キリストへの道

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祈りの特権

神は、自然と啓示、摂理、および聖霊の感化を通して私たちに語られます。しかしそれだけでは十分でありません。私たちも、また、神に心を注ぎ出す必要があります。霊的生命と力を得るためには、私たちの天の父と実際に交わらねばなりません。私たちは、心が神に引かれ、神のみわざ、あわれみ、祝福などを瞑想するでしょうが、これは、十分な意味での神との交わりではありません。神と交わるためには、私たちの実生活について何か神に話すことがなければなりません。 SC 1967.1

祈りとは、友だちに語るように、心を神に打ち明けることです。これは何も私たちがどんなものであるかを神に知らせる必要があるからではなく、私たちが神を受け入れるのに必要だからで糞祈りは、神を私たちにまで呼びおろすのではなく、私たちを神の許へひき上げるのです。 SC 1967.2

イエスは、この世においでになったとき、弟子たちに祈る方法をお教えになり、毎日の必要を神に求め、どんな心配事もみな神に任せるようにお教えになりました。そして、彼らの祈りは必ず聞かれるという保証をお与えになりましたが、それはまた、私たちに対する保証です。 SC 1967.3

イエスご自身も、この世に住んでいおられた時よく祈られました。救い主は御自ら、私たちと同じように、欠乏と弱さを覚えて、義務と試練に耐え得る新しい力を天父より受けるために、熱心に祈り求める者となりました。彼は、すべてのことにおいて私たちの模範です、彼は、弱き私たちの兄弟となり「すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われ」ました。しかし、罪なき方でしたので、そのご性格が悪を退けたのでした。彼は罪の世にあって、激しい心の戦いと苦悩に耐えました。彼の人間性は祈りを必要とし、また特権としました。イエスは、父なる神と交わって慰めと喜びをお受けになりました。もし人類の救い主である神の子でさえ、祈りの必要をお感じになったのであるならば、弱い罪深い人間には、どれほど熱心な、絶えざる祈りがなければならないことでしょう。 SC 1967.4

私たちの天の父は、あふれるばかり祝福を私たちに与えたいと待っておいでになります。限りなき愛の泉のほとりで思う存分飲むことは、私たちの特権です。それなのに私たちが少ししか祈らないのは、なんと不思議なことでしょう。神は、その子らのどんな卑しい者であっても、心からの祈りにはいつでも耳を傾けようとしておいでになりますそれにもかかわらず、私たちの方で私たちの要求をなかなか神に告げようとしない有様で寅神は、限りない愛をもって人類をみ心にかけ、いつでも私たちが求めたり思ったりする以上に与えようとしておいでになるのに、誘惑にさらされている哀れな力なき人間が格別祈ることにも努めず、信仰うすき様をみて天使たちはいったいどう思うことでしよう。天使は神のみ前にひざまずき、神のみぞばにはべることを好み、神と交わることをこの上ない喜びとしています。それなのに、神のほか与えることのできない助けを最も必要としている地上の子らが、聖霊の光も神の臨在も仰がず、満足して日を送っているように思われるのです。 SC 1967.5

悪魔は、祈りをおろそかにする者を暗黒に閉ざし、誘惑の言葉をささやいて罪へおびき入れます。それというのも、ただ私たちが、神の定められた祈りの特権を用いないからです、祈りは、全能の神の無限の資財が蓄えられてある天の倉を開く信仰の手に握られた鍵です。それにもかかわらず、神の子らは、なぜ祈りをおろそかにするのでしょう。つねに祈り、忠実に見張っていなければ、私たちは次第に不注意になって、正しい道からそれる危険があります。敵は恵みのみ座への道を遮って、私たちが熱心な祈祷と信仰によって、誘惑に耐え得る恵みと力を受けることができないように絶えず働いています。 SC 1967.6

