各時代の大争闘

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真理の使者たち

ワルド派の伝道者は、興味をもった人々に、福音の尊い真理を熱心に伝えた。彼らは、注意深く書かれた聖書の一部を、用心深く取り出した。刑罰の執行を待ち構えている報復の神しか知らなかったところの、罪に苦しむ良心的な魂に希望を与えることは、彼の最大の喜びであった。くちびるを震わせ、目に涙を浮かべながら、そしてしばしばひざまずいて、彼は、罪人の唯一の希望を告げる尊い約束を彼の同胞に読んで聞かせた。こうして真理の光は、暗黒に閉ざされていた多くの心を照らし、黒雲を追い払い、そしてついには義の太陽が、その光にいやしの力をもって、心の中にさし込むようになった。しばしば聖書のある部分は、繰り返し何度も何度も読むことを相手から望まれた。相手は、それが聞き違いではないということを、確かめ GCJap 85.4

ているかのようであった。特に次の聖句は、何度も繰り返すよう熱心に求められた。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」(ヨハネ第一・1章7節)。「そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章14、15節)。 GCJap 86.1

多くの者が、ローマの主張に関して目を覚まされた。彼らは、罪人のための人間や天使のとりなしが、どんなに無益であるかを知った。彼らの心に真理の光がさし込んだ時、彼らは喜びをもって叫んだ。「キリストがわたしの祭司、彼の血がわたしの犠牲、そして彼の祭壇がわたしの告白室である」と。彼らは、イエスの功績に全くより頼んで次のみ言葉を繰り返した。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11章6節)。「わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)。 GCJap 86.2

嵐に悩む哀れな魂にとって、救い主の愛の保証は、実感できないほど大いなるものに思われた。大きな安心が与えられ、あふれるばかりの光が彼らの上に注がれたので、彼らは天に移されたかのように感じたほどであった。彼らの手は、キリストをしっかりと握り、彼らの足は永遠の岩の上に立っていた。死の恐怖はすべて消え去った。今や彼らにとって、救い主のみ名の栄光のためであるならば、牢獄であれ火刑であれ、あえて切望するところとなった。 GCJap 86.3

こうして、人目を避けたところで、神のみ言葉が持ち出され、読まれたのであった。時には、ただ一人のために、そして時には、光と真理を渇望する小さい群れのために。このようにして徹夜することもよくあった。聴衆があまりにも驚き、感嘆するので、彼らが救いのおとずれを十分に理解するまで、憐れみの使者は朗読を中断せざるをえないこともまれではなかった。 GCJap 86.4

また、しばしば、「神は、本当にわたしのささげ物を受け入れられるであろうか。神は、わたしに恵みをお与えになるであろうか。神は、わたしをお赦しになるであろうか」という言葉が発せられた。そしてその答えとして、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」というみ言葉が読み上げられた(マタイ11章28節)。 GCJap 87.1

人々は信仰によって約束をしっかりととらえ、喜びをもって応答した。「もう長い巡礼の旅に出ることはない。もう苦労して宮詣りをしなくてもよいのだ。罪深く汚れたまま、わたしはイエスのもとに行っていいのだ。そして彼は、悔い改めた者の祈りを退けられない。『あなたの罪は赦された』。わたしの罪、わたしの罪でさえ、赦されるのだ!」 GCJap 87.2

きよい喜びが心に満ち、賛美と感謝によってイエスのみ名があがめられるのであった。喜びに満たされたこれらの人々は、真の生ける「道」を発見したという自分たちの新しい経験を、できるだけ十分に他の人々に語り、光を伝えるために、家路を急いだ。真理を求めていた人々の心に直接語った聖書の言葉には、不思議で厳粛な力が伴っていた。それは神の声であった。そしてそれは、それを聞いた者たちの心を強く動かした。 GCJap 87.3

真理の使者は、また旅に出てしまう。しかし、彼の謙遜な態度、誠実さ、そして真剣で熱意にあふれていたことなどが、たびたび話題となった。多くの場合聴衆は彼がどこから来てどこへ行くのかをたずねていなかった。彼らは、最初は驚きに圧倒され、そのあとでは感謝と喜びに圧倒されて、彼にたずねることなど考えもしなかったのである。彼らが、自分たちの家まで一緒に行くように勧めると、彼は、自分は群れの失われた羊をたずねなければならないと答えるのであった。もしかすると彼は天からのみ使いだったのではなかろ GCJap 87.4

うか、と人々は不審がった。 GCJap 88.1

たいていの場合、真理の使者は二度とあらわれなかった。彼は、他の地方へ行ってしまったのか、それとも人知れぬ牢獄の中で苦しんでいるのか、または、真理のあかしを立てたその場所で、骨をさらしているのかもしれなかった。しかし、彼が後に残していった言葉は、滅ぼすことができなかった。それは人々の心の中で働いていた。その祝福された結果は、審判の時になってはじめて明らかになることであろう。 GCJap 88.2