各時代の大争闘

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死は眠りである

霊魂不滅説は、ローマが異教から借りてきて、キリスト教の中に織り込んだ偽りの教理の一つである。マルチン・ルターは、これを「ローマ法王の教書というはきだめの一部をなす、奇怪な作り話」であると言っている。伝道の書の中にある「死者は何事をも知らない」というソロモンの言葉に注を加えて、ルターはこう言っている。「これは、死者には感覚がないというもう一つの証拠である。義務もなければ、科学も、知識も、知恵もないとソロモンは言っている。死者は全く何も感じないで眠っていると、ソロモンは判断している。死者は、日も年も数えることなく横たわっている。しかし目が覚める時には、ほんの一瞬眠ったか眠らなかったか、というほどにしか思わないであろう」 GCJap 636.1

死ねば、義人は天に行き、悪人は罰せられるというようなことは、聖書のどこにも書いてない。父祖たちや預言者たちは、そのような確証を残さなかった。キリストと弟子たちは、そのような暗示は何も与えなかった。死人は、すぐに天に行くものではないと、聖書に明らかに教えられている。彼らは復活まで眠っていると記されている(テサロニケ第一・4章14節、ヨブ記14章10~12節参照)。銀のひもが切れ、金の皿が砕ける時に、人の思いはなくなるのである(伝道の書12章6節参照)。 GCJap 636.2

墓に下る者は、何も言わない。日の下に行われることは何事も知らない(ヨブ記14章21節参照)。疲れた義人たちにとって、それは幸福な休息である。時は、長かろうと短かろうと、彼らにとってはほんの一瞬間にすぎない。彼らは眠っているのである。そして、神のラッパによって呼び起こされて、輝く不死が与えられるのである。「ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、……この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった』」(コリント第一・15章52~55節)。深い眠りから目覚めた時に、彼らは、考えることをやめたそのところから考え始める。最後の感覚は死の苦痛であった。最後の思いは、自分は死の力に屈するのだ、ということであった。しかし、彼らが、墓から起き上がる時に、彼らの最初の喜ばしい思いは、「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」という勝利の叫び声となって響くのである(同15章55節)。 GCJap 637.1