キリストへの道
神についての知識
神は多くの方法を川いてご自身を私たちに知らせ、私たちを神との交わりに導いておられます。白然は絶えず私たちの感覚に話しかけていますから、心を開いているならば、神のみ手のわざにあらわされた神の愛と栄光に強く打たれるのです。また、耳を傾けて聞くならば、自然界を通して神がお語りになっているのを知ることができます。緑の野、大きな樹木、花やつぼみ、過ぎ行く雲、雨のしずく、ささやく小川、天の栄光などはみな私たちの心にささやいて、これらいっさいを創造された神を知るようにと招いています。 SC 1964.1
私たちの救い主は、自然界の事物に関係をつけて尊い教訓をお語りになりました。木や鳥、谷間の花、丘や湖、美しい天、それから日常のいろいろのできごとなどをみな、真理のみ言葉と結びつけて、人々がどんなに忙しい仕事に追われているときでも、その教訓を思い出すことができるようになさいました。 SC 1964.2
神は、私たちがみ手のわざを尊重し、また、私たちの地上の住み家を単純に、しかも落ち着いた美しさをもって飾ってくださったことを感謝するよう望まれます。神は美をお愛しになりますが、外面的などんな美しさよりも、品性の美をお愛しになります。神は私たちが、花のように、純潔、単純で、静かなやさしさを徐々に養うよう望んでおいでになります。 SC 1964.3
また、私たちが耳を傾けさえすれば、神の創造のみわざは、従順と信頼の尊い教訓を教えています。広く果てしない天空にあっても、太古から定められた軌道を進む星から微細な原子に至るまで、自然界のものはみな創造者のみ旨に従っています。神は、創造されたすべてのものを守り支えておられます。広い宇宙の無数の諸世界を支えられる神は、同時に何の恐れもなくさえずっている小さなすずめの必要をも顧みられるのです。人が一日の働きに出て行くときも、祈るときも、夜休むときも、朝起きるときも、また、金持ちが立派な邸宅でふるまいをするときも、貧しい人が子供らを集めて粗末な食事をするときも、その一つ一つを天の父はやさしく見守っておいでになります。どんな涙も神の目にとまらぬものはなく、どんなほほえみも見過ごしにされることはありません。 SC 1964.4
もしも、私たちがこうしたことを信じるならば、よけいな思いわずらいはなくなります。そして、人生も今のような失望ばかりではなくなります。神はどんなに心配や苦労をおかけしても、それに圧倒されたりはなさいません。ですから、どんなに大きなことも小さなことも、すべて神のみ手にお任せすることができるのです。こうしてはじめて、私たちは多くの人々が、長い間知らなかった心の平安を味わうことができるのです。 SC 1964.5
この地上の美しさに心が魅せられるとき、罪にも死にもむしばまれないきたるべき世界のことを考えてみましょう。すると、そこには、もはやのろいの影は見られません。救われた者の家庭を考えてみましょう。それは、どんなにすばらしい想像力もとうてい描き出すことができないほどの立派なものであることを覚えましょう。神は自然界を美しく飾られますが、それでも私たちは神の栄光のほのかな光を見ているにすぎないのです。聖書には「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(Ⅰコリント2:9)と記されています。 SC 1964.6
世の詩人や学者は、自然について多くのことを歌 いあるいは語りますが、真に鑑賞する力をもってこの地上の美を楽しむことができるのはクリスチャンだけです。なぜならば、彼らは天の父のみ手のわざを認め、花や木にあらわれた神の愛を認めるからです。丘や谷や川や海をながめても、それが人類に対する神の愛のあらわれであるとみなさない人は、その存在の意義を十分に悟ることはできません。 SC 1964.7
神は、摂理を通し、または心にささやく聖霊の感化を通してお語りになります、私たちの事情や環境、つまり私たちのまわりで毎日起きている変化の中からも、私たちが心を開いて見ようとさえすれば、尊い教訓を得ることができます。詩篇記者は神の摂理の働きの跡をたどって、「地は主のいつくしみで満ちている」(詩篇33:5)、「すべて賢い者はこれらの事に心をよせ、主のいつくしみをさとるようにせよ」(詩篇107:43)と言っています。 SC 1965.1
神は、み言葉、聖書をもって私たちに語っておいでになります。み言葉は、神のこ品性、神の人類を扱われる方法、また贖罪の大業をもっとはっきりした言葉で啓示しています。そして、父祖たちや預言者たち、また昔の聖者たちの歴史が繰り広げられています。彼らは「わたしたちと同じ人間」(ヤコブ5:17)であって、私たちと同じように失望と戦い、また私たちと同じように誘惑に負けましたが、再び勇気を出して神の恵みによって勝利を得ました。このことを知るとき、私たちも義を追い求めて戦っていかねばならないと励まされるのです。彼らが与えられた尊い経験を読み、彼らが受けた光と愛と祝福について学び、彼らが与えられた恵みにより成した働きについて読むとき、彼らに霊感を与えた同じ精神が、私たちの心にもそうしたいという励む気持ちを起こさせ、彼らの品性に似る者になりたい、彼らのように神と共に歩みたいと望むようになります。 SC 1965.2
イエスは、旧約について「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われましたが、新約についてはなおさらであります。私たちの永遠のいのちの希望はあがない毛なる主にあります。聖書全体がキリストについて語っています、「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1:3)という創造の最初の記録より「見よ、わたしはすぐにくる」(黙示録22:12)との最後の約束にいたるまで、私たちはキリストのみわざについて読み、キリストのみ声を聞くのです。もし、救い主を知りたいと思えば、聖書の研究にまさるものはありません。 SC 1965.3
