キリストへの道
人生と活動
神は、宇宙のいのちであり、光であり、喜びの源です。ちょうど太陽の光のように、また、泉からわき出る水の流れのように、祝福が神からすべての造られたものに流れ出ます。そして、神のいのちが人の心のうちに宿っていればどこであっても、愛となり、祝福となってほかに流れていきます。 SC 1961.3
私たちの救い主は、堕落した人間を向上させてあがなうことを喜ばれます。であればこそ、彼はご自分のいのちを惜しまず、十字架をしのび恥をもいといませんでした。天の使たちもまた、他の幸福のために働きこれを喜びとしています。利己的な人々は、不運な人々、また卑しい性格の人や下層階級の人々のために働くことは恥であると思っていますが、そのような仕事を罪のない天使たちがしているのです。天に満ちあふれているのは、キリストの自己犠牲的愛の精神です。これこそ、犬国の幸福の本質ともいうべきものであって、キリストに従う者が持たねばならぬ精神であり、なさねばならぬ働きです。 SC 1961.4
キリストの愛が心のうちに宿るとき、それはちょうど、かぐわしいかおりのように隠すことはできません。その清い感化は、この人に接するすべての人に感じられま丸心のうちにキリストの精神が宿っていれば、それは砂漠の泉のように流れ出てすべてをうるおし、今にも死にそうな人にいのちの水を飲ませます。 SC 1961.5
イエスを愛するならば、人類の祝福と向上のために、イエスが働かれたたように働きたいと望むようになります。そして、天の父の保護のもとにあるすべての造られたものをやさしく愛し、同情するようになります。 SC 1961.6
救い主の地上における生涯は、安楽な自己中心の生活ではありませんでした。彼は、たゆまず熱心に失われた人類の救いのために労されました。馬槽からカルバリーに至るまで、彼は自己犠牲の道をたどり、至難なわざ困難な旅路など、いかなる労苦をも避けようとはなさいませんでした。 SC 1961.7
彼は「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マタイ20:28)と言われました。これがその生涯の大きな御目的で、その外のことは第二義的なもの、付随的なものでした。神のみ心をなし、神のみわざを成し遂げることは救い主の食物でした。彼の働きのうちには、私心とか私欲とかは全く見られませんでした。 SC 1961.8
そのように、キリストの恵みにあずかった人々は、喜 んでどんな犠牲をも払い、キリストがいのちを与えた他の人々も天の賜物を受けることができるようにいたします、彼らはできるかぎりを尽して、この世を少しでも住み良い世の中とします。真に悔い改めた者の心には、必ずこうした精神が見られるようになるのです。人は、ひとたびキリストに来るやいなや、イエスはいかに尊い友であるかを他の入に知らせたいと望みます。人を救い清める真理は、どうしても心のうちに秘めておくことはできません。私たちがキリストの義の衣をまとい、内住する聖霊の喜びで満たされているならば、黙っていることはできないはずです。もし、主の恵みを味わい悟ることができたならば、何か誌いたくなるものです。ピリポが救い主を見いだしたときのように、他の人々を主のみ前に誘わずにはいられなくなるでしょう。そして、彼らにキリストの美と、見えざる世界の現実性について話したいと思うでしょう。またイエスがたどられた道を踏みたいと熱心に願い、周囲の人々に「世の罪を除く神の小羊」を仰がせたいと切望するようになるでしょう。 SC 1961.9
他人を祝福しようとする努力は、かえって自分自身の祝福となって戻ってきます。神が私たちをあがない、計画の一部に携わらせてくださるのはこのためです。神は、人に神の性質をもつ特権をお与えになりましたが、これは他の人に祝福を分かつためです。これは神が人類にお与えになる最高の栄誉であり、最大の喜びです。こうして愛の働きの共労者となる者は、創造主の最も近くにはべるのです。 SC 1962.1
神は、福音宣伝の働きをはじめ、すべての愛の奉仕の働きを天使にお任せになることもできました。また、別の方法によって目的を達成なさることもできました。しかし、神は限りない愛をもって、私たちを神、キリスト、天使と共に働く者として選び、自己を忘れて働くことから来る祝福、喜び、霊的向上に私たちをあずからせてくださったのです。 SC 1962.2
私たちは、キリストと苦しみを共にすることによって、キリストと一つになります。他人の幸福のためになす自己犠牲の行為はことごとく、与える者の心をますます情け深くし、そして「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(Ⅱコリント8:9)と記されている世のあがない主にいっそう近く結びつけます。こうして、私たちを創造された神の目的を果たす時はじめて、生きていることが私たちの祝福となるのです。 SC 1962.3
もし、キリストがその弟子たちに望まれたように働き、主に魂を導こうとするならば、私たちは神についていっそう深い経験とさらに広い知識の必要を感じ、飢えかわくように義を慕うようになります。こうして神に求めるならば、信仰は強められ、魂は救いの泉から思う存分飲むことができます。反対や試練にあえば、かえって聖書に親しみ祈るようになり、ますます恵みとキリストの知識に成長し、豊かな経験に導かれるのです。 SC 1962.4
自己を忘れて他人のために働く精神は、その人の性格に深さと落ち着き、キリストのようなうるわしさを加え、平和と幸福をもたらします。彼の抱負は高められ、怠惰とか利己心の余地はなくなります。こうして、クリスチャンの美徳を実行する人は成長し、強くなり、神のために働きます。彼らは、霊的なことをはっきりと理解するようになり、動揺することなく、信仰に成長し、祈りにおいて力を増します。神の霊が人の心にふれて働くと、それに答えて、心は美妙な音を奏でます。このように、他人の益のために我を忘れて働く者は、必ず自分の救いを全うするのです。 SC 1962.5
