キリストへの道

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主こある喜び

神の子らはキリストの代表者として召されたものですから、主の恵みとあわれみを示さなければなりません。イエスが天の父の真の品性を私たちにあらわされたように、私たちもキリストの優しいあわれみ深い愛を知らない世の人にキリストを示さなければなりません。イエスは「あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは……あなたがわたしをつかわし……になったことを、世が知るためです」(ヨハネ17:18、23)と言われました。使徒パウロは、イエスの弟子たちに向かって「あなたがたは自分自身が……キリストの手紙で」あり「すべての人に知られ、かつ読まれている」(Ⅱコリント3:3、2)と言いました。イエスは、神の子らの一人一人を手紙としてこの世に送られました。もしキリストに従う者であれば、キリストはその人を手紙として、その住んでいる家族へ、村へ、町へお送りになるのです。イエスは人の心に内住して、まだイエスを知らない人の心に話しかけたいと望んでおいでになります。おそらくその人々は、聖書を読まず聖書に書かれたことに耳を傾けたりしないでしょう。また、神のみわざを見ても、神の愛を悟らないかも知れません。けれども、もしイエスの真の代表者がいるならば、世の人々はその人を見て神の恵みを悟ることができ、イエスを愛し、仕えるように導かれるのです。 SC 1975.4

クリスチャンは、天国への道を照らす燈火として置かれているのですから、キリストから輝き出た光を世の人々に反映しなければなりません。クリスチャンの生活また性格は、人々が見てキリストを正しく知り、またキリストに仕えることはどんなことであるかを正しく知るに足るものでなければなりません。 SC 1975.5

もし私たちがキリストを代表する者であるならば、 キリストに仕えることが実際にどれほど楽しいものであるかを人々に示すことでしょう。心が憂うつと悲しみで満たされ、不平不満を言ったり、つぶやいたりしているクリスチャンは、神について、またクリスチャン生活について人々の誤解を招きます。そして、神は神の子らの幸福をお喜びにならないとでもいうような印象を人々に与え、天の父に対して偽りのあかしをたてているのです。 SC 1975.6

悪魔は、神の子らが不信仰を起こし落胆するのを喜びます。また、私たちが神に信頼せず、神は快く私たちを救ってくださる方であることを疑うのを喜びます。また、神は摂理のうちに私たちを害されたというように考えさせ、神はあわれみと同情に欠けておられるように見せかけるのは悪魔の働きです。彼は、神に関する真理を曲解し、神に関するまちがった思想を私たちの心に満たすのです。私たちも、ともすれば、天の父に関する真理に堅く立つかわりに、悪魔の誤った言葉に惑わされ、神を信頼せずつぶやいて神を辱めるのです。悪魔は絶えず信仰生活を憂うつなものにしようと努めています。また骨が折れて困難なもののように見せかけます。そして、クリスチャンが自分の生活に対してこのような宗教観をいだくならば、その不信仰の結果、悪魔の偽りを支持したことになります。 SC 1976.1

人生行路をたどりながらも、自分の間違いや欠点や失望ばかりを考えて、悲しみと落胆に満たされている人がたくさんいます。私がヨーロッパに行っていたとき、ある姉妹がちょうどこのような有様で、たいへん失望し、励ましの言葉を求めてきました。その手紙を読んだ夜のことですが、私はある庭園を歩いている夢を見、その庭園の持ち主と思われる方に案内されていました。私は道すがら花を摘み、その高いかおりを楽しんでいますと、そばを歩いていたこの姉妹は、道を遮っているつまらないいばらを見て、それを悲しみ嘆いていたのです。この姉妹は、案内者に従って道を歩かないで、いばらやとげの中を歩いて「せっかくの美しい庭園も、このようないばらがあっては本当に残念なことです」と言うのでした。すると、案内者は「いばらのことは気にしなさるな。ただ害を受けるばかりです。それより、ばらやゆりやなでしこを摘んではどうですか」と答えました。 SC 1976.2

