各時代の大争闘
調査審判と婚宴のたとえ
マラキは、主がその宮に来られるということのほかに、主の再臨、すなわち、主がさばきを実行するために来られることについても、次のように預言している。「そしてわたしはあなたがたに近づいて、さばきをなし、占い者、姦淫を行う者、偽りの誓いをなす者にむかい、雇人の賃銀をかすめ、やもめと、みなしごとをしえたげ、寄留の他国人を押しのけ、わたしを恐れない者どもにむかって、すみやかにあかしを立てると、万軍の主は言われる」(マラキ書3章5節)。 GCJap 488.2
ユダは、この同じ光景について、次のように言っている。「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざ……を責めるためである」(ユダ14、15節)。この来臨と、主が主の宮に来られることとは、全く別の出来事である。 GCJap 488.3
ダニエル書8章14節に示されているところの、キリストがわれわれの大祭司として、聖所を清めるために至聖所に来られるということ、ダニエル書7章13節に提示されている、人の子が日の老いたる者のもとに来るということ、そしてマラキが預言した主がその宮に来られるということ、これらはみな、同じ出来事の描写である。そして、これはまた、キリストがマタイによる福音書25章の十人のおとめのたとえの中で語られた、婚宴の席への花婿の到着ということによってもあらわされている。 GCJap 489.1
一八四四年の夏から秋にかけて、「さあ、花婿だ」という宣言が発せられた。その時に、思慮深いおとめたちと思慮の浅いおとめたちによってあらわされている二種類の人々があらわれた。すなわち、主の出現を喜んで待ち、主に会う準備にいそしんだ人々と、恐怖にかられて衝動的に行動し、真理の理論だけに満足して、神の恵みに欠けていた人々とであった。たとえの中では、花婿が来た時に「用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはい」った。ここで示されている、花婿の到着は、婚宴の前に起こる。婚宴は、キリストがみ国をお受けになることを意味している。み国の首都でありその代表である聖なる都、新エルサレムは、「小羊の妻なる花嫁」と呼ばれている。天使は、ヨハネに言った。「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」「この御使は、わたしを御霊に感じたまま、……連れて行き、聖都エルサレムが……神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた」とヨハネは言っている(黙示録21章9、10節)。したがって、明らかに、花嫁は聖都をあらわし、花婿を迎えに出るおとめたちは、教会の象徴である。黙示録によれば、神の民は、婚宴に招かれた客であると言われている(黙示録19章9節参照)。もし彼らが客であれば、花嫁をも代表することはできない。 GCJap 489.2
キリストは、預言者ダニエルが言っているように、天の日の老いたる者から、「主権と光栄と国」とを賜るのである。彼は、「夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえ」たみ国の首都、新しいエルサレムをお受けになる(ダニエル書7章14節、黙示録21章2節)。み国を受けたのちに、彼はご自分の民を救うために、王の王、主の主として栄光のうちに来られる。そして彼らは、天国で「アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に」つき、小羊の婚宴にあずかるのである(マタイ8章11節、ルカ22章30節参照)。 GCJap 490.1