各時代の大争闘

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律法と信仰との関係

人間を神の律法の原則に調和させることによって神と和解させるのは、改心と清めの働きである。初めに、人間は神のかたちに創造された。人間は、神の性質と神の律法とに完全に調和していた。義の原則が、彼の心に書かれていた。しかし、罪が、彼を創造主から引き離した。彼は、もはや、神のかたちを反映しなくなった。彼の心は、神の律法の原則と争うようになった。「肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8章7節)。しかし、神は、人間が神と和解することができるように、「そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。人間は、キリストの功績によって、創造主との調和を回復することができるのである。彼の心は、神の恵みによって新しくされなければならない。彼は、上からの新しい生命を受けなければならない。この変化が新生であって、これがなければ「神の国を見ることはできない」とイエスは言われるのである。 GCJap 535.1

神と和解する第一歩は、罪を認めることである。「罪は不法である」「律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」(ヨハネ第一・3章4節、ローマ3章20節)。自分の罪を悟るためには、罪人は自分の品性を、神の義の偉大な標準によって吟味しなければならない。それは、正しい品性の完全さを示して、罪人に自分の品性の欠陥を発見させる鏡である。 GCJap 535.2

律法は、人間に罪を示すが、救いは与えない。律法は、服従する者には生命を約束するが、犯す者には死を宣告する。人間を罪の宣告や罪の汚れから解放することができるのは、キリストの福音だけである。人間は、神の律法を犯したのであるから、神に向かって悔い改めなければならない。そして、キリストに対しては信じてその贖いの犠牲を受け入れなければならない。こうして人間は、「今までに犯した罪の赦し」を受け、神の性質にあずかる者となる。彼は、子たる身分の霊を授けられた神の子であるから、「アバ、父よ」と呼ぶのである。 GCJap 535.3

さて、このような人は、自由に神の律法を犯してもよいであろうか。パウロは、次のように言っている。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」。そしてヨハネは宣言する。「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(ローマ3章31節、6章2節、ヨハネ第一・5章3節)。人の心は、新しく生まれることにより、神の律法と一致するとともに、神と調和するようになる。この大きな変化が罪人の中に起きたとき、彼は、死から生命へ、罪から聖潔へ、違反と反逆から服従と忠誠へと移ったのである。神から離反していた古い生活は終わった。和解の生活、信仰と愛の新しい生活が始まった。こうして、「律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされる」のである(ローマ8章4節)。その時、「いかにわたしはあなたのおきてを愛することでしょう。わたしはひねもすこれを深く思います」という魂の言葉が発せられるのである(詩篇119篇97節)。 GCJap 536.1

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ」る(詩篇19篇7節)。人間は、律法がなければ、神の純潔と神聖さ、あるいは自分自身の罪と汚れについて、正しい考えを持つことができない。罪についての真の自覚もなく、悔い改めの必要も感じない。自分たちが神の律法の違反者であるという失われた状態を悟らず、キリストの贖罪の血の必要を自覚しないのである。心の根本的変化も生活の改変もなしに、救いの希望を受け入れる。このような表面的改心が広く行われていて、キリストと結合したことのない多くの者が教会に加えられているのである。 GCJap 536.2