神が私たちの祈りを聞き、それに答えるには淀の条件があります。まず第一に、私たちは、神の助けが必要なことを感じなければなりません。神は「わ たしは、かわいた地に水を注ぎ、干からびた地に流れをそそぎ」(イザヤ44:3)と約束しておいでになります、飢えかわくごとくに義を慕い、神を慕う者は必ず満たされるのです。聖霊の感化を受け入れることができるように心を開かなければ、神の祝福を受け入れることはできません。 SC 1967.7

私たちが大いに必要としていることそれ自体が、動かすべからざる理由であり、私たちのために最も雄弁に語ってくれます。けれども私たちは、こうした必要を満たし得るものとして神を求めなければなりません一彼は「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)と言われます。また「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、み子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)とも言われています。 SC 1968.1

もし、心に不義のあることを知り、罪と知りながらそれに執着しているならば、主は、私たちの祈りに耳を傾けられません。けれども、心の砕けた悔い改めた者の祈りは、必ず聞かれるのです。心に覚えのある悪をすべて正したときに、神は私たちの祈りを聞いてくださると信じることができます。私たち自身のどんな行為も、神の恵みを受けるにはなんの価値もありません。私たちを救うのはイエスの功績であって、私たちを清めるのもイエスの血です。しかし受け入れられるには、私たちもしなければならないことがあります。 SC 1968.2

力ある祈りのもう1つの要素は信仰です。「神に来たる者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」(ヘブル11:6)。イエスも「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)と弟子たちに言われました。私たちは、み言葉をこの通り受け人れているでしょうか。 SC 1968.3

この保証は広大無辺ですが、誠実な神のみ約束です。私たちが祈ったときに求めた通りのものが与えられなかったとしても、主は私たちの祈りを聞き、これに答えてくださることを信じなければなりません。私たちは間違いが多く、先を見ることができませんので自分の祝福にもならないことを願うことがよくあります。けれども天の父は、愛のうちにその祈りに答え、私たちのため最も良いものをお与えになります。それは、もし私たちが天よりの光に目が開かれ、すべてのもののありのままの姿をながめることができたならば、私たち自身も必ず求めるものです。私たちの祈りが聞かれないように見える時も、み約束にかたく頼らねばなりません。 SC 1968.4

なぜならば、祈りが答えられる時が必ずきて、私たちが最も必要とする祝福を受けることができるからです。けれども、祈りはいつも私たちが望むままに答えられ、または、望んでいるそのものが必ず与えられると考えるのは、独断もはなはだしいことです。知恵に満ちる神は、決して誤ることなく、また、正しく歩む者に良きものを拒むこともありません。ですから、たとえ祈りがすぐ答えられなくても、恐れず神に頼り「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7)という神のかたいみ約束に頼らなければなりません。 SC 1968.5

疑いや恐れに支配され、はっきりわからないことをみな解決した上で信仰を持とうとするならば、私たちはますます迷いの深みに陥るばかりです。けれども、もし私たちがありのままの姿で、自分の力なさ頼りなさを感じて神の許にゆき、限りない知恵を持つ神に謙遜に信頼をもって私たちの必要を告げるならば、万物をみそなわし、み旨とみ言葉をもってすべてを支配しておいでになる神は、私たちの叫びに耳を傾け、心に光を照らします。真心からの祈りによって、私たちは限りなき神のみ心に触れるのです。その時、あがない主は愛とあわれみに満ちて私たちをながめておいでになるという特別な証拠が与えられなくても、それは事実です。また彼のみ手の接触を実際には感じなくても、愛とあわれみに満ちたやさしいみ手は、私たちの上に置かれているのです。 SC 1968.6

神のあわれみと祝福を求める時は、私たちの心のう仁に愛》ゆるしの精神を持っていなければなりま せん。「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイ6:12)と祈りながら、他人を許さない気持ちを持っていられるでしょうか。もし、自分の祈りが聞かれるように期待するならば、自分が許されたいと望むような態度と程度で、同じように人を許さなければなりません。 SC 1968.7

