各時代の大争闘

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永遠の家郷

未来の嗣業をあまりにも物質的なものに思わせはしないかとの恐れから、それをわれわれの住まいとして見るようにと教えられている真理そのものを霊的なものにしてしまう人が多い。 GCJap 781.2

キリストは弟子たちに、わたしはあなたがたのために父の家に住むところを備えに行くのだとはっきり言われた。神のみ言葉の教えを受け入れる者は、天の住まいについて全く無知ではない。しかもなお、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである(コリント第一・2章9節)。人間の言葉では、義人の受ける報いを十分に描写することはできない。それは見る者だけがわかるであろう。限りある人知では、神のパラダイスの栄光を理解することができない。 GCJap 781.3

聖書の中では、救われた者の嗣業が「ふるさと」と呼ばれている(ヘブル11章14~16節参照)。そこでは天の大牧者イエスが、ご自分の群れを生ける水の源に連れて行ってくださる。いのちの木は月ごとにその実を結び、その葉は万民のために用いられる。水晶のように透きとおった川が永遠に流れ、そのそばには揺れ動く木々が、主に贖われた者たちのために備えられた道の上に影を投げている。広々とひろがった平野の果ては、美しい丘となって盛りあがり、神の山々が高くそびえ立っている。この平和な平原に、また生ける流れのほとりに、久しい年月の間旅人であり寄留者であった神の民が、その住まいを見いだすのである。 GCJap 782.1

「わが民は平和の家におり、安らかなすみかにおり、静かな休み所におる」「暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、荒廃と滅亡は、もはやあなたの境のうちに聞かれず、あなたはその城壁を『救』ととなえ、その門を『誉』ととなえる」「彼らは家を建てて、それに住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てる所に、ほかの人は住まず、彼らが植えるものは、ほかの人が食べない……わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである」(イザヤ書32章18節、60章18節、65章21、22節)。 GCJap 782.2

そこにおいて、「荒野と、かわいた地とは楽しみ、さばくは喜びて花咲き」「いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生える」(イザヤ書35章1節、55章13節)。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、……小さいわらべに導かれ」「彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない」と神は言われる(イザヤ書11章6、9節)。 GCJap 782.3

天の雰囲気の中では、苦痛は存在することができない。もはや涙はなく、葬式の行列も喪章もない。「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(黙示録21章4節)。「そこに住む者のうちには、『わたしは病気だ』と言う者はなく、そこに住む民はその罪がゆるされる」(イザヤ書33章24節)。 GCJap 782.4