各時代の大争闘
疑いの口実
神は、われわれが信ずるに足る十分な証拠をお与えになっているが、一方また不信に対する口実を全部取り除かれるわけではない。疑おうと思うなら、その余地はいくらでもある。そして、すべての反論が一掃されて疑う余地がなくなるまで神の言葉を受け入れず従わないというなら、決して光に来ることはできないのである。 GCJap 610.1
神への不信は、新生を経験していない、神に逆らう心の当然の結果である。しかし、信仰は、聖霊によって与えられるものであり、それを大切に育てる時にのみ栄えるものである。だれも固い決意をもって努力するのでなければ、強い信仰を持つことはできない。不信は、助長すれば深まっていく。そして人々が、彼らの信仰を支えるために神がお与えになった証拠に思いをめぐらさずに、疑惑を抱き、とがめだてをするならば、彼らの疑惑はますます深まっていくのである。 GCJap 610.2
神の約束を疑い、神の恵みの確証を信じない者は、神のみ名を汚しているのである。そして彼らは、人々をキリストに引きつけるのでなくて、人々をキリストから離反させがちである。彼らは、広々と黒い枝を広げて、他の植物の上に射す日光をさえぎり、その冷たい影の中で彼らをしおれて枯死させるところの、実を結ばぬ木のようなものである。このような人々の一生の働きは、彼らに不利な証言を立て続けることであろう。彼らは、必ず収穫をもたらすところの、疑惑と懐疑の種をまいているのである。 GCJap 610.3