あなたの経験のうちに、何か明るいことがなかったでしょうか。聖霊を感じて、喜びで心がときめいた尊い瞬間はなかったでしょうか。今までの生涯の経験をふり返ってみるとき、何か楽しかったできごとはなかったでしょうか。神の約束は道ばたに一面に咲いているかおり高い花のようなものではないでしょうか、私たちはその美と甘いかおりを心から喜ぼうではありませんか。 SC 1976.3

いばらととげは、ただ傷つけ悲しませるばかりです。いばらばかりを集めて、それをほかの人にも与えるならば、それは神の恵みを自らあなどるばかりでなく、周囲の人々をいのちの道へ導くのを妨げることになるのではないでしょうか。 SC 1976.4

過去の生涯の不愉快な思い出、罪や失望ばかりをかき集め、そのことを語り、悲しんでついには失望してしまうことは決して賢明なことではありません。失望した魂は暗闇におおわれ、心から神の光を閉ざしてしまい、ほかの人々の行く手にも陰を投げかけます。 SC 1976.5

しかし、神が描いてくださった輝かしい光景を感謝いたしましょう。私たちは神の愛の確証を集めて、常にそれをながめるようにいたしましょう。すなわち、神のみ子が、悪魔の勢力より人を救うために、父の御座を捨て、人性をもって神性をおおわれたこと、また私たちにかわって勝利を得、天を開き、栄光に輝く神の御座を人にあらわされたこと、さらに罪のため陥った滅びの淵より堕落した人類を救い出し、無限の神との交わりに人れてくださったこと、そして人は、あがない主を信じて神の与えられる試練に耐え忍ぶならば、キリストの義を着せられ、神の御座にまで高められることなど、こうしたことを私たちがめい想するように神は望んでおいでになるのです。 SC 1976.6

神の愛を疑い、神の約束に信頼しないならば、神をはずかしめ、聖霊を悲しませるのです。例えば、母親が子供の幸福と慰めの為あらゆる努力を尽くして きたにもかかわらず、子供らはいっこうにそのようなことには気もとめず不平ばかり言うならば、母親はどう感じることでしょう。 SC 1976.7

もし子供たちが母の愛を疑ったとしたならば、母親はどれほど悲しむことでしょう。どんな親でも、子供からそのように扱われるならば、どういう気持ちがするでしょう。それと同様に、天の父も私たちにいのちを与えるためにひとり子を賜わったその愛を私たちが信じなかったならば、私たちを顧みろことができるでしょうか。使徒は「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、み子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ8:32)と言っています。けれども、口で言わなくても、その行いで「神は私にこう言っておられるのではない。神は他の人々を愛したかもしれないが、私を愛しているのではない」と語っている人がたくさんあります。 SC 1977.1

こうしたことはすべて、あなたの魂に害を及ぼします。というのは、疑いの言葉を出せば、それはみな悪魔の誘惑を招くことになるからです。そして、ますます疑惑を深め、奉仕の天使を悲しませています、ですから、悪魔に試みられる場合には、ひと言も疑いや暗い言葉を言ってはなりません。もし悪魔のささやきに耳を傾けるならば、心は不信と反抗的な疑問で満たされることでしょう。また、自分の感情を口に出し、疑いの言葉を語るならば、それは自分に返ってくるばかりでなく、種子のように他人の生涯にまかれて芽を出し実を結び、あなたの言葉の影響を取り消すことはできなくなってしまいます。あなた自身は一時の誘惑に打ち勝ち、悪魔の罠から逃れることができるかも知れませんが、その言葉に感化された人々は、その不信からのがれることができないかも知れません。ですから、霊的な力といのちを与える事柄だけを話すということは本当に大切なことです。 SC 1977.2

