各時代の大争闘

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新しい天と新しい地

そこには栄化された新しい地の首都、新エルサレムがある。それは「主の手にある麗しい冠」「あなたの神の手にある王の冠」である(イザヤ書62章3節)。「その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった」「諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの光栄をそこに携えて来る」(黙示録21章11、24節)。「わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ」と主は言われる(イザヤ書65章19節)。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいま」す(黙示録21章3節)。 GCJap 783.1

神の都には「夜は、もはやない」。休みの必要な者や、休みをほしいと思う者はだれもいない。神のみこころを行い、そのみ名を賛美するのに、疲れることがない。いつも朝のすがすがしさを感じ、それは決して尽きることがない。「あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照」らされるからである(黙示録22章5節)。太陽の光線の代わりに、目にまぶしくない光が与えられるが、その明るさは今の真昼の輝きよりもはるかにまさっている。神と小羊の栄光は、衰えることのない光をもって神の都に満ちあふれる。贖われた者たちは、太陽のない、しかもとこしえの昼の光の中を歩むのである。 GCJap 783.2

「わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである」(黙示録21章22節)。神の民は天父とみ子とに自由に交わる特権がある。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」(コリント第一・13章12節)。われわれは神のみ姿が、自然界のみ業と人間に対する神の取り扱いとに反映しているのを、ちょうど鏡の中に見るように見ている。しかしその時には、中間に薄暗い幕をはさまずに、顔と顔とを合わせて神を見る。われわれは神のみ前に立ち、そのみ顔の栄光を見るのである。 GCJap 783.3

そこでは贖われた者たちは、「完全に知られているように、完全に知る」のである。神ご自身が魂に植えつけられた愛と同情とは、そこで最も真実な、最も美しいものとして発揮される。聖者たちとのきよい交わり、聖なる天使たち、及びその衣を小羊の血で洗って白くした各時代の忠実な者たちとの、むつまじい社会生活、「天と地の全家族」を一つに結びつける聖なるきずな―─こうしたものが、贖われた者たちの幸福となる(エペソ3章15節、英語訳)。 GCJap 784.1

そこでは、不死の者たちが、創造力の驚異、贖いの愛の奥義を、永遠に尽きない喜びをもって研究する。人を誘惑して神を忘れさせるような、残酷で欺瞞的な敵はもういない。すべての才能が発達し、すべての能力が増大する。知識を獲得するのに、頭脳を疲れさせたり、精力を使いきってしまったりするようなことはない。そこではどんな大きな企画も実行され、どんな遠大な抱負も達成され、どんな大望も実現される。そしてそれでもなお、越えるべき新しい高いところ、感嘆すべき新しい驚異、理解すべき新しい真理、頭と心と体の能力を呼び起こす新たな対象があらわれてくる。 GCJap 784.2

宇宙のすべての宝は、贖われた神の民が研究するために開放される。死ぬべき人間という拘束を受けないで、彼らは、はるかに遠い他世界―─人間の悲惨な光景を見て悲しみに身を震わせ、一人の魂が救われた知らせに歓喜の歌を響かせた他世界―─へ、疲れも覚えず飛行する。言葉では言い尽くすことのできない喜びをもって、地上の子らは、他世界の住民たちの喜びと知恵にあずかる。世々にわたって神のみ手の業を熟視して得られた知識と悟りの宝に、彼らは共にあずかる。くもりのない目をもって、彼らは創造の栄光を見つめる。すなわち、もろもろの太陽や星や天体が、おのおのその定められた軌道を通って、神のみ座の周囲を運行しているのを見るのである。最も小さなものから最も大きなものに至るまで、すべてのものの上に、創造主のみ名が書きしるされ、すべてのものの中に神の力の富が示されている。 GCJap 784.3