各時代の大争闘
聖徒たちの復活
地がよろめき、いなずまがひらめき、雷がとどろく真っただ中で、神のみ子の声が、眠っている聖徒たちを呼び起こす。イエスは義人たちの墓をごらんになり、それから両手を天の方へ上げて、「目ざめよ、目ざめよ、目ざめよ。ちりの中に眠る者たちよ、起きよ」と呼ばれる。地の全面にわたって、死者はその声を聞き、聞く者は生きる。そして、全地に、あらゆる国民、部族、国語、民族からなる大群の足音が鳴り響く。「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」と叫びながら、彼らは死の獄屋から、不死の栄光をまとってあらわれる(コリント第一・15章55節)。そして、生きていた聖徒たちとよみがえった聖徒たちとはともに声をあわせて、勝利の長い喜びの叫びをあげる。 GCJap 746.3
どの人もみな、墓に入った時と同じ身長で墓からあらわれる。よみがえった群衆の中に立っているアダムは、背が高く堂々たる容姿で、神のみ子より少し低いだけである。彼は後世の人々とは、著しい対照を示している。この点からでも、人類の大きな退化がわかる。しかし、どの人もみな、永遠の若さの新鮮さと活力にあふれてよみがえる。世の初めに、人は、品性だけでなく、容貌や姿も神のみかたちにかたどって創造された。罪のために神のかたちはそこなわれ、ほとんど消えてしまったが、キリストは、その失われたものを回復するために来られた。キリストは、わたしたちの卑しい体を造り変えて、ご自身の栄光の体に似たものとしてくださる。一度罪に汚されてしまって美を失い、死ぬべき、朽ち果てるべきものとなった体が、完全な、美しい、不死のものとなる。すべての傷や醜さは、墓の中に残される。贖われた者は、長い間失われていたエデンのいのちの木に再び近づくことを許され、最初の栄光に輝く人類の完全な背丈に「成長する」のである(マラキ書4章2節、英語訳)。罪ののろいの最後の痕跡が取り除かれ、キリストに忠実に仕える者たちは、知的にも、霊的にも、身体的にも、主の完全な姿を反映して、「われらの神、主のうるわしさ」を着てあらわれる。ああ、なんというすばらしい贖いであろう。これこそ長い間、語り、熱望し、熱心な期待をもって瞑想してきたが、しかし決して十分には理解できなかったことであった。 GCJap 747.1
生きている義人たちは、「またたく間に、一瞬にして」変えられる。彼らは、神のみ声によって栄化された。今や彼らは不死の者とされて、よみがえった聖徒たちとともに、空中において主に会うために引き上げられる。天使たちは、「天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集める」。小さい子供たちは、天使たちに抱かれてきて、母親の腕に返される。長く死に別れていた友人たちは再会して、もう永久に別れることなく、喜びの歌をうたいながら、ともに神の都へと上っていく。 GCJap 747.2