各時代の大争闘

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苦難の意味

神が不思議な摂理のうちに、義人が悪人に迫害されることを許されることは、信仰の薄い多くの者を大いに困惑させてきた問題である。神が、極悪人たちを栄えるがままにしておかれ、一方最も善良で純潔な人々が、彼らの残酷な力によって悩まされ苦しめられるのを見て、神に対する信頼を捨て去ろうとする者さえいる。正義にして憐れみ深く、無限の力を持った方が、どうしてこのような不正と圧迫を黙認しておられるのか、と人々は問う。しかしこれは、われわれの関知すべき問題ではない。神はその愛について十分な証拠を与えておられるのだから、われわれは神の摂理の働き が理解できないからと言って、神の慈愛を疑ってはならない。救い主は、試練と暗黒の日々に弟子たちの心を苦しめる疑惑を予見して、「わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう」と彼らに言われた(ヨハネ15章20節)。イエスはわれわれのために、彼のどの弟子が悪人の残虐によって苦しめられるよりも激しい苦しみを受けられた。苦しみに耐え、殉教するために召された者は、神の愛するみ子の足跡を踏み従うに過ぎないのである。 GCJap 54.2

「主は約束の実行をおそくしておられるのではない」(ペテロ第二・3章9節)。主は、ご自分の子供たちを忘れたり、おろそかにしたりなさらない。ただ、主のみこころを行おうとする者がだれも悪人に欺かれることがないように、悪人の本性があらわされることをお許しになるのである。 GCJap 55.1

また、義人たちが苦難の炉に入れられるのは、彼ら自身が清められるためであり、彼らの模範によって、他の人々が信仰と敬虔な生活の実際をよく理解するためである。そして、彼らの終始一貫した行為によって、神を信じ敬うことをしない人々を責めもするのである。 GCJap 55.2

神は、悪人が栄え、悪人が神に対する敵意をあらわすことをお許しになる。それは、彼らの罪悪の升目が満ちた時、彼らが全く滅ぼされることが神の正義と憐れみによるものであることをすべての者が知るためである。神の報復の日が迫っている。その時には、神の律法を破り神の民を圧迫した者がみな、その行為に対する正当な報いを受ける。その時には、神に忠実に仕える者に対して行われたすべての残酷な、また不正な行為が、キリストご自身に対してなされたかのように罰せられる。 GCJap 55.3