各時代の大争闘

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誤った聖書解釈

この一人の偽教師の行ったことは、他の多くの人々のしていることの一例である。多くの場合、聖書本来の解釈とは全く正反対の意味となるような数語を、文脈を無視して聖書から切り離す。そして、このようにして切り離された聖句が曲解されて、神の言葉に基づかない教理の証拠に用いられる。酒に酔ったアムノンが、天国にいる証拠として引用された証言は、酒に酔う者は神の国を継ぐことはないという、明確で否定することのできない聖書の言葉に全く相反する推論にすぎない(コリント第一・6章10節参照)。このようにして、疑う人々、信じない人々、懐疑論者たちは、真理を偽りにしてしまうのである。そして、多くの人々が、彼らの詭弁に欺かれて、肉の生活に安んじ、惰眠をむさぼっている。 GCJap 624.1

もしだれでも、死ねばすぐその魂が天に行くのなら、生きているよりは、死んだほうが望ましく思われることであろう。こうしたことを信じた結果、自分の生命を断った者も多いのである。困難や悩みや失望に陥った場合、もろい生命の糸を断ち切って、永遠の世界の幸福へと舞いあがることが、いかにもやさしいことのように思われるのである。 GCJap 624.2

神の律法を犯す者は必ず罰を受けるということは、神がみ言葉の中にはっきりと証拠を与えておられる。神は恵み深いお方であるから、罪人を罰するようなことはなさらないと思い込んでいる者は、ただカルバリーの十字架を眺めてみるとよい。汚れのない神のみ子の死が、「罪の支払う報酬は死である」ことと、神の律法を犯せばそれに相当する報いがあることとの、証拠である。罪のないキリストが、人のために罪となられた。罪を負い、天父のみ顔を隠されて見ることができず、ついに、キリストの心臓は破裂し、その生命は砕かれたのである。こうした犠牲は、すべて、罪人が贖われるために払われたのである。他のどんな方法によっても、人は罪の刑罰から救われることはできない。このような価を払って備えられた贖いにあずかることを拒否する者は、犯した罪の刑罰を自分の身に負わなければならない。 GCJap 624.3

普遍救済論者(ユニバーサリスト)が、幸福な聖天使として天国に入れている、不信仰の者や悔い改めない人々について、聖書はさらになんと教えているかを考えてみよう。 GCJap 625.1

「かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう」(黙示録21章6節)。この約束は、渇く者にだけ与えられている。命の水の必要を感じ、他のすべてのものを失ってもそれを求める者だけが、満たされるのである。「勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(同21章7節)。ここにも、条件が明示されている。すべてのものを受け継ぐためには、罪に抵抗して勝利しなければならないのである。 GCJap 625.2

主は、預言者イザヤによって、こう言われる。「正しい人に言え、彼らはさいわいであると。彼らはその行いの実を食べるからである」「悪しき者はわざわいだ、彼は災をうける。その手のなした事が彼に報いられるからである」(イザヤ書3章10、11節)。 GCJap 625.3

また、「罪びとで百度悪をなして、なお長生きするものがあるけれども、神をかしこみ、み前に恐れをいだく者には幸福があることを、わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない」と賢者は言っている(伝道の書8章12、13節)。そしてパウロも、次のように証言している。罪人は、「神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである」「神は、おのおのに、そのわざにしたがって報いられる」「悪を行うすべての人には、……患難と苦悩とが与えられ(る)」(ローマ2章5、6、9節)。 GCJap 625.4

「すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない」(エペソ5章5節)。「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12章14節)。「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている」(黙示録22章14、15節)。 GCJap 625.5