各時代の大争闘
重大な教訓
昔のイスラエルの歴史は、再臨信徒の団体の過去の経験の、顕著な実例である。神は、イスラエルの人々をエジプトから導き出されたように、ご自分の民を再臨運動において導かれた。大失望の時に、彼らの信仰は、ヘブル人が紅海で試みられたような試練を受けた。もしも彼らが、過去の経験において彼らとともにあった神の導きの手に、なおも信頼していたならば、彼らは神の救いを見たことであろう。もしも、一八四四年の運動に一致して働いた者がみな、第三天使の使命を受け入れ、聖霊の力によってそれを宣布していたならば、主は彼らの努力とともに力強く働かれたことであろう。輝かしい光が、洪水のように世界を覆ったことであろう。何年も前に、地の住民に警告は発せられ、最後の働きが完結して、キリストはご自分の民を救うためにおいでになっていたであろう。 GCJap 523.3
イスラエル人が荒野を四〇年もさまようことは、神のみこころではなかった。神は、彼らをまっすぐにカナンの地に導いて、彼らをそこで、聖く幸福な国民として定住させようとしておられた。 GCJap 524.1
しかし、「彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえで」あった(ヘブル3章19節)。堕落と背信のために彼らは荒野で滅び、他の者たちが約束の国に入るために起こされた。同じように、キリストの再臨がこのように遅れ、神の民がこのように長く、罪と悲しみのこの世にとどまることは、神のみこころではなかった。しかし、不信が、彼らを神から引き離した。彼らが神に命じられた働きをすることを拒んだ時に、使命を宣言するために他の者たちが起こされた。イエスは、世界を憐れんで、彼の再臨を延ばしておられる。それは、罪人に警告を聞く機会を与え、神の怒りが注がれる前に、主のうちに避難させるためである。 GCJap 524.2
昔と同様に今日においても、時代の罪と誤りを指摘する真理を伝えることは、反対を引き起こす。「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」(ヨハネ3章20節)。人々は、自分たちの立場を聖書によって支持することができないのがわかると、多くの者はなんとかしてそれを支持しようと決意し、一般受けのしない真理を擁護して立つ者たちの品性や動機を、悪意をもって攻撃するのである。各時代においてとられてきたのは、この同じ方針であった。エリヤはイスラエルを悩ます者と言われ、エレミヤは裏切り者と言われ、パウロは神殿を汚す者と言われた。その当時から今日に至るまで、真理に忠誠を尽くそうとする者は、治安を妨害する者、異端者、分離者と非難されてきた。預言の確実な言葉をなかなか信じようとしない群衆は、その時代の罪を大胆に譴責する者への非難を、なんの疑いもなく受け入れる。この精神は、ますます増大している。そして聖書は、国家の法律が神の律法と激しく衝突するために、神のすべての戒めに従おうとする者は悪事を行う者として非難され罰せられるようになる、という時が近づきつつあることをはっきりと教えている。 GCJap 524.3