キリストへの道

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成長

心が変化して神の子となることを、聖書では生まれると言っています、また、農夫のまいた良い種が芽を出すことにもたとえています。悔い改めてキリストを信じ始めたばかりの者も同様に「今生まれたばかりの乳飲み子」(Ⅰペテロ2:2)として「成長し」(エペソ4:15)、キリスト・イエスにある全き人にまで成長しなければならないのです。また、畑にまかれた良い種のように生長して実を結ばねばなりません。イザヤも、彼らは「義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる」(イザヤ61:3)と言っています。こうして自然界のいろいろの例があげられて、私たちに霊的生活の不思議な真理が理解しやすいようになっています。 SC 1957.4

人間がどんなに知恵と技巧を注いでも、自然界の一番小さなものにさえ、その中に生命をつくり出すことはできません。植物にせよ動物にせよ、生きることができるというのはただ神が与えられたいのちによるのです。同じように、神から出るいのちによってのみ、霊的生命が人の心のうちに生まれるのです。人は「新しく生まれ」(英文傍注・「上より生まれ」)(ヨハネ3:3)ないかぎり、いのちを受けることができません。キリストはそのいのちを与えるためにこの世界に下ったのです。 SC 1957.5

いのちにおけると同様に、成長においてもそうです。つぼみから花を開かせ実を結ばせるのは神です。種が生長し、「初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる」(マルコ4:28)というのは神の力によるのです。預言者ホセアは、イスラエルについて「彼はゆりのように花さき」「園のように栄え、ぶどうの木のように花さき」(ホセア14:5、7)と言っています。またイエスも私たちに「野の花のことを考えてみるがよい」(ルカ12:27)と言われました。 SC 1957.6

木や花は自ら思いわずらったり、努力したりして生長するのではなく、神が与えるものによって、そのいのちがささえられ、生長するのです。子供はどんなに思いわずらい、またどんなに努力しても、身の丈を延ばすことはできません。私たちも全くこれと同じで、心づかいや自分の努力では霊的に成長はできないのです。植物も、また子供たちも、周囲のものからいのちをささえるものすなわち、空気、日光、食物を受けて成長します、動物、植物にとって白然の賜物が必要なように、キリストに頼る者にとってはキリストが必要です。キリストは、彼らの「とこしえ……の光」(イザヤ60:19)、「日です、盾です」(詩篇84:11)と記されてあります。また、キリストは「イスラエルに対しては露のように」(ホセア14:5)、「刈り取った牧草の上に降る雨のごとく、地を潤す夕立のごとく臨むように」(詩篇72:6)とあります。彼は、生ける水です。 「神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」(ヨハネ6:33)。 SC 1957.7

神は、み子という比類なき賜物を与えて、ちょうど空気が地球のまわりを取りまいているように、恵みの雰囲気で全世界を包みました。このいのちを与える空気を吸いたいと望む者は、誰でも生きることができ、キリストにある全き人となることができるのです。 SC 1958.1

ちょうど、花が輝かしい光線の助けを借り、美しく咲こうとして太陽に向かうように、私たちも義の太陽を仰いで天の光に照らされ、私たちの品性がキリストのかたちに似るまでに成長しなければなりません。 SC 1958.2

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。……わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:4、5)とのイエスのみ言葉は、これと同じことを教えています。木の枝が生長して実を結ぶのには、その幹に連なっていなければならないのと同様に、清い生涯を送るには、キリストに頼らねばなりません。キリストを離れてはいのちも、誘惑を退ける力も、恵みと聖潔に成長する力もありません。 SC 1958.3

しかし、彼のもとにいれば栄えるのです。キリストからいのちを受けるのですから、しぼむこともなければ、実を結ばぬこともなく、川のほとりに植えられた木のように茂ります。 SC 1958.4

さて、何か自分だけでしなければならないことがあると考えている人がたくさんあります。彼らは、キリストに頼って罪のゆるしを得ていながら、正しい生活を自分の力で送ろうとするのです。しかし、そうした努カはみな失敗に終わります。イエスは「わたしから離れては、あなたは何一つできない」と言われます恵みに成長することも、私たちの喜びも人のために役だつこともみな、キリストと一つになるか否かにかかっています。恵みに成長するのは、毎日、毎時、彼と交わり、彼にあることによります、キリストは、私たちの信仰の導き手であると同時に、これを全うされた方です。キリストは、始めであり終わりであり、常に臨在されるのです。ですから私たちの旅路の始めと終わりばかりでなく、その道すがら一歩一歩キリストにいていただかなくてはなりません。ダビデは「わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない」(詩篇16:8)と言いました。 SC 1958.5

