目的を知ることができますが、それ以上は全能者のみ手と愛のみ心に一任しなければなりません。 SC 1972.5

神のみ言葉には、その著者である神のご性質と同じく、限りある人間には十分に理解できない神秘があります。罪がこの世に入ったこと、キリストの受肉、新生、復活、その他、聖書に記されている多くの問題は、きわめて深い神秘ですから、とうてい人間の頭脳では説明することも、十分に理解することもできないのです。けれども神の摂理の奥義を了解できないからといって、神のみ言葉を疑う何の理由にもなりません。自然界においても私たちのわからない不思議なことがいつも身のまわりに起こっています。最も下等な生物についてさえ、どんなに賢明な哲学者でも説明に苦しむ問題を投げかけています。どこを見ても、私たちの理解し得ない驚異があるのですから、霊界において私たちの測り知ることができない不思議があるからといって驚くことはないではありませんか。問題はただ、人の知力が弱く見解が狭いことにあるのです、神は聖書の中に聖書が神よりのものである証拠を十分与えておいでになるのですから、神の摂理をことごとく了解できないからといってみ言葉を疑ってはなりません。 SC 1972.6

使徒ペテロは、聖書の中には「わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」(ⅠIペテロ3:16)と言っています、聖書の難解なことが懐疑論者の聖書の攻撃の論題となっていますが、このことはかえって聖書が神の霊感によるものであるという強い証拠です。もし聖書の神についての記録がわかりやすいことばかりで、神の偉大さと崇高さが限りある心で理解できるとするならば、聖書は間違いなく神よりのものであるという証拠はなくなるのです。 SC 1972.7

聖書に示されている主題が大きく神秘的であるということが、神のみ言葉であるとの信仰を起こすべき です。聖書は単純に真理を説明し、どんな人の心の必要と欲求にも答えることができるので、最高の教養ある人を驚かせてひきつけると同時に、何の教養もない卑しい者にも、救いの道を知らせることができるのです。とはいえ、この単純に述べられた真理は、実に高尚深遠な問題をとらえ、人間の理解力のとうてい及ばないものですが、神がそのように述べられたという根拠においてのみ、それをそのまま受け人れることができるのです。こうして階罪が明らかに示されていますから、誰でも神に向かって悔い改め、主イエス・キリストを信じ、神の定められた方法に従って救われるために進む道を知ることができるのです、しかし、このようにやさしく理解できる真理のかげに神秘がひそみ、見えざる神の栄光を物語っていま寅この神秘は、研究する者の心を圧倒するのですが、真面目に真理を求めている人には敬虔と信仰の念を起こさせます、そして、聖書を研究すればするほど、それが生ける神のみ言葉であるという確信が深められ、人間の理性は偉大なる神の啓示の前にひれ伏すほかないのです。 SC 1972.8

聖書の偉大な真理を十分に理解することができないと認めることは、限りある人知は無限を悟るに不十分であるということを認めるのです、つまり、人間は、限られた知識をもっては全能者の目的を悟ることはできないというのです。 SC 1973.1

懐疑論者や無神論者は、すべての神秘を測り知ることができないという理由のもとに、神のみ言葉を否定しています。そして聖書を信じると公言する者でさえ、こうした危険に陥らないとも限りません。使徒は「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない」(ヘブル3:12)と申しました。聖書の教えを詳しく調べ、聖書に示されているかぎり「神の深みまで」(Ⅰコリント2:10)探ることは正しいことですが、「隠れた事はわれわれの神、主に属するもの」であり「表わされたことは長くわれわれ……に属」(申命記29:29)するものです。けれども、悪魔は人の研究心を曲げようと働いています。 SC 1973.2

聖書の真理を研究するにあたって、一種の誇りが起こり、聖書のすべての点を自分の満足できるまで説明できないと短気をおこし失望する人があります。彼らは、霊感によるみ言葉を理解することができないと自ら認めることは、ひどく屈辱であると考えます。そして、神が適当なときにその真理を示されるまで忍耐して待とうとしません。また、なんの援助もなく、人間の知恵だけで十分聖書を理解することができると考え、それができないとなると実際に聖書の権威を否定してしまいます。もっとも、世に聖書の教理として一般に信じられているものの中には、聖書にそのような根拠を全く持たないばかりか、かえって神の示された主旨と正反対のものも少なくありません。こうしたことが、多くの人たちに疑いを起こさせ困らせているのです。しかし、これは神のみ言葉のせいではなくみ言葉を曲解した人間のせいです。 SC 1973.3

もし、造られたものが、神とそのみわざをことごとく理解することができて、そこまで到達するのであれば、それ以上の真理の発見もなければ、知識の成長もなく、頭脳や心の発達もやんでしまいます、そうなれば、神はもはや至上者でなくなり、知識と学識に到達した人類には、進歩の余地は無くなるでしょう。しかし、そうでないことを神に感謝せねばなりません。神は無限です。神に「知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」(コロサイ2:3)とあります。そして、人は永遠に求め学び続けても、神の知恵、神の慈悲、神の力の財宝は決して尽きることはないのです。 SC 1973.4

神は、この世でさえ、そのみ言葉の真理をいつもその民にあらわしたいと望んでおられますが、この知識を得る道はただ一つしかありません。み言葉は聖霊によって与えられたのですから、その聖霊の光に照らされてはじめて、み言葉を理解することができます。「神の思いも、神の御霊以外には知るものはない」「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」(Ⅰコリント2:11、10)。また、救い主は弟子たちに「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう ……わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:13、14)とお約束なさいました。 SC 1973.5

