各時代の大争闘
審判はいつ行われるか
だれでも、祝福された者の住居に入り得る前に、調査され、その品性と行為が、神の前で吟味されねばならない。すべての者は、天の書物に記されたことに従ってさばかれ、その行為に従って報いを受ける。この審判は、死ぬ時に行われるのではない。パウロの次の言葉に注意したい。「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17章31節)。使徒パウロは、ここで、ある一定の時―─その当時にあっては、まだ将来のことであったが―─が、この世の審判の時として定められていることを、はっきりと述べた。 GCJap 635.1
ユダは、その同じ時のことについて、次のように言っている。「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた」。そしてまた、彼はエノクの言葉を引用している。「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためで」ある(ユダ6、14、15節)。また、ヨハネは言っている。「死んでいた者が、……御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれた……死人は……この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」(黙示録20章12節)。 GCJap 635.2
しかし、もし死者がすでに天国の祝福にあずかっているのであれば、あるいは地獄の炎に苦しめられているのであれば、将来の審判は何のために必要なのであろうか。これらの重大な点に関する神の言葉の教えは、あいまいでもなければ矛盾してもいない。それは普通の人の頭で理解できるのである。率直な心の持ち主であれば、こうした一般の説に、知恵と正当性を認めることができるであろうか。義人は、長期間にわたって神のみ前に住みながら、審判の時に調査を受けて、そのあとで、「宜いかな、善かつ忠なる僕、……汝の主人の歓喜に入れ」(文語訳)と賞賛されるのであろうか。悪人は、刑罰の場から引き出されて、全地の審判主から、「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ」という宣告を受けるのであろうか(マタイ25章21、41節)。ああ、なんというあざけり、神の知恵と正義に対するなんと恥ずべき非難であろう。 GCJap 635.3