各時代の大争闘
憎悪と迫害
神の律法を尊ぶ者は、世に災いをもたらす者として非難されてきた。そして彼らは、地球を災いで満たしているところの、恐ろしい自然の猛威と人間どうしの争いと流血の原因とみなされる。最後の警告に伴う力が、悪人たちを激怒させた。彼らの怒りはメッセージを受け入れたすべての人に向かって燃え上がり、サタンは憎悪と迫害の精神をいっそう強くあおりたてる。 GCJap 712.1
神のご臨在が最終的にユダヤ国民から取り去られた時、祭司と民はそれを知らなかった。サタンの支配下にあって、最も恐ろしい悪意に満ちた激情に支配されながら、彼らはなお自分たちが神に選ばれた者であると考えていた。神殿の奉仕は続けられ、犠牲は汚れた祭壇にささげられていた。神の愛されたみ子の血を流すという罪を犯し、そのしもべたちや使徒たちを殺そうとする民に、神の祝福が毎日求められていた。 GCJap 712.2
同じように、聖所での、取り消すことのできない判決が発表され、世界の運命が永遠に定まっても、地上の住民はそれを知らないであろう。宗教の形式は、神のみ霊が最終的に取り去られてしまった民によって続けられる。そして、悪の君が自分の悪だくみを成し遂げるために彼らに吹き込む悪魔的な熱心さは、神に対する熱心さと似ているであろう。 GCJap 712.3
安息日がキリスト教世界全体の特別な論争点となり、宗教と政治の当局者が結束して日曜日遵守を強要する時、少数の者は、世間の要求に屈することを断固として拒むために、全世界ののろいの的となる。教会の制度と国家の法律に反対の立場をとる少数者は許すべからざる者であり、全世界が混乱と無法の状態に陥るよりも、彼らが苦しみを受けるほうがよいと主張される。同じ議論が一八〇〇年前〔注・著者の執筆当時から〕に、「民の役人たち」によってキリストに対してなされた。陰険なカヤパは、「ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だ」と言った(ヨハネ11章50節)。この議論は決定的なものに思われ、ついに、第四条の戒めにある安息日を聖とする者に対して法令が発せられ、彼らは最も重い刑罰に相当する者として非難される。そして人々は、一定期間ののちには彼らを殺してもよい自由が与えられる。旧世界のカトリック教と新世界の背教的新教とは、神の戒めの全部を尊ぶ者たちに対して、同じような手段をとるであろう。 GCJap 712.4
その時神の民は、ヤコブの悩みの時として預言者によって描かれている悩みと苦しみの場面に投げ入れられる。「主はこう仰せられる、われわれはおののきの声を聞いた。恐れがあり、平安はない。……なぜ、どの人の顔色も青く変っているのか。悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに比べるべき日はない。それはヤコブの悩みの時である。しかし彼はそれから救い出される」(エレミヤ書30章5~7節)。 GCJap 713.1