天使たちは、あなたが世の人々に天の神についてどんなあかしをするのか耳を傾けて聞いています、ですから、人と話すときには、今生きて父の前で執り成しをしておられるキリストについて語りましょう。友の手を握るときも、くちびると心をもって神をほめたたえましょう。そうすれば友人の思いをイエスにひきつけることができます。 SC 1977.3

誰でも、試練、耐えがたい悲しみ、抵抗しがたい誘惑を持っていないものはありません。自分の悩みを友に語るのでなく、何事も祈りによって神に訴えなければなりません。疑いや失望の言葉はひと言も言わないようにいたしましょう。希望と清い直びに満ちた言葉を語ることによって、他の人をさらに明るく強く生きるよう導くことができます。 SC 1977.4

世の中には、勇敢な人々でもひどく試みにうちひしがれ、自我や悪の権力との戦いに気を失うほどになっている人が多いのです。戦いはいかに激しくとも、失望させず、勇気と希望に満ちた言葉で励まし、前進させなければなりません。こうしてキリストの光があなたから輝き出るのです。「わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者」(ローマ14:7)なしです。私たちが気がつかないで及ぼす感化が人々を励まし強めることも、また失望させキリストと真理から退けることもできるのです。 SC 1977.5

また、世には、キリストの生涯と品性を誤解している入が多く、キリストは、温かさも明るさも持っておいでにならず厳格、苛酷で、なんの喜びも味わわれなかったと考えています。そして、すべての宗教経験がこのような陰うつな見解に色どられていることが多いのです。 SC 1977.6

イエスは泣かれたが、微笑まれたことは1度もないということは、よく言われることです。私たちの救い主は、誠に、人類のあらゆる悲しみを心を開いて受けられたのですから、悲しみの人であって、悩みを知っておられたに違いありません。イエスの生涯は、白己否定の生涯であって、悲痛の陰におおわれてはいましたが、その意気はくじけることはありませんでした。み顔には、苦しみや不平の色はなく、いつも変わらない平和な落ち着いた表情が漂っていました。また、イエスのみ心は命の泉であって、彼の行かれる所はどこにも休息と平和、楽しみ、また喜びをもたらしたのです。 SC 1977.7

私たちの救い主は、実に真面目で熱心でしたが、決して憂うつでもなければ、気難しくもありませんでした。 SC 1978.1

救い主にならう人々もまた、熱心に目的をもって励むようになり、個人的責任を深く感じるようになります。軽率な行為は無くなり、騒々しい楽しみや礼儀をわきまえないような冗談は無くなります。しかし、イエスの宗教は川のような平和を与えるのです。それは喜びの光を消したり、快活さを抑制したり、明るい笑顔をくもらせたりするものではありません。キリストは仕えられるためでなく、仕えるために来られたのですそして、ひとたびキリストの愛が心を支配するとき、私たちは彼の模範に従うことができるのです。 SC 1978.2

もし、私たちが、他人の不親切や不正な行為を心に留めて忘れないでいるならば、キリストが私たちを愛されたように、その人々を愛することはできません。けれども、もしキリストの驚くべき愛とあわれみのことを考えているならば、その同じ精神が他の人へも流れ出て行くのです。私たちは、どんなにお互いの欠点や不完全さが見えても、お互いに愛し尊敬しなければなりません。謙遜な心を養い自己に頼ることをやめ、他人の欠点を優しく忍ぶようにならなければなりません。そうすれば、狭い利己心は根を絶ち、寛大な心を持つことができるようになります。 SC 1978.3

詩篇記者は「主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る」(詩篇37:3)と言いました。「主に信頼して」です。私たちは一日として重荷や心配、苦労のない日はありませんから、すぐそうした困難や試練を他人に話したくなります。いろいろのとりこし苦労をしたり、恐れや心配を囗に出したりするので、あたかも、すべての祈りを聞き必要な時にはいつも助けてくださるあわれみと愛に満ちた救い主がおいでにならないかのように人に思わせます。 SC 1978.4