神は、人間が理性の力を働かせるように望まれます。聖書の研究は、ほかのどんな研究にもまさって知力を強め高尚にします。しかし、理性を偶像化しないように気をつけねばなりません。これは弱い人間にありがちなことです、聖書が難しくて理解できないとかごく明白な真理でさえも理解できないなどということがないようにするには、どうしても、幼な子のような単純な信仰をもち、教えられる気持ちで聖霊の助けを求めなければなりません。神のカと知恵を悟り、神の偉大さはとうてい私たちには理解できないことを知れば、それは私たちを謙遜にし、ただ聖書を開く時でさえ神の面前に出るかのような、うやうやしい気持ちにさせるのです。聖書を学ぶにあたっては、そこに私たちの理性以上の権威を認め、心も知能も「わたしにある」と言われた偉大なる神のみ前にひざまずかねばなりません。 SC 1974.1

一見、聖書には、難しく、不明瞭なことが多いのですが、神は、それを理解しようと求める人々には、わかりやすく単純にしてくださいます。けれども、聖霊の導きがなければ、聖書の意味を曲解したり、誤解したりする危険があります。聖書を読んでも何の益も受けず、かえってそれによって大きな害をこうむっている人々もあります。敬虔な心と祈りがなくて神のみ言葉を開いたり、思いと愛情が神に向いていなかったり、または、神のみ心に調和しないでいると、心は疑惑の雲でおおわれ聖書研究をしていながら、懐疑心が強められるのです。敵が思想を支配して正しくない解釈を暗示します。人が言葉にも行いにも神と一致しようと求めていなければ、いくら教育ある人であっても聖書の解釈を誤りやすくなりますから、彼らの解釈をあてにしては危険です。矛盾を見いだそうと思って聖書を探る人は、霊の目がまだ開かれていない人です偏見をもって見るので、実はわかりやすく単純な事柄でも何かと理屈を言って疑い、信じようとしないのです。 SC 1974.2

いろいろの仮面をかぶってはいますが、疑いと不信の真の原因は、たいていの場合、罪を愛することにあります。神のみ言葉の教えと訓戒は高慢な罪を愛する人々には歓迎されません。 SC 1974.3

神の要求に従うことを喜ばない者は、み言葉の権威をすぐ疑うのです。真理に到達するには真理を知りたいという真面目な望みをもって、それに喜んで従わなければなりません。こうした精神で聖書を研究する人は聖書が神のみ言葉であるという証拠を多く見いだし、その真理を理解し会得して救いに至るのです。 SC 1974.4

キリストは「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」(ヨハネ7:17)と言われました。わからないことを疑ったり、理屈を並べたりしないで、すでに与えられている光に従うならば、さらに大きな光が与えられるのです。はっきりと理解できた義務をすべてキリストの恵みによって実行すれば、今では疑いを持っていることも理解できて、実行することができるようになります。 SC 1974.5

最高の教育を受けた者にも、最も無学な者にも、はっきり示される証拠は経験という確証です。神はみ言葉の真実なこと、み約束の真実であることを私たち自らが試してみるようにと言われました。神は私たちに「主の恵みふかきことを味わい知れ」(詩篇34:8)とお命じになりました。ほかの人の言葉に頼らないで、自分で味わってみなければなりません。神は「求めなさい、そうすれば、与えられるであろう」(ヨハネ16:24)とおっしゃるのですから、この約束を間違いなく果たしてくださいます。神の約束は今まで違ったこともなければ、これからも違うことはありませんそして私たちがイエスに近づき、イエスのあふれる愛にひたるとき、イエスの臨在の光に私たちの疑いも暗きも消え去ってしまうのです。 SC 1974.6

使徒パウロは、神は「わたしたちをやみの力から救い出して、その愛するみ子の支配下に移してくださった」(コロサイ1:13)と言いました。そして死より 生へ移った人々は誰でも「神がまことであることを、たしかに認めたのである」(ヨハネ3:33)とすることができるのです。そして、その人はあかしして言います。 SC 1974.7

「私には助けが必要でしたが、その助けは、イエスから与えられました。すべての欠乏は補われ、魂の飢えは満たされました。今では、聖書は私にとってイエス・キリストの啓示となりました、私がどうしてイエスを信じろかとお尋ねになりますか。それは、イエスは私にとっては天よりの救い主であるからですどうして私が聖書を信じるかといえば、それは、聖書が私の魂にとって神のみ声であることがわかったからです」と。私たちは体験によって聖書は真実であり、キリストは神の子であるということをあかしすることができます。そして、巧みな作り話を信じているのではないということを知ることができるのです。 SC 1975.1

ペテロは、「わたしたちの主また救い主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」(Ⅱペテロ3:18)と言いました。神の民は、神の恵みのうちに成長するにつれて、神のみ言葉をますます明瞭に理解することができるようになります。そして、聖なる真理に新しい光と美を認めるのです。これは各時代の教会史を通じて歴史が証明していますが、なお終末までこうして継続するのです。「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」(箴言4:18)。 SC 1975.2

私たちは、信仰によって将来をながめます。そして、人間の機能が神と結合し、魂のあらゆる能力が光の源と直接に触れ合うとき、神の約束されたように知能が伸びることを信じます、その時、神のみ摂理のうちに私たちが悩んだことはみな明らかにされ、わからなかったことも説明ができるようになります。そして、私たちの限りある心では、ただ混乱と矛盾ばかりであったところに、最も完全な美と調和を見ることでしょう。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう……しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう」(Ⅰコリント13:12)。 SC 1975.3