各時代の大争闘

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誤った律法観

多くの宗教教師たちは、キリストはご自分の死によって律法を廃された、それゆえに人はその要求から解放されている、と主張する。中には、律法を重苦しいくびきであると言い、律法の束縛とは対照的に、福音の下において自由が享受できると主張する人々もいる。 GCJap 533.2

しかし、預言者や使徒たちは、神の聖なる律法をそのようにはみなさなかった。「わたしはあなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」(詩篇119篇45節)。キリストの死後に書いた使徒ヤコブは、十戒を「尊い律法」「完全な自由の律法」と言っている(ヤコブ2章8節、1章25節)。そして、十字架から半世紀の後に、ヨハネは、「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、神の律法を行う者」はさいわいであると言明している(黙示録22章14節・英語訳)。 GCJap 533.3

キリストがその死によって天父の律法を廃したという主張には、なんの根拠もない。もしも律法を変えたり、廃止したりすることができるのであれば、人間を罪の刑罰から救うためにキリストが死なれる必要はなかった。キリストの死は、律法を廃止するどころか、それが不変のものだということを証明しているのである。神のみ子は、「律法を大いなるものとし、かつ光栄あるものとする」ために来られた(イザヤ書42章21節、英語訳)。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない」「天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはな」いと彼は言われた(マタイ5章17、18節)。また、ご自身について、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と宣言しておられる(詩篇40篇8節)。 GCJap 534.1

神の律法は、その性質そのものから考えても、不変のものである。それは、その制定者の意志と品性の啓示である。神は愛である。そして、神の律法は愛である。その二大原則は、神に対する愛と人間に対する愛である。「愛は律法を完成するものである」(ローマ13章10節)。神の品性は、義と真理である。神の律法の性質もそうである。詩篇記者は言っている。「あなたのおきてはまことです」「あなたのすべての戒めは正しい」(詩篇119篇142、172節)。そして、使徒パウロは、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」と宣言している(ローマ7章12節)。神の心と意志の表現であるこのような律法は、その制定者と同様に永続的なものでなければならない。 GCJap 534.2