「いったいどうすれば、キリストのもとにいることができるのでしょうか」と尋ねる人がありますが、それは最初に主を受け入れたときと同じようにしたらよいのです。「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい」(コロサイ2:6)、また「わが義人は、信仰によって生きる」(ヘブル10:38)とあります。あなたは、自分を神にささげ、全く神のものとなり、神に仕え、神に従い、キリストをあなたの救い主として受け入れたのです。あなたは自分では自己の罪をあがなうことも、心を変えることもできませんでした。しかし神に自己をささげ、神がこれをすべてキリストのゆえになされたと信じたのです。信仰によってキリストのものとなったのですから、また、信仰によってキリストのうちに成長するのです。これは、こちらからも与え、また、神からも受けることです。自分の心も意志も奉仕もすべてを神にささげ、神のご要求にことごとく従わなくてはなりません。そして、服従する力を受けるには、あらゆる祝福に満ちあふれるキリストを心に宿し、キリストをあなたの力、義、また永遠の助けとして受けなければなりません。 SC 1958.6

毎朝、神に自己をささげ、これを最初の務めとして、次のように祈りましょう。「主よ、しもべを全くあなたのものとしてお受け人れください。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共にあって、すべてのことをあなたにあってなさせてください」と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに牛涯を神のみ手にゆだねるとき、しだい にあなたの生涯がキリストの生涯に似てくるのです。 SC 1958.7

キリストにある生涯は、平和な生涯です。感情の興奮はないかも知れませんが、いつも変わらない平和な信頼をもった生活です。自分に望みがあるのではなく、キリストに望みがあるのです。自分の弱さはキリストの力に、無知はキリストの知恵に、もろさはキリストの持久力と一つになります。すると私たちは、自分をながめて自分のことばかりを考えないで、キリストをながめるようになるのです。キリストの愛をめい想し、その性格の美しさ、完全さを心にとめて考えましょう。キリストの自己犠牲、キリストのへりくだり、キリストの純潔と聖潔、またその比類なき愛を魂のめい想課題といたしましょう。キリストを愛し、キリストにならい、全くキリストに頼ってこそ、私たちはキリストのみかたちに変えられるのです。 SC 1959.1

イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われました。この言葉は、やすみ、安定、信頼という意味を含んでいま魂またイエスは私たちを招いて、「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われました。同じ思想を詩篇記者は「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め」(詩篇37:7)と言っています。またイザヤも、「穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15)と言いました。 SC 1959.2

この休みは、何もしない状態というのではありません。というのは、救い主の休みの約束への招待は働きに対する召しも伴っているからです。「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29)。キリストにあって真に体息できる心は、最も熱心に、活動的に、キリストのために働きます。 SC 1959.3

自己のことを考えていると、心は、力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致と交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかに私たちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。悪魔の策略に迷わされてはなりません。本当に良心的で、神のために生きたいと望んでいる人々にさえ、悪魔は、自己の欠点や弱さのことばかり考えさせ、こうしてキリストから離してついには勝利を得ようと願っています。私たちは、自己を中心に考えてはたして自分は救われるかどうかと心配したり恐れてはなりません。これはみな、私たちの心を力の源である救い主から離してしまいます、魂を全く神にゆだねて神を信頼し、イエスのことを語り、考え、自己をキリストのうちに消失させてしまわねばなりません。すべての疑惑をすて、恐怖をすて去り、使徒パウロとともに「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神のみ子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)と言いましょう。神を信じて安んじましょう。神は、そうして自分を託す者を必ず守られるのです。もし、神のみ手に自己をお任せするならば、あなたを愛される神は、勝ち得てあまりあるほどにしてくださいます。 SC 1959.4

キリストは、人性をおとりになったとき、愛の絆で人類をご自身に結びつけました。しかしこの絆は、人間が故意に離れないかぎり、どんな力でも切り離すことのできないもので、悪魔は常にこの絆を断ち切ろうとし、私たちが自分から選んでキリストから離れるように誘惑してきます。 SC 1959.5

そこで私たちは、ほかに主を選ぶというような誘いに陥らないよう警戒し、努力して祈る必要があります。どちらを選ぶのも常に自由です、キリストから目を離さないかぎり、キリストは私たちを守ってくださいます。イエスをながめていれば私たちは安全であって、何者もイエスのみ手のうちより私たちを奪うことはできません。常にイエスをながめることによって私たちは「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に一変えられていく」(Ⅱコリント3:18)ようになるのです。 SC 1959.6