また、ある人は常に恐れ、いたずらにとりこし苦労をしています。彼らは毎日神の愛のしるしにかこまれ神の摂理のうちに恵まれていながら祝福を見過ごしにしています。その人々は、何か不愉快なことが起こりはしないかとそのことばかり考えています。また実際に当面する困難は、ほんの小さいものであっても、そのために目がくらんで感謝すべき多くのことを見ることができません。ですから、困難に会えば、唯一の助けの源である神に行くかわりに、かえって不安と不満の念を起して神より離れてしまいます。 SC 1978.5

このように不信仰でいていいでしょうか。どうして感謝と信頼の念がないのでしょうか。イエスは私たちの友です。全天は私たちの幸福を願っています。日常生活の困難、または、労苦に悩まされることがあっても、失望してはなりません。もし、そうしたことを気にしていれば悩みの種はいつまでも尽きないのです。心配してはなりません。それはただ、私たちを悩まし疲れさせるばかりで、試練に耐えるなんの助けにもなりません。 SC 1978.6

業務上にいろいろの困難が起こり、前途はますます暗くなり、損失が目前に迫ることもあるでしょう。しかし失望してはなりません。心配をみな神に任せて、平静、快活にしていましょう。賢く物事を処理できる知恵を神に祈るとき、損失、失敗を免れることができるのです。良い結果をもたらすように、全力を尽して自分の分を果たさなければなりません。イエスは助けを約束しておられるからといって、何も努力しなくて良いというのではありません。私たちの助け主により頼んで最善を尽したならば、結果はなんでも喜んで受け入れましょう。 SC 1978.7

神の民が心配事をいだいて心重くしているのは神のみ心ではありません。主は私たちを欺かれません。主は、私たちに「何も恐れることはない。前途には何の危険もない」とは言われません。試練や危険があることをよく知っておられて、はっきりとそのように言ってくださいます。民を罪と悪の世から取り去ろうとはなさらず、間違いのない逃れの場所を示しておられるのです。イエスは、弟子たちのために「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることです」また「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 (ヨハネ17:15、16:33)とお祈りになりました。 SC 1978.8

キリストは山上の垂訓の中で、神に頼ることの必要について、尊い教えをくださいました。これは各時代を通じての神の子らを励ますためのもので、今日においても教えと慰めに満ちています。救い主は、空の鳥が楽しく神をたたえ少しも心配せず、「まくことも、刈ることもせず」にいるのを見よとおっしゃいました。それでも、大いなる父は、小鳥の必要を満たされます。 SC 1979.1

「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」(マタイ6:26)と救い主は問われたのです、人にも獣にも豊かに与えられる神は、すべての造られたものの必要を満たされるのです。空の鳥でさえ、神の御目よりもれることはありません。神は食物をくちばしの中に落とすことはしませんが、必要を満たされます。小鳥は、神がちらされた穀類を集めなければなりません。また、巣を作る材料を用意し、ひなを養わなければなりません。小鳥はそれでも、歌いながら働きに出て行きます。というのも「あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」からです。「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」です。理性を備え霊をもって拝みをなす人間は、空の鳥よりはるかに優れているのではないでしょうか。私たちを造られた神、命を支えられる神、また、私たちを自らのかたちにかたどられた神は、ただ私たちが神に信頼していさえすれば、私たちの必要を満たしてくださるのではないでしょうか。 SC 1979.2

キリストは、野の花が一面に美しく、天の父より与えられた美を競っているのを指さして、これは神の人に対する愛の表現であると言い、また「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」(マタイ6:28)と弟子たちにおっしゃいました。ソロモンの栄耀栄華でさえ、自然の花のこうした美しさにはとうてい及ばなかったのです。芸術的技巧をこらして生み出したどんな華麗な装いも、神の造られた花の白然の華麗さには比べることはできません。イエスは、「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」(マタイ6:30)と言われます。もし天の芸術家である神が、1日で枯れてしまう草花にさえ、このように繊細ないろいろの色彩を与えられたとすれば、神ご自身にかたどって造った者に、どれほど心をとめておいでになることでしょう。キリストの教えはいたずらな思いわずらい、悩みと疑いをいだく信仰のない者への譴責です。 SC 1979.3