恵みに成長するただ一つの方法は、キリストがお命じになった働きを自己を忘れてすることであって、助けを必要としている人に、私たちの力の及ぶ限り助けと祝福を与えることです。力は使えば出てきます。生きるには活動しなければなりません。恵みによって与えられる祝福を受動的に受け、キリストのため何もしないでいながら、クリスチャンのいのちを保とうと努力している人は、働かないでただ食べてばかりいて生きようとしているのと同じです。自然界と同じように霊界でもこれでは衰えてしまうよりほかありません。手足を使わないでいれば、やがて手足を動かす力を失ってしまいます。それと同様に、神がお与えになっ た力を使わないクリスチャンは、キリストにまで成長しないばかりでなく、すでに持っていた力さえ失ってしまうのです。 SC 1962.6
キリストの教会は、人類の救いのために神がお定めになった機関であって、世界に福音を伝えることがその使命です。そして、その義務は、クリスチャン一人一人の肩に負わせられていて、だれでもそのカ、機会に応じて、救い主このご命令を全うしなければなりません。私たちにはキリストの愛があらわされたのですから、キリストを知らないすべての人々にそれを知らせる義務があります。神は、私たちのためばかりでなく、他の人をも照らすため光を与えられたのです。 SC 1963.1
もし、キリストに従う者がみな、自分の義務にめざめるならば、今日ただ一人いるところに数千の者がいて、異邦の地に福音を宣べ伝えていることでしょう。また、直接、個人的にみわざに従事できない人は、資金によってまたは同情や祈りによって、それを支えることができます。キリスト教国にあっても、もっと熱心な努力があって良いはずです。 SC 1963.2
もし家庭内に、キリストのためになすべき働きがあるとすれば、私たちは、異邦の地に行ったり、家庭から離れる必要はありません。家庭内でも、教会内でも、あるいは私たちと交際する人、取り引きする人々の間においてでも働くことができます。 SC 1963.3
イエスは、この世の生涯の大部分をナザレの大工小屋で忍耐強くお働きになりました。いのちの主が人から認められもあがめられもせず、農夫や労働者と肩を並べてお歩きになったときにも、奉仕の天使は主に付き添っていました。イエスは、貧しい家業にいそしんでおいでになった時も病人をいやしたり、ガリラヤ湖の荒れ狂う波の上をお歩きになった時と同じように忠実にその使命をお果たしになりました。ですから私たちも、この世のどんな卑しい仕事をしていても、また、どんな低い地位にあっても、イエスと共に歩きイエスと共に働くことができます。 SC 1963.4
使徒は「各自は、その召されたままの状態で、神のみまえにいるべきである」(Ⅰコリント7:24)と言っています。例えば実業家であれば、誠実に仕事をして主に栄光を帰すことができます。もしその人が真のクリスチャンであるならば、すべて自分の信じている宗教にしたがって事をなし、キリストの精神を人にあらわします。また、職人であれば勤勉に忠実に働いて、ガリラヤの丘で卑しい仕事に励まれたたイエスを代表することができます。キリストのみ名を名乗る者は誰でも、他の人がその良い行いを見て、創造主、あがない主なる主をあがめるよう導かねばなりません。 SC 1963.5
他の人の方が、自分よりも優れた才能と機会に恵まれているからというロ実をもうけて、自分の賜物をキリストのために川いない人が多くあります、ただ特別な才能を持っている者だけが、神のため才能をささげて奉仕するよう要求されていると一般に考えられています。また才能は、ただ一部の特別な人々にだけ与えられているのであるから、これ以外の人々は働きをするように召されてもいなければ、報いを共に受けることもないと思っている人があります。しかし、たとえには、そのようにあらわされてはいません。この家の主人がしもべたちを呼んで、おのおのに仕事を与えました。 SC 1963.6
愛の精神をもって、この世のどんな卑しい仕事も「主に対してするように」(コロサイ3:23)することができます。神の愛が心のうちにあれば、それは生活にあらわれてきます。キリストのよいかおりが私たちを囲み、私たちの感化は他の人々を高め祝福するのです。 SC 1963.7
神のために働くといっても、何か大きい機会を待つ必要はなく非凡な才能などを持たなくても良いのです。人からどのように思われるかなどと気にする必要もありません。もし日常の生活が、その信仰の純潔、真実なことをあかしし、人々のため何か益になりたいと望んでいることが人々にわかれば、その努力は決して無駄にはならないのです。 SC 1963.8
イエスのどんな卑しい貧しい弟子でも、他の人々への祝福となることができます。彼らは自分が特別に善をしているとは少しも気づかないかもしれませんが、知らず知らずの間に与えた感化が祝福の波と なり、それがますます広くますます深くなっていきます。しかもその結果は、最後の報いの日まで決してわからないでしょう。何か大きなことをしていると感じることもなく知ることもありませんが、成功するかどうかなど思いわずらう必要もありません。ただ静かに前進して、神が摂理のもとに与えられた仕事を忠実にすれば、その生涯は無駄にはならず、魂はますますキリストに似てきます。彼らはこの世で神と働いて、きたるべきみ国でのより高い働きと変わらざる喜びにあずかるにふさわしい者となるのです。 SC 1963.9