各時代の大争闘
忠実な少数者
長期にわたった激しい戦いの後、忠実なわずかの者たちは、教会が虚偽と偶像礼拝とを捨てることをなお拒否するならば、背信した教会との一致をすべて絶つ決心をした。彼らは、神のみ言葉に従おうとするならば、分離することが絶対に必要なことを認めた。彼らは、自分たちの魂を危険に陥れる誤りを黙認したり、自分たちの子孫の信仰を危うくするような例を残したりすることはしたくなかった。彼らは、神に対する忠誠と矛盾しないかぎり、どんな譲歩でもして、平和と一致を保とうとした。しかし、平和のために原則を犠牲にすることは、あまりにも大きな代価であった。真理と正義を曲げなければ得られない一致であるならば、彼らはむしろ不和をも、そして戦争をもいとわなかった。 GCJap 52.3
これらの人々を堅く立たせた諸原則が、神の民と称している人々の心の中によみがえるならば、教会と世界にとってどんなにか良いことであろう。キリスト教信仰の柱である教理が、驚くほど無視されている。結局こうしたことは重大なものではない、という意見が強くなっている。この堕落は、サタンの配下たちの手を強めるものであって、そのために、各時代の忠実な者たちが、生命をかけて反対し摘発してきた偽りの説や致命的な欺瞞が、今やキリストに従っていると称する多くの人々に歓迎されるようになってきた。 GCJap 53.1
初代のキリスト者たちは、実際、特殊な民であった。彼らの非難するところのない行状と確固たる信仰とは、絶えず罪人の心を責めるものであった。彼らは数が少なく、富も地位も名誉ある称号もなかったけれども、その品性と教義とが知られているところではどこでも、悪を行う者たちにとって恐怖であった。それゆえに彼らは、アベルが神をおそれないカインに憎まれたように、悪人たちに憎まれた。カインがアベルを殺したのと同じ理由から、聖霊の抑制を拒む人々は神の民を殺した。ユダヤ人が救い主を拒んで十字架につけたのも、同じ理由からであった。すなわち彼の品性の純潔と神聖さとが、絶えず彼らの利己心と堕落とを責めたからであった。キリストの時代から今に至るまで、彼の忠実な弟子たちは、罪を愛してその道を歩む者たちの憎しみと反対とを引き起こしてきたのである。 GCJap 53.2