忍耐して祈ることは聞かれるもう1つの条件です。信仰と経験に成長しようと望むならば、私たちは常に祈らねばなりません。私たちは「常に祈りなさい」(ローマ12:12)。「目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続け」(コロサイ4:2)なければなりません。 SC 1969.1

ペテロは信者に「心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」(Ⅰペテロ4:7)と勧めています。パウロは、「ただ事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)と教えていま魂また、ユダは「しかし愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち」(ユダ20、21)と言っています。絶えざる祈りとは魂がつねに神と一致していることであって、神のいのちが私たちのいのちに流れ込み、私たちの生活から純潔と聖潔とが神に帰ることです。 SC 1969.2

祈りは努めてしなければなりません。何物にも邪魔されてはなりません。イエスとあなたの魂との交わりを常に保つことができるよう全力を尽さねばなりません。そして祈りがささげられるところへは、努めて機会あるごとに行かねばなりません。神と本当に交わりたいと求める人は、祈祷会に出席し、自分の義務を忠実に尽し、できる限りの利益を得ようと思って熱心です。彼らは、天からの光を受けるところへはできるだけ機会をつくっていきます。 SC 1969.3

また、家族とともに祈らねばなりません。わけても、密室の祈りをおろそかにしてはなりません。これは、魂のいのちであるからです。祈りをおろそかにしていながら、魂の健全を願うことはできません。家族の祈り、また、公の祈りだけでは不十分です。人無きところに退いて、心を探られる神のみ前に心をすっかり開かねばなりません。密室の祈りは、祈りを聞かれる神にのみ聞かれるべきで、好奇心にかられて人が聞いたりすべきものではありません。密室の祈りでは、心は周囲の影響を受けたり、また、興奮したりすることもありません。静かにしかも熱心に、神に近づこうとします。その時かくれたことをご覧になり、心からの祈りに耳を傾けられる神より、うるわしく、永久的な感化が感じられるのです。穏やかでしかも単純な信仰によって、魂は神との交わりを保ち、神から光を受けて、悪魔との戦いに立ち得るために心は強められ支えられるのです。神は、私たちの力の櫓です。 SC 1969.4

密室で祈りましょう。毎日の仕事をする時にも、しばしば心を神に向けなければなりません。エノクはこのように神とともに歩んだのです。黙祷は、恵みのみ座の前に尊いかおりのように上っていきます。こうして、神に心を委ねた人に、悪魔は勝つことはできないのです。 SC 1969.5

神に祈りをささげるのに、不適当な時とか場所とかはありません。熱心な祈りの精神をもって心を天に向けるのに妨げとなるものは何もありません。雑踏した路上でも、商取引の最中でも、ちょうどネヘミヤがアルタシャスタ王の前で自分の願いを告げた時のように、神に願いをささげて導きを請うことができます。祈祷の密室はどこにでもあります。私たちは、絶えず心の戸を開いて、イエスに天来の客として心のうちに住んでいただくよう招待しなければなりません。 SC 1969.6

たとえ私たちは、汚れた腐敗した空気に包まれていても、その毒気を吸う必要はなく、天の清い空気の中に生きることができます。真剣に祈って心を神の前に高め、不潔、不正な思いが入らぬようあらゆる戸を閉じることができます。神の助けと祝福を受けようと心を開いている者は、この世の人よりは清い雰囲気の中を歩き、天と絶えざる交わりを続けることができます。 SC 1969.7

私たちはイエスをもっとはっきりながめ、永遠なるものの価値をもっと十分に知らねばなりません。神の子らの心は、清い美しさに満たされなければなりません。そして、これが成就するために、私たちは天 の事柄をあらわしていただくよう神に求めなければなりません。 SC 1969.8

