各時代の大争闘

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悩みの時の信仰

しかし、人間の目から見るならば、神の民は、昔の殉教者たちのように、まもなくその血をもってあかしに印を押さなければならないように思われる。彼ら自身、主が彼らを離れて、彼らを敵の手に渡されたのではないかと恐れ始める。それは、恐ろしい苦悩の時である。彼らは、昼も夜も神に救いを叫び求める。悪人たちは勝ち誇り、あざけりの叫びをあげて、「おまえたちの信仰は、どうなったのか。もしおまえたちが神の民であるならば、神はどうしてわれわれの手から、おまえたちを助け出さないのか」と言うのである。 GCJap 730.1

しかし、待ち望む人々は、カルバリーの十字架上で死に瀕しておられるイエスを思い出し、祭司長や司たちがあざけり叫んで、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう」と言うのを思い出すのである(マタイ27章42節)。すべての者はヤコブのように、祈りのうちに神と格闘している。彼らの顔は、内面の苦闘をあらわしている。どの顔も青ざめている。それでも彼らは、熱烈な懇願をやめないのである。 GCJap 730.2

もし人々の目が開かれて、天の幻を見ることができたならば、力強い天使の一団が、キリストの忍耐の言葉を守る者たちのまわりに駐屯しているのを見るであろう。天使たちは、優しい同情の念をもって、彼らの苦悩を見つめ、彼らの祈りを聞くのである。彼らは、人々を危機から救出せよという指揮官の言葉を待っている。しかし、彼らは、もう少し待たなければならない。神の民は、杯を飲み、バプテスマを受けなければならない。彼らにとっては非常な苦痛である遅延そのものが、彼らの懇願に対する最上の応答である。彼らが主に信頼して、主がお働きになるのを待とうとする時、彼らは、これまで彼らの宗教経験において、あまりにもわずかしか働かせてこなかった信仰と希望と忍耐を働かせるように導かれるのである。しかしそれでも、選民のために、悩みの時は短くされる。「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださら……(ない)ことがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう」(ルカ18章7、8節)。終末は、人々が予期しているよりも速く来る。麦は集められ、束にされて、神の倉におさめられる。毒麦は束ねられて、滅びの火で焼かれる。 GCJap 731.1