初代の弟子たちが、愛する救い主に似るようにな ったのも、こうした方法によったのです。弟子たちは、イエスのみ言葉を聞いて、自分たちはイエスを必要としていると感じたので、まず求め、見いだし、ついにイエスに従ったのでした。彼らは、家の中でも、食卓でも、私室でも、野外でも、いつも主と共にいました。ちょうど先生と生徒が一緒にいるように毎日そのくちびるより清い真理を学びました。また、彼らは、僕が主人につかえて義務を学ぶように、主を仰いだのでした。これらの弟子たちも、「わたしたちと同じ人間」(ヤコブ5:17)であって、彼らも罪に対して、私たちと同じように戦わねばなりませんでした。彼らも、清い生活を送るには、同じ恵みを必要としたのです。 SC 1959.7

救い主のみかたちを一番よく反映したと言われる愛された使徒ヨハネでさえ、生まれつき美しい性格の持ち主ではありませんでした。彼は差し出がましく名誉心の強い人でした。そればかりでなく血気にはやって、何か害でも受けるとすぐ怒りちらすたちでした。けれども、聖なるキリストの性格を見せられたとき、彼は自分の欠点を知り謙遜になりました。神のみ子の日常生活に接して、力強いうちにも忍耐深く、権威があるうちにも優しく、犯しがたい尊厳のうちにも謙遜なその姿をながめて、彼の魂は賞賛と愛で満たされました。日一日と、彼の心はキリストに引きつけられ、ついに主を愛するあまり自分を忘れてしまいました。彼の怒りやすい野心満々たる気質はキリストの感化力に屈服し、聖霊の更生力が彼の心を新しくしました。 SC 1960.1

つまり、キリストの愛の力が性格を一変させてしまったのであって、これは、イエスと一つになった確かな証拠です。キリストが心のうちに住まれるとき性格全体が変化し、キリストの霊、キリストの愛が心を和らげ、魂を制御し、思想や欲求を神と天に向けるのです。 SC 1960.2

キリストの昇天されたときも、主はなお共におられるという感覚を弟子たちはもちました。それは愛と光に満ちた個人的存在としてでした。弟子たちと共に歩み、語り、祈り、彼らの心に希望と慰めを与えられた救い主イエスは、平和の言葉を語りながら、彼らを離れて天にあげられました。天使の群れがイエスを受け止めると、弟子たちに聞こえたのは「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)との救い主のみ言葉でした。イエスは、人のかたちのまま昇天なさいました。弟子たちは、イエスが神の御座の前にあってもなお自分たちの友であり、救い主であり、また思いやり深い点においても変わりなく、悩み苦しむ人類と強い関係にあることを知っていました。イエスは、彼のあがなわれた者のために払った価の記念となった手足の傷を示して、自らの尊い血の功績を神の前に述べているのです。弟子たちは、イエスが天にのぼられたのは場所を備えるためであって、再び来て、自分たちを受け入れてくださるということも知っていました。 SC 1960.3

主の昇天後、彼らは集まって、イエスのみ名によって天の父に熱心に願いをささげていました。厳粛なうやうやしい気持ちをもって頭をたれ、確証の言葉をくり返しながら祈っていました。「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう」(ヨハネ16:23、24)、「キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」(ローマ8:34)という確かなあかしをもって、彼らは信仰の手を高く高く延ばしたのです。 SC 1960.4

こうしてキリストが、「あなたがたのうちにいる」(ヨハネ14:17)と言われた慰め主なる聖霊が、ペンテコステの時に彼らに与えられたのです。キリストは「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう」(ヨハネ16:7)と言われましたが、それ以来、キリストは聖霊を通してつねにその子らの心のうちに住まれるのです。こうして彼らは、この地上に主がおられたときよりいっそう近く主と一つになることができたのです。内住するキリストの光、愛、そ して力が弟子たちから輝き出たので、人々は驚き、「不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であること」(使徒行伝4:13)を知るようになったのです。 SC 1960.5

キリストは、最初の弟子たちに対してなされたと同じことを、今日も、その子らになそうと望んでおいでになります。それは、少数の弟子の前で祈られた最後の祈りの中で「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします」(ヨハネ17:2)と言われたことによってもわかります。 SC 1961.1

イエスは、私たちのためにも祈り、ご自身が天の父ど一つであったように、私たちも天の父と一つになれるようにとお願いになりました。これは何ととうとい一致でしょう。救い主もご自身について「子は……自分からは何事もすることができない」(ヨハネ5:19)、「父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」(ヨハネ14:10)と言われました。もしキリストが私たちの心のうちに住んでくださるならば、キリストは私たちのうちに働いて「その願いを起こさせ、かつ実現に至らせ」(ピリピ2:13)てくださるのです。キリストがお働きになったように私たちも働き、その同じ精神をあらわすようになります。こうしてキリストを愛し、キリストのうちにあって、私たちは「あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達」(エペソ4:15)するようになるのです。 SC 1961.2