神が天の雰囲気の一息でも呼吸させてくださるよう、心を世より離して天へ向けましょう。もし、私たちが神のそば近くにいれば、どんな試みが不意に襲ってきても、ちょうど花が太陽の方を自然に向いているように私たちの心も神に向くようになります。 SC 1970.1

どんな望み、喜び、悲しみ、煩い、恐れもみな神の前におきましょう。何を持ってきても重すぎたり、神を疲れさせたりすることはありません。 SC 1970.2

頭の髪の毛でさえ数えられる神は、子らの必要に無関心ではありません。「主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである」(ヤコブ5:11)とあります。愛に満ちた神のみ心は、私たちが悲しみを口にすることにさえ心をいためられます、心を煩わすことはなんでも神に申し上げましょう。神は諸世界を支え、全宇宙のすべてを支配しておられるのですから、神にとって大き過ぎて支えきれぬというものはないのです。私たちの平和に関わることであったならばどんなことでも、小さすぎてお気づきにならないということはありません。私たちのどんなに暗い経験も、暗すぎてお読みになれないということはありません。またどんなに難問題でも、神には解釈できないということはありません。神の子らのいと小さき者にふりかかる災いも、心を悩ます不安も喜びの声も、くちびるからほとばしる真剣な祈りも、天の父はことごとく注意し、深い関心を払っておられるのです「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる」(詩篇147:3)。神と各々の魂との関係は、あたかも神がただそのひとりのために愛するみ子を与えられたように、はっきりとした完全なものです。 SC 1970.3

イエスは「あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである」(ヨハネ16:26、27)、「わたしがあなたがたを選んだのである……あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」(ヨハネ15:16)と言われましたが、イエスの名によって祈ることは、ただ祈りのあとにイエスのみ名を唱えるということではなく、イエスの心と精神をもって祈り、それとともにイエスのみ約束を信じ、その恵みに頼り彼のみわざに励むことです。 SC 1970.4

神は、礼拝に専心するからといって、私たちがこの世から逃れて世捨て人となったり、修道僧になることを望んではおられません。私たちの生涯はキリストの生涯のごとく、山と群衆の間になければなりません。祈るばかりで働かない人は、まもなく祈ることをやめるか、その祈りはただ形式的な習慣になってしまいます。 SC 1970.5

人が社会生活から離れてクリスチャンとしての義務と十字架を負うことを避け、自分たちのために熱心に働かれた主のため働くことをやめるとき、祈る主題を失ってしまい、神を拝する刺激も共に失ってしまいます。彼らの祈りは個人的になり、利己的なものになります。人類の必要やキリストのみ国の建設のために祈ることも、また働く力を求めることもできなくなります。 SC 1970.6

神に奉仕するにあたって、互いに力づけ励ますために、互いに交わる特権を軽視すれば必ず損失を招きます。神のみ言葉の真理はあざやかさを失い、その重要性を悟らなくなってきます。そして、私たちの心は、その清めの力に照らされることも、覚醒されることもなく、霊的に衰えてしまいます。クリスチャンとしての交わりのうちにも、お互いの同情がなければ大きな損失です。自分ひとりで閉じこもっている者は、神が計画されたその人の位置を満たしていないのです。私たちの社交性を適切にじっくり育てていくなら、他人にも同情できるようになり、神に奉仕する上においても発達と力が与えられるようになります。 SC 1970.7

もしクリスチャンが、共に交わって互いに神の愛と尊い順罪の真理について語り合うならば、自分の心がうるおされ、お互いの心がうるおされるのです。私たちは日ごとに、天の父についてもっと学び、神の恵みを新たに受けるのです、そうすると、神の愛について語りたいと思うようになり、そして人に話せば自分の心が温められ励まされるのです。もし私たちがも っとイエスのことを話し、より少なく自分のことを考えるならば、いっそう彼の臨在を感じることができるのです。 SC 1970.8