主は、神の子らがみな幸福、平和、従順であるよう望んでおいでになります。イエスは、「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」(ヨハネ14:27、15:11)と言われました。 SC 1979.4

利己的な動機から義務の道をはずれて求めた幸福は、均衡がとれていないため変わりやすく、一時的なものです。それが過ぎ去ると、心は寂しさと悲しみで満たされます。けれども神に仕えることには喜びと満足があります。クリスチャンは、疑わしい道を歩んだり悲しみ失望の中に捨てられることはありません。たとえ、この世に楽しみがなくてもなお、来たるべき世を待ち望んで喜ぶことができます。 SC 1979.5

しかし、この世にあっても、クリスチャンはキリストと交わる喜びがあります。また、キリストの愛の光をもち、共におられる彼より絶えざる慰めを得ることができます。人生の歩みの一歩一歩が私たちをイエスに近づけ、イエスの愛をより深く経験し、祝福された平和な家庭に一歩だけ近づけるのです。ですから、私たちの確信を投げ棄てないで、ますますかたい保証を梶らねばなりません。「主は今に至るまでわれわれを助けられた」(サムエル上7:12)とありますが、神は終わりまで私たちを助けられるのです。主が私たちを慰め、滅ぼす者の手より私たちを救われた際の記念の塔をながめましょう。神は、涙をぬぐい、痛みを和らげ、心労を除き、恐怖を取り去り、必要を満たし、祝福をさずけられたのですが、こうした神のあわれみの数々を常に心にとめて自らを励まし、私たちの 前途に横たわる残りの旅路を進まねばなりません。 SC 1979.6

私たちは、来たるべき争闘においては新しい困難が起こることを避けることができませんが、将来を見るとともに過去をもふり返って「主は今に至るまでわれわれを助けられた」「あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」(申命記33:25)と言うことができます。神は、私たちの力に耐えられない試練にあわせることはありません。 SC 1980.1

どんなことが起こっても、試練に相当する力が与えられることを信じて、与えられるままに私たちの仕事を始めましょう。 SC 1980.2

やがて、天の門が神の子らのために開かれ、栄光の王のみ口より「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい」(マタイ25:34)という祝福の言葉がたえなる音楽のごとくに響いてきます。 SC 1980.3

こうして、あがなわれた者は、イエスが彼らのため備えられた住居に迎えられるのです。そこで彼らが交わる人々は、地上の悪人、偽りを言う者、偶像を拝む者、汚れた者、不信仰な者ではなく、悪魔に打ち勝ち、神の恵みによって完全な品性を形づくった人々です。この地上で彼らを苦しめたあらゆる罪の傾向、あらゆる不完全さは、みなキリストの血によって除かれ、太陽の輝きよりはるかに優れたキリストの栄光の美と輝きが、彼らに与えられるのです。そして、彼らを通して輝く人格の美、キリストの品性の完全さは、この世の外見の麗しさがとうてい及ぶものではありません。彼らは神の大いなる白き御座の前に罪なき者とせられ、天使たちの尊厳と特権にあずかるのです。 SC 1980.4

こうした栄えある嗣業を思うとき、人は「どんな代価を払って、その命を買いもどす」(マタイ16:26)ことができるでしょうか。人は、たとえ貧しくても、この世の与えることのできない富と尊厳とを自分のうちに持っているのです。罪よりあがなわれ、清められ、神へのご用にその尊い力のすべてをささげた魂はこの上もなく尊いものです。天ではただ1人の救われた者のためにも、神と天使は大きな喜びを感じます。そしてその喜びは、清い凱歌となって表現されるのです。 SC 1980.5