神のみ言葉を心に満たしましょう。神のみ言葉こそは渇きをいやす生ける水です。また、天よりの生けるパンです。イエスも「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」(ヨハネ6:53)と言われました。そして、それを自ら説明して「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ6:63)と言われたのです。私たちの体は、私たちが飲み食いするものから成り立っています。霊界においても白然界と同じであって、私たちの考える事柄が私たちの霊性に力と健康を与えるのです。 SC 1965.4
さて、贖罪問題は、天使たちも研究したいと望んでいるもので、それは永遠にわたってあがなわれた者の科学であり歌です。ですから、贖罪の問題は今でも熱心に研究する価値があるのではないでしょうか。イエスの無限のあわれみと愛、また私たちのために払われた犠牲は、私たちが真面目に考えねばならない問題です。私たちは愛するあがない主、また仲保者のこ品性をよく考え、民を罪から救うためにこの世に来られたその使命を深くめい想しなければなりません。こうして天の事柄を考えるとき、私たちの信仰と愛はますます強くなり、私たちの祈りはいよいよ神に受け人れられるものとなります。というのは、もっと信仰と愛とが祈りのうちに織り込まれるようになるからです。その祈りは理知的な祈りとなり、まこころのこもったものとなります。そして、イエスをますますあつく信じ、日ごとに彼によって神に来る者をすべて、そして完全に救われるイエスの能力を身をもって経験するようになります。 SC 1965.5
救い主の完全さをめい想するとき、私たちも全く変えられて救い主の純潔なみかたちに造りかえられた いと望み、尊い救い主のようになりたいと、それこそ飢えかわくほど願うようになります。キリストのことを考えれば考えるほど、キリストのことをほかの人に話すようになり、世の人々にキリストをあかしする者となります。 SC 1965.6
聖書は、学者のためだけに書かれたのではありません、むしろ、一般の人のために書かれたものであって、救いに必要な大真理は、真昼のように明らかに記されています。人がこのはっきりとあらわされた神のみ心を捨てて、自分の判断に従ったりしないかぎりは、誰も誤ったり、道を見失ったりすることはありません。 SC 1966.1
聖書の教えていることについては、人のあかしに頼ったりせずに、自分で神のみ言葉を研究しなければなりません。もし、私たちが当然自分で考えるべきことを他人に任せるようでは、せっかくの精力はそがれ、才能は衰えてしまいます。尊い脳力も、集中して思考する価値ある問題がないために萎縮し、ついには神のみ言葉の深い意味を悟る力を失ってしまいます、聖句と聖句とを対照して、聖書の問題がどう関連しているかを研究するならば知力は必ず発達します。 SC 1966.2
聖書の研究ほど知力を強めるのに適切なものはありません。どんな書籍でも、聖書の広範、高尚な真理ほど、人の思想を高め才能を強めるものはありません。もし、神のみ言葉を正しく研究するならば、人は広い知力と、高尚な品性、確固たる目的を持つことができますが、今日そうした人は非常にまれです。 SC 1966.3
ただ聖書を急いで読んだだけではほとんど益はなく、たとえ聖書全体を通読しても、その美しさを認めることができず、奥深いところに隠れた意味を了解することができないのです。しかし、わずか1節でも、その意味が心にはっきりするまで研究し、それと救いの計画との関係を明らかにすることは、多くの章を定まった目的もなく、何らこれといった教訓も得ないで読むよりはるかに価値があります。いつも聖書を持って、機会があるごとに読み暗唱しましょう。例えば道を歩いているときでも、1節でも読んでこれを黙想するとそれが頭に残るものです。 SC 1966.4
熱心に祈りと共に学ばなければ、知恵を得ることはできません。聖書にはわかりやすく書かれていて間違う余地がないところもあれば、また表面に意味があらわれていなくて、ひと目見ただけでは少しもわからないところもあります。聖句は聖句とよく比較して、注意深く研究し、祈りのうちによく考えねばなりません。そのような研究は豊かに報いられます。鉱夫が地下深く掘り下げて、隠れている価値ある鉱脈を発見するように、辛抱強く、神のみ言葉を、隠れている宝のごとくさがすならば、不注意な探求者の目にはとまらぬ価値ある真理を発見することができます。そして、心の中で熟考された霊感によるみ言葉は、いのちの泉からわきでる流れのようになるのです。 SC 1966.5
聖書は、決して祈りをささげずに研究してはなりません。ページを開くときは、聖霊の導きを祈らねばなりません。この導きは必ず与えられます。ナタナエルがイエスのもとにきたとき、救い主は、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と賛嘆の叫びをあげました。ナタナエルが「どうしてわたしをご存じなのですか」と尋ねると、イエスは「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1:47、48)とお答えになりました。イエスは、私たちが真理を知ることができるようにと光を求めるとき、それが隠れた場所の祈りであってもちゃんとご覧になっています。心を低くして神の導きを求める者には、天使が光の世界から送られるのです。 SC 1966.6
聖霊は救い主をあがめ、救い主に誉れを帰しま実またキリストとその純潔な義をさし示し、キリストによって私たちに与えられる大いなる救いを示すのがその役目です。イエスは「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである」(ヨハネ16:14)と言われました。真理の霊のみが、神の真理を本当に教えることのできる力ある教師です。神が人類のためにそのひとり子を与えて死なせ、また聖霊を与えて人の教師とし、絶えざる案内者とすることから見て、どれほど人類を価値あるものとみなしておられるかがわかるのです。 SC 1966.7