神は私たちを常に守っておられますから、いつも神のことのみを考えたいと思えば常に心に神を宿し、喜んで神について語り、神を賛美しなければなりません。私たちがこの世的なことを話すのは、それに興味をもっているからです。友のことを話すのは、その友を愛し、喜びも悲しみも共にしているからです。けれども私たちは、この地上の友を愛するより以上に神を愛する大きな理由があります。ですから、何よりもまず神のことを思い、神のあわれみ深いこと、また神のみ力について語ることは、全く自然なことでなければなりません。 SC 1971.1

神が私たちにお与えになった賜物があまり豊かなため、私たちの思いや愛情が全部それに奪われ、神にお返しするものが何もないようではいけません。むしろ、これらの賜物は、常に私たちに神のことを思い出させ、愛と感謝の絆で恵み深き神に結びつけるためのものです。私たちは、とかくこの世のことに心を奪われがちですが、天の開かれた聖所の扉を見上げ、「彼によって神に来た人々をいつも救うことができるのである」(ヘブル7:25)。キリストのみ顔に神の栄光が輝いているのをながめましょう。 SC 1971.2

私たちは、もっと「主のいつくしみに、人の子らになされたくすしきみわざとのために」(詩篇107:8)神をほめたたえねばなりません。私たちの祈りは、ただ求めること、与えられることだけであってはなりません。また自分の欠乏ばかり考えていて、受けた恵みを忘れることがないようにしましょう。私たちは祈ることが本当に少ない上に、また感謝の念に乏しい者です。絶えず神のあわれみを受けていながら、感謝を言いあらわすことが何と少なく、神が私たちのためになさったことを賛美することの何と少ない者でしょう。 SC 1971.3

その昔、イスラエル人が礼拝のため集まったとき、老は次のようにお命じになりました。「そこであなたがたの神、主の前で食べ、あなたがたも、家族も皆、手を労して獲るすべての物を喜び楽しまなければならない。これはあなたの神、主の恵みによって獲るものだからである」(申命記12:7)と。神のみ栄えのためになされることは、賛美と感謝の歌をもって喜んでなされるべきであって、悲しい気持ちや憂うつな気持ちでなされてはなりません。 SC 1971.4

私たちの神は、優しいあわれみある父です。神に仕ることは、悲しい心重いこととみなされてはなりません。神を礼拝し、みわざに携わることは喜びでなければなりません。かくも大いなる救いをお備えになった神は、その子らが、神をかたくなな、無情な監督ででもあるかのようにみなし、そのようにふるまうことをお好みになりません。神は、私たちの最も良き友です。 SC 1971.5

そして、私たちが神を礼拝する時には、共にいて祝福し、慰め、その心を喜びと愛で満たそうとしてくださいます。主は、神の子らが神に仕えて慰めを与えられ、みわざに困難よりもむしろ喜びを感じるように望まれます。また神は、礼拝に集まる人々が、神の尊い守護と愛を深く感じて帰り、日物どんな仕事も喜んでなすことができ、神の恵みによって、すべてのことを正直に忠実になすことができるようにと望んでおいでになります。 SC 1971.6

私たちは、十字架のもとに集まらなければなりません。キリストと、彼の十字架に釘づけられたこととが私たちのめい想と会話、また、何よりも喜ばしい感激にあふれた主題でなければなりません。神から受けたすべての恵みを心にとめてその大いなる愛を悟ったならば、私たちのために十字架に釘づけられたみ手に、喜んですべてをお任せしなければなりません。 SC 1971.7

私たちの魂は、賛美の歌にのって天に近づきます。神は天の宮廷で、歌と音楽をもって礼拝を受けておρでになります。ですから、私たちも感謝をささげるならば、天軍の礼拝に近づくことができるのです。「感謝のいけにえをささげる者はわたしをあがめる」(詩篇50:23)とあります。私たちも「感謝と歌の声」(イザヤ51:3)をもって喜びのうちにもうやうやしく創造主のみ前にまいりましょう。 SC 1971.8