各時代の大争闘

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光を拒むことの危険

再臨信徒の大部分は、聖所と神の律法に関する真理を拒否した。そして、多くの者は、再臨運動に関する信仰をも放棄して、この働きに適用された預言について、不健全で矛盾した意見を取り入れた。ある人々は、キリスト再臨のはっきりした日時を何度も定めるという誤りに陥った。今や、聖所問題の上に輝いている光は、どんな預言的期間も再臨までは及んでいないこと、そして、この事件の正確な時は預言されていないことを、彼らに示したはずであった。しかし彼らは、光から顔をそむけて、主の来られる日を定め続け、そのたびに失望に陥っていた。 GCJap 522.1

テサロニケ教会が、キリストの再臨に関して誤った見解を抱いた時、使徒パウロは、彼らの希望と期待とを注意深く神の言葉によって吟味するように、彼らに勧告した。彼は、キリスト再臨の前に起こる事件を示している預言を引用して、彼らの時代にキリストがおいでになると期待する根拠がないことを彼らに示した。「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない」と彼は警告している(テサロニケ第二・2章3節)。もしも彼らが、聖書の承認しない期待を抱くならば、誤った行動に走り、失望の結果、不信心な者たちの笑いものになり、落胆して、自分たちの救いに不可欠な真理を疑うような誘惑に陥ってしまったであろう。テサロニケ人への使徒の勧告は、終末時代に生きている者たちに対しての、重大な教訓を含んでいる。主の再臨の明確な日時の上に信仰を置くことができないなら、熱心に準備にいそしむことができないと感じている再臨信徒が多い。しかし、彼らの希望が、何度も何度も燃え上がっては崩れ去るうちに、彼らの信仰は打撃を受けて、預言の大真理をほとんど感じることができなくなってしまうのである。 GCJap 522.2

最初の使命宣布にあたって、審判の明確な時を伝えることは、神の命令であった。この使命の根拠をなす預言期間の計算が、二三〇〇日の終わりを一八四四年の秋であると定めたことは、非難の余地がない。 GCJap 523.1

預言期間の始まりと終わりの新しい年代を発見しようと繰り返し努力し、そうした主張を支持するのに必要な不健全な推論をすることは、人々の心を現代の真理から引き離すだけでなく、預言の解説に対するあらゆる努力を軽蔑するものである。再臨の明確な時が、何度も定められれば定められるほど、そしてそれが広く伝えられれば伝えられるほど、それだけいっそうサタンの目的にかなうのである。時が過ぎ去ると、サタンはその支持者たちをあざけり軽蔑して、一八四三年と一八四四年の大再臨運動をも非難するのである。このような誤りを犯し続ける者は、ついにはキリストの再臨をはるか遠い将来に定めるようになる。こうして彼らは、誤った安心感を抱くに至り、多くの者がその惑わしに気づいた時には、すでに遅すぎるのである。 GCJap 523.2